弘兼憲史「課長 島耕作(14)」

 

STEP161

「島課長はタイは初めてですか」「うん。君は何度か来ていると言ってたな」「ええ、これから行くジェフの別荘には私がアメリカに留学していた時に、何度か連れて行ってもらいました」

(バンコクの市内を流れるチャオプラヤ川から運河を使ってトンブリ地区に入ると、そこは水上生活者のエリアだ。お世辞にもキレイと言えないいわゆる垂れ流しの運河だが、ここに住む人たちは運河の水を生活用水として使っている。何ともたくましい限りだ。マーケットもあり、そこは東南アジア特有の活気がみなぎっている)

(運河にはいろいろな船がいて、スピード違反の水上タクシーがひっきりなしに通過し、油断をしてると、運河の水を頭から浴びせられたりする)「キャアアア。うわあ、ビチャビチャ」「畜生、なんて奴だ。わざと水をかけたな」(しかし、慣れとは恐ろしいもので、そのうち匂いも気にならなくなり、周りの景色と心地よい揺れを楽しんでいた。運河をさかのぼっていくと、民家が少なくなっていく)「着いたわ。あれはジェフの別荘よ」

エドワード・コナーはハリウッドナンバーワンのプロデューサーだと島に言うジェフ。「しかし、彼を口説くにはかなり金がかかりますよ。金食い虫と言う仇名がついているくらいだ」「承知してます」「それにかなりの変わり者だ。その辺も覚悟してほしい」「わかりました。それで彼はどこにいるのですか」

「パタヤビーチのホテルにいます。マスコミには一切知らされていない」「会えますか」「昨夜、電話で話をつけておきました。今からここをたてば、夕方にはパタヤに着くことができます。私の車がありますから、それで行きましょう」

運転手を島と鏡に紹介するジェフ。「私がタイに滞在している間、雇った運転手でソーチャムと言う男だ」「あら、この人」「なんだ。知ってるのか」「いえ、ちょっと。何でもありません」「ハハハ。彼は無口な男でしてな。私がチャーターした船の船頭もやってもらってるんだ」

(バンコクからパタヤまで150キロ。まっすぐ南へ向かう道路の両サイドには、様々な日本企業の工場が見える)「島課長。あそこにハツシバの工場が」「うん。だけど今回は素通りだ。コスモス関連の仕事は工場とは関係ないからな」「ソーチャム。腹減ったな。その先のレストランに停めてくれ」「はい」

レストランに入る島たち。「島さん、辛いものは大丈夫ですか。ここは一般の人たち向けの店ですが」「ええ、まあ」「セルフサービスになってますから、自分が欲しいものの前で、直接金を払って買ってください。じゃあ、あとで」「あ」(なんだよ。何食えばいいんだ)「ソーチャム。よくわからないから選んでほしい。できるだけ辛くないメニューをね」(ソーチャムが選んだのは、トムヤンクンと言うスープと、ソンタムという青パパイヤのサラダだった。後で知ったのだが、タイ料理で一番辛いメニューだ)「うわあ。辛いじゃないか。コレ」(どうやらソーチャムは俺が嫌いらしい)

(パタヤは東洋のリビエラと呼ばれるタイ最大のリゾート地で、白い砂のビーチが4キロにも渡って緩いカーブを描いて続いている。ビーチに沿って高級ホテルが立ち並び、世界各国から年間100万人を超える観光右脚が押し寄せると言う。ワイキキよりは白人の数が多くインターナショナルな雰囲気だ。ベトナム戦争の時の米兵の保養地として発展したところで、仏教の国タイと言うオリエンタルなムードとはおよそかけ離れたアメリカナイズされた観光地だ)

「それでは部屋を取ります。ホプキンスさんと鏡君は一緒の部屋でいいですね」「ああ」「私とソーチャムはそれぞれ一人用の部屋で」「ハハハ、島さん、ソーチャムはいいよ。彼らはこういうところに絶対泊らない。「じゃあ、ソーチャムはどこに寝泊まりするんですか」「さあね。その辺でごろ寝するんじゃないか。ここは南国だ。あるいは私のベンツの中とか」

「それじゃ彼が可哀想です。どうせハツシバの経費で払いますから、彼にも部屋をとってあげましょう」「島さん。彼らは外国の観光客と自分たちの立場をわきまえている。こういうところは彼らだって来たくないでしょう。その分、彼に少しのお金をやってください。後はとうするか自分で決めるでしょう。私はいつもタイに来ると彼を雇うが、ずっとそうやってきた。今後のことも考えて、このやり方を変えないで欲しい」「わかりました」

 

STEP162

コナーは彼の泊っているホテルのプールサイドで待っていると島に教えるジェフ。「あなたを紹介したら、私とハルミはラン島に遊びに行きます。あとはご自分で交渉してください」「わかりました」

コナーと交渉する島。「あなたのお持ちになっておられる会社、コナーズ・ファクトリーを当方で買い取らせていただきたいと思います。次にあなたの会社がパシフィック映画と結んでおられる全契約を解消するために必要な費用を全額うちで持ちます」「……」「今すぐ契約に応じてくれるなら、4億ドル出します。更にあなたをコスモス映画の副社長として、破格の待遇で迎え入れます」

条件は申し分ないと言うコナー。「しかし、こうすんなり話をまとめられると拒絶したくなる。ではこっちから条件を出そう。この条件を満たすなら3億5千万ドルでOKだ」「どういう条件ですか」「セカンドロードにウインザーキャバレーと言うケイシアターがある。そこのナンバーワンはスワンと言う踊り子だ。そのスワンと明日1日、デートの約束をとってほしい。これがダメなら今回の話がお流れだ」

(夜になるとパタヤは豹変する。白人と東洋人、そして女とゲイボーイの入り混じったインターナショナルな一大歓楽街となるのだ。特筆すべきはパタヤには大勢のゲイボーイがいることだ。20年前は、この地は王室のヨットクラブがあるだけのひなびた村だったが、ベトナム戦争で米軍が保養地として使うようになり、一気にアメリカンスタイルの歓楽街が出来上がった)

(それと同時にホモセクシャルの世界も流れ込んで来た。欧米人から見れば、東洋人の男は体格も女性サイズに近いので、ゲイの対象と見られるのだ。フィリピンにゲイが多いのも同じ理由によるものと聞いた。とにかく夜のパタヤは車の渋滞と雑踏と猥雑さと危険な香りのカオス状態で、街全体が大盛り上がり大会の不夜城と言った感じだ)

(コナーの言うゲイシアター、ウインザーキャバレーはセカンドロードに面して建っていた。ゲイシアターと言っても新宿や六本木に見かける艶笑パフォーマンスの小規模な舞台ではなくて、映画館のような大劇場だ。そこへ台湾や韓国の団体客がバスを連ねてドッとやってくる。ワンドリンクがついて、300バーツ前後、1時間半のステージだが、華やかであるが、その内容は退屈の一言に尽きる)

係にチップを渡してスワンと会う島。(なるほど、こりゃ美形だ。コナーが夢中になるのも無理はない)明日は先約があると言うスワン。「今晩からある人とデートする約束をしてるわ」「お金で解決できるものなら、こちらはその人の10倍出そう。何とかならないか」「そうねえ。でも相手は周玉載よ。あなたが話をつけてくれるならOKだわ」

まずいよと島に言うソーチャム。「周玉載はパタヤを仕切っている裏の世界のボスだ」「え」「2時間後にファラタムナックの丘で待ち合わせしてるの。どうする?」

 

STEP163

周玉載は2メートルを越える大男でいつも用心棒に囲まれていると島に話すスワン。「彼に逆らう者はまずいないわ。命が惜しいからよ」「絶望的だな」「ミスター島。どうするのか」「どうするって、スワンとの今晩のデートをやめてもらうように頼むしかないだろう」「あの男、気が短いからね。あまり変なこと言うと殺されるわよ」

用心棒とともに現れた周玉載を見て、怖気づく島。「ダメだ、ソーチャム。やっぱり俺はやめる」「ハハハ、ミスター島、それがいい。後は俺に任せてくれ」「え」「この場に日本人のあんたがいるとややこしい。見つからないように車の中で待っていてくれ」

(なんだかわからないが。確かに俺がここにいない方がいいような気がする。ソーチャムが何かタイ語でしきりに喋りかけてるのが見える。何を言ってるんだ。え。泣いている。何が起こっているのか皆目見当がつかない。しばらくして周玉載たちは帰って行った)

大成功と言うスワン。「ソーチャムは演技派ね。大したもんだわ。突然、私の兄になりきったの」「どういうことだ」「バンコクに住む私の父親が危篤で、明日まで命が持つかわからない。それで私の兄のソーチャムが迎えに来た。こういう筋書きなの」「なるほど。それで泣いて訴えたわけか」「それで、私は明日どこに行けばいいの」「ソーチャムが車で迎えに行く」(ソーチャムのおかげで全てうまく運んだ)

(コナーとスワンのデートはパタヤから南へ15キロほど下ったレジャーランドと言うことになった。このレジャーランドは夜のパタヤと対照的に実に健全なムードだ。広大な敷地の中には熱帯植物園や野外動物園があり、民俗舞踊ショーやエレファントショーなどが行われており、家族連れの行楽客も多い。それにしても遅い。ソーチャム、何をしているんだ。まさか、スワンのヤツ、気が変わったんじゃ。コナーもいらついてきてるじゃないか。まずい雰囲気だ)

「ミスター島。スワンはどうした」「いや。もう少し」「あと5分で私は帰る」「まもなく来ると。うわああ」地響きを立てながら現れる象の上から挨拶するスワン。「初めまして。ミスター・コナー。スワンです」「やあ、スワン。君を待っていたんだ」象の鼻で抱えあげられるコナー。(見事な演出だ)「ソーチャム。凄いじゃないか、このアイデア、誰が考えたんだ」自分の頭を指で指すソーチャム。

 

STEP164

ジェフにうまくいったと電話する島。「交渉は成功です。あなたのおかげでうまくいきました。これからバンコクに戻り、今晩の飛行機で日本に戻ります」「わかった。私はハルミと一緒にロスに行く。バンコクへはソーチャムの車で行ってくれ」

ソーチャムに君のおかげで助かったと言う島。「君がいなかったら今回の交渉は失敗していた。私の気持ちとして君にお礼がしたい。少ないが、これを受け取ってくれ」「金はいらない。ホプキンスさんから十分貰ってます」「それじゃ私の気がすまない」「じゃ、バンコクについたら軽く晩飯でもおごってくれ」「わかった」

「ミスター島。左に見えるのがあんたの会社か」「そうだ」「ハツシバはいい会社だ」「ソーチャム。余計なおせっかいかも知れないが。ハツシバで働く気があるなら、そのようにすることも出来るが」「いや、いい。日本人は嫌いだ」「そうか」「……」「その理由を聞いていいか」「太平洋戦争の時、俺の爺さんは泰緬鉄道建設のため、日本人にこき使われた。そして、日本軍に殺された」「そうか」

バンコクにつき、ここからはトゥクトゥクに乗り換えてくれと言うソーチャム。「トゥクトゥク?」「3輪車のタクシーだ。俺はバンコクではトゥクトゥクの運転手をやっている」「おお。こいつはグレートだ」トゥクトゥクに乗って喜ぶ島。「いいな。ベンツよりこっちの方がずっといい」「ハハハ。あんたは変な日本人だ」

バンコク一の高級レストランにソーチャムを連れて行く島。「フランス料理は嫌いか。ソーチャム」「いや。食ったことがない」「じゃ、ちょうどいい機会だ。トライしてみろ」「あんた一人で食って来な。俺はここで待っている」「ダメだ。ソーチャムが来なければ、俺は食わない」「……」「ソーチャム。入るんだ」フランス料理を下品に食う島とソーチャム。

ドン・ムアン空港でソーチャムに別れを告げる島。「君には本当に世話になった。心からお礼を言いたい」「もし、バンコクへ来ることがあったら、俺をチャーターしてくれるか」「ああ。約束する」「じゃ、握手だ」握手する島とソーチャム。

 

STEP165

傑作だわと笑う典子。「木野会長が一般市民に混ざって普通に診察を受けるなんて」なぜ初芝病院を使わなかったんですと木野に聞く大泉。「うん。初芝病院だと、俺のことを異常に気を使ってな。本当のことを言ってくれない気がするんだ」「それで市井の人々に混ざって診察を受け、その結果が糖尿ですか」「そうだ。私の父方の家系が、みんな糖尿病で逝っている」「そうですか」「大泉君。あの件、そろそろじゃないかな」「そろそろですね」

中沢に切り出す木野。「君を初芝電産の社長に推薦しようと思う。引き受けてくれるか」「え。私を社長に?どういう意味か、判断しかねますが」「このことはずっと以前から私と大泉社長の頭の中にあったことだ。私も大泉君もそれぞれ持病がある。健康に自信が持てなくなったら、その時は引退する時だとかねてから思っていた」「……」

いろいろと考えたと言う大泉。「そして社長の椅子は君に禅譲するのが一番いいと言うことになったんだ。そのために君を性急に取締役にし、若手の社長誕生と言う思いきった人事に対して、周囲が納得するような大きな仕事を君に任せた。これからの初芝電産の命運を左右するコスモス買収と言う大仕事だ。その資格試験に君は見事に合格した」「申し訳ありません。私は不適格者だと思います」「一週間待つよ。一週間後にもう一度、君の考えを聞かせてくれ」

 

STEP166

木野と大泉に私には社長は無理ですと答える中沢。「初芝電産の社長と言った大役を演じきれる自信は私にはございません。私は現在36人という初芝電産の役員の中では末席の36番目に座っている者です。その人達の頭の上を飛び越して、いきなり社長の座に就いても、会社がうまくいくはずがないでしょう。第一、常識から外れています。こんなことをすればハツシバは世間の笑い者です。私は自分の力量を知ってるつもりですから、この際、お引き受けするわけにはまいりません」

「常識から外れている。そりゃ結構じゃないか。社長の椅子に座るのは、本来一番実力を持った人間であるべきだ。このままで行けば社内の最大派閥の親玉が社長に就任することになる。派閥を作る実力と仕事の実力は別物だぞ、中沢君」「会社は永田町じゃないんだ。数の力学ではなくて、非常識でかつ自由な人事が可能なんだ。それがハツシバにとっても一番素晴らしいことなんだ」

絶対引き受ける気はないと言う中沢。「今回のことはまさに青天の霹靂でした。今まで、そういう心の準備と言うか、心構えのようなものを一度も考えたことがなかったので、パニック状態です。このまま引き受けたりすると、重圧で私自身が潰れてしまいます。まことに申し訳ありませんが、この話はなかったことにしてください。失礼します」

うむと唸る木野。「こうなったら周りから攻めるしかないな」「生臭い副社長グループを除いた重役たちに根回ししておきましょう。労働組合の委員長からも説得させますか」「うん。それと島耕作君だ」

島を会長室に呼ぶ木野。「中沢喜一君を11月の取締役会で初芝電産第5代社長に推そうと思っている」「……」「ところが彼はこの申し出を固辞して、こっちとしても困っている。ここは何としてでも彼の右腕である君の力を借りたい。君から中沢君を説得してくれんか」「は、はい。喜んで」

 

STEP167

銀座のクラブで飲む福田と今野。「ところで福田常務。そろそろ中沢のヤツ、叩いとかんとツケあがりまっせ」「そやな。あいつはどうも目障りやや。どういう風の吹きまわしか知らんが、大した実績もないのに取締役になりおって。しかもラッキーなことにコスモス買収と言う誰もがやっても成功する仕事を任された。くそう、あのヤロー。おかげで社内外での評判がようなっとんのや。誰のおかげでここまで来れたんや。ホンマに」

「この辺で一発常務の方からヤキ入れとかなあきまへんで」「ふむ。そやな。何かええ方法があるか」「恰好のヤツがありまっせ。私が中沢部長の下でショウルーム課の課長をやっとった時のことですわ。ショウルームに来館した消費者に対するクレーム処理システムありましたやろ。あれ廃止されたんですわ。確か福田常務が以前に作りはったんちゃいますか」「そや。あれ、わしが販売助成部の部長時代に作った制度や。何で、中沢のヤロー、廃止したんや」「知りませんがな」「わかった。この際、上下関係をはっきりさせておいてやる」

中沢になぜ消費者の声の制度を廃止した理由を説明しろと言う福田。「それは廃止ではありません。改善したんです」「改善?偉そうな口を叩くんじゃない。わしが作った制度をお前がどうやって改善すると言うんや」「……」「まあええ。どう改善したんや」「はい、従来は各ショウルームの窓口に寄せられた苦情票が全部本社のショウルーム課に送り返されていました。それを本社ではなくて各事業部の担当者宛にショウルームから直接送るようにしんです」「なんでや」

「毎週物凄い数が送られてきて、本社のショウルーム課では物理的に処理しきれません」「アホか。何のための消費者相談センターや。消費者の声に謙虚に耳を傾ける。これこそメーカーのあるべき姿勢じゃないのか」「仰る通りです。しかし現実にわずか4人のショウルーム課でそういう作業が出来ますか。その仕事のために他の業務が出来なくなるのでは、これは問題です。クレームは我々が目を通すより、直接、製造を担当している部門の人間が見る方が理に適ってますし、遥かに有効です」

「ええか、中沢君。確かにショウルームは君の販売助成部の中の業務だ。しかし販売助成部を含めた営業本部長はこのワシだぞ。そのワシが命令する。消費者の声を読みたいから、これから毎週ワシのところに持ってこい」「わかりました。ではコピーを届けるように致します」「む」「お読みになるならコピーで十分でしょう」「もうええわ、帰れ」「はい」「あ、中沢君」「はい」「通信部の今野課長。もうそろそろショウルーム課に戻してやれや。あいつはショウルームでの仕事を望んでるし、セクハラに対する禊はもう十分済ませたはずや」「ダメです。あの男は無能ですから」

新宿のゴールデン街で飲む中沢と島。「久しぶりだなあ、ゴールデン街なんて。まだ残ってるんだ」「そうですね。最近は経費を使って銀座や赤坂ばかり。自分の金で飲んでた頃はよく来たものです。この店には20代の頃はしょっちゅう来てましたよ。売れない劇団員とか小説家や映画監督の卵とかそういう連中のたまり場でした」「そうだな。ゴールデン街はある種のダンディズムみたいな空気が漂っているところだな」

この店で飲んだメンバーは映画や文壇で活躍していると言う島。「この店はゲンがいいんです。ここで飲んだヤツは不思議なことに出世しています」「そりゃいいな。めでたい店だ」「中沢部長。今日ここに部長をお連れしたのは、そのことを考えたからです」「え」「木野会長に言われました。「中沢を説得してこい」って」

そうかと呟く中沢。「君にまで伝わってるのか。この一週間、いろんな人から電話が来た。専務、常務、事業部長、その他の先輩。昨日は労組の中畑委員長からも会いたいって電話が入って来た。みんな俺に社長になるより説得するための電話だ。俺は面倒くさいから一切会うのを断ってきた。第一、その意思がない」

「すみません。出過ぎたことをしまして。でも私は中沢さんに社長になっていただきたい。このように思っています。中沢さんこそ初芝電産の社長にふさわしい方です。他に見当たりません」「島君、依然君とは出世について話し合ったことがあるよな。お互いに出世を望まない同士で意気投合したじゃないか。自分に一番居心地のいい場所を探してそこを動きたくない。快適な人生を送りたいってな」

「確かにそう言いました。でも中沢さんには今の地位が一番居心地がいいとは思えません。もっと上の世界で生きる人です。自分で勝手に今の地位を快適だと思い込んでらっしゃる」「ハツシバは今や日本を代表する企業だ。世間が納得する人事でないとダメだと思う。第一、こういうドラスティックな人事をやらなければならない背景が今のハツシバにはないだろう」

私は聞いて来たと話す島。「どうして今回のような極端な人事が必要なのか。遠慮することなく本音の部分を木野会長と大泉社長にお聞きしました。普通なら4人の副社長の誰かから選ばれるのが順当なところでしょう。しかしこの4人は実力が拮抗して飛びぬけた人物がいない。かつそれぞれ社内に派閥が持っている。誰が社長になってもその人事に対するシコリが残ることになります。政界のように派閥の対立を社内に残しては、ハツシバにとって決してプラスにはならないでしょう」

「またこの4人は65歳を越えた高齢者です。トップがコロコロ代わるようでは、対外的にも具合が悪い。5期10年ぐらい務まる人でないと会社と言うのはうまくいかない。そのためには是非若い人材が欲しいのだそうです。その点、中沢さんは現在56歳でこれからの人だ。加えてどの派閥にも属してない。誰に対しても憚ることなくモノが言える強みがあります」

「会長の中沢評はこうです。「中沢は功名心がないし正直だ。しかも責任感が強いし、根気もある。物事を客観的に判断できる合理性を持っている。トップに立つ要素を十分持っている」私もそう思います。中沢さんに是非社長になっていただきたい。会長に頼まれたから言うのではなくて、私の内から湧き出る切なる願いです」

決めたと呟く中沢。「え」「社長を引き受けることを決めたんだ。君の言うように少し自分の居場所を変えてみようと思う」「そうですか。うん。これでよかった」「どうした。島君、泣いているのか」「いえ。何故かわからないけど、胸がいっぱいになって」(本当にどうして涙が出るのか自分でもよくわからなかった)

 

STEP168

木野と大泉に社長を引き受けると言う中沢。「待遇面で言いたいことがあれば何でも言ってくれ。希望には全て答えるつもりだ」「いえ。特にありません」「おいおい。欲のないことを言うな。ここはひとつ、年収1億円くらい保証してくれ、くらいのことを言えよ」「いえ。従来通りの常識的な額の報酬で結構でございます」「日本の大企業のトップの年収は大体4千万くらいだ。これは安すぎる。アメリカのアイアコッカ会長なんか何億円という単位をもらっている。ま、中沢君。その辺の待遇面は任せてくれ。日本の常識を変えてやるよ。君の年収はいくらだ」

「2500万くらいです」「社長に正式に就任するのは2月の株主総会だ。それまでの間、その収入では社長としての付き合いが出来ん。世界のハツシバの社長だぞ。これからは使うべきところでは金を使わらなければならん。例えばその背広だ。いくらした?」「10万前後だと思います」「銀座の一流店を紹介する。せめて100万くらいのスーツを着てくれ」「お言葉ですが、私はそういう形で社長としての風格をつけようとは思いません」

君の言うことは正しいと言う木野。「しかし君はビルの1階からいきなり最上階に登った。これからは世界が舞台だ。君の高潔な考え方は残念ながら世界の社交界では通用しない。世界に冠たるハツシバの社長が安手のデジタル時計をしていたら、相手に甘くみられるぞ」「好むと好まざるに関わらず、これからは君と君であると同時にハツシバそのものでもあるんだ。そういう意味では少し窮屈な人生になるかもしれんな」「……」

自宅に戻った大泉に久しぶりじゃないと言う笙子。「1年間も自分の家に帰ってこないなんて、あなたも珍しい人ね」「それはともかく、今日はプライベートの話をしに来たのではなく、初芝電産個人筆頭株主のお前の同意を貰いに来た」「何よ」「俺もこんな体だ。ハツシバの社長をやめようと思う」「そうね。私もそうすべきだと思っていた。で、後任は誰?」「木野さんとも相談して決めたが、平取の中沢君にやってもらおうと言うことになった」

「中沢?だって、まだ若いでしょ。この間、役員になったばかりよ」「そこだ。中沢は頭もいいし、センスもいい。若くて体力もある。しかも彼は役員の中では数少ない無派閥の人間だ。中沢を社長にしようと思ったのはこの点が一番大きい。彼が社長になれば派閥は無意味な存在となり、なし崩し的に崩壊することも考えられる」「で、あなたはどうするの」「会長になる。木野さんは相談役だ」「そうね。ハツシバの将来の為にもこの時期に世代交代するのはいいことだと思うわ。異論はございません」

4人の副社長を集める木野と大泉。「今日、ここに集まってもらったのはある重大発表を行うためだ。個別に話そうと思ったが、お互いに遺恨を残さないためにこういう形で集まってもらった」「来週の取締役会で私は社長を正式に辞める。後任には中沢喜一取締役を推したい」「……」

「私は会長に就任し、木野会長は代表権を持たない相談役になられる。来年1月の決算役員会で内定し、2月の株主総会で正式に決定するが、とりあえず内定と言う形でご理解いただきたい」「しかし中沢君は取締役36人中、末席にいる男ですよ。そんな人事がまかり通りますか」「まかり通る。反対する者は社長である私の権限で初芝を去ってもらう」「……」「時代は常に物凄い勢いで流れているんだ。俺たちの時代は終わったと言うことを自覚してほしい」

島に電話する奈美。「お父さん、もうすぐ12月だね。クリスマスプレゼント、何くれる?」「おいおい、気の早い話だな。まだ何も考えてないよ」「あのね。今日はお父さんに報告することがあるの」「何だ」「お母さんが結婚するんだって」「相手は誰だ」「電報堂の奥本さん」「そうか」「奈美。あの人、大嫌い。どうしよう」「どうしようたって、どうしようもないさ。これからは奥本さんをお父さんと呼ばなきゃならないんだ」「……」

「奈美。よかったら俺の所に来ないか。俺はいっこうに構わんぞ」「だって、そうしたら、今度はお母さんが悲しむでしょ」「いや。それは3人でこれから話し合えばいいんだ。あっ、誰か来たな。奈美、ちょっと待ってくれ」大町愛子が現れて驚く島。「大町さん?」「一人?」「え、ええ」「ちょっとお邪魔するわ」「あ」奈美にお客さんが来たと言う島。「またあとで電話するよ」「もう、いいよ。お父さんところに行かない」「え。どうして」「だって今来た人、女の人じゃない。声が聞こえたわ。じゃあね」

 

STEP169

いきなり裸になる愛子に驚く島。「一体どうしたんですか」「この状況を見て、他に何が考えられるの。あなたとしたくなったと言うことよ」「それは一方的すぎますよ。こちらだって色々都合があるし」「体が火照って熱いわ。ベランダに出ていい?」「大町さん。まずいですよ、そんな恰好じゃ。中に入って、何か着てください」

久美子が来月ニューヨークから帰って来ると言う愛子。「知ってます。お見合いでしょ」「どうして知ってるの」「今年の夏、ロスで会った時、彼女から聞きました。相手は三友銀行頭取の御子息でしょ」「そう。やっぱりあなたたち、まだつきあっていたのね。久美子は今でもあなたに惚れているわ。今度帰ってきたら必ずあなたに会いに来る」「……」

「お願い。もう切れて欲しいの。理由は説明しなくてもわかるわね。あの子は吉原初太郎の最後の子供なの。しかるべき人を迎えて、将来、初芝を引き継がなければならない運命にあるのよ。初太郎は晩年しきりにそのことを私に言い続けた。大町久美子の夫となるのは将来初芝電産の社長となる人間でなければいけないの」「……」

「今日、私がここに来たのも、あなたがもう久美子と会えなくなるようにするため。母親である私を抱けば、あなたの性格からもう二度と久美子を抱かないだろうと思ったの。でもあなたはそうしなかった。だけど、そうしたと思わせる手はあるのよ」男から写真を受けとる愛子。「これは向かい側のマンションから今撮ってもらったポラロイド写真。ネガは私が保持するわ」「……」「あなたが久美子から離れないとなると、この写真を使うことになるわ」

取締役会で最後に話があると言う木野。「ただ今より重大発表を致します。私は今期をもって50年間お世話になった初芝電産から事実上退くことになりました。つきましては新会長として現社長の大泉裕介君を迎えたいと思います。そして一部の役員の方々、並びに有力株主の方々にはご了承を頂いておりますが、新社長には中沢喜一君を選任致しました」

挨拶する中沢。「初芝電産5代社長として、わが身を粉にして頑張る所存でございますので、役員の皆さまのご協力を賜りたくお願い申し上げます。ご覧の通り、私は若輩者でございます。おそらくこの中で最も若い世代でしょう。加えて役員の中では末席に座ったばかりの新参者でございます。しかしこの破天荒な人事を敢行された木野会長並びに大泉社長に恐らくそれなりのお考えがあったと拝察致します」

「初芝電産には歴代の社長が築き上げてこられたハツシバイズムがありました。しかし、ともすればこのイズムは今日の諸般の状況と軋轢を生じ、必ずしもプラスになってない面もございます。私は旧来のハツシバイズムにとらわれず、新しい企業哲学を作っていくつもりです。社会における企業の存在理由をもう一度原点に戻して考えたいと思います」

福田に聞く中沢。「ショウルームの消費者の声のコピーは届いていますでしょうか。全国のショウルームにはその旨、通達をしておきましたけど」「あ。中沢君。いや、中沢社長。俺が気にくわなければいつでもクビにしろ。腹は決まっている」「クビ?何を仰いますか、福田さん。たまたま職制上こうなっただけで、あなたはいつまでも私の営業実務の師です。営業本部にとって、福田さんはなくてはならない人です。これからもどんどんアドバイスしてください。頼りにしてますから」

福田に格好の材料を見つけたと言う今野。「中沢のヤロー、5年前にポスター撮影の件で、沖縄県からおごられたことがあるんですわ。隠しとったんやな。さっきも社員食堂でソバ食っとたんで、このことに関して嫌味ゆうたりましてん。青うなっとりましたわ。ケケケ。これ、ほじくり返して、いっちょうシメ上げたりましょう」「阿呆。中沢は今日から社長や」「え」「今朝の会議で内定した。正式には2月の株主総会で発表される。言葉を慎め」「中沢が社長。そんな」

 

STEP170

日本に戻った久美子を迎える木野と愛子。「元気そうね。どう、久しぶりの日本は?」「やっぱり、日本がいいわ。アメリカも飽きちゃった」「そう」「おじさま、会長職をお辞めになるんですって?」「ああ。なんだか肩からドッと力が抜けた気持ちだ。こんなにも安らかで落ち着いた日々が送れるのは、私の人生で初めての経験だ。こういうのが本当の人間の生き方かもしれんな」

「仕事人間が仕事を辞めると突然ボケるって言うわ。気をつけてよ」「ハハハ。まだまだ私の人生の務めは終っていない。久美子の結婚式を見届けるまではボケないぞ」「あら、じゃあ、おじさまのために当分結婚するのはよそうかしら」「何言ってるのよ。俊彦さんはあなたが帰国するのを心待ちにしてらっしゃるのよ」「うーん。どうしようかな」「ハハハ。久美子もいい年なんだ。そのうち誰も相手にしてくれなくなるぞ」

会社にいる島に電話する久美子。「帰って来たわ」「いつ戻って来たの」「昨日よ。しばらく日本にいるわ。例のお見合い」「そうだったな。今どこにいるんだ」「新宿プラザホテルよ。日本にいる間はここのスイートルームに住むことにしたの」「それは贅沢だ」「ね。遊びに来て。2606号室」「あ。うん。今、ちょうどクリスマス商戦の時期で、うちの課も忙しいんだ。時間が出来たら連絡するよ」「わかりました。待ってます」

『お父さん、クリスマスの日は奈美と一緒に過ごせる?』『ああ、過ごせるよ。いいのか、お母さんは』『いいの。お母さんはニューパパと一緒に出掛けるから』『わかった。じゃあ12月24日はお父さんとデートだ』『奈美、どこにも行きたくないな。お父さんのマンションに行きたいの。いいでしょう』『いいとも。その日は早く帰るから』

マンションに戻る島を迎える奈美。「お帰りなさい」「ただいま。お、凄いご馳走だな」「全部奈美が作ったの。はい、これ、お父さんにプレゼント」「じゃ、お父さんも奈美にプレゼント」「シャンパン抜くから早く来てね」「ああ」留守電をチェックする島。<久美子です。ホテルにいますから、電話をください。待ってます>

「乾杯」「メリークリスマス。うん、ノンアルコールのシャンパン、初めて飲んだけど、なかなかうまい」「さ、食べて、お父さん。私の作ったフライドチキン、とっても美味しいんだから」「うん、最高だ」「わあ、このセーター素敵」「このマフラーもいいな。暖かいや」

奈美が寝てから、久美子に電話する島。「はい、久美子です」「島です。遅くなってゴメン」「いいのよ、会いたいわ。来ない?ここから見える夜景、とってもキレイよ。2人でイブを過ごしたいの」「うーん。ちょっと行けない」「じゃあ、私がそっちへ行く」「いや。それは困る」「誰かいるの」「うん」「女の人?」「そうだ」「……」「君はお見合いの為に戻って来たんだ。お互いのためにこういうことはもうやめにすべきだと思う」「わかりました」

三友銀行頭取の平尾の次男で、三友商事北米課に勤務する俊彦と見合いした久美子は、その場で結婚の話を承諾する。「今回のお話、謹んでお受けします。よろしくお願いいたします」

 

STEP171

新大阪駅で初芝電産大阪支社営業販売宣伝課長の阪野と会う島。「島さん。お久しぶりです」「どうも。しばらく」「このまま泉南の現場へ行ってみますか」「そうですね」「ごっつい広さですわ。30万坪の雑木林を整地せなあかんから、大変な作業でっせ」「そうでしょう。それだけに、コスモス・テーマパークが出来上がった時は大きな喜びですよ」「どうしたんでっか、島さん。何や元気ないけど」「いや、別に」(大町久美子のことが気になっていた)

整地作業を見ながら、住民の反対はなかったんですかと聞く島。「いや、ゴルフ場の建設やったら、反対運動の嵐ですけど、テーマパークですさかいな。2年後にここに大きな夢が出現するわけですから、反対する人はいません」「そうですね」「そや、今日は本社の決算役員会の日でしたな。明日は大阪証券取引所で決算報告の記者会見やから、大泉社長が来阪されます。せやから、今、準備でてんてこまいでんねん。そろそろ帰りまようか」「はい」「ほんま、元気ありまへんな、島さん。大丈夫でっか」「あ。何でもありません」(いけない。しっかりしろ。島耕作)

決算役員会で中沢が社長になったことを告げる大泉。「おめでとう。これで君の社長は確定した」「ありがとうございます」午後はマスコミ発表ですと言う広報室長の万亀。「このあと経団連会館で決算発表の記者会見をしますが、その時に新しい役員人事を公表します」「私は出席しなくていいんですか」「君はいいよ。俺と万亀君と経理担当重役の渡辺君とでやっておく」「そうですか」「中沢新社長はこれから大阪へ飛んでいただきます。明日の午後3時から大阪証券取引所での記者会見がありますので、今晩は大阪のホテルでゆっくり休んでください」「はい」

経団連ビルで決算発表をした後、中沢が社長になると告げる大泉。「ではこの辺で」「ちょっと待った」「え」「毎朝新聞の浅井です。こういう重大発表をなさる時、どうして当のご本人が出席されていないのですか。私は長年、機械クラブの記事をやってますが、こんなんことは前代未聞だ」「え。それは機械クラブの決まりなんですか」「決まりではありませんが、新社長が同席するのが常識です。ただちに呼び出してください」

蒼ざめる万亀であったが、経団連ビルに中沢が現れ驚く。「どうしてここに」「いやあ、ひょっとしたらこんなこともあるんじゃないかと思って。表に車を停めて待っていたんです。大阪行きを明日に変更して正解でした」感心する万亀。(さすがだ。35人抜きは伊達でない)

 

STEP172

(この日、大阪支社は朝からハチの巣を突っついたような騒ぎになった。昨夕、東京での決算発表会の席上で中沢新社長就任の発表があったからだ。まさに青天の霹靂の人事で、各方面から電話が殺到し、てんてこ舞いの応対となった)

島に愚痴をこぼす阪野。「島さん、あんた本社ですさかい、知ってはったんちゃいますか、このニュース」「ええ。中沢さんは私の上司ですから、それとなく聞いてはいましたけど、マスコミ発表までは口外してはいけないことになってしまったので」「水臭いな。こっそり教えてくれはっても、ええやんか」「申し訳ない」

新幹線の中から島に電話する中沢。「あと2時間ほどで大阪に着く。それで君にちょっと頼みごとがある。プライベートの話だ」「何でしょう」「息子に会いたい。セッティングしてくれんか。裕次とは長いこと会っていないんだ。今日、最終のひかりで東京へトンボ帰りをしなければならない。短い時間だが晩飯でも一緒に食えればと思って」「わかりました」

沢田ボクシングジムに電話して、裕次に事情を説明する島。どうしたと裕次に聞く沢田。「父が今日大阪に来るので、一緒にメシでも食わないかと誘われました」「どこで会うんや」「大阪セントラルホテルのブルゴニューというところで6時に」「ブルゴニューか。あそこは最高級のフランス料理屋や、羨ましいな」

<続いて経済ニュースです。昨日もお伝えしましたが、初芝電産の新しい社長に就任した中沢喜一氏が新大阪駅に到着しました>「裕次。これ、お前のおやっさん、ちゃうんか」「え」<このあと、午後3時から大阪証券取引所で記者会見がありますが、経済界の大ニュースだけに多くの報道陣が詰めかけて、新大阪駅はちょっとしたパニック状態になっています>

ふうとため息をつく中沢。「驚いたよ。まるで宮沢りえの帰国騒ぎみたいだな」「ハハハ。前代未聞の社長交代劇の渦中の人ですからね。今や中沢さんはちょっとしたスター並みですよ」「ところで裕次とは会えるのかな」「ええ、午後6時に大阪セントラルホテルのレストランで会うように約束しました」「そりゃ楽しみだ」

どうすると裕次に聞く沢田。「お前は中沢さんの愛人のいわば隠し子や、こんなことは世の中よくあることで、今までならどうってこともなかったけど、今度はちゃうぞ、このことがばれたら、一大スキャンダルになる。しかもお前も今や日本のチャンプだ。今年にも世界を狙う日本ボクシング界期待の星や。大阪ではかなりの人間がお前の顔を知っている。すぐ人目につく」「はい」

「その若手のボクシング界のホープと日本を代表する大会社の新社長が一緒に食事をすることを目撃されたら、マスコミが黙っちゃいない。何であの二人がこっそり会うとんねん、何かあるで、ゆうことになる。お前のおやっさんはそんなことまで考えなくて気軽に食事をしよう思うてはるんやろうが、さっきの状況見たら、とんでもないことになるかも知れへんで」「……」

(定刻を30分過ぎても、裕次君は来なかった)「中沢様、今、伝言が入りまして、お連れ様が都合で来れなくなったとのことです」「そう。じゃ、2人分の簡単なメニューにしてください。帰りの時間も迫っていますから」迂闊だったと呟く中沢。「あいつ、関西じゃ面が割れている。今やちょっとした有名人だ。多分、マスコミ報道の過熱ぶりを見て、気を回したんだ。俺のことを気遣って、来るのをやめたんだろう」「いい息子さんですね」

(これで親子の再会はないと思った)<列車がはいります。黄色い線までおさがりください>「お父さん、裕次です。どうしても顔が見たくて、来ちゃいました」「そうか。ありがとう」「社長就任、おめでとうございます。これからも頑張ってください」「お前も頑張れ。世界タイトル戦、期待しているぞ」ひかりに乗る中沢。「年を取ると、涙腺が緩んでいかんな。ハハハ」(わずか30秒だったが、中沢さんと裕次君は最高の再会を果たした)

 

STEP173

留守番電話を聞く島。<久美子です。これは島さんにかける最後の電話になるかもしれません。次の日曜日が結納の日となりました。結婚式はどうやら5月になりそうです。あと3か月で私も人妻になるんですかね。なんだか信じられません。私の望んだ形での結婚ではありませんが、吉原初太郎の娘として、こういう運命の下に生まれたのだと割り切ることにしました>

<島さんとの恋は私の人生のたまゆらだったのかもしれません。島さんが私と結婚しないのはきっと私があまり好きではないのでしょう。それはわかってます。今度結婚する平尾俊彦さんはとてもいい人です。一緒にいてとても気持ちのいい人です。でも心がときめかない。優しくて楽しい人は他に沢山いるけど、興奮するのはあなただけ。私が興奮するのは世の中であなたしかいません>

結納をすっぽかして、島のマンションに行く久美子。「島さん」「……」「来ちゃった」愛し合う島と久美子。「この恋は」「決してたまゆらじゃなくて」「やっぱり永遠」「どうするんだ」「どうするって」「すっぽかしたお見合いの話」「何も考えたくないわ」「そうだな」

留守番電話を聞く愛子。<久美子です。今日はごめんなさい。平尾さんとの結婚はやめにしました。あんな形にして大変ご迷惑をかけたことをお詫びします。やはり愛のない結婚は私にはできません。これからの人生は自分に正直に生きていくことにしました。ところでこの電話はホテルからかけているのではありません。ある人のマンションのベッドの上からかけています。明日また連絡します>溜息をついて、写真を燃やす愛子。

 

STEP174

(大町久美子はそれから一週間、俺のマンションに居着いた。何も考えず、何も心配せず、ねっとりと暮した一週間だった。この一週間ではっきりしたことは、現時点ではお互いに結婚を意識していないと言うことだ。しかし、お互いに確かに愛し合っていた。木野さんはその後、寝込んだ。もともと糖尿の気があったところへ、久美子の暴挙があって、心痛が重なって倒れたらしい。赤坂の大町愛子の屋敷で療養していると言う電話が入ったのは3日前。彼女は俺に対しても久美子に対しても、一切抗議をしなかった)

「どうするんだ、これから」「そうねえ、結納の日に逃げ出すなんてことしちゃったんだもの。日本にはとてもいられないわ」「またニューヨークに戻るのか」「どうしようかしら、ニューヨークも飽きたし。当分誰とも結婚する気がないから、どこかへ就職しようかと思ってるの」「じゃ、ロスへ住まないか」「ロス?」

「俺は今、コスモス関連の仕事を一手に引き受けている。ハツシバのロス駐在員として俺のもとで働いてほしい」「……」「幸い、君はコスモスのバクスター・ゴードン会長と顔見知りの仲だ。あの人は君のことを気に入っている。ハツシバとコスモスをつなくパイプの役目をはたしてほしいんだ」「なるほど。私はハツシバへ再就職と言うことになるのね」

「いやいや、再就職と言う立場じゃないぞ。君は将来はお母さんの大町愛子の株式を相続する人間だ。1500万株と言う持株は、ハツシバの中では個人では第2位になる、ハツシバの経営にも口を出せる大株主様だ。君には単なる株を持っているだけの大株主になってほしくない。ちゃんと経営のわかる発言力のある株主になってほしい。そのためにも」

「そんなつまらない理由で私を雇わないで。私を雇う理由は常に私を自分の近くにおけるから。ウソでもいいから、そう言って」「わかった。いつも君と一緒にいたいから、俺の下で働いてくれ」「はい。よろしくお願いします。課長島耕作殿」

あけびが食いたいと愛子に言う木野。「え」「あけびだ。子供の頃よく食ったあの懐かしいあけびが食いたくなった。買ってきてくれ」「何言ってるのよ。こんな時期にこんな東京の真ん中で、あけびなんか手に入るわけがないでしょう」「お願いだ。どうしても食いたいんだ」「しょうがないわね。八方に手を尽くして探してみるわ」

あったわと叫ぶ愛子。「築地の「久義万」が持ってたわ。でも料亭ってのは凄いわね。柿でもやまもちでも何でもそろってると言うんだから。一体どうやって保存するんでしょう」「……」「ねえ、どうしたの。寝てるの」「……」「あなた」「……」「もうちょっと待てば、あけびが食べられたのに」初芝電産相談役・木野穰。享年73歳。

木野さんも煙になったと島に言う中沢。「はかないなあ」「体の調子がよくないとは聞いてましたが、こう突然に逝ってしまわれるとは思いませんでした」「仕事の現場から離れた途端、ガクッと来ちゃったな。やっぱりサラリーマンは悲しい人種だよ。仕事を取り上げられたら、まるでつっかい棒を外されたように倒れてしまうんだ」「ええ」

「やっぱり俺たちは仕事人間だ。木野さんの残したハツシバの偉大な遺産を受け継いで、これからは我々がもっと会社を発展させていこうじゃないか」「そうですね。それが一番いい供養だと思います」「ところで俺はいきなり社長になった。何の準備もなしに何の人脈も持たずに社長になった。俺を補佐してくれる強力な人材が必要だ。つまり片腕が欲しい」「……」

「その片腕は君しかいない。なってくれるな」「はい。私でよければ喜んで」「その社長の片腕が課長じゃまずいんだ。部長になってくれ」「え」「俺も君に説得されて社長になったんだ。俺の言うことを今度は君が聞いてくれる番だ。部長になってほしい」「はい」「総合宣伝課は営業本部から独立して、社長直属の単独の部となる。君はそこの初代部長だ」「はい」

 

STEP175

典子の部屋に行く島。「島耕作もついに部長になるんだ。年貢の納め時って感じかしら」「課長になって9年だよ。よくやった方だ」「あら。私なんかこの世界で20年近くもやってるのよ。そうだ、コーサクちゃんに見せちゃおう。私のコレクション」「ん。なんだ」「この20年間に私と親しく付き合った男達の写真を整理してたら膨大な数になってアルバムに貼り切れなくなってさ。だからVTRに撮ってまとめたの」「そんなコレクションか」

男達を説明する典子。「こいつは私が25歳くらいの時に付き合った男で、今は五和銀行の常務さん」「このことは私がこの世界に入って最初のパトロンね。銀座の老舗の大店の二代目で、今はそこの社長さんをやってるわ。人はいいけどバカだった」「こりゃなかなか面白い」「次の男は私が裕介ちゃんと知り合う前の男。知ってるでしょう。直木賞作家の佐々岡先生」「へえ、この人とも付き合っていたのか」「そうよ」

「あ、この人なら知ってるぞ。うちの常務だった松本さんだ」「そう。松本さんのことを思い出すと、ちょっと胸が痛むのね。でも今は幸せみたいよ。今年のお正月、年賀状をくれたわ」「そうか」「この人は鹿水建設の社長さん。私が付き合った頃はただの部長だった」「凄いな。錚々たるメンバーじゃないか」「それが銀座なのよ。付き合った男がどんどん出世していく。それを横から眺めるのが銀座の女の楽しみでもあるのね」

ここからはベスト3よと言う典子。「まずは第3位。こいつには随分泣かされたわ。結婚寸前までいったけど、金持ちのお嬢様に鞍替えされちゃった。去年、首都テレビの副社長になったわ」「ふーん。典子でも泣かされることがあるんだ」「失礼ね。続いて第2位。真打ち登場。大泉裕介ちゃん。私の最愛の人」「え。じゃあ第1位は誰なんだ」「バカね。決まってるじゃないの。あなたよ。島耕作」「え」

「私が付き合った男の中でただ一人、地位も名誉もない普通のサラリーマン。でも、あなたが私にとって最高の男だった」「光栄だな。1位にしてもらって。ところでこんなビデオ作ってどうするんだ。他人に見せるわけにもいかないだろう」「女は男より10年長生きするのよ。ここに写ってる男たちがみんな死んじゃったあと公開するの」「誰に」

「どうせ、私は養老院暮らし。周りの婆さん連中に「若いころはこんな素敵な男たちに囲まれて暮らしていたのよ」と自慢しようと思って」「……」「その時はあなたのことを「この男は、付き合ってた頃は、ただの課長だったけど、最後は社長になったわ」なんて、紹介してるかもね」「それはないよ」「こんなビデオ見せるつもりはなかったのに。ごめん、私、泣いちゃった」「……」

総合宣伝課のメンバーから拍手を受けて照れる島。「よしてくれよ。まだ正式な辞令をもらったわけじゃないし。それに部長になったところで、別に嬉しいわけではないし」「いいえ。私たちが嬉しいんです。敬愛する上司が出世することは部下にとっても幸せなんです。島さん、部長島耕作って名乗ってください。その言葉が聞きたいんです」「いいよ、そんなの」「お願いです。やってください」「ぶ、ぶ、部長の島耕作です」

「奈美」「なに?」「お父さん、部長になることになった」「へえ」「自分ではまだ若いと思っていたが、気づいたらもうそんな年齢になっていたんだな。似合わないか?」「ううん。そんなことないよ。カッコいいよ。でも」「でも、何だ」「何か変」「ハハハ。やっぱりそうか」

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