ハインリヒ・フォーゲラー

Heinrich Vogeler

(1872-1942)

 

個人的に花束を捧げたい人物。フォーゲラーの生涯はハイネとジョージ・オーウェルを合わせたようにドラマチックかつ悲劇的で、まるで大河ドラマを見るようだ。

ブレーメン生まれ、デュッセルドルフ・アカデミーで学び、またイラストをE・V・ゲプハルトに、絵画をP・ヤンセンに学ぶ。他に工芸・家具のデザインから建築物の設計までしたという。モリスの再来というべきか、少なくともモリスよりは絵はうまかった。

 

1889年、ブレーメン郊外の小さな町ヴォルプスヴェーデにマッケンゼンとモーダーゾーンという二人の青年画家が住み着いた。さらに二人の画家・エンデとオーバーベックが加わり、1894年に22才のフォーゲラーが加わって芸術村を形成した。これが後にヴォルプスヴェーデ派と呼ばれる5人組だ。彼らは冬は町で働き、その他の季節は共同生活をしながら北ドイツの自然を舞台に、若者らしい感傷的でロマンチックな作品を描いた。

彼らに転機が訪れる。フォーゲラーは1898年イタリア旅行に出かけ、フィレンツェで詩人ライナー・マリア・リルケに逢い、意気投合した。リルケは彫刻家の妻クララとともにヴォルプスヴェーデにやってくる。リルケは青年たちに感動し、この芸術村のことを「ヴォルプスベーデ」(1903)という詩的な美術評論に書いた。その結果、無名の青年画家たちは分離派展に特別室を設けられるなど、たちまち中央画壇のヒーローとなった。絵は売れ、スポンサーもつき、生活は楽になった。フォーゲラーは1901年に自分の絵の中のヒロインのような少女マルタと結婚していて、順風満帆なんの不足もない幸福に包まれているように見えた。

 

1914年、第一次世界大戦が勃発した。フォーゲラーは志願兵としてドイツ軍に参加、防諜部隊の下士官になった。彼の使命はソ連のスパイや同調者の摘発だ。いくつかの摘発を行う中で、押収した文献を精密に調査していた彼はなんと社会主義理論に自ら同調してしまった。(ゴーリキーに傾倒するなど、その要素はすでにあったようだが)フォーゲラーは新たな信念に基づき『皇帝に寄すーブレスト=リトフスク強圧講和に対する下士官フォーゲラーの抗議書』(1918)を発表し、逮捕・投獄された。これはドイツ知識人の反戦運動の先駆けだった。翌年ドイツは敗北し、革命が起きてブレーメンにもレーテ(労兵評議会)が出来、フォーゲラーは釈放された。

ドイツ共産党員として活動を始めたフォーゲラーはヴォルプスヴェーデにも労働学校を作り、指導した。しかしスパルタクス団の蜂起の失敗によりドイツ革命は挫折する。フォーゲラーは妻のマルタとも別れてしまい、23年にはモスクワに行き、サマルカンドなどを旅行した。そしてナチスの台頭した32年になりソ連に亡命・帰化することになった。

当時、ソ連はスターリンの粛正の嵐が吹き荒れていた。外国人共産党員は決して歓迎も優遇もされなかった。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍が進入してくるとドイツからの亡命者たちはカザフスタンへ移された。しかし、フォーゲラーにはそれだけではすまなかった。スパイ容疑をかけられ、シベリア送りになったのだ。翌年1942年にフォーゲラーはシベリアのカラガンダで死亡した。処刑されたとも言う。ヴォルプスヴェーデに知らせが届いたのは戦後になってからだった。

 

私が友人の美術教師宅で「ロシア・ソビエト絵画集」を眺めていると、見覚えのある絵に行き当たった。署名を見るとフォーゲラーで、彼らしいメルヘン的な油絵だった。彼がロシアの画家として認知されているとしたら悲劇的な最後も少しは報われるのかもしれない。カラー図版がないので、その絵を借り出す事が出来たらここに掲載したい。
 *この後、「ハインリッヒ・フォーゲラー展」が開催され、詳しいデータを追加

 
「告知」(1895
 
自作詩集「あなたに」(1899
 

リルケ「マリアの生涯」

             挿絵(1912