美味しんぼ第18巻「生肉勝負」
猫好きの小泉局長は菱田という人から純粋の日本猫を譲ってもらえないか交渉する。つきあいで菱田の家に行く山岡。「お願いです。この子猫を一匹私に譲ってください」「それはできません」「私はなんとしてもこの日本猫を育ててみたいのです」「小泉さん。猫を飼うのは新聞を作るみたいに簡単にはいかないんですよ。猫の体のすみずみに気を配ってやらなくちゃならいの。五年か十年つきあって信用できる人とわかったら考えさえてもらいましょう」五年か十年と聞いてがっくり落ち込む小泉。
菱田の妻はお茶を用意する。「家内はジャム造りが得意でね。これは全部家内の特製ジャムです」「こんなに何種類も。イチゴ、リンゴ、マーマレイド、ブラック・ベリー」「主人はマーマレイドが大好きなのよ」「このオレンジの香りがたまらない」このマーマレイドはどんな材料を使ったのか、と聞く山岡。「オレンジよ」「アメリカから輸入したオレンジですね。あなたたちは猫ちゃんには随分気を使っているようですが、人間には全然使っていないようですね」
「え」「このマーマレイドは毒薬同然ですよ。こんなものをお客に出しやがって」あまりの暴言にむっとする菱田夫妻。「言葉が過ぎました。でも俺は日本人があまりに輸入食品の安全性に無関心なのでイライラしているんです」「安全性?」「アメリカから輸入した柑橘類は全て防カビ剤OPPや殺虫剤TBZにまみれています。OPPは強力な発ガン性を持っているんです」
「OPPは皮だけでなく果肉にもしみ込んでいるから、アメリカから輸入している柑橘類は絶対に食べてはいけない。ましてやOPPや殺虫剤のたっぷりついている皮を食べるなんてとんでもない」「マーマレードはまさにその皮を食べているんじゃないか」「実は最近までOPPだけでなくEDBという強力な発がん性を持つ殺虫剤をアメリカは日本向けの柑橘類に塗っていやがったんです。それはアメリカ国内で使用禁止になっています」
「ひどいわ。自分の国では禁止しながら日本人には使うなんて」「最近になってアメリカ国内の作業員の健康問題を考えてEDBを使わないようにすると言い出した」「日本人のことなど考えてないのね」「アメリカは柑橘類に熱を加え中心温度を40度から50度にすることにして虫を殺したという」「熱を加えたら栄養はどうなるのよ」「そんなに熱をくわえたら余計にカビが生えやすくなるのじゃないかね。すると防カビ剤も余計に使うことになるぞ」
「なんという危険な食べ物を我々は与えられているんだ」と怒る菱田。付け加える山岡。「日本政府はアメリカの圧力に屈して、アメリカからの柑橘類の輸入を増やすそうですよ」山岡は安全で美味しいマーマレイドつくりを教えましょう、と菱田夫妻を伊豆の湯ヶ島に連れて行く。そして時期はずれの夏みかんをゲットする。「でもよく残っていたわね」「果物を全部取ってしまわずにわざと2、3個残しておくのを木守りと言うんだよ」
そして山岡は夏みかんのマーマレードを作る。「色はオレンジのマーマメイドに比べると淡いわね」「オレンジのマーマレイドに比べて香りが優しいね。苦味がさわやかだし、舌触りもずっといい」「それはね、夏みかんの方が皮が厚いからですよ。白い柔らかい部分もずっと厚いでしょう。厚くて柔らかい方が出来上がりは上々だよ」「防カビ剤も農薬もついてないしね」美味しいマーマレイドを造ってくれたお礼に菱田は小泉に子猫を譲るのであった。
落語家の快楽亭ブラックが山岡を訪ねてくる。「実は国際目玉焼き会議の次の総会があるんでゲスが、拙が新しい目玉焼きの食べ方を発表することになったんでゲス。それで山岡さんの知恵を拝借しようと思いまして」そして一同は鰻丼を食べにいくことになる。「しかし鰻はうまいでゲスな。日本に来た頃はちょっと気持ち悪かったんですが」鰻は鰻丼に限る、と力説する富井副部長。
「丼のほうがご飯が厚く盛られていて熱いから鰻もアツアツのまま食べられる。ご飯と鰻が別になっているのは上品っぽいけど味は寂しいよね」「ふうむ。丼とは日本独特のものでゲスね。丼みたいに大ぶりの容器にご飯をよそおってその上に何か乗せて食べるなんて、ほかの国で聞いたことがありやせん」「本当だ。米をたくさん食べる国はあるけどね。皿に飯を盛ってその上に肉や野菜を調理したのを乗せて食べるというのは、東南アジアで見かけるけどね」
雑誌の編集者をやってるブラックの友人は日本を紹介する記事を考えていた。「今、ひらめいいたんですが、丼物がいいんじゃないかと」「丼を通じて日本人の心を知ろうという訳ね」そして編集者のアーサーがやってくる。天丼を食べに行く一同。「天ぷらはもともと西洋から伝わった料理というけれど、たっぷりの油の中で揚げる料理の中でこれほど高度に洗練されたものは今の西洋料理では見当たらないね」
「天ぷらで大事なのは衣をカラリと中味はジューシーに保つことなんだ。天丼にする場合は天ぷらをそのまま食べるより衣を少し厚めにした方が美味いね。天丼は衣が大事だからね。天ぷらにつけるツユより天丼の方がタレの味が濃い。特に関東の天ぷらは胡麻油を使う上に天丼のタレの味が甘辛いと関西の人間はバカにするが、このくどさも病みつきになるとたまらないね。天ぷらは単純だけど素晴らしい料理法だ。衣をつけるから中身のうまさや栄養分が逃げないんだ」納得するアーサー。
今度は親子丼を食べに岡星に行く一同。「一口大に切った鳥肉を酒とみりんと醤油で煮る。俺は鳥肉だけのほうが好きだが、好みで長ネギや玉ねぎを入れる人もいるね。鳥肉が煮えたらその上に溶き卵を流す。あとは卵の頃合を見て、飯の上に乗せるだけ。この三つ葉を忘れないでもらいたい。三つ葉がなければ親子丼を作るな、と言いたいくらいだぜ。卵が柔らかいのが好きな人はすぐにフタをとる。少し固めが好きな人はしばらくフタをしておく。煮るのにあまり時間をかけないのがコツだね」納得するアーサー。
今度は鉄火丼を食べに寿司ともに行く一同。「鉄火丼というとマグロの刺身をそのまま飯の上に乗せるとことが多いけど、飯に乗せるならヅケの方が美味いと思う」「マグロの刺身をお醤油で漬けたものね」「ただ、余り長い時間は漬けておかないようにする必要がある」「山岡さん。ビックリ鉄火にしますか」「うん。それいこ」そして二段重ねの鉄火丼が出される。感心するアーサー。「丼の器は日本という国。ライスの上に外国のものを乗せてしまえば、外国の文化が日本の文化に変わるわけです」「拙もそう思いやす。日本の文化は他国の文化を取り入れてそれを独自の文化に作りかえてきた。そこが丼物とそっくりでゲス」そして山岡はブラックが国際目玉焼き会議の次の総会で新しい目玉焼きの食べ方を発表することになったことを聞き、新しい目玉焼き料理を思いつく。
社員食堂にブラックを連れて行く山岡。「山岡さんが目玉焼きの新しい食べ方を拙に教えてくれるんでゲスよ」サニーサイドアップの目玉焼きを作る山岡。「弱火で白身が固まり、黄身が半熟になるまで待つ。前もってお湯につけて暖めてあった丼を取り出して、炊き上がった熱々のご飯をよそって、目玉焼きをその上に乗せる。目玉焼き丼です」「これだけでゲスか。肉とかネギとか薬味もなしで」
「なにもなし。黄身をつぶして白身の上に広げて醤油をかけるだけ」バカうま、と喜ぶブラック。「黄身が温まって香ばしい香りがたって。味もこってりして」「それは黄身に熱が加わって味が強くなったからだよ。スクランブルドエッグのように焼く前から黄身と白身を混ぜてしまうより、こうして焼いたあとで白身に半熟の黄身をまぶして食べるほうが味の純度と鮮やかさが数段上だね」
そしてアーサーはイタリア人のフリーライターのアンナを連れてくる。アンナは日本文化は丼文化でなく、海苔巻文化であると主張する。「丼物はご飯の上に何かを乗せる。これは消極的な姿勢である。海苔巻の方は自分の方から何かを巻く。積極的な姿勢である。日本は消極的に外国の文化を与えられたのでなく、自分の方から他国の文化を巻き取りに来たのである」しかしアーサーは丼物に比べて海苔巻は感動が少ないと言う。
「アーサーは海苔巻は閉鎖的と言うのです。そこで山岡さん、最高の海苔巻をアーサーに紹介して、日本文化海苔巻論を認めさせてください」寿司ともにアーサーとアンナを連れて行く山岡。まず鉄火丼が出される。そして寿司巻きを使った海苔巻が出される。「最近はやたらと手巻きがはやっているけど、やはり寿司巻きを使ってもらいたいね。手巻きでは一口では食いきれないから途中で噛み切らなければならない。ところが飯がしっかりとまとまっていないの上に海苔の歯切れが悪いと往生する。形は崩れる。飯は後ろからはみだしてしまう」
「第一寿司というのは飯は硬すぎずゆるすぎず丁度良い具合に形を作るから美味いのであって手巻きじゃ飯のまとまりがゆる過ぎる。海苔巻は一口ずつ口に放り込めてこそ、海苔と飯と具の美味さが同時に味わえるんだ」鉄火巻きが出される。「鉄火丼より味が凝縮した感じね」次は太巻きが出される。「デンブは鯛の身を使って作ったものです。そして厚焼き卵はエビのすり身を加えてふっくらと焼き上げるんです」その美味しさにうなるアーサー。「シイタケにしみ込んだ甘辛いツユの味がかぶさって、ゆがいだ三つ葉の苦味が全体を引き締める」
そしてカンピョウ巻きが。「いつ食べても飽きない味ね。優しい味だわ」うなるアーサー。アナゴとキュウリのアナキュウ巻きが。「アナゴのこってりした味とキュウリの鮮やかな味がいいわ」「赤貝のヒモとキュウリを巻きました」「甘味ののった大根をじっくり干して無農薬無除草剤で米のヌカにつけて作った本物の沢庵を巻きました」あまりの巻物の美味しさに目を白黒するアーサー。
「よし、究極の海苔巻だ」一口食べたアーサーはヒイとうなる。「わさび巻きだ。本来薬味であるわさびを主役の具にしてそれだけを巻く。これは寿司屋泣かせの究極の海苔巻。海苔も寿司飯もワサビも最上のものでなければ駄目だ。しかしその味は」「ダイナマイトと言わざるを得ません」日本は海苔巻文化であることを認めざるを得ないアーサーであった。
「犀」という店に行く山岡たち。その店を経営する森口は金沢出身の男で、金沢独特の料理を得意としていた。「あら。これなに。グロテスク」「ゴリの甘露煮です」「へえ。私初めて。ゴリは金沢近辺が有名よね」「はい。以前は金沢市内を流れる犀川と浅野川で獲れたんですが、最近市内ではめっきり取れなくなってきました」そして店に一人の女が現れる。「くに子さん」「直さん。探したわ」
「直さん。お願いだから店に帰ってきて。今、お店は大変なの。大旦那はあの通りだし、精さんまで」「清次がどうした」「交通事故にあってしまったの。腰の骨を折って三ヶ月調理場に立てません。直さん、「金茶会」のこと忘れてないでしょうね。今年ももうすぐ「金茶会」の日は来るんです」「帰って旦那に伝えてくれ。俺を裏切っておいて困ったから助けろなんて虫が良すぎるって」「直さん、それだけの腕になったのは誰のおかげなの」「帰れ。帰ってくれ」
山岡たちはくに子から事情を聞く。「金沢の料亭「前田屋」は由緒ある料亭で、直さんはそこで一番腕の立つ板前でした。それが昨年店を出たんです」「どうしてなの」「「前田屋」にはお嬢様がいらして大旦那さんは直さんと結婚して跡取にしようとおっしゃたんですが、去年お嬢様は直さんの弟弟子の清次さんと結婚を」「それでさっき森口さんが約束を破ったといったわけがわかったわ」
「金沢は昔から茶道が盛んで中でも「金茶会」は格式が高く、いつもその茶会の料理は「前田屋」が引き受けることになっています。ところが大旦那は三年前から右半身が不自由で調理場に立てませんし、若旦那の清次さんまで」山岡は森口に話をする。「金沢に帰る気はないのかい」「ないです」「要するにアンタは女に振られ、故郷から逃げ出したんだ」「いいんです。その通りなんですから」「理由はなんなんだ」
「それは私が不細工な顔をしてるからです。それにひきかえ清次は大変な美男子で」あっはっは、と笑う山岡。「森口さん。あんた俳優かモデルで身を立てる気なのかい」「え。決まってるでしょう。私は料理人ですよ」「料理の腕が劣るからってんで、そのお嬢さんがあんたを見限ったんなら嘆くがいいや。だけど変な顔してるからって見限られたとして料理人として何を嘆くんだよ」
山岡の言葉でふっきれる森口。「私は何をつまらないことを気にしていたんだろう。今日、金沢からゴリのいい奴がはいったんです。是非召し上がってください」ゴリの刺身を作る森口。「まあ綺麗。あの姿から想像できないわ」「さあ、ゴリの骨酒です。焼いたゴリを並べて熱燗の酒を注ぎます」「ううむ。イワナの骨酒と違った風味で、実になんとも野趣横溢」「ゴリの白味噌仕立てです」「わあ、なんて上品な味なの」
ゴリと森口は似てるねえ、と毒舌を吐く山岡。「だけどゴリは体中から旨味を振り絞ってこの椀を最高に美味しいものに仕上げてるじゃないか。偉いねえ。ゴリは」「山岡さん、私もゴリのような料理人になりますよ。全身全霊を振り絞って美味いものを作ります」「そうこなくちゃ」金沢に行って精次を指導する森口。「いいか、ゴリの白味噌仕立ての場合、ゴリは泥臭さを抑えるために酒ゆでし、さらにアクを抜き、細かく針のように刻んだごぼうを少しだけ加えるんだ。そしてゴリとゴボウはあらかじめ椀に盛っておく。ダシはとらず、ゴリ自身の旨味と白味噌の旨味で勝負するんだ。いいな」「へい」
そしてくに子は森口にプロポーズをする決意を固める。「よっぽどあの男に惚れたんだな」「見てくれより、中味のうまさに惚れたのさ」