アルフォンス・ミュシャ

Alfons Mucha

(1860 - 1939)

 

(英独語では「ムハ」と発音するが、ここでは仏語の発音に統一する)

アールヌーボーの花、と呼ぶにふさわしいゴージャスでロマンチックなポスター/イラストで知られる画家。

オーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア(現スロバキア)の寒村に生まれる。

 15歳から裁判所の使い走りをする。19歳になってから、ウィーンに出て風景画家の工房で働く。3年後、C.ベランジュ伯爵という貴族に見出され、援助を受けてミュンヘン・アカデミー、さらにパリのジュリアン美大に学ぶ。

 1888年、伯爵の援助が打ち切られ、やむなく雑誌の挿し絵画家になる。「パリ生活」「フィガロ画報」などに絵筆をとった。90年頃ゴーガンと共用のアトリエを借り、ストリンドベリにも会っている。93年流行を始めた写真機を購入。イラストの補助に使うと同時に、ゴーガン夫妻の肖像を撮影している。

 1894年、ミュシャに転機が訪れる。クリスマスイブ、知り合いの印刷工房にいる時ルネサンス座からサラ・ベルナールのポスター制作の依頼が舞い込んだ。ミュシャが下絵を描いたが、印刷工房の親方は気に入らなかった。しかし、試しにルネサンス座に送ったところ、サラはそれを見て電撃に撃たれたような霊感を得たという。正式にミュシャにポスター制作が依頼され、これが発表されると大反響を巻き起こした。出世作「ジスモンダ」である。

 以後、ポスター、挿し絵、雑誌の装丁、アクセサリー制作など、たくさんの部門でたくさんの作品を発表、生涯を通じて全世界的な人気を集めた。

 1918年からは独立した祖国チェコのために、紙幣・切手・制服などのデザインを担当。翌   19年には大作「スラブ叙事詩」(壁画12点)を発表し、愛国者ぶりを発揮した。

 

 一方でミュシャは神秘主義者であり、オカルチストたちと心霊術の実験に熱中していた。彼の絵の中にも数々の神秘主義的シンボルが氾濫し、それが一種の怪しい魅力にもなっている。ミュシャの画風は、アカデミックなリアリズム・シンボリズム・アールヌーボーという3つの源泉を持ち、それを総合したものと言える。

 また、ポスターの原画(下絵)を見るとけっこうラフな線画であり、チョークで軽いトーンをつけた程度のものだ。彩色にあたった石版技師の職人技がなければ、あの女性の肌の微妙なグラデーションなどは表現不能であったろう。現在ではその技術を受け継ぐ人たちは存在しないそうだ。したがってミュシャのあとにはミュシャはいない、と言える。彼の魔術的なポスターや絵は、永遠に見る人を魅了し続けるだろう。

網羅的だった「ミュシャ展」のチケット

(1978)

「四季」のうち「春」1886

チェコ紙幣デザイン 1918

「スラブ叙事詩」のための資料写真(1914ごろ)

「モナコ・モンテカルロ」ポスター(189?)

 

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