ミハイル・ヴルーベリ

Mikhail Vrubel

(1856-1910)

 

シベリア西部、オムスクの生まれ。少年時代から音楽と絵画に優れた才能を発揮した。

1874年ペテルブルク大学に入学して法学を学ぶ。卒業後の1880年美術アカデミーに入り、レーピンなどの影響を受けた。84年教会の修復を依頼された事からビザンチン美術とロシア・イコンに興味を抱き、研究するようになった。同年から翌年にかけてイタリアに旅し、モザイク画の技法を習得した。ヴルーベリの絵にはこの技法がよく活かされている。

一方文学的にはレールモントフに傾倒し、彼の叙事詩「悪魔」のために数点の挿絵を描いた。「座せる悪魔」(1890)「寝そべる悪魔」(1902)など悪魔シリーズを描き続けたのもレールモントフの影響が大きい。その悪魔たちは憂愁と内省を秘めた深い瞳を持っているが、ヴルーベリ自身もそういうキャラクターだったらしい。ロシアの世紀末はツアーリの強権の下に誰もが沈黙を余儀なくされた時代だったから、彼も彼の悪魔も時代を憂うことしか出来なかったのだろう。

1889年からヴルーベリはモスクワに居住してマーモントフ歌劇団の舞台美術を担当した。歌劇団オーナーのマーモントフはヴルーベリの才能を高く評価し、スポンサーになった。1896年にはプリマドンナの美女ザベラと結婚している。ザベラは彼の女性モデルとして多くの作品に登場している。

1898年ベヌアらが主宰する「芸術世界」(ミール・イスクスートヴァ)に参加。「セイレーン」(1899)「白鳥姫」(1900)などを発表した。

1902年、精神病の傾向が表れ入院。病院で作品を制作した。その後も「六翼の天使」(1904)などの傑作を描いている。しかし1906年になって失明したために制作は断念され、その4年後に死亡した。詩人たちは彼のために詩を捧げ、その死を惜しんだという。

 

「座せる悪魔」油彩(1890

「白鳥姫」油彩(1900

「六翼の天使」−プーシキン『予言者』より−油彩(1904

 

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