弘兼憲史「課長 島耕作(10)」

 

STEP99

(ローラの提案した洗濯機の試作品が出来た)「ほう。こりゃいいじゃないか」「これで価格は2950ペソに設定したい。採算は十分とれる」「しかし、これでいいもんかね。洗濯以外の昨日が一切なしだ。何か物足りない気もするが」「いや、あえて何もつけない方がいいと言うのが彼女の考え方なんだ。簡単な脱水装置をつけたほうがいいか、ローラ?」「いえ、脱水装置をつけても、こっちの人間は使いません」「この際、ローラの言う通り、この商品で押してみよう」

島に聞く岡島と大野。「結局、あの娘、抱かなかったって?」「え。あ、あのサンセットホテルにいた娘」「そうですよ。せっかく一番いい娘を部屋に届けたのに。この間、あの店にいたら、島さんのことをインポじゃないのと言ってましたよ」「ハハハ。インポはひどいな」「とんだ堅物なんだな、君は。インポなら固くないか。ハハハ」

島に電話する五十嵐。「どうだ。フィリピンは?」「ああ。やっとこっちにも慣れて、一人で歩けるようになったよ」「じゃあ、ステラの所を訪ねてくれんか」「あ。そうだったな」「隆介の最近は状況を認識したようだ。最近は「外国の人だから僕たちで暮らしやすい環境を作ってあげなきゃ」なんて言ってるよ」「そうか。それはよかったな」「住所は知ってるな」「ああ。じゃあ近いうちに陣中見舞いに行ってくる」

ローラにステラの住所を見せる島。「どこかわかるか」「大体わかりますけど」「どんなところだ」「貧民街です」「そうか」

島を尋ねる松原。「今日はいいもん持ってきましたで。ウチが扱ってるイセエビですわ。食べとくなはれ」「これは凄い。遠慮なくいただきます」「刺身にしても食べられますが、熱を通した方が無難やな。スチームがよろしいと思いますわ。男の料理としては一番簡単やし」「なるほど。それなら私にもできそうだ」「ほな、失礼しまっさ、私も今からイセエビの料理、作らなあきまへんので」「おや。お客様でも来られるんですか」「これでんがな。現地妻」「なるほど」

(考えてみたら、単身赴任なんてのは、男にとって天国なのかもしれない。現地妻と言えばややこしい関係を思ってしまうが、金銭に基づく契約と思えば、こんなすっきりした関係はない。それがお互いの利益になるわけだからノーブレムだ。隣に現地妻が来たらしい。かすかに話し声が聞こえる。気分がいいので、ベランダに出て見るか)

しかし隣のベランダからうめき声が聞こえ、ベランダから退散しようとする島。「OH。AH」「ステラ。I LOVE YOU」(え?ステラ。まさか。ステラなんて名前はざらにいる。しかし、気になる。女が帰る気配だ。ちょっと覗かせてもらうぞ)

「このエビも持って帰れ」「THANKS」(えっ、やっぱり、ステラ?)

 

STEP100

運転手に聞く島。「トンド地区というのはこの近くですか」「そうです。この先のブロックからドント地区です」「じゃあ、停めてください」「え」「ローラ。俺、ちょっと私用でトンド地区に行ってくる。先に会社に戻ってくれないか」「島さんの手帳に書いてあった住所ですね」「そうだ」「日本人一人では危ないですよ。私も一緒に行きます」「ありがとう。でもこれは私用だ。私用に会社の部下を同行させるわけにはいかない」

(トンド地区はサンタアナ地区と並ぶマニアの貧民街だ。スクワラッターと呼ばれる多数の不法居住者が住んでおり、一方でマカティ地区のような高層ビルが立ち並ぶ景観もあれば、このような貧民街もある。ここもまたマニラのもう一つの顔なのだ。一人で歩くのは明るい時でもかなり危険である。にもかかわらず、俺をここに駆り立てたのはステラだ。昨日の夜、俺のマンションの隣の部屋に来た女は、紛れもなく、五十嵐の婚約者のステラだったからだ)

「ステラ」「……」「覚えているかい。五十嵐の友人の島耕作だよ」「どうしたんだ。ステラ」「あ、いや。私が日本で働いていた会社の専務さんが来たのよ」「おお、それはよく来てくれました。私、ステラの夫で、サンチェスと言います」「あ、初めまして。島です」「ステラ。家に入ってもらったらどうだ」「そ、そうね。ミスター島、どうぞお入りください」

(なんてこった。ステラは結婚しており、2人の子供と複数の家族を養っていたのだ。家の中は、この地区に似つかわしくない贅沢な生活用品や日本の電気製品が揃っていた)

「あなたの会社が毎月送ってくれる7000ペソのおかげで、来年はこの地区から離れることが出来そうです」「そりゃよかった」(五十嵐の仕送りしている金だ)「ステラ。外で話したいんだが」「はい。あなた、ちょっと出かけて来る」「おう」

「見て。あの子供たち、あのゴミの山から、まだ使えるものを探して、生活の糧にしているの。ここの人間はこういう暮らしなの」「うん」「そりゃ、私、五十嵐さんのこと、好きよ。あの人、普通の日本人と違って、とっても優しいの。私を真剣に愛してくれている。でも、私には私を頼って生活している家族もあるし。それにこの国はカトリックの国だから、主人が生きている限り、離婚はできない」「うん」「もうすぐ、念願のマイホームが買えるの。みんなすごく喜んでいるし、今、仕送りを止められたら、その夢も失ってしまうわ」

「ステラ。俺は今、マカティのレインボーマンションに住んでいる。805号室だ」「え」「俺は昨日の夜、806号室から君が出てくるのを見た。彼は松原太郎。俺の知り合いだ。彼は君のことを現地妻と言っていた。本当にそうなのか」「……」「もし、そうだとしたら、彼は五十嵐に対して、どういう気持ちなのか。毎月5万円の仕送りを受けているのに、それはルールを破っていることにはならないのか」

「お願い。見逃して」「……」「あと1年、このままでいたら、家が建つの。それまで黙ってて」「それは君の論理だ。あまりに調子よすぎると思わないか」「それはわかってるわ。でも見て。私たちはこんなにも貧しく、日本人はお金持ちだわ。持っている人が持っていない人に与えるのは当然の義務よ」「……」「違う?」

(ステラの言葉に反論できなかった。持てる者がその富を持たざる者に分配するのは一つの真理だ。たとえ、それが理不尽でも、それは真理だ。どうすればいいんだ。このことを五十嵐に言うべきかどうか。俺が言うことによって、何か生産的なことはあるのか。何もない。しかし、いずれはわかることだし、言うのなら早い方がいいのかもしれない)

「お帰りなさい」「ローラ。待っててくれたのか」「上司の無事を確認するのは部下の義務ですわ。用事はお済みですか」「うん。まあね」「島さん。私、少し不満です」「何が?」「島さんは喋らなさすぎます。普通だったら、何故トンドに来たのか、何をしていたのか、とか少しぐらい話してもらえるんじゃないでしょうか。島さんは今かなり落ち込んでいらっしゃるように見えます。いろんな事情があるのでしょうけど、少しは私に打ち明けてください」

「よし、わかった。打ち明けよう。君が好きだ」「島さん。人が真面目に話してるのに茶化さないでください。じゃ、私も打ち明けますよ。島さんを愛してます」(ドキッとした)「ハハハ。ありがとう。じゃあ、行くか」(「君が好きだ」自分の言った言葉に、少し興奮していた)

 

STEP101

(困ったな。五十嵐に何と言えばいいんだ。ステラには夫がいて、子供がいて、おまけに他の日本人の現地妻になっている。しかし、黙っていると、五十嵐はだまされたまま毎月5万円の金を送り続けることになる。真実を知らせて五十嵐を失望させるか、あるいは、いくらかの出費はさせても、五十嵐をハッピーなままで置いておくか。友人として非常に難しい二者択一だ)

松原の部屋に遊びに行く島。「娘は来年中学校ですわ。せやから、わし単身赴任ちゅうわけですわ。ま、そのおかげで、今、こうやって独身を楽しんでいる。現地妻のステラっちゅうのは最高でっせ。どうですか、島さんも」「え、どうですか、って」「ステラに頼んで、誰か紹介してもらいますか」「いえ、私は」「そや、島さん。ええもん、見せましょうか。ほれ、ジャーン」「え。本物ですか」「勿論本物ですわ。護身用に持ってまんねん。この国は銃を手に入れるのは簡単ですさかいな。持ち歩きは出来へんけど、所持の許可はとれまっせ」「じゃ、松原さん、失礼します」

ベランダに行った島はまた隣室からのうめき声を聞いてしまう。(ああ、また始めちゃったよ。ベランダなんかでエッチするなよ。五十嵐になんて言ったらいいのか。あれ、駐車場にいるあの男は。まずい、ステラの夫だ。わわっ、大変だ。上がって来る)

 

STEP102

「松原さん、開けてください。島です」「ドアなら開いてまっせ。島さん」「失礼します。すぐ、この部屋を出て、2人で私の部屋に移ってください」「ん?どうしたんです。3Pでもやろうってんじゃ」「ステラ。君のご主人が来ている。早く俺の部屋に移動しろ」「え」「ステラの夫?島さん、どうして、あなた、そんなこと知ってはるんです」「そんなことは後で説明する。とにかく急いで」

しかしサンチェスは銃を持って松原の部屋に乱入する。「ステラ」ステラを狙撃するサンチェス。「次はお前だ、ミスター」「くそう」護身用の銃を持つ松原の指を撃ったサンチェスは、島の脳天に銃を突きつける。「お前がうちに来た時から変だと思っていたぜ。やっぱりこんなことだったのか。覚悟しろ」(もうダメだ)

しかしサンチェスは松原の銃を拾ったステラに撃たれて即死する。「ステラ。しっかりしろ」「ごめんなさい、こんなことになって。島さん」「なんだ」「五十嵐さんのこと、本当に愛してたの。ウソじゃない」「うん。わかってる」

(結局、ステラは病院に行く前に息を引き取った。警察署ではいろいろ事情を聴取されたが、我々日本人に対しての咎めは何もなかった。ステラの夫はヤクザ組織の一員で、前科もあり、かなりの麻薬常用者であったらしい。ステラの行動に以前から疑いを持っていた彼は。あの夜、こっそりステラを尾行して、我々のマンションをつきとめた結果の凶行と言うことであった。松原さんは指を撃たれて入院中だが、一週間もすればまた戻って来る。何という出来事だったのだろう。今でも実際に起こったことと思えない)

五十嵐に電話する島。「え、ステラが死んだ」「そうなんだ。3日前に交通事故で他界して、すでに家族に葬られたよ。病院から出された死亡証明書もあるし、俺も確認した」「そうか。わかった」(五十嵐に嘘をついてしまったが、それが一番よかったと思う。ステラの死は嵐のように全てをキレイに流し去って行った)

 

STEP103

(ステラの事件はその後も尾を引いた。マンションの住民が今後もこんな騒ぎを起こしかねない、として、俺と松原さんの2人に出るようにと勧告してきたのだ。当然、この件は会社にもバレてしまったが、樫村の裁量で日本にまで伝わるに至らなかった)

「どうする、島」「出るしかないな。あんな派手な刃傷沙汰を演じてしまったから。折角落ち着いたと思ったら、また家探しをしなければならない」「どうだ、うちに来んか。広すぎる敷地に離れが遊んでいる。しばらく、そこを使ってみんか」

(樫村の住む家はビレッジと呼ばれる高級住宅エリアにある。ビレッジの住人は様々の国のいわゆる金持ちで、いずれも豪邸だ)「このビレッジの中には何戸くらいはいっているんだ」「200戸くらいだ」「ハツシバの連中もここにいるのか」「そうだよ。戸倉部長や竹熊さんや岡村さんもここの住人だ。ま、家賃の半額を会社が負担してくれるから社宅みたいなもんだ。着いたぞ。ここがうちだ」

「いらっしゃいませ。樫村の妻の峰子でございます」「初めまして。島耕作です」(樫村は今まで家庭の匂いをさせなかった。しかし、現実の姿を見せられると、安心してしまう)「紹介するよ。俺の息子の翔太だ」「どうも。島耕作です」「こいつは今インターナショナルスクールの高1でね。こっちへ来たら勉強しないで、野球ばっかりやってるよ」「この子、ゴルフもうまくてね。この頃はパパを負かしちゃうんでしょう」「パパ、ヘタだもん」「ハハハ。そりゃ頼もしい。今度は是非3人で回りたいね」「そうだな。ちょっとみんなを集めて紹介しておこう」

「右端から俺の車の運転手のドミンゴ。次が女房の車の運転手をしているサントス。彼女はメイドのイサベル。彼女もメイドで主に料理を担当しているガーディだ」「へえ、すごいな。運転手2人にメイド2人。日本ならさしずめ大会社の社長と言ったところだぞ」「いいんだよ。そうやって贅沢してこの国にお金を落とすことが、この国に貢献することになるんだから」

(俺の部屋は、広い敷地内の隅に建っている別棟の中にあった。この棟にはバス・トイレ付きの独立した部屋があって、おそらく使用人用に作られたものだ)「へえ、結構広いんですね。中は」「今、個々は2つ部屋が空いているんです。よかったら、隣もお使いください」「ハハハ。ひとつで十分ですよ。しかし4人の人件費を払うのって大変でしょう」「いいえ。それがイヤになるくらい安いんです。1か月1万ペソでお釣りが来るんですから」

(そういう贅沢は出来るのも円が強大になったせいだ。ひと昔前では考えられないことだ。この時代に日本と言う国に生まれた我々は本当にラッキーなのかもしれない。戦争とも貧困とも無縁で、しかも自由で。日本に居たら、当たり前のように思っているが、外国に来るたびに、つくづく日本は平和だと思う。しかし、ある意味ではこれは非常に不公平なことだ。その不公平を解消するには、日本は自ら説教的に損をすべきだろう)

(おや。運転手のサントスが、夜中の2時にメイドのガーディの部屋に行く。つまり、そういうことか。すると間もなく、母屋からひとつの黒い影が出てきて、ガーディの部屋をそっと覗きこんでいる。樫村の息子の翔太だ。そういうことか。フィリピンの国内でありながら、このエリアだけは、まだまだ平和な空気が流れている)

 

STEP104

ジョギングをする島と樫村。「もう汗をかいてしまった」「フィリピンでゴルフをする時は、あらかじめ少し汗をかいておいた方がいいんだ。いきなりフェアウエーに出ると、一気に水分が流出して、脱水症状を起こすからな」「この家は凄い家だな。ワンブロックが全部一軒の屋敷じゃないか」「セルバンテス一族の家だ」「セルバンテス一族?」

「ああ。有名なアヤラ一族のように、この国の政府と結びついて勢力を伸ばしてきたスペイン人の政商だ。このビレッジの実質的なオーナーであり、マニラの南部に広大な土地と複数のゴルフコースを所有している。今日行くゴルフ場もまさにセルバンテス一族経営のゴルフ場だ」「そうか」「見ろ。車が出てくるぞ」

車に乗る娘を見つめる島。「いい女だな」「多分、ソフィアだろう。マリオ・セルバンテスの一番下の娘だ」「俺たちとは無縁の世界の人間だな」「あながちそうでもないぞ」「え」「セルバンテス一族はマニラ南部のイムス地区にブルドーザーを入れて一大工業地帯にしようとしている。つまり工場誘致だな。そこへODAの絡みで、ハツシバの新しい工場が建設される計画があるんだ。もしそうなれば俺たちが動いて交渉しなければならないかもしれない」「そうか」

「さ、行くぞ。翔太。早くしろ」「待ってよ。今、起きたばかりだから」「全く。いつまで寝てるんだ。若いのに」「まあまあ、コーヒーでも飲んでなさいよ。でも、島さんがうちへいらして、あなた、随分明るくなったみたい」「そうかな」「そうよ。毎日がとても楽しそうじゃない。いつも家では仏頂面してたのに」「ふん」「島さん、うちの人、いつも、あなたのことばかり、話題にしてたのよ。まるで、恋人のこと喋ってるみたいで。ちょっぴりジェラシーを感じちゃたりして。ホホホ」(女の勘は鋭い)

ラウンドを終えて、クラブハウスに行く島と樫村と翔太。「僕、シャワーを浴びてくるから、スプライトを注文しといて」「わかった」「いい息子じゃないか。絵に描いたような幸せな家族だな」「……」「どうした」泣き出す樫村。「家族が愛せない。女房も子供も何の興味もない。そんなものクソくらえだ。イヤでイヤでしょうがないんだ」(完全な自己破壊だ)

 

STEP105

(ローラの考案した安価の洗濯機HR-20は爆発的に売れた。注文に生産が追い付かない状態になったのだ)「岡村さん。ラインをもう1本増やせないんですか」「ああ、今、その準備をしてるが、何せ急な話だからな」「しかし、こんなに売れるとは思いませんでした」「あのローラ、秘書じゃもったいないな。仕事できるもんな」「私もそう思います。彼女、マネージャーに引き上げてやったらどうでしょうか」「そうだな。現地人の人事は俺たちの管轄じゃないからな。君がオーナーに進言してやったらいい」「そうですね」

HR-2Oの拡販でセブに3日間出張すると島に言う樫村。「後は頼むぞ」「わかった」「業務の詳細はローラに渡してあるからな。じゃあな」「ローラ」「はい」「樫村から話は聞いてるな」「はい」「それでな、ローラ」「はい」「君は秘書では役不足だ。もっと責任のある仕事をしてみないか」「どういうことでしょうか」

「つまりだ。マネージャーとして販売の陣頭指揮を取ってみる気はないかと言うことだ」「……」「君は実力がある。若いけど十分やっていけると思う。その気があるなら、オーナーのカルロス・メンドーサに進言しようと思うが」「いえ。結構です」「え」「まだ、自分には早いと思います。もっと島さんの下で働きたいと言うのが今の気持ちです」「……」

島にビールでも飲まないかと聞く峰子。「あ、いいですね。いただきます」「先に飲んでて下さい。私ちょっと汗かいたから、着替えてくるわ」そこに地震が襲ってくる。「キャアア」下着姿で島に抱きつく峰子。「終った」「あっ」

 

STEP106

「奥さん、凄い地震だったですね」「ええ」「か、片付けないと」「お願い。動かないで」「翔太君が帰ってきますよ」「あの子は野球の試合なの。夜8時まで帰らないわ」「メイドが」「メイドも運転手も全部今日は休みにしたの。主人はセブ島に行ってるし。今、この家にいるのは2人だけ」「奥さん」「そうよ。意図的にこの時を作ったのよ。あなたと2人きりになれる時間を。お願い、抱いてください」

「ダメです。それはいけません」「私に恥をかかせないで」「落ち着いてください、奥さん。あなたは素敵な女性です。でも、あなたは僕の親友の奥さんなんだ。そんなことをしたら、僕は樫村と顔を合わせて話せなくなる。勿論あなたとも」「……」「わかってください」「ごめんなさい。取り乱しちゃって」「いえ」

「私の話を聞いてもらえます?」「はい」「主人とはもう5年も夫婦生活がないの」「……」「これって異常だと思いません?」「そうですね」「他に女がいるのかと思ったのですが、その気配もないし。セックスをしないこと以外には夫には不満はないんです。私って女としてそんなに魅力がないかしら」「いえ。そんなことはありません。奥さんはとても魅力的です。でも」「でも何ですか」「い、いえ、別に」

電話に出る峰子。「島さん、あなたに。会社から」「はい、島ですが」「岡村だけど、先ほどの地震だけど、ルソン島中部が震源地らしくて、バギオの方でかなりの被害があったそうだ。救援活動などについて、緊急会議を開きたい。今晩7時に工場に来てくれんか」「わかりました。これから行きます」(内心ほっとした。出かけるためのいい理由ができたからだ。後片付けをする樫村の奥さんの背中はとても悲し気だった)

「岡村君。被害状況はわかったか」「思ったより、大変な地震です。死者は100人ぐらいと言ってるけど、実際はこの何倍も言ってるじゃないかな」「竹熊さん。ニュースに現場の画像が出ましたよ」「あらら。こりゃあスゲエや」「岡村さん。バギオへ通ずる道路が山崩れで閉ざされ、車では向かえないそうです」「大野君、それはやばいぞ。陸路が使えないとなると、クレーン等の大型機械が持ち込めないじゃないか」

呟く竹熊。「この救援活動の状況では、今後相当の死者が出るな。うちとしても何かまとまった形の援助をしなければならない。初芝電産に対する住民感情のポイントを上げるのに絶好のチャンスかもしれん。島君、樫村君はどうした?」「はい、セブに出張してるんですが、連絡が取れないんです。宿泊先のホテルにも不在で」「そうか。じゃあ、岡村君、うちからは強力パワーライトを5千本寄付しよう。それから義損金として100万ペソ用意してくれ」「了解」「今日はこれで解散だ。明日10時にまた集まってくれ」

「島さん」「ローラじゃないか。どうしてこんな時間に工場に?」「今日は残業してHR-20の生産工場に行ってきました」「今、24時間、ホワイトラインを動かしてるだろう」「それでも生産が追い付かなくて」「そりゃ結構だ。来年の社長賞は間違いないぞ。まだ、ここにいるのか」「いえ、もう終わりました」「ちょっと腹減ったな。夜食でも取って帰らないか」「はい」

夜食を取ったあと、馬車に乗る島とローラ。「こっちから右側はリサール公園。あそこにいる女たちはみんな男性の街娼です。夜のリサール公園はアベックの名所ですが、そっちの方で有名なところです」「ふーん。なるほどね」(えっ、樫村)「島さん、どうしたんですか」「い、いや。何でもない」(樫村がセブ島のホテルにいない理由がわかった)

 

STEP107

料亭で外務省経済協力局の小田島とヒロ・コンサルティング社長の広井と会う大泉。「以前お話ししましたフィリピンの工場誘致の件、検討いただけましたか」「ええ。基本的には工場の進出を考えております」「それは有り難い。日本政府としてもハツシバさんのような優良企業に入っていただければ安心です」「我が社以外の誘致情況はどうですか」「日本ベアリングさんと四菱重工さんが入る予定になってます」

「フィリピン政府としては基本的に現地法人との合弁企業で行きたいと言ってますが」「そりゃ後で自国のものにしたいわけだから、当然そう言うでしょうな。ところで今度の工業団地建設はフィリピン政府バックアップの民間主体でしたな」「はい。スペイン人の政商セルバンテス財閥が開発しています」「そう言えばおたくの合弁会社もオーナーは確かスペインの人でしたな」「カルロス・メンドーサと言うオッサンですよ」

「合弁にする時は、そのメンドーサさんと資本を分け合うんですか」「いや、今度はうち単独でいきます。勿論、それには輸出比率70%以上の会社でなければならない」「え。それやると、メンドーサさんとの間に軋轢が生じませんか」「それは大丈夫です。VTR関係とOA機器の工場にするつもりだから、HPEと競合しません。VTRやOA機器はあの国では、まだ需要がありませんから」

まずいなと呟く広井。「どうかしましたか」「いや、ハツシバさんとの合弁はセルバンテス一族が乗り気なんですよ。日本ベアリングと四菱重工もセルバンテス一族との合弁です。場合によっては、工業団地加入の条件として、セルバンテスとの合併を付けて来るかもしれませんよ」「冗談じゃない。それならこの話降りますよ。別にフィリピンでなくてもいいんだ。タイでもインドネシアでも場所なら腐るほどある」「ま、大泉さん。そうご立腹なさらないで」

「大体、あんたらコンサルタント会社が裏でチョロチョロするから、国民の血税で作ったODAが反日感情を生むんだ」「申し訳ありません」「まあいい。あんたの軽口も時には役に立つ」「え」「向こうがどういう腹なのかわかったよ。こっちの作戦も立てやすい」(フィリピンには樫村と島がいる。あの2人ならうまくやってくれるだろう)

イムス地区工業団地進出の件で大泉から電話があったと島に話す樫村。「あそこにVTRとOA機器の工場を作るそうだ」「と言うと輸出中心になるわけか」「生産品の70%以上が輸出品になれば、100%の外国資本が認められる。こいつを利用して輸出専門の工場を作って、ハツシバ単独資本の会社を作るんだ」「なるほど」

「ところが、あの工業団地の建設に当たっているセルバンテス財閥がうちとの合併を望んでいる。場合によっては工場進出の条件として、セルバンテス財閥との合併を言ってくるかもしれん」「社長の電話と言うのは、その条件をぶっ潰せと言うことか」「その通りだ。どうやら裏でコンサルタント会社が暗躍している。奴らとセルバンテスの密約があるみたいだな」「そのコンサルタント会社って一体何なんだ」

説明する樫村。「ODAの援助額を決める調査会社だよ。ODAが支払われるシステムはこうなっている。まず、援助を希望する国は日本大使館に書類を提出しなければならない、その要請を受けた日本大使館は外務省を通じて大蔵・通産・外務・経済企画庁の官僚たちが集まって審議する。審議結果を閣議に回し、そこで決定されるとODAが実施される。ここで問題になるのが具体的な要請書だ。この見積もり調査には高度な調査技術と計算能力が必要となる、そこで見積もりのプロフェッショナルとして、日本人のコンサルタント会社が登場するわけだ。コンサルタント会社はODAのプランニングをして利益を得るのが本業だが、建設機器の手配等もする」

「なるほど。そこに企業の利権が絡むわけだな」「大体そうなる。大泉さんはこの連中が大嫌いだ」「なぜ」「企業が絡むと利権を巡って相当な裏金が行き来する。コンサルタント会社はこういう裏金をもらって生きているハイエナのようなヤツと言うのが、大泉さんの見識だ」「今回の工場誘致に当たっているコンサルタント会社はどこだ」

「ヒロ・コンサルティングだが、ここの社長の広井がなかなかの男でね。日本の企業から裏金をもらう一方、セルバンテス一族とも密約を交わしてるフシがある」「その広井と言うヤツもぶっ潰せと言うことか」「当たり。厄介な仕事だぞ」「どうだ。ちょっと、そのセルバンテス一族の工業団地とやらへ行ってみるか」「そうだな」

樫村に聞く島。「先日の大地震の時、俺がセブ島のお前のホテルに電話した。しかし出なかった」「……」「お前はあの時、セブ島にいなかった。マニラに来ていたからだ」「何故そんなことを言う」「あの日の夜、お前をリサール公園で目撃したからだ」「そうか」「……」「島、今の俺は仕事以外は絶望的状況なんだ」

「樫村。お前にはあんないい家族がいるじゃないか」「その言い方がプレッシャーなんだ。家族が重荷なんだ。そのプレッシャーから逃れるために、俺は一生懸命仕事に打ち込んだ。皮肉にもそれで俺は同期で一番出世だ。加えて俺は性の倒錯者だ」「樫村。お前、フィリピンを離れた方がいいんじゃないのか」「なぜ」「このまま長期間ここにいるとお前はダメになる気がする」「そうか」

工業団地に到着する島と樫村。「広い土地だな」「うむ。今にここにビッシリと工場群が建つんだ。フィリピン経済復興の源となるかもしれん」「そうだな」「おい見ろ。あいつらを」「え」「マリオ・セルバンテスだ」「マリオと言えば、俺たちのビレッジの中の一番でかい家の」「そうだ。セルバンテス一族のナンバーワンだ」「ソフィアか」「他の一族の連中もいるぞ」「まるで戦いの前の顔見世みたいだな」「なんとなく震えてきたぜ」

 

STEP108

樫村に電話する大泉。「今回の工業団地進出の件は社内でも極秘だ。戸倉や竹熊にも内緒にしろ」「わかりました」「とにかく強気で押すんだ。セルバンテス一族は合弁会社を条件にしてくる。その条件はぶっ潰せ」「それだけでいいんですか」「セルバンテスはフィリピン政府と深いつながりがある。奴を攻略して、無関税輸出加工区を作って欲しい。つまり、免税・治外法権・海外への送金自由と言う我々の条件を呑ませるんだ」「わかりました」

ローラに極秘の仕事を進めると言う樫村と島。「うちのオーナーのメンドーサは俺に対して敵意を持っている。自分が持株上ではオーナーだが、実質上はハツシバの代表である俺に権限があるだからだ。だから俺に対して、情報を一切くれない」「はい。知ってます」「しかも今回の計画はメンドーサを無視して、ハツシバ単独資本の新会社をこのフィリピンに作ることだ。彼にとっては当然面白くない」「……」

「一方、日本政府はODAの絡んだ仕事だけに、工業団地計画は絶対に成功させたい。そのためにはハツシバのような優良企業が入ることを望んでいる」「ハツシバが工場を作ることは結果的にはフィリピンにとっても利益のあることだ。それは理解できるな。ローラ」「はい。わかってます」

「俺たちのターゲットはセルバンテス一族の領袖マリオ・セルバンテスだ。彼と直接話をしたい。そのためのきっかけが欲しい」「で、私に何をしろと」「セルバンテスとうちのオーナーのメンドーサとは同じスパニッシュで交流があるはずだ。彼のスケジュールをキャッチして、俺たちに知らせて欲しいんだ」「オーナーが私に喋ってくれるでしょうか」「オーナーの秘書のニーナ。君の同期だよな。彼女の口からうまく聞き出せないかな」「はい。それは可能です」

ODAをどう思うかとローラに聞く島。「日本政府がフィリピン政府に援助をすることはいいことだろうか」「私は否定的です」「どうして」「確かにフィリピンは日本に援助を頼りたいはずです。それにより、フィリピンも潤い、日本企業にも利益は還元されるでしょう。でも、そういう援助に頼りすぎるとフィリピン人の自立と言う意識に妨げになると思います」

「なるほど。じゃ、日本の外国人労働者の受け入れはどう思う」「基本的に賛成です。でも日本で貰えるお金が高すぎるのが問題だと思います。高すぎる為に国内の労働力が逆に日本に流出すると言う問題が生じてます。私の友人の看護婦は日本で働いています。こっちの看護学校を出ると、みんな賃金の高い日本へ出稼ぎに行く。そのためフィリピンの病院では深刻な人手不足に陥っています」「……」「外国人に対して、日本と同レベルの賃金を支払うのは、かえって相手方の経済構造を乱すと言う害があると思うんです」「それは気付かなかったな」

大衆食堂に行く島とローラ。「島さん、東南アジアの中で、フィリピンの経済状態はどの程度なんですか」「GNPでは一人当たり700ドルとなっている」「それは多い方ですか」「東アジア6か国中、5位だ」「他の国はどれくらいですか」「1位はシンガポールで8500ドル、次いで台湾は6500ドル。この2国がダントツだ。3位がマレーシアで1700ドル、4位がタイで1000ドル、5位がフィリピンで、6位がインドネシアで600ドルだ」「我が国はアジア諸国の中ではまだまだ貧しいんですね」「でもフィリピンはこの5年間で15%伸びている。これからの国だよ」

「ちなみに日本はどれくらいですか」「1人あたりのGNPは年間2万ドル以上だ」「え。そんなに差があったんですか。知らなかった」「ローラ、日本に行ってみたいか」「はい。勿論です。まだフィリピン以外の国は見たことありませんから」「じゃ、今度、君が日本に出張できるように仕事を作ってやろう」「本当ですか。夢見たいです」「君はこれからこの国を背負って立つ女性の一人となると思う。いろんな外国を見ておくべきだ」「はい」「おっ、停電だ」

(フィリピンには停電が多い。しかしこれは決してアクシデントではなく、供給が需要に追い付かないための計画的な電力ストップなのだ。夕方だろうが夜だろうが、おかまいなしに突然停電になる)

「うわあ、何も見えないや。これじゃ食い逃げしたって、わからないかもな。ローラ、どこにいるんだ。君が見えない」

(その時、誰かの柔らかい唇が俺の唇の上に重なった。熱い唇だった。互いに言葉を発することなく、熱い沈黙のキスの時間が流れた。明かりがつく前にキスの相手は体を離し、明るくなった時には、ローラは元の位置でビールを飲んでいた。お互い、暗闇の中で起こったことには何のコメントもせず、ごく自然に食事の時間に戻っていた)

「俺は今から社に戻るけど、君はどうする」「私は帰ります。ごちそうさまでした」「そう。じゃ、気を付けて」

(あの暗闇の数分間は何だったのだろう。思えば不思議なくらい現実感がなかった。あのキスは幻想だったのではないか、と思ってしまう。しかし、これは現実だ。ローラは俺の胸の中に確実に熱い塊を残していった)

 

STEP109

マニラに到着した木暮を迎える島と樫村。「なるほど。そのコンサルタント会社の広井なにがしを何とかしようと言うことか」「そうなんだ。ODAの仕事で、アコギな金を稼いでるダニみたいなヤツなんだ」「資料はあるか?」「ここに写真と簡単な経歴がある。ヒロ・コンサルティング社長、広井一雄。マカティのビルにオフィスに構えている。以前は政府関連機関の調査の仕事をしていたらしいが、10年くらい前からこっちに来て、主にODA絡みの調査をしてるヤツなんだ。その男に張り付いてほしい」「と言うことは長期滞在になるな。嬉しいね。南の島で夏休みだ」

セルバンテス一族へのアプローチはどうすると島に聞く木暮。「ハツシバ・フィリピンのオーナーが同じスペイン人なんだ。彼のスケジュールを調べている。おそらくセルバンテス一族との接点があると思う。その会合なりパーティーに潜り込んで直接交渉だ」「なるほど。虎穴に入らざれば虎子を得ず、か」「そういうことだ。その時に何とかセルバンテスのアキレス腱に掴んでおきたいんだ」「じゃ、セルバンテス一族も張ろうか」「そうだな」

ニーナから聞いて、メンドーサのスケジュールがわかったと島と樫村に言うローラ。「今週の土曜日、7時からマカティの自宅で月に一度のホームパーティーを開くそうです」「そりゃ好都合だ。セルバンテス邸は俺の居住区と同じところにある」「出席者は200名くらいで今回の趣向は仮面舞踏会と言うことです」「何とか潜り込みたいな」「よし。そのパーティーが最初のターゲットだ」

島に電話する木暮。「今、マカティの日航ホテルのロビーにいる。ソフィア・セルバンテスに接触するチャンスだ。お前の車を自分で運転して来い」「OK。なんだかよくわからんが、とにかく行くよ」

レストランの前に停まっているポルシェはソフィアの車だと島に説明する木暮。「ソフィアはそろそろレストランから出てくる」「それで?」「ちょっとボンネットを開けて細工した。彼女がキーを回してもエンジンがかからない。そこを偶然通りかかったお前が助けてやる。こういう古典的趣向だ」「何をしたんだ」「簡単なことだ。バッテリーのターミナルを外しただけだ。つなげれば、すぐ元に戻る」

エンジンがかからず苛立つソフィア。そこに現れて、ボンネットを開けてバッテリーのターミナルをつなぐ島。「キーを回して」「はい。わっ、かかったわ。ありがとうございます」「よかったな。じゃ、俺はこれで」「あ。待って。お礼したいんだけど」「いいよ。そんなこと。今度いつか出会うことがあったら、一杯おごってくれ」

 

STEP110

セルバンテス事務所のスタッフに扮して、メンドーサに電話するローラ。「今晩7時のパーティーは中止です」「中止?」「急に予定が変わりまして」「了解」これで邪魔者がいなくなったと樫村に言う島。「堂々と乗り込むか」「何か言われたらメンドーサの代理と言うことにしよう」

マリオ・セルバンテス邸に仮面をつけて乗り込む島と樫村。「案外すんなり入れたな」「そりゃそうだ。ビレッジの入り口で厳重なチェックをしていたから、ここではもうチェックはない。幸い、俺たちは同じビレッジの住人だから、普通の許可証で通過できた」「まさか、ビレッジの住人がこのパーティーに紛れ込むなんて、夢にも思わないわけだ」

「おい、見ろよ」「ソフィアだ」「ドレスアップすると一段と美しいな」「そうだな」「島、ソフィアはお前がアプローチしろ。俺は女は苦手だ」「お前は?」「俺はマリオに体当たりだ。ここまで来て何も収穫なしで帰るわけにはいかん」

(やがて舞踏会は加わり、アルコールはほどよく回ってきて、周囲の空気は徐々に崩れて来た)「どうやら、このパーティー、相当乱れるぞ。この調子なら夜明けまで続くぜ」「そうだな。段々好ましい雰囲気になってきた」

マリオ・セルバンテスに接近する樫村。「君は誰だ。私の知らない顔だが」「フィリピンハツシバの社長の樫村と申します」「ここでは、ビジネスの話はしないことになってるが」「ビッグビジネスですよ。ミスター広井が持ち込んで来た工業団地の話に乗るつもりですが」「わかった。私の書斎に来てくれ」

酔って二階の部屋に戻ろうとするソフィアに仮面を取って話しかける島。「俺の顔に見覚えないか」「覚えてるわ。そして、あなたとの約束もね。一杯おごらなきゃならないのよね」「いや。酒はもう十分だ。一曲踊ってくれないか」「じゃ、私の部屋で踊ろう」

話し合う樫村とマリオ。「あなたの開発している工業団地へ初芝電産に入るための予備交渉をしたい」「ミスター広井にその条件を出している筈だ。うちとの合弁ならOK。資本の比率は6対4」「私は大泉社長から頼まれました。資本は100%我が社です。フィリピンに貢献するために輸出比率90%の企業を作ります」「私はこの国に貢献するつもりはない。セルバンテスコンツェルンはエレクトロニクス部門が欲しい。そんなことならハツシバでなくともいい。オランダでもアメリカでもいいんだ」

「待ってください。今回の工業団地は日本のODAがなければ成功しませんよ。ハツシバがその気になればODAを中止するくらいの力を持っている」「じゃ、やってみろ、こっちだって政府がバックについているんだ。政府間交渉の場に民間企業が出てきて変えられるもんか」「セルバンテスさん。民間企業の協力がないとODAだって空回りします。そんなことは常識でしょう」「む」

「うちがおたくの工業団地に入れば、関連企業も沢山動くし、周辺の経済が活性化することは間違いない。勿論、セルバンテス財閥の経営する数々の会社にも利益はキックバックされます。いいですか。アキノ政権だって安泰ではない。政権が変われば、政商の領袖たるあなたも一族が生き残るために交替しなければならない。今のうちにやれることはやっておいた方が賢明ですよ」「正直言うと、すでにソラー電機が合併の話を持ってきてるんだ」「え」

チークダンスを踊る島とソフィア。「まだ名前を聞いてなかったわね」「島耕作って言うんだ」「ミスター島。私にアプローチした理由は何なの」「あれ。見透かされてるかな」「変だと思ったの。だって、ポルシェのバッテリー、3日前に交換したばかりだったもの。それで、このパーティーにあなたが突然現れる。シナリオが出来過ぎているわ」

「おーい、ソフィア、どこだ。部屋か」「あら、大変。兄だわ」「ソフィア、開けるぞ」ソフィアのスカートの中に隠れる島。「気分はどうだ。ソフィア」「大丈夫よ。でも、もう少し休んでいたいわ」

 

STEP111

兄は行ったわと島に言うソフィア。「出てらっしゃい」「ふう」「どうだった。居心地は?」「もう少し長居をしたかったね」「さて、さっきの話の続きをしましょ。何が目的なの」「君のお父さんが開発を進める工業団地への加入だ」「あなたの会社は?」「初芝電産だ」「ハツシバならフィリピンにあるじゃない。どうして、うちに入って来るの」「1972年、マルコス政権の時に計画されていた無関税輸出加工区の条件で、単独資本で入りたいんだ」

「随分、高飛車ね。セルバンテス財閥としては、うちの資本60%の合弁が条件よ」「うちとしてはフィリピンの国益に協力したい。輸出比率90%以上の会社を作りたいんだ」「はっきり言って難しいわ。パパはエレクトロニクス部門に進出するつもりだし、合弁会社を作って、技術を吸収したいのよ。それに」「それに何だ」「ソラー電機が自己資本45%の条件で話を持ってきてるわ。ソラ―を蹴落とすには、それなりの条件を提示してくれなきゃ、うちとしても納得しないわね」

「ソラーか。そりゃ分が悪い。君ならどういう条件を提示すれば呑んでくれる?」「うちの傘下の家具工場がある。オートメーションのきかない手仕事中心の籐製品の工場で、大勢の人間を抱えているわ。その工場で今、労働組合結成の動きが出てるのよ。それを阻止したいわけ。うまく押さえられたらOKを出すわ」

「しかし、労組を作って資本家に対抗するのは、正当な労働行為だ」「セルバンテス財閥の企業には労働組合は存在しない。これがうちの経営方針なの。でも誤解しないでね。これは労働者から搾取するためじゃないの。それを証拠にうちの企業はマニラの平均的給与の2倍以上支払ってるわ。いたずらに組合が力を持つと、企業の力が弱くなる。現在の韓国の状況を見ればわかるでしょ」

「確かに韓国は過度の労働運動のため、GNPがガタ落ちになった」「飛ぶ鳥を落とす勢いだった韓国が貿易収支赤字国になってしまったのよ。結果的には労働者は自分で自分の首を絞めたわけでしょ。そのことを家具工場のみんなにうまく説明してほしいの」「トライしてみる価値はありそうだな」「ねえ、窓を伝って、2人で庭へ降りてみない?」「え。どうして」「そろそろ兄はまた戻って来るわ」「ここは二階だぞ。大丈夫か」「平気よ。子供の頃はしょっちゅう降りてたもの」

マリオに聞く樫村。「ソラー電機が合併の話を持ってきてる?」「そうだ。資本比率は45%で打診してきた。うちは40%以上はダメだと答えてある」「……」「ソラー電機は最初から合弁でやるつもりだ。我々の条件は早晩呑むだろう。ハツシバとしてはどう出る?」

カーテンを開ける樫村は、二階から降りてくる島とソフィアと目を合わせる。「どうだ?ミスター樫村」慌ててカーテンを閉める樫村。「あ。よくわかりました。こっちとしては現段階で対抗できる材料がない。しばらく考えさせてください」

アハハハと笑うソフィア。「うまくいったわ」「久しぶりに興奮したよ。面白かったな」「あら、私はまだ興奮してないわ。あなたが興奮させて」島を押し倒して、パンティを脱ぐソフィア。「もうだめよ。逃がさないわ」「なんだか犯されてるみたいだな」「私、この国では誰ともセックスしてないの。私がセルバンテスの娘だから、誰も手出ししないのよ」

「わかるよ。恐れ多くてそんなことはできない」「留学先のイギリスでして以来、2年間も男の匂いから遠ざかっていた。だから欲しくて欲しくて。わかるでしょ。私がこんなに興奮してるわけ」「わかるけど、おかげでタキシードのズボンがグチョグチョになった。明るい場所に出られない」「平気よ。あとで服ごとシャワーを浴びればいいわ」「シャワー?」「ちょっと黙ってて。イキそうだから」

イヤッホーと叫んでプールに飛び込む島とソフィア。「どう?これから平気でしょ」「なるほど。完璧だ」「楽しそうだな、島。俺も仲間に入れてくれ」「樫村。お前もはいるか」「お友だちなの?」「紹介するよ。フィリピンハツシバの社長の樫村だ」プールに飛び込む樫村。「初めまして。樫村です」「ソフィアよ。よろしく」(フェリーニの「甘い生活」を彷彿とさせるような退廃と狂乱の一夜だった)

 

STEP112

ローラとともにセルバンテス財閥傘下の家具工場に行き、工場長のセザールと会う島。「まいりました。この3か月で急に組合結成の動きが出ましてね。どうやら労働運動家が応援に来ているらしいんです。この工場は利潤も目的にしてない。それが証拠にこの10年、利益は1ペソも出ていません」「何故ですか」

「セルバンテス会長は、この国の貧しい人たちを支援するために、積極的に救済活動を行なっています。この工場はその一環で、いわば職業訓練所のようなものです。失業者の技術を身に着けるための施設と思ってください。そんなところにどうしてわざわざ組合を結成しようとするのが、私にはわからない」「なるほど」

工場の代表たちと会う島。「日本の電機メーカーで労働問題を担当している島と申します。私はどのような運動が皆さんのためにベストなのか、私の考えをお話したい」「最初に我々の要求を二つ聞いていただきたい。一つは給与の改善。セルバンテス系の工場の中で、ここだけが異常に低いのは不当である。もう一つはこの職場の雇用期間が2年しかないこと。この2点の改善を要求する」

説明する島。「この工場は普通の生産工場と言うより、失業している人々に技術をつけさせて、将来働けるようにするための施設のようなものです。それでも給与は1人3000ペソ平均でお渡ししてます。これはマニラの労働者の平均的給与と同じです」「しかし、他のセルバンテスグループの工場は6000ペソ出している」「他の工場は技術を持った人たちが働き利益を出している。あなた方が6000ペソを要求すると、この工場は閉鎖に追い込まれます」「……」「それから雇用期間2年と言う問題ですが、失業している人たちは沢山います。2年経っても出て行かないと、あとの人たちの技術獲得のチャンスを奪うこととなります」

「我々は資本家に騙されてきたと言う歴史がある。そういう企業側の論理に組することはできません」「労働者は資本家と常に対決していかなければならない。このことこそ、以前の労働運動の基本でした。しかし、今は時代が変わりました。この思想が産まれた頃の搾取は現在ほとんどありません。会社側もバカではない。労働者を圧迫して企業がやっていけると思ってない。労働力こそ、会社の最も重要な資産です。会社は働く人々と一緒に大きくなってゆこうと言う考えなんです」

「あなたがた日本の企業家はそういう甘言を弄して、我々貧しいフィリピン人を利用して。多大なる利益を上げているのです。日本の企業がこの国に進出する理由は。日本より安いお金で労働者を使えるからではないのですか」「仰るとおりです」「それは搾取ではないのですか」

「搾取とは思いません。日本の企業が入ることで周辺の人たちの生活が向上していることは確かです」「日本の企業が入ることで、この国の貧富の差が広がっている現実をご存知ですか」「知っています。しかし、それはフィリピン政府の政治の問題であります。我々に全責任を負わせて、日本の企業を締め出そうと言うのは、全体の利益に反する考えで納得できません」

「あなたの論理は強者の論理だ。日本企業も資本主義も根本的に弱肉強食じゃないか。人間は生まれながら平等なはずでしょう」「勿論、権利において絶対に平等でなければなりません。しかし人の能力は平等ではない。そういう意味で、ある程度の弱肉強食は仕方ありません」「それが資本主義の最大の弱点だ」「実現の不可能なイデオロギーより正しいと思います」

動揺する工場のメンバー。「ペレスさん。我々はあなたとミスター島の言うことが理解できません。もっと我々の身近な問題に戻しましょう」「ペレスさん。あなたはこの職場の人ではないのですか」「あ。いや、その」「ペレスさんは我々の労働組合を手伝ってくれるアドバイザーです」

「ペレスさん。組合の本来の姿は、自分たちの生活向上を考えることです。外部の人間が入って、政治的な集団に作り上げるのは不当です。速やかにこの部屋から出て行ってください」「バカな。私はこの人たちに頼まれて」「別に頼んでいませんよ。あなたが勝手に入り込んだきたんじゃないですか」「……」「ぺレスさんは我々の問題より、もっと大きな政治の話ばかりしてる。あんたはもういい。出て行ってくれ」

(ペレスは俺に「覚えていろ」と捨て台詞を残して去っていった。我々はその後話し合いをし。この工場の特殊性を考慮して、労働組合は結成せず、定期的に会社側と従業員の代表が懇談会を持つと言う形で合意に至った)

やっぱりそうだと呟くローラ。「島さん、この雑誌の写真を見てください」「どうした」「この間のペレスと言う男、どこかで見た顔だなと思ったんです。2年前の雑誌ですけど、その写真の左端の男、ペレスに似てると思いません?」銃を構える男を見て、そっくりだと呟く島。「その連中はNRAと言って、共産主義的なゲリラ活動を続ける反政府軍です。日本企業も攻撃の対象となっています」「……」

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