癒されぬ魂

―『新世紀エヴァンゲリオン』は
     物語たりうるのか―

revised 8/28/1997  visited person


はじめに 〜問うものと問われるもの

 『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』と略)はシンジが世界と和解する話で、庵野監督が途中で力つきたと考えていたが、いくつかの疑問点があった。例えば、登場人物の悩む姿は自分にとっても身近な問題のはずなのに、心を打たない。どんどん話が袋小路に入り込んでいき、出口が見えてこない。最終話は説得力がない等である。(注:この文章は『the End of Evangelion』公開前に書かれました)

  人は誰も、その時その時のテーマがある。自立、恋愛、仕事、老い、家族。そしてそれが症状の形をとって現れた時、病気と呼ばれる。言い換えれば、症状はたいてい何かの欲望の表現である。問い、謎と考えてもいい。
 例えば乱暴な言い方だが、うつ病は怒りの抑圧であり、摂食障害(拒食症、過食症)は愛されたいという事である。統合失調症は「自分とは何か」という究極の問いである。もちろん遺伝子レベルも含めて身体的問題が多かれ少なかれ関与はしている。精神と身体は同じものの別の呼び名であるから。しかし上記のテーマを把握・理解することが、その人の問いに近づく必要条件である。
 そしてそれは、症状のあるなしにかかわらず、誰にでも言えることでもある。人間は、常に何かを問いている存在であるから。また当然人の作ったもの、創作作品にも当てはまる。作品は、一つの問いでありまたその答えでもある。

 以上を踏まえた上で、『エヴァ』に対して、物語と精神療法の2つの視点から検討を加えてみた。方法論としては、主にユング心理学と精神病理学を用いた。

I.歪められた物語

1.物語とは何か

 きちんと作られた物語は、それ自身が一つのまとまり・ゲシュタルトを形成し、自律性と主体性を持っている。物語にはその物語独自の構造とテーマがあり、そこから行き着く結末は基本的に一つである。それはアニメーションに限らず小説、まんが、映画、音楽等、全ての創作活動に共通で、作者にすら自由にならないものである。極端に言うと、作者は物語を最もふさわしい姿にするためのしもべ、あるいは媒体でしかなくなる。作者が無理に物語の流れを変えると、作品は生命力を失い、死んでしまう。具体的には、作品の魅力が薄れ、リアルでなくなってしまう。
 もちろん物語と呼ばれるものが全てそうではなく、さまざまなレベルのものが存在するが、いわゆる魂のこもった物語ほど、上記の性格を帯びる。

2.本来はシンジの自己解放の物語だった

 本来この物語は、シンジという少年が他者を受け入れ、世界と和解する話のはずであった。物語の構造は、それを示している。特に『エヴァ』は、露骨なほど解り易い構造を持っている。
 主人公は傷つきやすく、他人と向かい合うことから逃げている。しかし他者は、使者という形を取って現れ、次々に課題を主人公につきつける。それを仲間と共に一つづつクリアすることで、シンジは少しずつ変わっていく。すなわち闘いを通して成長し、シンジは新しいあり方、他人から逃げないあり方をつかみ取る。最終的には父殺し(そして母殺し)によって主人公は自立し、この物語は終わる。

3.しかし物語は迷走する

 少なくとも第23話までの話の展開からは、物語はその結末に向かっていた。解り易すぎて、あきれるほどだった。
 しかし物語は終盤に入り、迷走しだした。特に、それまでの流れを24話で自ら叩き壊したような印象である。何かのダイナミズムが介入したと考えられる。この点について、いったん物語を構成要素に分けて解析した後、全体を統合するというプロセスを経て、考察を進めていく。

II.要素の解析

 状況設定についてはすでにいろいろ言われているが、あらためて整理してみる。
 セカンドインパクトは、大きな喪失体験、外傷体験を示している。
 第三新東京市は、多重の装甲板と防衛システムに守られた、本体は地下にある偽りの街である。これは強い防衛と、空虚を内包した精神の象徴である。明らかに上記の外傷体験による過剰な防衛である。
 この状況設定から、この物語のテーマは空虚・孤独とそこからの解放と、ダイレクトに読み取ることができる。

次に、主要登場人物について見てみる。

1.使者 〜進化し、自己に迫る他者

 この物語の中の使者は、シンジの自己の鏡像であるところの他者(想像的他者)である。人間の精神の発達過程において、他者は自己と対になって形成されていく。いろいろな物語で何かと戦うのは、自己の形成過程を表している。
 一般に、他人をありのままに認識するのはかなり難しいことで、誰でも多かれ少なかれ認知に歪みが生じる。これが、先入観や思いこみと言われるものである。思いこみの壁は、相手が見えないほど不安・恐怖感によって高く、歪む。それは使徒の異形さに表れている。
 使者は物語が進むに従って、虫や動物から徐々に人間の形・機能に近づき、最後は主人公と相同の人間となって出現する。これは、心理検査のロールシャッハテストで言うと、精神の統合度が上がり、形態水準が高まってきていることに相当する。精神療法では、わけのわからない不安や恐怖感が、内省・洞察を経て、言語化に至る過程である。しかし、使者の順調な進化に対応するほどには主人公らは成長せず、乖離が生じている。何かが妨げているのだが、それについては後で述べる。

2.シンジ 〜現実を直視する課題

 シンジの問題は、傷つくのがこわくて「逃げている」ことである。だから、戦う、直面するのがシンジの課題である。ここまでは、すでに意識化されている。しかし、戦う相手は使徒ではなく自分の心であり、直面すべきは父に愛されていない現実である。父を憎いと言いながらも認められたがっているが、実際父が自分を愛していないことも知っている。
 愛する、愛さないはゲンドウの手の内にあり、シンジにはそれはどうすることもできない。この時点では、責任の所在は父にある。「悪いのは父で、自分ではない」。しかし、責任が自分にない限りでは、自分自身を生きることができない。シンジが「僕は僕でいいんだ」と言うためには、父の欲望のくびきから逃れ、父に愛されなくても存在しうる自分を発見する事が必要不可欠である。第18話で、トウジの乗った使徒と闘うことをシンジが拒否したのがこれにあたるが、この時はまだシンジにはその力はなく、父に圧倒されている。
 しかし、続く第19話『男の闘い』のシンジには、質的な転換が見られる。「父に操られるくらいならエヴァに乗らない」という消極的な決断から、「一緒に戦う仲間のためエヴァに乗る」という積極的な決断に、一歩踏み込んでいる。ここでは、父-子の垂直の関係だけだったのが、仲間という水平の関係が育ってきていることを意味している。主体的存在、自律的存在たるための準備段階である。

3.カヲル 〜ナルシシズム、そして未来への鍵

 カヲルは、自信があること、人を好きになれること、自分の行動に納得していること等において、シンジの完全な影である。影というのは、生きられていない可能性を指す。完全な影が出現するのは、それに対峙する準備ができた時である。そしてまた、カヲルはナルシシズムの体現でもある。

 ナルシシズムは、生きるためには必要なものである。誰でも、自分が嫌いなまま生きていくのはあまりに苦しい。依存欲求は一度は満たされることが、精神的成長には不可欠である。「やおい」や「おたく」も、ナルシシズムを満たそうとする試みである。ただし十分に満たされるには、「他者」という契機が必要である。カヲルに会う時点までのシンジのナルシシズムは、まだ未成熟だった。
 「傷つくのが怖い=他人が怖い」と、「自分が嫌い」は、裏表である。自分が嫌いな人は、他人を好きになれるはずもなく、他人は自分を傷つける怖い存在であり続ける。そう思っている人は当然、他人からも好かれにくい。しかし全く好かれないかと言うと、そうでもないところがミソである。閉じこもっている魂の奥の「愛されたい」という叫びを聴き取る人も、ちゃんといるから世の中は面白い。
 その叫びはこの物語の中では、カヲルという影の形で現れた。カヲルに好かれることで、シンジのナルシシズムは多少なりとも満たされた。カヲルに好かれることで、「父に好かれていない→自分には生きる価値がない」から「影(自分自身)に好かれている→自分には生きる価値がある」へとパラダイムが転回し、シンジには父の呪縛を断ち切る力が得られたはずである。

 カヲルの「さあ、僕を消してくれ、君たちには未来が必要だ」という問いに対し、二者択一でなく共存という第三の答えを選ぶことで、シンジはそれまでの他者を否定し自分に閉じこもる生き方ではなく、他者に開かれた新しいあり方をつかみ取ることができたはずだった。「君を殺したくない、でも僕も死にたくない、だから一緒に生きよう」と叫ぶことも、できたはずである。「そもそも、なんで僕らは戦わなくちゃいけないんだ」と、問わなければいけなかったのに。
 ここがこの物語の起承転結の転が起こるべき場所、すなわち臨界点だった。しかし、カヲルを殺すという答えは、今までの他人に怯えるあり方の延長でしかない。ここで物語は完全に舵を失ってしまった。出口の扉の鍵を、自ら投げ捨てたのである。

4.レイ〜 内省、決断そしてヒトへ

出口が塞がれたところで、この物語のもう一つの特異点、レイに目を向けてみよう。

 レイは自分がユイのコピーであること、ゲンドウは自分ではなくユイを愛していること、自分はゲンドウにとってその手段に過ぎないことを知っている。だから寂しい。
 レイは第23話『涙』で自分が寂しいのを認め、シンジすなわちゲンドウ以外の他者と一緒になりたい気持ちを言語化し、涙を流し(抑圧の解放)、自分の運命を自分で決定する。たとえそれが死を意味するものでも、その時点で彼女は人形であることを自らやめたのである。これは、3人目のレイにも引き継がれる。

 レイはユイのイコンでもある。イコンとは写しのことで、写真や絵、コピー、アイコンなどを指す。その特徴の一つに分割可能性(全体または部分を複写できること)があり、だからこそレイは何人もいた。リツコによって分身を消去され、ただ一人残ったレイは、その時点で何かの写しであることをやめ、初めて個、世界にたった一人しかいない人間(記号論の固有名、現存在分析の世界内存在)になった。リツコの行動は、レイの内的な変化とは無関係だが、物語の必然である。

 レイの成長は著しい。ゲンドウが全てだったレイが、シンジにも心を開きかけている。第23話の時点では、レイにとってシンジはなおゲンドウから十分分離してはいないが、その方向に動き始めている。この物語の中で、最も未来に開く可能性のあるのがレイである。レイはこの物語の停滞のくびきからはずれている。
 庵野氏は、レイには全く思い入れがないと言っている(文献1)。なぜそんなキャラクターを登場させたのだろう。物語がレイを必要とした、すなわち物語の要請だとすれば、レイは物語が庵野氏に出した問いと考えることもできる。それが、レイが停滞からはずれている理由かもしれない。

5.ゲンドウ 〜物語の頂点、唯一の父

 アダムは、ゲンドウである。この物語に父は二人必要ない。
 ゲンドウは、この物語の頂点に立ち全てを見通す神の位置にいるように見える。その点では作者、庵野氏に最も近い。
 庵野氏は、ゲンドウに触れる気はないようである。作品を通してゲンドウは精神的危機を迎えていない。自分はあくまで安全な場所にいたいかのように。
 しかし、第19話だけは別である。エヴァ初号機=ユイに、シンジ以外の者の搭乗を拒否された時は動揺している。「私を拒絶するつもりか」と、ユイが夫としての自分より息子を愛しているのを思い知らされる。本当のところはユイは、夫も同じように愛していると考えられるが、この時のゲンドウの動揺は激しい。これは、ユイとの関係がゲンドウのテーマであることを示している。
 ゲンドウがこの物語の要である。それについては、改めて次の章で述べる。

III.自立ではなく、依存

以上を踏まえて、物語全体を振り返ってみる。

1.父に愛されたい、しかし愛されていない

 『エヴァ』全編を通して見ると、登場人物はみんな似たり寄ったりで、「認められないと自分には価値がない」「自分は愛されていない」という同じ悩みを繰り返している。佐藤悠矢氏の『エヴァ』は少女漫画であるとの指摘(文献2)は、このことを指している。
 彼らの精神状態を精神療法の過程に照らし合わせてみると、一見一所懸命悩んであるように見えても、表層的な悩みに終始し、内省は深まらず堂々めぐりで、洞察に至る兆しが見えて来ない。何かがブレーキをかけており、精神分析ではそれを抵抗と呼ぶ。あるいは、登場人物はそれを望んでいないと言い換えることもできる。では登場人物の望みは何か。登場人物の欲望は自立ではなく、父に愛されることである。
 自立とは、他者(この場合は父)に依存せず、自分が自分を認めることである。この物語の構造は、そこに向かっていた。そして、そこに至る最も現実的な答えは、父に愛されていないという事実を受け入れることである。それが父殺しの意味である。しかし、この物語の中では誰もそれを望んでいない。父に愛されたい。しかし、父が愛しているのはユイただ一人である。みんなそのことを知っているが、愛されていないことを認めたくない。その葛藤から抜け出せず、絶望していく。

2.母の愛と父の執着

 しかし、「母に愛されたい」がないのはなぜか? そもそもなぜ「父に愛されたい」なのか? なぜそこが出発点なのか?

 母=ユイは不在だが、夫も息子もまんべんなく愛している。ゲンドウのことを「かわいい」と言ってのけるユイは、ただ者ではない。ユイは前記の、孤独な魂の叫びを聴き取れる人なのだろう。ユイは全てを受容する理想の母親である。ユイに愛されていることはこの物語の前提条件だから、「母に愛されたい」が問われないと思われる。
 また、もし物語の中にユイが存在していたら、人類補完計画はなく、碇家は幸せで、『エヴァ』はいわゆるロボットアニメになるだろう。だからユイは不在でなければならないのである。

 「父に愛されたい」は、「父に愛されていない」の裏返しである。ゲンドウがユイ以外の者を愛そうとしないことが、他の者の依存、執着を呼び起こしていると考えられる。必要なものが得られない時、人は飢える。特に子供は、分が悪い。親の問題が子どもに引き継がれるのは、珍しいことではない。

3.飢えた魂

 自立を望んでいないのは、ゲンドウ自身も例外ではない。先に述べたように、ゲンドウが愛したのはユイ一人だけである。もちろん息子を愛していないわけではないだろう。第12話での「よくやったな、シンジ」の声は、優しかった。
 それにしてもゲンドウのユイへの執着は、尋常ではない。ユイはすでに失われており、エヴァとレイはそのイコンに過ぎない。しかしゲンドウはそれを認めようとしない。ゲンドウには、ユイが必要なのである。人類補完計画は、ゲンドウが自分の心の欠損を補完する試みである。
 この物語は、失われたユイを取り戻したいという彼の欲望を核としている。登場人物の示す感情の中で、彼の欲望がぬきんでて強い。この物語の中で、最も心を閉ざしていて孤独なのはゲンドウである。
 ゲンドウは、何故ユイしか愛していないのか。すでに失ってしまったものを取り戻す試みは、空しい。残された者にできるのは、ただ失ってしまったことを認めることだけである。しかしゲンドウはかたくなにユイのいない世界を拒絶している。認めたくない現実を無意識レベルで無視することを、心理学では否認という。
 他の登場人物は自分が愛されていないのを薄々知ってはいるが認めようとはしない。これは不完全だがやはり否認のメカニズムが働いていると言える。前節で述べたように、それらは全てゲンドウの否認から派生したものである。他の登場人物は全てゲンドウのイコンで、『エヴァ』にはゲンドウ一人しかいない。

IV.出口を求めて

 シンジの自立の話をしていたら、ゲンドウの孤独と否認に行き着いてしまった。
 これは、主人公らが心の欠損を埋めようとする空しい試みの話である。しかし物語は停滞する。願いは満たされず、誰も解放されないうちにTVシリーズは終わる。

 佐藤健志氏は『エヴァ』の主題を「自閉からの解放に見せかけた自閉の自己肯定」と語っている(文献3)。この指摘は、上に述べてきた理由から、正しいと思う。最終話の肩すかしは、直面化を避けた結果である。戦いを回避した結論は、リアリティを持たない。カヲルを殺した時点で、物語は出口を失った。最終2話が物語を逸脱したのは、時間がなくてではなく、必然的帰結である。庵野氏が物語の流れを曲げてまで否認を貫くなら、貫くだけの理由があるはずである。庵野氏にとっては、物語よりももっと大事なことがあったようだ。
 結局この作品の核心は、「物語」ではなかった。野火ノビタ氏は物語を「語り手と受け手のもの」と言っているが(文献4)、ここでは物語自身のため、と言いたい。物語のために、シンジのために、そしてゲンドウのために、残念である。

 本来ならここで「『エヴァ』の核心が物語ではないなら何か」を問わねばならないが、本論の枠組みを大きく越えてしまうのでここで筆を置く。

 もちろん、庵野氏が全力でやっていることには疑いはない。TVアニメーションは集団作業であり、いいものを作ろうというスタッフ達の熱意がないと、質の高い作品は生まれない。物語の点はともかく、これだけ気合いの入った作品は少なく、体力と気力の全てを使って本気で打ち込まなければできないものである。
 この文章を書いている6月末の時点で、制作スタッフは残る全ての力を振り絞って映画の完成を目指しているはずである。いいものを作って下さい。夏に期待。

参考文献

(1)隔月刊『QuickJapan』vol.10、太田出版、1996
(2)森川嘉一郎編『エヴァンゲリオンスタイル』(P80-P87)、第三書館、1997
(3)月刊『STUDIOVOICE』(P38-P39)、1997年3月号、インファス
(4)野火ノビタ『子供達を責めないで』(P37-P47)、月光盗賊、1997


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