第三部:プラザ島-キト-帰国

8月26日(五日目)ガラパゴス三日目

 この日はクルーザーで陸イグアナとアシカの生育ポイントへ渡ります。

 6時半起床、7時に朝食。メニューはチーズオムレツでした。

 ホテルの庭にあるハンモック

 8時にバスが来て、最初は私たちを含め数人の客でしたが、ホテルを数箇所回ると満員になりました。特にサンタ・クルーズ・ホテルからはドイツ系のグループらしい十数人が乗り込んできました。彼らはこの島の性格をよく理解していて、本格的なトレッキングの装備をしていました。私たちを担当するガイドはほとんど禿げた、エルキュール・ポアロ風の親父さんでしたが、この人はほとんど英語を話しません。主にエクアドル人のガイドをしているようでした。スペイン語はこちらにはチンプンカンプンなので、ポアロさんの英語に頼るしかありません。これはかなり不安でした。ドイツ人グループとエクアドル人グループの間で私たちはかなり浮いていました。

 

 バスは北の港へ向かいます。空港のあるバルトラ島からの渡し舟が着いた、同じ港です。島を縦断する道をバスで一時間走り、桟橋でボートに乗り、そこからクルーザーに乗り移りました。

 ポアロさんに助けられてボートへ

 なんだか海洋冒険の旅という感じがして、ちょっと興奮します。相当な金持ちでないと乗れそうにない、大きなクルーザーは快適です。

 

 左:クルーザーの中から  右:クルーザーの屋上

 波を蹴立てて船は港を離れ、海峡を進みます。海の色がエメラルドから紺色に変わって、波も荒くなり、外海に出た事がわかります。それから二時間の船旅でした。行きの海はかなり荒れ、私はなんだか酔いそうな気分がして、おとなしく船室にいました。外国人の中で、日本男児が醜態を見せるわけにはいきません。長い二時間でした。

プラザ島が見えてきた 

 11時過ぎ、目的の「プラザ島」に着きました。再度小船に乗り移り、上陸するといきなりアザラシの歓迎です。数頭の群れが桟橋の側にいて、やってくる人々を威嚇するように巨大なオスがこちらへ走って?来ます。ぶっつかったら人間は弾き飛ばされるかもしれません。幸い、岩だらけの海岸は突撃できる場所ではなく、アザラシも途中で停まります。

 アザラシのオス

 陸イグアナもすぐそこにいて、餌となるサボテンの木の下で昼寝しています。鮮やかな黄色にエメラルド色が混じり、とても美しい生物です。海イグアナともまた違う魅力がありますが、「1メートルを越える」というガイドブックの記事で期待していたよりも小さかったです。あるいは、大きな固体はもういなくなったのか。

 桟橋の側にいた陸イグアナ

 島は細長く、南半分は立ち入り禁止になっています。北側を、杭で区切られたガイドラインに従って一周します。島の西側は外海に面していて、そこは複雑に削られた断崖になっています。そこに海鳥たちが営巣し、その上空に舞い飛んでいます。外海の荒い波の間に間に、黄色いナブラ(魚群)の影が見えます。鳥たちはそこに突撃して魚を取っています。ほとんどがカモメに似たスワローテイル・バードですが、1羽だけアオアシカツオドリを見ました。青い足が奇妙です。飛ぶのに疲れた鳥たちは地面に戻って休んでいます。その側を通ってもちっとも驚きません。眠そうな目をしてお互いに寄り添い、じっとしています。

 

 左:バルトラ島風景   右:うずくまるスワローテイル・バード

  

 左:アオアシカツオドリ   右:外海側の断崖

 島の先端を周り、東側を通ります。こちらはなだらかな海岸で、穏やかなエメラルドグリーンの内海に面しています。そこに数組のアザラシが群れ、斜面にはたくさんの陸イグアナがいました。

 

 左:内海側のアザラシ   右:陸イグアナ

 陸イグアナと3ショット

 (ポアロさんの撮影だが、ロングすぎてイグアナがよく見えない)

 桟橋まで戻ると午後1時半です。ドイツ人グループは研究熱心らしく、私たちより大分遅れています。エクアドル人と私たちが先にクルーザーに戻り、昼食になりました。お子様ランチに似て、1枚の皿に白身魚・フライドライス・野菜の煮物・キャベツサラダが盛られています。これを船の狭いテーブルで異国人に囲まれて、ドレッシングをやり取りしながら食べるのもまた面白い雰囲気です。時間が遅く、極度に空腹だったので味は文句なくおいしかったです。適当にみんなの皿がカラになると、今度はドイツ人グループと入れ替わりました。船はそのまま帰路につきました。

クルーザーでの食事 

 帰りは行きほど海も荒れず、天気は上々、船の屋上に登って昼寝しながら悠々とクルージングを楽しみます。適度に揺れる船の上は母の胎内を思わせる感じで、こうして時を忘れて海の旅を楽しむ贅沢というのも、日本ではほとんど味わうことがなかったなあ、と思います。

 ゆったりクルージング

 屋上にいたのはキトから来たエクアドル人グループで、夫婦と息子の三人家族に息子のガールフレンド二人でした。最初、夫婦の方にクッキーを貰って話し掛けましたが、親父は「私は英語は駄目だ、息子と話してくれ」と言います。息子は今時の若者という感じで、ちょっと斜めに構えて話します。「どこから来たの?」「日本さ」「東京かい?」「違うけど、東京の隣りさ」と言うと、露骨に馬鹿にした顔をします。キトだって世界のレベルじゃ田舎だろう、とムッとします。ガールフレンドたちの方が気さくでした。しかし、息子から「エクアドルは気に入ったかい?」と聞かれたときに、素直に「イエス」と言えなかったのが残念でした。しかし、「人間の素朴さは気に入ったけど、子どもの乞食には胸が痛む」という内容を言葉にするかどうか、それを迷っているうちに面倒になって「半々だね」と言ってしまいました。会話は当然そこで切れてしまいました。

 バルトラ島に近づいた海岸で、船は停止しました。旅行者の半数が水着に着替え、ボートに乗り換えて海に入りました。キトのグループは直接クルーザーから飛び込みます。そんな設定になっているとは知らず、私たちはびっくりです。(ドイツ人女性に「あんたは泳がないの?」と聞かれて「私は泳げないんです」と言うと、周りがみんな笑ったので恥ずかしかった)このツアーは事前にほとんどなんのインフォメーションもなく、驚きの連続でした。

 

 左:水着に着替えて泳ぎに行く人たち  右:せめて足だけでも(笑)

 港から再びバスで町へ戻りました。乗客もガイドもどんどん降りていき、私たちはほとんど最後でした。挨拶もなしに別れるのはちょっと名残惜しい感じでした。

 ホテルに戻ったのが4時半。シャワーを浴びて少し休んでから、今夜はガラパゴス最後の夜なので町に出て夕食を取ることにしました。6時半、暮れなずむプエトロ・アロヨをぶらぶらと歩きます。「ペリカン・カフェ」を覗きましたが、その日は休業していました。湾岸を一周して、さてどの店にしようか、と考えます。混んでいる店は困りますが、ガラガラの店はもっと困ります。狭い町なので、味の評判はすぐ広がるに決まっています。迷った末に、米国人の若者たちが宴会していた「カフェ・ホットロック」という店に入りました。BGMは確かに古いロックでした。

 店のお嬢ちゃんの撮影

 ビールを二本飲み、やがて出て来たのは煎餅のように薄くて固い魚とチキンでした。あとは大量のフライドライスです。これをを食べて晩餐の終わり。後でひどく胸焼けしました。これが最後の晩餐とはちょっと残念です。でもドルがないので贅沢は言えません。(この夕食が15ドル85セントだったので、財布の中には5ドル札数枚しか残っていません)その代わりにここで可愛い子猫に会いました。名前はマリアで、生後半年くらいに見えました。給仕をしていた娘さんに猫を抱いたまま「いくつ?」と聞くと、側にいた母親に相談し、「16」と応えたので、「この猫だよ」と大笑いになりました。

 

 左:小猫のマリア   右:この子いくつ?

 部屋に戻ったのは8時。この日も早く寝てしまいました。

 

8月27日(六日目)ガラパゴス四日目

 一度12時半に起き、二度目は3時半でした。4時半までベッドで我慢し、5時前に起きだしました。また海岸に出てみると、大きな海イグアナがいました。沼にも鳥たちが来ていました。

 

 左:海イグアナともお別れ   右:海岸近くの浅い沼

 6時にかみさんを起こし、7時少し前にロビーに行きました。するとそこで、ガラパゴスがすっかり気に入っていい気分でいる私たちに、それをぶち壊しにするような事件が起こりました。フセイン親父が「食事代」100ドルも請求してきたのです。私たちは旅程表を示し「そんな請求は根拠がない」とつっぱねました。親父は旅程表を初めて見たような顔をし、それをコピーして、しきりに謝っていました。

 多分、分かっていてわざと請求したのです。言葉が不自由で自己主張するのに慣れていない普通の日本人なら面倒なので払ってしまう事が多いのではないでしょうか。日本人をなめてます。私たちは払おうにも、財布の中には20ドルくらいしかないので抵抗するしかなかったのです。これは彼にも予想外のことだったでしょう。(笑)

 でも、キトへ戻ってきてびっくり。ホテルの鍵(大きなゾウガメの木彫り付き)を返し忘れてきたのです。お互いに興奮していたもんだから、忘れたのです。いい記念品が出来ました。欲を掻いたカルロス・フセイン親父はかえって損をしたわけです。

11号室の鍵 

 だいたい私のこの親父に対する第一印象は『強欲で猜疑心が強く見栄っ張り。しかし反面小心で攻撃に弱い』というものでした。ほとんどその印象は当たっていたわけです。それでも私たちは別れ際には「きっとまた戻って来ますよ、このホテル・ガラパゴスに!」と約束して親父を感激させたのです。半分は本気ですが私たちも役者ですね。

 

 7時半、西郷さんの運転するランクルでバルトラ島へ向かいます。いつもの倍ほどぶっ飛ばしたので30分で船着場に着いてしまいました。すぐフェリーに乗って対岸に着きましたが、バスがなかなか出ません。結局ぶっ飛ばした分は待ち時間で消え、飛行場に着いた時間は9時でした。かみさんは西郷さんの写真を撮り、記念にボールペンをやっていました。

 ハシケの中

 最後のドルで絵葉書なども買っていましたが、まだ出発まで2時間もあります。交代で飛行場の周りの空き地を散歩したり、持参の文庫本を読んだりして過ごしました。時々アナウンスが響きますが、スペイン語ではほとんど分からないので英語のアナウンスが聞こえるとホッとします。普通は英語のアナウンスで緊張するので珍しい経験です。

 10時50分、TAME航空機はグアヤキルに向けて出発しました。20分後には早くも昼食が出ます。やっぱり大男たちが給仕します。メニューはポークチョップ・インゲン豆・トマト・パン・ケーキでした。12時半にグアヤキルに着陸、1時に再出発。そして午後2時にキトに着きました。

 玄関に出て、誰か出迎えしているのかと見回すと、ヒルトン・コロンのプラカードを抱えたボーイのような人が「ヒルトンのお客ですか?」と聞いてくるので「そうです」と答えると、ミニバスを呼んでくれました。乗客は私たちだけでした。ホテルで再度チェックインします。今度の宿泊カードはすでに私たちのデータが打ち込んであり、サインするだけで終わりでした。今度は四階の部屋になっており、ここは山も見えて前より景色がよかったのです。私たちは早速風呂に入り、かみさんは洗濯し、私はモバギで通信しました。

 

 5時過ぎ、再びドルの両替に銀行へ出かけました。今度はパスポート持参です。プロドゥ銀行に入ると行列が出来ていて、しかも折れ曲がって三列になっています。一人一人の受け付け時間がずいぶん長く、なかなか列が減りません。私たちは諦めてじっくり待つことにします。1時間近くかかって窓口にたどりつきました。でも、今回は向こうも慣れたらしく手続きはすぐ済みました。職員の手元には、前回私が差し出した日本円の束が残っていました。必要なのは今夜と明日の食事代だけですので、1万円だけの両替で、77ドルでした。元の残金を合わせても100ドル足らずの予算です。これでお土産を含めて二日間の経費にするためには大事に使うしかありません。

 ホセ・カラマ通り

 7時過ぎ、夕食をとりに前回と同じホセ・カラマ通りへ向かいました。今夜はやけに警官が目立ちます。町の辻々に黒い制服の警官が警察犬を連れて立っています。夜通し立ち番をするのだとすれば、人も犬もご苦労なことです。レストラン街について、私たちはまたも店探しに迷います。手ごろかな、と思って入るとどれもこれもパソコンを並べたネットカフェだったりしました。サイバーカフェもいいけど、落ち着いて食事したい旅人には無縁の場所です。結局、前回入ったのと同じ「DAGUI'S HOSTAL CAFE BAR」にしました。

 物乞いが来ないように奥の席にします。天井が低く、暗い店内はなんだか倉庫の中のようです。スタパ斎藤のような(と言っても電脳マニアでないと分からないけど)髭の大男の店長にオーダーします。私はピルスナー、かみさんは赤ワインのグラスです。食事はビーフステーキとミックスピザを頼みましたが、これが両方とも大皿をはみ出しそうなほど大きかったのです。ステーキの方はなんとか食べ終わりましたがピザは半分残ってしまいました。私はそれを店長に頼んでドギーバッグ(お持ち帰り)にして貰いました。今回の経費は9ドルちょっとで、かみさんはしっかり小銭を受け取りました。

残ったピザ 

 ホテルに戻ると9時前でした。少し通信してこの日もすぐ寝てしまいました。

 

8月28日(七日目)キト

 この日は午前中にキト周辺を観光し、夜になって帰国の便に乗る予定です。

 午前3時前に目が醒めてしまい、そのまま5時まで起きていました。ライトテーブルでモバギに向かってガラパゴス日記を打ちます。そのうち夜が明けてきました。6時過ぎにかみさんが起き出し、朝の身支度をして7時に朝食に降りました。この朝も果物一杯のメニューでした。

 9時に迎えが来ました。ガイドのスーシさんは初老のおばさんですが、短身短髪にサングラス、いかにもやり手という感じの豆タンクレディです。「私はスーシ、でもあの『寿司』じゃないよ」と自分で断ります。運転手の名前は「ガロ」と紹介されました。私の時代の人間には一斉を風靡した雑誌の名前です。(その元は白土三平さんのマンガ『当摩のガロ』から来ている)こちらはやはり初老の、ちょび髭を生やし頭の薄い大柄な、ちょっとのんびりした感じの男性です。このコンビに案内されてまずキトの旧市街に行きました。

 スーシさんと旧市街を歩く

 16世紀からの歴史を刻んだ旧市街、世界文化遺産にも指定されているそうです。どの通りにも先住民系の市があって喧騒が続きます。「決して一人では歩かないこと」「ハンドバックは胸に抱える」とアドバイスされます。かみさんのスイカ型の手提げ袋はスーシさんが持ちました。

 サン・フランシスコ教会

 最初にいくつかの教会を見ました。サン・アグスティン教会、サントドミンゴ教会、サンフランシスコ教会と回りましたが、どれも大きくて派手な金ぴかの豪華建築でした。彫刻のレベルの高さは感心します。スーシさんは「三位一体」の講義をし、神父の説教も三分間聴きました。しかし不信心の私たちは何のアリガタ味も感じません。

 

 左右とも:サン・アグスティン教会内部か

 黒人儀仗兵の立つ大統領官邸もちょこっと覗きました。かみさんが「地球の歩き方」に記載されている大統領の名前を見せると、スーシさんは「今は違う人」と言ってG・N・ベジャラーノという名前を書きました。私が「この人は国民に愛されているの?」と聞くと、「いや、愛されているのとは違うけど、まあまあだよ。この前の二人はろくでもない連中で銀行をつぶして私腹を肥やしたりしたから、私たちが追い出した(ここで彼女は足で蹴り飛ばす真似をした)けどね」と答えました。エクアドルの市民意識は高そうです。

 

 左:大統領官邸から中庭を見る  左:大統領官邸

 驚いたのは大統領官邸の半地下部分は長屋になっていて、民間のお土産屋になっていることでした。他の国には例が無いでしょう。この一帯の石積みはインカ時代のものだそうで、確かに「石を溶かした」と言われるほどに精密なものでした。

 インカの石積み

 ここから次は、旧市街を一望する「バネシージョの丘」に行きました。荒れた、ほこりだらけの道を時計回りに登っていき、丘に着きました。ここにはキトのシンボル、有翼(ドラゴニア)のマリア像があります。この像自体が寺院になっていて、拝観料も取られるようです。私たちはそこには入らず、周囲の展望を楽しみました。

 

 左:丘から旧市街を見下ろす   右:ドラゴニア・マリア

 その後、郊外の「赤道記念館」に行きましたが、ここはほとんど何もない所でした。記念館そのものは先住民の民族資料館で、エレベーターで最上階に登り、スーシさんの解説を聞きながら降りてきます。沢山の部族がいるようです。しかし民俗学者ではないこちらとしては、ほとんど興味が湧きません。

赤道記念館のクーポン券 

 貰ったクーポンでフランス、スペイン各国の「記念館」を回りますが、たいした内容ではないのですぐ出てきてしまいます。結局クーポン券は余ってしまいました。途中で2歳くらいの男の子が珍しそうにこちらを見るので、目玉をぐるぐる回してやったら泣き出してしまいました。たいしてする事も無いので、みんながやっているように赤道をまたぎ、南北の両半球を踏んだ写真を撮りました。

 帰り道、眠かったので「佐渡おけさ」を歌ったらスーシさんがびっくりして「もっと歌って」と言うので「木曾節」を歌いました。しかし高地なので息が続きません。民謡を歌うにはちょっと訓練がいるようです。でも、ガラパゴスで歌えなかった鬱憤を晴らすことが出来ました。

 

 1時頃キト空港を通り、1時25分にホテルに着きました。ガイドさんたちと別れ、喉が渇いていたのですぐ近くのレストランを探しました。道路にテーブルと椅子を置いて営業している「カフェ・ダーロ」という店に来てテーブル一個を占領します。スタイルのいい黒人のウェイトレスが来て注文を聞きます。ビールと海老のスープ・野菜サラダを取りました。食事の方は昨日のピザが残っているのでホテルに帰ってそれを食べることにします。半分は食べましたが、大分残りました。捨てるしかありません。

 

 左:路上のビールもまた格別  右:黒人店員さんと

 かみさんは昼寝、私は通信し、夕方までゆっくりしました。午後6時、日が沈んだので絵葉書の切手とお土産を買いに出ます。切手はあちこち訪ねてやっと買いました。お土産はすごく安い先住民系の店で50セント〜1ドル程度のものを数個買いました。

 

 それから夕食にしますが、またホセ・カマラ通りまで行くのが面倒なので、その辺で食べることにします。『E.SPIRAL』という螺旋形のショッピング・センターがあって、中にはレストランもありそうだったので入りました。エレベーターで最上階まで登ります。螺旋状の通路を少し降りるとファーストフードの店らしい所がありました。ガラス戸にメニューが貼ってあります。英語は通じないだろうな、と予期しつつけっこう混んでいる店内に入ります。かみさんが店員をガラス戸まで連れて行って「1番セットと3番セット」と注文しました。1(ウノ)から5(シンコ)までは数字が言えるのが強みです。ビールは冷えていなくて自分で氷を入れて飲むのですが、けっこういけました。出てきたものはトマトハンバーガー・ポテトチップ・サイダーのセットと、鳥カラ・フライドライス・ポテトチップ・トマトサラダのセットで、特にフライドライスは柔らかく、おいしかったです。各セットが1ドル、ビールが1ドル、全部で3ドルです。ガラパゴスの「ホット・ロック」で食べた5ドルの料理よりこちらの方がよっぽどうまかったのが皮肉です。中国や東南アジアでもそうですが、庶民の店に入れば、観光客相手のレストランよりはるかに安くてうまい物が食べられます。この国でもそれは同じだったようです。

 

 7時半、ホテルに帰ってカードキーを差し込むと、ドアが開きません。何度やっても同じです。急いでフロントに行きました。男性従業員にその旨を告げると、「お客様は、今晩おたちですね?」と確認して奥に行き、パソコンを操作して「使えるようにしました」と言いました。夜にチェックアウトの客というのも、向こうにはやりにくい相手だろうと思うからそれ以上のクレームはつけませんでした。

 部屋に入り、かみさんは買って来た切手を三枚の絵葉書に貼ろうとして苦労しています。90セント切手1枚分のスペースは空けてあるものの、追加料金の2セント切手(臨時スタンプという感じの紙片)が主切手より大きく、とても貼り込めないのです。宛先などをホワイトで消してやりくりしてもまだ駄目です。しかもこの切手はノリがついていません。日本に帰ってから出す事は出来ますが、それでは絵葉書の意味がありません。困ってしまいます。

 その時ドアがノックされ、ロックを開けると作業服の男性が入ってきました。ドアの鍵を交換するそうです。さっきの一連の作業で電子式のロックが壊れてしまったようです。この技術者はきさくな青年で、「今夜出発ですか?」と気軽に話し掛けてきます。駄目元なのでかみさんが「ナイフかカッターを持っていませんか?」と尋ねると、「ありますよ」と、胸ポケットからカッターを出しました。私たちはそれを借りて臨時スタンプの四方を削って、なんとか貼り込める大きさにしました。さらにかみさんが、「ノリを持っていませんか?」と尋ねると彼はまたポケットから瞬間接着剤を出しました。私たちは喜んで「あなたはスーパーマンだ!」と喝采しました。彼は床に寝そべって1時間近く作業してから帰りました。

 

 左右とも:作業するお兄さん

 8時半、予定の時間に荷物をまとめてロビーに降ります。今回も追加料金はありません。無事にチェックアウトし、カードもドアマンに渡しました。迎えに来たのは最初にキト飛行場に来てくれたマリアンさんでした。彼女はそっけなく「あなたたちは覚えていないかもしれないけど」と言いましたが、もちろん覚えていました。ホテルを出る時、かみさんが玄関で警備に立っている警官と犬を撮影したがりました。マリアンさんは警官に一言ささやき、かみさんは警官と犬とのスリーショットに収まる事ができました。

警官と犬との3ショット 

 ほの暗い夜のキト市街、すでにトロリーバスの運行も停まっているディエス・デ・アゴスト(9月10日)通りを走ります。飛行場へ着くと、マリアンさんはゲートで簡単な注意をしただけで去っていきました。国際線は構内に入るには航空券とパスポートがいるので、代理手続きをするわけにはいかないようです。実際、ここでは合計6回ものチェックがありました。今にして思えば、全大陸的にテロの警報が出ていたのかもしれません。6回の内容は

 @入港チェック A軍人によるチェック B航空会社カウンターでのチェック

 C移民局のチェック D手荷物検査でのチェック E搭乗口での再検査

 いずれも航空券・パスポートは必ず厳重に検査されました。こんなしつこい検査は初めてです。ついでに空港使用税25ドルも取られました。

 ここで二つの問題が起こりました。一つはコンチネンタル航空のカウンターで、ヒューストン−成田間の座席が夫婦バラバラにされたこと(女性職員は「混雑のため、この座席しかご用意出来ません」と言った)、一つは手荷物検査でかみさんのウェストバック用のチェーンが紛失したことです。どちらもかなり不愉快な事件です。

 2時間近い待ち時間で、飲料サービスはあるがトイレもない待合室に、沢山の乗客が集まっていました。その人ごみの中に、二人のガードマンと一人の女性職員が何か言いながらやって来ました。何事かと振り返ると、女性は手にかみさんのチェーンを下げていました。彼らは紛失物を客に返しにやって来たのでした。かみさんは意外な展開にびっくりしながら喜んでいました。それにしても三人も来るとは大げさです。つまりはヒマな空港なんですね。

 

 CO750便グアヤキル経由ヒューストン行きは、時間通り11時30分にマリスカ・スークレ飛行場を飛び立ちました。0時25分にグアヤキル到着、1時10分に再出発です。この便の私の座席の隣りは、禿げて太ったエクアドル人の老人で私の席にはみ出してくるので困りました。しかもこの爺さん、離発着のたびに十字を切り、一生懸命お祈りするのです。

うっとうしい限りでした。横の爺さんに悩まされつつ、アイマスクと耳栓と空気枕のおかげで少し眠れました。

 

8月29日(八日目)飛行機内

 午前4時40分、朝食。これは二人とも食べませんでした。6時にヒューストン到着。さすがにこの時間の乗客は少なく、移民局の行列は少なくて簡単に出られました。来た時と同様に手荷物検査を受けて再度国際線ゲートに入ります。まだ7時で12時半の出発までに5時間もあります。私たちは離れ離れシートの解消と、かみさんの通路側シートの確保のためにコンチネンタル航空カウンターでクレームをつけますが、職員は10時半にならないとこの便の詳細は分からないと言います。仕方なくロビーで待ちます。かみさんは横になり、私は「日本のテロリズム」という物騒だけど面白い本をずっと読んでいました。(安重根の伊藤博文暗殺がケネディ暗殺並みの「藪の中」だったとはこの本で初めて知りました)

 10時を少し過ぎた頃、空港内に活気が出てきたので周囲の搭乗ゲートを回ってみました。すると近くの6番ゲートの表示に007便が出ています。私は早速、そこに苦情を申し立てました。日本人職員がいたので私たちの要求は簡単に受け入れられました。めでたしめでたしです。

 11時20分、搭乗開始。乗り込んでみるとそこは非常口前の広いスペースの席で、ビジネスクラス並みに楽そうでした。側にトイレがあるのでちょっと迷惑ですが、足元が広くてすぐに立てるのは長旅には有り難い条件です。「エコノミークラス症候群」にもかかりにくいでしょう。

 12時20分離陸。13時40分にドリンクが来ました。この機には陽気な日本人男性乗務員がいて、彼は「飛んでしまえばこっちのもんだ」とか「食事は自慢ですよ、なんせ食い倒れのコンチネンタルって有名なんだから」などと放言していました。彼は私たちに『サミュエル・アダムス』というアメリカン・ビールを推薦しました。これはミュンヘンのビールコンクールで優勝し、全米に地ビールブームを起こした傑作だそうです。アメリカン・ビールのまずさを知っている私は半信半疑で飲んでみました。確かにこれが濃厚で苦味も深く、フルーティでもあっておいしかったのです。「馬のショウベン」というアメリカン・ビールの悪評もこれで解消されるかも?

 「サム」を飲む

 その後、昼食と夕食を兼ねたような食事が出て、それが終わると機内の電気が消され、機外は夜になりました。かみさんはずっと眠り(眠れないけど)、私はずっと音楽放送を聞いていました。朝食に出てきたカップラーメンが食べられなかったのを、かみさんはしきりと残念がっていました。

 

8月30日(九日目)成田

 日付変更線を越える頃に時計を日本時間に変えます。ディスプレイの表示を見ていると、気流の関係で飛行速度がぐんと落ち、到着予定時間がどんどん遅くなっています。困ったもんだなあ、と思っているとカムチャッカ半島にかかる頃に元に戻りました。

 日本時間午後2時、昼食が出ました。メニューはチキンライスかオムレツに日本蕎麦、フルーツサラダです。ドリンクはもう一度「サム」を頼みますが「完売」だそうでした。しかたなくハイネケンを飲みました。

  午後3時半、着陸開始。午後4時、成田空港到着。

 京成線でJR成田駅へ行き、成田線で我孫子へ。帰宅は午後6時でした。とにかく高山病にもならず、事故もなく、テロにもあわず、無事に帰れてよかったです。

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