グスタフ・クリムト
Gustav Klimt
(1862-1918)

象徴主義画家の中で、最も重要で人気のある一人
当時のウィーンはハプスブルグ王朝の主都からただの田舎町に変わる過渡期で、燃え尽きるろうそくの最後の炎のように多数の才能が開花した。オットー・ヴァグナーらの建築家 、ホフマンスタールらの文学、精神分析のフロイトマーラー、シェーンベルグらの音楽、ヴィトゲンシュタインらの哲学、あげくには建築家志望のルンペン、アドルフ・ヒトラーまでが徘徊していた。美術家の代表がクリムトである。
ボヘミアの彫金家の息子に生れ、1876年から工芸美術学校に学ぶ。83年から弟エルンスト・クリムト、画家フランツ・フォン・マッチュと共に「美術家協会」を結成しブルク劇場の天井画や美術史美術館の壁画制作を行う。弟エルンストが病死してから数年間活動を中止していたが、97年ウィーン分離派(退屈なアカデミズムから『分離』するという意味の名前……官展落選組でもある)を創設し初代会長になる。
もともとアカデミックな技法では卓越したものを持っていた彼は、生来のロマンチックな志向と時代の要請を受け、ベルギー象徴派やビアズリーを消化し沈黙の数年間で大きく変貌していた。その彼の力もあってウィーン分離派展は高い評価を受けた。パトロンでモデルかつ愛人でもあったエミリー・フレージェともこの頃知り合ったようだ。
彼は矛盾だらけの人間だったが、特に女性関係は奇怪だった。長くつきあったエミリーともついに結婚はしていない。ゲイだったといううわさもある。
1900年からウィーン大学の講堂に壁画「医学」を描き始めたが、これが大問題となり、国会でも「わいせつだ」と攻撃された。(壁画は1945年、ナチスによって焼却された)同年「哲学」はアカデミーに受取を拒否され、パリの世界美術展で大賞を受けた。クリムトをウィーン美術学校の教授に推薦する声もあったが、皇太子フランツ・フェルディナンドの鶴の一声で没になったという。
1905年分離派を脱退し、クリムト・グループを形成しエゴン・シーレ、オスカー・ココシュカらを指導した。1913年ごろから、スラヴ民族芸術や東洋的装飾(蒔絵・狩野派の影響)が作品に現われ、新境地を開いたがその5年後脳卒中で死去した。シーレがその最期の顔をスケッチし、デスマスクを制作した。シーレ自身もすぐに後を追って貧窮の中に死んだ。
イラストレーターとしては極めて限定的で、ウィーン分離派のポスターや機関誌「ヴェール・サクラム(聖なる春)」のカットを描いた程度である。
「クリムト展」(?年)に行ったことがあるが、初期の点描派風の風景画がえらく退屈だった記憶がある。かわりに「分離派」以後の絵はすばらしかった。「クリムト」で検索をかけてみれば分かる通り、インターネット内ではたくさんの人達が彼について語っている。

医学 ウィーン大学講堂壁画 焼却前のモノクロ写真 1900−1907

ユーディットJ
カンヴァスに油彩
1901

金魚
紙に墨
?年

戻る