様々な死(5)お風呂考

 私はあまり身なりのことは気にならない。毎日同じズボンで一冬過ごし上着のシャツを取り替えるぐらいが精いっぱいの身だしなみである。女性としてはあまりほめられたことではない。毎日体育祭の服装ですね、と事務所で働いている卒業生に言われる。したがって、お風呂は入らなくても平気なほうであった。


 私の住む垂水は比較的被害の軽微な地域で、1月17日地震発生の日の火曜日に止まった水も日曜日の朝にはチョロチョロと出始め、水汲みに走って回る生活からは一週間弱で解放された。しかしガスは一ヶ月たった今も来ていない。ガスが来ないということは、ガス風呂のわが家では風呂が沸かせないということである。第一週目は、無我夢中で過ぎた。右に水が出ると聞けば走り、左と聞けばまた走った。最長待ち時間3時間、やかん一杯、ということもあった。3日目の朝、自衛隊が小学校の校庭に9時に来るという情報をキャッチして列に加わったものだったが、来たのは市の水道局の小さなワゴン車が一台、プラスッチックの容器を20個ほど積んでいるだけ。タンクローリーが滔々と押し出す水を夢想して、特別に考案(?)した入れ物(買い物用のキャリアに水を入れるべき新しいポリ袋を直接入れ、これならかなりの量の水が楽々と運べる)を用意し、私は優先権の主張できる位置に並んでいたのだが、われがちにバケツ、薬缶、鍋を差し出す手に押され、恐れをなし、それでも薬缶一杯分は確保して、なにが自衛隊だ、と帰ったときだった。そのときに風邪をひいた。第一週目は隣に住む弟の家族と一緒に生活した。余震はぼろ家を絶えず揺すぶり、おびやかし、私たちはすぐに走って逃げられるようリュックと靴を枕元に置き、玄関は開けたまま寝る日が続いた。惨状を報道し続けるテレビも一晩中つけたまま。叔父が旅行中の留守に地震になってしまった叔母もひきとっていた。彼女は足が悪く巨体。トイレをさせるのが至難。夜中にごそごそしている気配をいち早くキャッチしなければ彼女も私もかわいそうなことになってしまう。とても眠れない、軽い風邪が立派な風邪に成長して、喉が腫れあがり、1月21日土曜日の夕方から38度の熱が出た。翌日の日曜日には平熱にもどった。叔母も加古川に住む娘の家に引き取られていった。本当は九州にいる息子のところに行きたかったのだが、にべもなく「姉ちゃんの所に行け」と言われた。「姉ちゃん」は先妻の産んだ子供で叔母の実子ではない。「姉ちゃん」は夫を10年前に亡くし、そのあとからも気難しい舅、姑に仕え、娘を交通事故で失い、舅、姑を見送り、一人で暮らすようになった。そして彼女はまるで仏様のような人になった。叔母を従姉妹の家に送って行きがてら弟の家族は従姉妹の家でご馳走になり、風呂に入ってきた。私は行かなかった。叔母が安全な所に疎開できたので、私も自分の家に戻った。


 月曜日23日には、JRが須磨まで通じた。まだ少しふらふらしたが、須磨まで行った。息を呑む惨状だった。報道されない木造家屋のおびただしい倒壊。須磨の海岸沿いには大きな古い屋敷が多い。それが無惨に壊れている。私の友人の家も倒れている。私は須磨から神戸まで出る方法を確認するのがやっとの思いで垂水に帰った。二十四日には学校に行こうと思っていた。しかしまだ私の体力はこの惨状には耐えられなかった。風呂に入らない頭皮が痛みだした。私は3年前に脳外科手術を受けていて首の筋肉が一本半しかない。左頭部の感覚は英語で言えばnumb、いつもしびれている。そのしびれが痛みに変化し、毛髪が逆立ったような気がする。しかしこれは大したことではなく要するに、髪の毛が極度に汚れているのだ。二十四日私は電子レンジで何杯も湯を沸かして髪を洗った。頭の重みが三分の一になったような軽さ。髪を乾かしながら思う、これでお風呂がなくても一ヶ月はもちそうだ。明日は学校に行こうと思った。


 25日、三時間の旅をして、普段は50分で行く学校に行った。バスで名谷へ、地下鉄で板宿へ、バスで和田岬をまわって神戸。神戸からは、元町ー三の宮ー布引ー青谷と歩いた。なめるように被災地を歩いた。学校では生徒の安否確認作業が続けられ、学校再開に懸命な同僚たちがいた。心を残して私は帰ることにした。泊まり込んでこの同僚たちと行動を共にする体力的な自信がもてなかった。帰りは5時間かかった。途中元町の商店街で「湯沸かしヒーターあります・1月30日入荷予定」という張り紙が妙に気になった。これを手に入れれば風呂に入られるのだ。


 29日、日曜日、塩屋に住む知人の様子を見に行く。新居を建築中だった。現在住んでいるマンションは家具調度、多分に蒐集マニアの稀少レコードがごっそりつまった部屋は瓦礫の山だとかで、半分出来上がっている新居に移っていた。ここは無事。風呂の話になった。半ば得意になってヒーターの広告を見つけた話をすると、自分たちは、ホット・プレートをおけに入れて何度も湯を沸かしているという。この家の主はとんでもないことを思いつくので有名な人だ。私にも是非やってみなさい、と勧める。早々にお暇して家に帰ると、すぐ電話があった。「家内がホットプレートを持ってそちらに向かってますから」。かなわない。私は電気にはきわめて弱い。電気掃除機すら嫌いで箒を使っているというのに。ホットプレート到着。水をはった桶にじゃぶうん、とコードをつけたホットプレートの鉄板すなわち発熱体が沈む。通電。バシッツ!家中の電気が消える。あれ、おかしいな、と奥様。もういい、もういいから、このホットプレート、肉を焼くのに丁度ほしいところだったから、それに使わせてくれない?お風呂はいいから、大丈夫だから、と懇願するが、彼女はあとにひかない。家の風呂は琺瑯びきだったのが計算に入っていなかったらしい。漏電警報機が働いてしまったのだ。私はしかたなく電気を通さない隣家の赤ちゃん用バスタブ、バンビの貼り絵がついているのを借りてきた。準備OK,通電、OK,しばらくするとぷつぷつと泡が出てきて湯が沸いて行くのが目に見える。湯加減を見るときはコンセントを抜いてからにして下さい、と言い残して、お湯を届ける天使は帰っていった。間もなく、私は風呂場を暖めて、沐浴、をした。何というやすらぎ、2週間ぶりのお風呂(?)


 考えた、もっと大きなポリペールを買ってくれば、肩までつかれるかもしれない。ダイエーに行く。ここはすでに相当豊富な品が揃っている。大きな多分これなら、と思うのがあった。抱えて帰る。湯を沸かす前に中に入ってみる。底が抜けてもいけない、そっと入ってそっと出る。よし、実行。一時間半、いい湯加減だ。入った。しゃがむ。足がじゃまになってお尻がはいらない、あー、実験が不足していた。飛び出る。切れるような寒さ。バスローブを羽織り隣家に走る。あわあわ、と言って大笑いされて、バンビを借りて、湯を移す。風邪を引かなかったのが不思議。髪だけ洗う。ホットプレートはしばらくおあずけ、と諦める。次の日風呂屋に行く。40分待った。待っている間に凍り付く。誰を待っているわけでもないのに、湯に入る前に心まで冷える。何とか湯沸かしヒーターが手に入らないか、と次第に思い詰め始めた。また風呂に入らなくなった。


 2月8日、3度目の実験的な生徒の登校日のあと、避難所にいる生徒に会いに行った。板宿。彼女は母親と家の整理に行っていた。周辺の悲惨をよそに板宿の市場は奇跡的に無傷で珈琲屋も開いている。時間をつぶしてからもう一度来ると留守番をしている生徒の弟らしい子供に言って、いったん外に出る。この避難所は暖かく、きれいに整頓されており、校庭では暖かいスープも炊き出しされていた。コーヒをと思っていると寿司屋が目に入った。誘惑に負けて入った。待った、待った、混んでいる。職人風の二人連れが入ってきた。私の目は其のうちの一人が手にしたものにくぎ付けになった。「それ、湯沸かしヒーターじゃない?」1キロワット、7000円。風呂を沸かすのに20時間かかるという。ためらう、しかし夜に通電しておけば寝てる間に沸く、と彼は言う。それも道理、買うことにする。寿司はおいしかった。生徒も戻っていた。元気、10日からは学校に来られるという。


 その夜、ヒーターを通電したしたまま寝た。朝、そっとふたを開ける、まんまんと、とうとうと、湯気をあげて、風呂が沸いている、満足。しかし私は朝風呂に入っている時間はない。出勤する。神戸から、歩いて摩耶山麓まで。家に帰ると汚れのこびりついていた弟が、ふわふわと洗いたての髪をなびかせて、ええ具合やった、と言う。ポリペールの水をホットプレートで沸かし、その湯を風呂桶に移してわかせば、格段に風呂のわき上がる時間が短縮できることに気づく。
 この方法でやっと私が湯に入ったのは実に地震以来3週間近く過ぎた2月12日のことであった。ゆっくりと煮込んだシチューが美味しいように、ゆっくりと沸かしたお湯はなめらかで、やわらかで、うまい。奮闘のあとの満足感もともなっていて、まことに結構である。