第三部:アラン諸島〜ダブリン〜帰国

----第一部「コークへ列車旅行」第二部「ゴールウェイへバス旅行」----

CR:ISLAND FERRIES

六日目(8/28)

アラン諸島行きの日が来ました。ロッサヴィル(フェリー乗り場)行きバスの集合が8:50です。ところがインペリアル・ホテルの朝食は8:10からなのです。ずいぶんと朝寝坊なホテルです。最初に泊まったドイル・タラのレストランは7時前から開いていました。1時間以上も遅いわけです。いくら便利なロケーションにあるからとは言え、困ったものです。それでも文句は言えないので急いで食べることにします。ここもバイキング方式ですが、メインの料理は担当者によそってもらうのです。メニューは前のホテルとほとんど変わりありません。ハンバーグもどきのサイズが違うくらいで、典型的アイリッシュ・ブレックファーストです。

 朝食メニュー

歯磨きタイムを入れて30分で食事を済ませ、バスが出発するツーリスト・オフィス前に行きます。しかし、そこには大小3台のバスが停まっていて、どのバスに乗ればいいのかわかりません。続々集まってくるツーリストたちも、どこに並べばいいのか分からなくてとまどっているようです。私がガイドらしい親父さんに「ロッサヴィル行きのバスはどれ?」と聞くと「たぶん、こいつだろう。他の会社のことはよくわからないんだが」と一番後ろのバスを指差して教えてくれました。その応えを聞いて待っていたみんながぞろぞろと一番後ろのバスの前に並びました。やがて学生みたいな女性のガイドがやってきて、改札を始めました。私たちも乗り込みます。あんなに急いで朝食を済ませて来たのに、出発は9:10でした。アイルランド時間はこんなものです。

バスを待つ

ロッサヴィルまでの景色はだんだん変わる面白いものでした。左に海岸、右に住宅街をを見ながらバスは走ります。港に近くなると両側ともほとんど岩だらけの荒涼とした風景になります。しかし、たくましくその岩を積み上げて庭を造り、可愛らしい家を作っているところもたくさんあるのです。約50分ほどの旅でした。

フェリー乗り場の前の駐車場にバスが停まり、私たちはぞろぞろと降りました。桟橋に歩いていき、チケットと同じ会社の模様のついたそれらしいフェリーの前に並びます。大きくて綺麗な船です。しかし船員は「イニシュモア島行きはこれじゃないよ、後ろの船だ」と言います。見ると小さい、小汚い船でした。ちょっとがっかりします。

ロッサヴィルのフェリー乗り場

アラン諸島はイニシュモア島・イニシュマーン島・イニシィア島の三つからなる列島です。イニシュモア島が最大の大きさで観光客は一番多いはずですが、最近は他の二つの小島も人気があるようです。私たちがぼんやり待っていると、後から観光バスが停まり、ぞろぞろ団体客が降りてきました。その中には日本人ツアーご一行様もいました。こういう所で日本人団体に会うと旅情が損なわれるようで、ちょっと嫌です。やがて乗船が始まります。チケットを渡し、細い板の橋を降りていきます。最初、甲板にいましたがどんどん混んで来たので下の船室に降りました。出発は10:17、小さな船に満杯の乗客を乗せて、凪いだ海なのに大きくロールしながら走行します。

ゴールウェイ湾の眺め

(この画像はクリックすると大きくなります。私は壁紙にして楽しんでいます)

私たちは下の出入り口を占領して風景を楽しんでいました。時々しぶきがかかります。海の色は黒く、海面は油をひいたようで、時々カイツブリが出没します。空は晴れていますが、雲があちこちに湧き出しています。360度のパノラマの中にいろんな種類の雲が浮かんでいて、海面はそれを写して広がっています。壮大な眺めです。そんな中をイニシュモア島が急速に近づいてきました。キーロナン村の港へ到着したのは11:00でした。

CR:ISLAND FERRIES

かみさんは日本人団体客の叔母さんの一人に話し掛けられて少し話していたようですが、「あの人たちお城に泊まってるんだって」と言っていました。80万円コースのようです。日本人ガイドさんは小柄な30歳くらいの女性で、いつも下を向いて書類をチェックしていました。お年寄りが多いツアーで苦労が多いのでしょうね。

乗ったときと同じように細い板の橋を渡って岸壁に降り立ちます。団体客はぞろぞろと行ってしまいます。私たちは自前の観光ですので慌てることはありません。一休みしてから出かけるという手もあったのですが、二度とないかもしれないアラン諸島、しかも絶好の天気がいつまで持つとも限らないので早速行動しました。フェリーの側で客引きしているミニバス(ワゴン車)の一つを選んでその客となりました。

ぶっ飛ばすミニバス

同席したのはドイツ人一家でした。夫婦と12歳くらいの女の子、9歳くらいの男の子の四人です。最初私はドイツ人の夫の方に話し掛けたのですが、「WHERE DO YOU COME FROM ? 」と聞いても「私は分からないんだ、女房に聞いてくれ」と言われました。それでドイツ人妻の方に「WE CAME FROM JAPAN, AND YOU ? 」と聞くと「GERMAN 」と応えてくれました。彼女は「日本は遠いね。でもドイツもかなり遠いよ」と言います。私は「でも、今ではアイルランドもドイツも同じユーロ・カントリーじゃないですか」と言いました。すると彼女は笑って「それもそうだ。同じ国になるんだね。日本とは文化の違いが極端だね」と応えました。ミニバスは走り出しましたが、村外れで停車し、日本人の老夫婦らしいカップルを乗せました。ミニバス観光はけっこう乱暴です。聞きづらい英語で案内しながら猛スピードで走ります。ドイツ人妻は夫にいちいち通訳していました。日本人カップルの男性のほうはかなりの英語使いのようでしたが、それでもほとんど分からない様子です。もちろん私には3分の1くらいしか分かりません。いくつかの石積みと住居跡を走りながら紹介し、最初に停まったのはドゥーン・エンガスです。「2時間休憩します。またここに集合してください」と言って運転手はまたキーロナン村の港の方に戻っていきました。彼は空き時間を利用して次の客を拾うのでした。

資料館前からドゥーン・エンガスを眺める

ドゥーン・エンガスはアラン諸島最大の遺跡です。停車場には遺跡の解説と図版を掲示した資料館があり、土産物屋とレストランと喫茶店、それに大きなトイレがありました。資料館を通りぬけるとそこが遺跡への登り口になっています。登り口の近くにはアコーディオン弾きの老人がいて、優しげな調べを流しています。その音を聞きながら20分かけて坂道を登らなければなりません。折からの晴天、私たちは汗を流しながら上りました。かみさんは途中でシャツを一枚脱ぎました。視野一面に石積みの丘が広がっています。登るに連れて眺めは変わり、後方の海側も面白くなりました。

 

左:アラン島遺跡資料館 右:アコーディオン弾きのおじさん

石の壁にたどり着くとホッとします。小さい入り口をくぐって中に入ると、大きなテーブルのような岩があり、その向こうは海へ垂直に切り立った岸壁でした。テーブル岩の上からの眺めはなかなかすごいものでした。百メートルの絶壁です。高所恐怖症の私はあんまり崖には近付きたくありません。でも、平気で覗きこむ女性がたくさんいました。ここで外国人の女性ペアとお互いの写真を撮り合いました。

 

左:円形広場への入り口  右:広場中央のテーブル岩

記念撮影

壁の向こう側にも行きましたが、ここの岩というのは四角い柱のように結晶していて、そのまま建築材として使えそうです。その柱が天を向き、あるいは斜めに地面から生えている姿はなかなかの奇観です。

奇岩が生えた丘 

ちょっと気になったのは、この遺跡がそんなに古いものではなく、せいぜい数十年くらい前に作られたものではないか、と感じた事です。石積みに積まれている石が苔むしても風化してもいないのです。それこそ、地面に生えている石たちとほとんど同じように見えました。これら遺跡が村起こしのために、村総出でごく最近作られたものだとしても、少しもおかしくないのです。四角いブロックのようなこのへんの石さえあれば、巨大遺跡のイミテーションくらい簡単に出来ますからね。そんな邪推もできるような奇怪な岩の島でした。

ドゥーン・エンガスから降りて来ると、日本人団体の叔母さんたちが例のアコーディオン弾きのおじさんをからかっていました。おじさんは女性に囲まれて嬉しそうでした。私たちは早く登って早く降りてきたので時間が余り、サンドイッチとコーヒーで軽い食事を済ませて土産物屋をぶらついたりしました。やがてミニバスが新しい客を下ろし、私たちを乗せて先へと進みます。ミニバスは次にキーラン修道院跡に停まりました。ここはミニチュアのケルト遺跡みたいなところでした。とても人間が住めるとは思えないくらい小さな家の跡と、古代から現代にかけての墓石、小さなハイ・クロスがありました。

ミニ・クロス

●運転手が「今日は遊泳可能の旗が出てるな」と言ったカフェ・ビーチでは日光浴をしているカップルがいて、女性はトップレスでした。遠くなのでよく見えなかったのが残念でした。ミニバス観光はこれで終わり、車はキーロナン村へ戻ってきました。

夕方の帰航まで3時間もあるので、まずはバーでビールにします。「アメリカン・バー」という名前の店に入ると、ここでも若い女性がバーテンをしています。客は地元の漁師たちばかりのようで、ごつい背中が止まり木に並んでいました。私たちは窓際の席に座り、またもギネスを飲みました。窓からは港とハイ・クロスが覗いています。後から二人の客が隣りにやって来ました。アンソニー・クインがロッド・スチュアートの格好をしたようなオッサンと、グレゴリー・ペックに似たしぶいオジサンです。そのうちかみさんがアンソニー・クインとゲ―ル語教室を始めました。「これは何と言うの、あれは?」と聞くとオッサンが応えるという感じです。私が数字の1から10までを聞くと、それにもゆっくり応えます。「ヒア・トゥア・スィア・テァ……」と続くのが彼らの数字のようでした。アンソニー・クインが「日本のお札はあるかい」と聞くので私が千円札を出したら、彼はシャレでそれをポケットに入れようとします。あまり笑えなかったです。グレゴリー・ペックはしかめっ面で時折一言二言しゃべるだけで、照れ屋のようでした。見知らぬ東洋の観光客に恥ずかしさを感じている所がなかなか好感が持てました。彼らの履いている靴がものすごく大きくて頑丈そうなのが印象的でした。

 漁師らしいオジさんと

ゲール語教室を適当に切り上げさせて、村を散歩します。小さな湾で遊び、岩盤を登ってみます。この辺の岩はCPUクーラーのヒートシンクのように縦に切り立っています。そんな岩盤がどこまでも続いているのです。島の反対側の海が見える所まで行きたかったのですが、とても進めません。こんな岩の大地を切り開いて農地や牧草地にしてしまう島の村人たちはすごいとしか言いようがありません。

 壮絶な風景

牛やロバが飼われていましたが、どれものんびりしています。かみさんが牛を呼んだらほんとにこちらに来ましたし、ロバも来ました。ロバは一頭で寂しそうでした。石垣から顔をこちらに出してきましたが、顔中にハエがとまっていて、ちょっと汚かったのです。それでもポンポンと鼻面を叩いてやると嬉しそうでした。

 

左:牛を呼び 右:ロバを呼ぶ

 ほんとに来る

5時になってフェリーに乗り込み、ロッサヴィルに戻ります。帰りのフェリーの中で流れていたビデオは「ゴレンジャー」のアメリカ版リメイクと「デジタル・モンスター」でした。ゴールウェイへの戻りのバスに屋根もない駐車場で30分も待たされました。幸い、雨も降らず夕暮れに近かったので暑くもなかったのですが、ツーリストたちはみんな疲れた表情でした。

ジベタリアンと化す旅行者たち

宿に戻ったのは7時過ぎでした。夕食を取りに外へ出ますが、同じブロックに「マクナマラ・レストラン」という店があったのでそこに入りました。ベトナム戦争時代のアメリカ国防長官の名前ですね。奮発してロブスターにしたかったのですが、季節外れだというので、車海老のフライで我慢しました。貝と魚のマカロニあえも取りました。取り合えずこれでアイルランドの海の味は征服したことにします。

 夕食メニュー

食後、ミルズ橋に続く目抜き通りを歩くと、たくさんの大道音楽師たちが演奏していました。アフリカ太鼓のトリオ、バグパイプ、ギターとフィドル(バイオリン)のコンビ、それに昨日は生ギターで歌っていたオジサンが今日はアンプとマイクで演奏していました。あまりお客はいませんでしたが、それぞれ楽しそうに演奏していました。

4組のストリートミュージシャン

橋の近くには数十羽の白鳥がいました。16世紀に作られたというスペイン門をくぐって夕闇迫るコリブ川のほとりに降り、白鳥たちと記念撮影をします。この日はアイルランドを満喫した気分になりました。

コリブ河の白鳥

 

ゴールウェイからの通信はことごとく失敗でした。ダブリンにつながらないのはコークと同じでしたが、日本にも繋がりません。コークと設定は同じなので、回線に問題があることになります。確かにインペリアル・ホテルの内電話は古いタイプのように見えました。私は数回かけただけでさっさと諦めました。

 

七日目(8/29)

29日の朝になりました。起きて、何気なく洗濯物を干しているスチームを触ってみると熱かったのです。暖房が入っていました。(8月ですよ)夕べ、今夜は冷えそうだと直感して窓を閉めておいてよかったです。7時頃には起きましたが例によって朝食が遅いので、朝の散歩に出ました。外は11月頃の気温でした。ミルズ橋通りを歩いていると、夕べコンガを叩いていたミュージシャン達がいたあたりに小さなインターネット・カフェがありました。そこでちょこっと通信しました。キーボードが違うのでアドレスを打ち込むのに時間がかかり、通信費はダブリンのカフェの倍くらいになってしまいました。

朝食のあと、経済会議をします。「いくら持ってる?」「もう50ポンド札はなくなった。これだけしかないよ」とお互いの財布の中身を見せ合います。空港で五万円両替して400ポンドくらいあったのですが、全部で40ポンドくらいしか残っていません。今日のダブリンまでの電車賃と、これからダブリンで会う留学生達との会食代金が必要なのですが、大分足りません。

40数ポンドしかない

下に降りて隣りの銀行に行きます。まだ早いので開いていませんが、自動支払機が剥き出しになって壁にあります。オートキャッシュの機械がこんなに剥き出しでいいのかな?と思うくらいですが、アイルランドの人達は平気で使っています。私たちもカードを使って50ポンドほど引き出しました。それからホテルをチェックアウトし、駅に向かいます。

道路に剥き出しのキャッシュ・コーナー

列車の発車時刻は11:02、ダブリン到着は午後1:50の予定です。待ち合わせはトリニティ・カレッジ正門午後2時ですが、これにはちょっと間に合わないようです。でも他に適当な列車がないので仕方がありません。(バスは何本もありますが4時間くらいかかるのでちょっと厳しいのです)「遅れたらゴメンナサイでいいのよ」とかみさんはケロリとしています。時間には厳しい私も「ま、しょーがないか」と諦めます。

 ダブリン行きの列車

チケットを買い、ホームに並んでいると、ものすごい荷物を持ったツーリストが来ます。テント、寝袋、鍋にサンダルと靴、まさに山のような荷物です。貧乏旅行といっても私たちは三ツ星ホテル宿泊で楽ちんなのですね。もっとも、東洋人が宿泊先未定では入国できない可能性もありますが。

若いツーリストの荷物

やがて列車が入ってきて、私たちも乗りこみました。この列車はダブリン―コーク間の列車よりももっと余裕の空間で、横に三つしか座席がありません。ボックス席には相席の青年もいましたが、旅の疲れが出たのか私もかみさんもずっと居眠り状態で、ほとんど会話はしませんでした。

ダブリン行きの列車

アイルランド中央部のアスローン通過が12:05、このペースなら大丈夫かなあ、とまたウトウトすると、ダブリンの手前で列車が立ち往生しました。何のアナウンスもありません。時間が刻々と過ぎていきます。列車が再びノロノロと動き出し、ヒューストン駅に入ったのは2:00でした。

「荷物を預けて、タクシーで素早く」などと考えていたので荷物預かり所を探しますが、駅員に聞いても「そんな所はない、ロッカーを使え」でした。ロッカーはやっぱり全部使用中です。荷物を抱えたままタクシー乗り場を探します。これも考えていた東側ではなく、南側にありました。どんどん時間をロスしています。タクシーは幸いすぐ乗れましたが、午後のダブリンは車の洪水でした。タクシーはリフィ川の北をあみだクジのように走ります。運転手の腕はなかなかのようです。それでも走っている時間よりも停まっている時間の方が長いくらいでした。

オコンネル通りを右折して、トリニティ・カレッジ前に来たのは2:20でした。私がタクシーの支払いをし、かみさんは正門に飛んでいきます。20分も遅れる事態になるとは考えていませんでしたので、女性達が辛抱してくれているかちょっと心配です。でも私が正門に入っていくとかみさんが一人の若い女性と話しています。「Mさんは待ちくたびれて大学の中を探しに行ったんですって。この人はお友達」「あ、どうも」「初めまして」と挨拶します。ショートカットにTシャツとジーンズ、ボーイッシュで「ハンサムな」女性Eさんでした。三人で中庭に歩いていくと、Mさんがいました。こちらはフェミニンな、ちょっとグラマーで童顔の可愛い女性です。髪はアップにしています。「待たせてごめんね」と一しきり謝ります。

Eさん(左)とMさん(中央)

彼女たちは昼食を済ませていたので、早速一緒にオールド・ライブラリに入って「ケルズの書」を見ることにしました。(私たちは空腹でしたが、それを言える立場じゃないですからね)Mさんは「いつももっと重いのを担ぎなれてるから」とかみさんのリュックをずっと背負っていってくれました。

チケットを買いに行くと係員が、「学生は何人いるか」と聞くので「彼女と彼女だ」と応えます。四人を眺めて係員は「あなたたちはファミリーか?」と言います。思わず私が「メイビー」と応えます。子連れの再婚予定者とでも思ったかもしれません。「ファミリー・チケットは9ポンドだ」と言われてすぐそれを購入しました。一人4ポンドの入場料ですので7ポンドも節約できたことになります。

一階にはミニアチュールをモチーフにしたディスプレイがあります。暗い中に、沢山の人がひしめいています。中二階に「ケルズの書」現物が展示してありました。ほとんど真っ暗です。私がカメラを取り出すとたちまち「撮影禁止です」と警備員が飛んで来ました。「オーケー、オーケー」と言いながら、フラッシュをオフにしてこっそり撮影しました。でも暗すぎてデジカメではほとんど撮影不能でした。

 

        左:一階の展示     右:ガラスケースの中の「ケルズの書」 (ともに撮影禁止)

二階はロングルームと呼ばれる場所で、高い天井まで古書がぎっしり埋まっています。展示は19世紀の絵本や雑誌類でした。私の専門の世紀末黄金期絵本はなく、未知の作家たちの本ばかりでした。先に売店へ降りてリュックを下ろし、女性陣を待ちます。彼女たちはゆっくり降りて来て、売店で土産物をじっくり選んでいました。それからテンプル・バーに行きました。

ボルヘスの「バベルの図書館」を思わせるロングルーム(旧図書館)これも実は撮影禁止

テンプル・バーは小奇麗でおしゃれなのですが、狭くて混んでいました。それならば、というので前に入ったコキタナイけど広いFIZSIMMONS(フィッツシモンズorフイッツサイモンズ)に入りました。私たちはビールを、彼女たちはアイリッシュコーヒーを頼みました。

「これ、こっちに来て初めて飲んだんですけど甘くておいしいですね」とMさん。ちょっとウィンナコーヒーに似ていて、コーヒーの中にアイリッシュ・ウィスキーと生クリームが入っています。一口飲ませてもらいましたが甘すぎて私の舌には合いませんでした。残念ながら食べ物はほとんど売り切れていて、私たちの空腹を埋めることは出来ません。その代わりにおしゃべりに熱が入ります。

  FIZSIMMONS

Eさんはロンドン市内、Mさんはロンドンから西へ100キロの大学街、オックスフォードに住んでいます。ともに介護の実務をこなしながら語学と福祉実務の勉強をしています。Eさんは福祉施設の住み込み、Mさんは下宿に友人とシェアして住み、数カ所の障害者の住居を回ってその介助をしています。話はイギリスの福祉の実態と日本の「介護保険」の比較から始まりました。イギリスは福祉はコストのかかるものという現実から始まり、プロの介護士と有償ボランティアを中心にお金をかけて運営しているということです。まだ見習い中の彼女たちにも給料が出ていて、大した額ではないけど住居費用と食費が無料なので贅沢しなければ余るほどだということでした。プロの介護士になると更に十分な収入があるそうです。びっくりするのは介護される障害者のほうも、充分な生活費が保証されているということでした。それだけではなく、学ぶ権利として週に数回の大学の授業への出席、長期の休暇、等々が保証されているのです。彼女たち留学生にも同等の権利があるということで、今回のアイルランド旅行もその休暇を使ったものでした。それに比べると、日本の介護保険は「いかにコストを下げるか」しか考えていないひどいものです。

二人が強調したのは、「日本ではボランティアはタダで働くものですが、イギリスではきちんと生活を保障します。持ち出しで奉仕するのはボランティアじゃないんです」でした。その仕事で収入にはならなくても、衣食住が足りて活動を続けられる最低限度の保障を受けられるのです。ボランティアが根付くにはこれが必要でしょう。まだまだ日本の福祉は考え方そのものが貧しいようです。

その後も私たちのなれ初めやら彼女たちの将来像やら「アイルランドは何を食べてもおいしい、イギリスとは違う」という話やら、4人でとめどもない話が続きます。それをいったん打ち切って夕食にします。私は「中華ならハズレがないから、中華料理にしよう」と言います。グラフトン通りに向かって歩きながら店を探します。最初に見つけた店は高級そうで、一品10ポンドくらいの料理名が並んでいます。日本の感覚だと決して高くないのですが、アイルランドの価値観がついてしまった私たちはもっと安い店を探します。南ウィリアム通りの小さな店に入りましたが、入り口近くの狭い席に案内されました。「奥の広いところにしてください」Mさんが抗議して強引に奥に入っていきます。こういう所はたのもしいですね。

厨房からウェイターが撮影

奥の快適な席に陣取ってメニューを見ます。「どれとどれを取ります?」と女性たちが聞くので、私は「コースにしよう」と言って三人前40ポンドのコースを頼もうとしますが、店員は「四人で三人前は駄目だ」と言います。「オーケー、じゃあ四人前コースにしよう」と私が首を振ります。所持金が心もとないのに、精一杯のつっぱりです。「老酒はないの?」と聞きますが「ない」という返事です。しかたなく酒はボルドーの赤を頼みました。あらためてワインで乾杯です。料理はまず春巻きのレタス巻きが出て、チャーハンが出て、それから大皿が6枚出てきました。結局4人でも食べきれず、一枚の皿は半分ほど残ってしまいました。でも若い彼女たちはさすがに食欲旺盛でした。

食事の間も話が続きました。時間を忘れるほどでしたが、ふと時計を見ると8時40分です。バスがなくなるかもしれません。あわてて支払いを済ませようとしますが、請求書は80ポンドなのに所持金の方は、コークからの列車代、タクシー代、さっきのパブの支払いで30ポンドくらいしか残っていません。あわててカードを出して支払いました。それから二人にバス停まで見送ってもらってブラックロックのドイル・タラ・ホテルに帰ってきました。

店の前で通行人に頼んで撮影

Mさん、Eさんとも単独留学するだけあって、楽天的で豪快、かつしっかりした女性たちでした。とにかく楽しい時間でした。

 

八日目(8/30)

30日の朝になりました。帰国の日です。前夜からかみさんは無事に帰れるかどうかが心配らしく、

「朝食は抜きにして、7時に出ましょうよ」などと言うのです。私が「ダブリン市内まで20分、空港まで20分、飛行機が10:25だから、8時に出れば充分だよ」と言ってもまだ安心できない様子でした。

朝になると、かみさんは何度もフロントに行って職員に質問し、空港への道程を確かめていました。そして、

「途中にあるジュディズ・ホテルからエアポート・エクスプレスが出ていて、それが早くてリーズナブルなんだって」と教わってきました。地元の人間の言うことだから間違いはないだろう、と私もそのコースに賛成しました。

寒い朝でした。バスはなかなか来ません。10分以上待ってからようやく二階建てのバスに乗りこみました。「今度は二階に登ろうね」と話していたのですが、どこで降りるのかはっきりしていないので諦めて一階の前方に陣取りました。あらかじめ運転手に行き先を教えていたので、彼は停車場で私たちに「ここだ」と指示しました。

どうやらドイル・タラの姉妹施設らしいホテルの反対側の歩道に降りましたが、どこがエアポート・エクスプレスの乗り場なのか分かりません。私たちはリュックを背負ったまま道を渡ってホテルの中に入り、中年のドアマンに場所を尋ねました。彼は「すぐそこだよ、青い標識がある」と言い、ついでにかみさんが地図に書いていた「エアポート」の綴りを訂正してくれました。その乗り場は一般バス停車場の陰にあり、青色のポールが一本立っているだけでした。気になるのは進行方向が空港とは逆だという事です。10分ほどしてエアポート・ダイレクトと書いた一階建ての青いバスがやってきました。とうとう二階には登れずに終わりそうです。料金は一律2ポンドのようでした。

空港行きバス停車場

バスはすぐ通りを右折しましたが、ダブリンの西を大きく迂回し、何度か停車して客を拾います。そしてオコンネル橋に回ってきてそれから空港へ向かいました。結局、「安い(リーズナブル)」はともかく「早い」は眉唾のようでした。バスは空港に近付きますが、次第に霧が出てきました。視界は50メートルくらいでしょうか。バスの無線でしきりに「フォッギー」という言葉が飛び交います。私たちは霧の中のダブリン空港へ到着しました。

霧で隠れる道路

時間はまだ早いのに、空港はかなり混雑しています。出国手続きは無いに等しいものの、カウンターは長い列です。待たされるかな、と思った瞬間、数人の職員が出てきて入り口を倍に増やしました。列はたちまち解消し、帰国便の便名が違っているという指摘があっただけで、私たちもすぐ通関できました。搭乗口へ向かう通路にギフト・ショップが並んでいます。かみさんは残りの20ポンドくらいで小さなウィスキーボトルと、ファッジ(キャラメルに似たお菓子)を買いました。時間が来ましたが、なかなか搭乗手続きが始まりません。結局、飛行機が動いたのは11:07でした。42分の遅れです。もっとゆっくり朝食を取ればよかった、と思ってしまいます。アイルランドの飛行機はシンボルカラーの緑色で統一され、アテンダントも緑色の可愛い制服です。これを撮影しようと思うのですが、やっぱり直接撮るのは気が引けます。もたもたしているうちにチャンスを逃してしまいました。

アイルランド航空の乗務員

アムステルダム・スキポール国際空港に到着したのは13:00、私たちはまだ成田行きの出発には時間があると思っていました。ところが、ダブリンとアムステルダムには1時間の時差があったのです。現地の時計は14:00を示していました。40分しかありません。すぐ搭乗手続きをしようとカウンターに行きます。チケットを女性の職員に手渡し、職員はディスプレイを見ますが、変な顔をします。かみさんが「アイル・サイド(通路側)をお願いします」と私の教えた通りに言っても、深刻な顔で首を振ります。

この飛行機はフル・ブッキングで、座席指定の余裕はありません。もしかすると、あなたたちの座席すらないかもしれません」彼女は早口でそういう意味のことを言いました。私たちはキョトンとしてしまいます。彼女はこちらが理解できないと思ったのか、「英語の話せる人はいないのですか?」と聞いてきます。「いえいえ、言っている意味はわかります」とあわてて応えました。

それにしても天下のJTBが更に偉いKLMオランダ王立航空から取ったチケットが「使えない」などという事態は信じられません。「急いで搭乗口へ行って、手続きなさったほうがいいですよ」「わかりました、ありがとう」私たちも気の毒そうな青い顔の彼女を見て、事態が深刻だと言う事に気がついて、あわててKL861便のカウンターに急ぎます。そこは大混乱が起きていました。日本人の団体客を中心に、数百人のツーリストが狭いロビーにひしめいています。カウンターではわめきたてる男女の声と、平謝りする職員の声で異様な雰囲気をかもし出していました。「席が無いってどういうことよ、今日帰らないと困るのよ」中年の女性が日本人職員らしい女性に詰め寄ります。「申し訳ございません、ただ今お席の確保の手続きをしておりますので」傍らでは若いエリート職員らしい男性がディスプレイに向かい、必死にキーボードを叩いています。そして、「一丁上がり!」という感じでチケットを女性職員に手渡しました。彼女はそれを客の一人に差し出します。次の次に私たちのチケットがエリート男性に渡されました。彼は「チェッ」というような顔をします。そしてまた猛烈な勢いでキーボードを叩き始めました。恐れを知らないかみさんは、彼に「すみませんがアイル・サイドをお願いします!」と頭の上から叫びました。「静かに!」彼はこちらを振り向きもしないで応えました。「今、あんたたちの席を取っているところなんだ、邪魔しないでくれ」彼はほとんど傲慢とも言える言葉をお客である私たちに言ったのでした。

自分たちが悪いくせに、客を叱り付けてキーボードを叩くお兄さん

私は日本人女性職員に「これは、どこの責任なんですか?旅行会社ですか、航空会社ですか?」と尋ねました。女性は「オーバーブッキングは私どもの責任です」と眉根を寄せて応えます。「いったい、どうしてこんな事になったのです?」更に尋ねると、「どこの航空会社でも、一定のキャンセル客を見込んでチケットを発行します。それが今回、キャンセルする方が少なかったのですね」と言います。夏休みの終わり、ぎりぎりの30日ですからそういう事態も起こるわけです。日本の事情を考えなかったKLMが悪いですね。隣りで学生らしい少年が「オレ、残るよ。次のJALで帰る」「おお、**君、残ってくれるか!」ガイドらしい中年男性が少年の肩を叩きます。友人らしい男女が「**君が残ると困っちゃうよ」「じゃあ、俺も残るかなあ?」などとざわざわと騒いでいました。ほとんど「タイタニック」の世界です。やがてエリート職員がキーボードから手を離し、シャキっと右手をのばして得意げにチケットを取り出しました。そしてそれは女性職員を経て私たちに手渡されました。エリート職員はどんなもんだ、という顔をしています。でも、そのチケットはかみさんが望んだ通路側ではなく、窓側のようでした。

飛行機の座席は確保したものの、搭乗はなかなか始まりません。ロビーにいっぱいの客には座る椅子もありません。私たちもボーッと立っています。どうせ飛行機に乗れば10時間も座りっぱなしなんだから、それほど苦にはなりません。窓から滑走路を眺めていると、尾翼に鮮やかな梅の花を飾った飛行機が通ります。チャイナ・エアラインです。「そう言えば中国の国花は梅なんだなあ」とぼんやり考えます。出発時刻を過ぎ、さらに30分してようやく搭乗が始まりました。アナウンスに従いファーストクラス、ビジネスクラス、団体客と搭乗していき、私たちが乗ったのはほとんど最後でした。しかしまだ飛行機は動きません。飛行機が滑走路に向かったのはそれからさらに30分後でした。定刻より1時間遅れたわけです。

このスキポール空港の「タイタニック事件」を最後に、私たちの冒険は終わりました。ロシア回りの空路は約10時間の飛行で、行きよりもずっと短かったのです。私はその間ぐっすり眠ったので目覚めた時にはもうサハリン上空でした。便利という言葉はほとんど無縁な我が家ですが、成田空港に近いのだけは便利です。しかし2000年の暑い夏はまだまだ終わらず、帰ってきた家は蒸し風呂でした。寒いくらいだったアイルランド、彼の国は夏の旅が快適な近い国です。ぜひもう一度出かけてみたいと思います。

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