弘兼憲史「課長 島耕作(9)」

 

STEP89

「まいったわね、あのバアさんには」「どうもすみません。なんだか全て私に責任があるみたいで」「そんなことないわよ。あなたはただ利用されただけ。でも大泉笙子はどうして私の通っているフィットネスクラブを知っていたのかしら」「おそらく、高額所得者向けのダイレクトメールで案内を貰って、会員名簿を調べたんじゃないでしょうか」「社長交代劇の際の持株一覧表を見てから、私に興味を持ち始めたのね」「あのプールサイドの戦いは迫力ありましたよ。2500万株と1500万株の激突でしたからね」「合わせて時価1200億円のストリップか。オホホホ」

「ところで、大泉笙子はうちの娘があなたの部署にいるってことを知ってるの」「いえ。それはご存知ないと思います。知ってたら、そっちの線から攻めてこられる筈ですから」「そう。まあ、それはどっちでもいいか。どうせ久美子はあと一週間もすれば会社を辞めるんだし」「彼女から聞きましたけど、世界の社交界にデビューさせるとか」「そうね」「久美子さんはもはや私なんかとは無縁の世界に行かれるんですね」「そうね。あの娘が外国へ行く気になったのは、あなたのことを諦めたと言う意思表示かも知れないわよ」

社長室で、フィリピンですか、と呟く島。「そう。5月からマニラにあるフィリピンハツシバに行ってほしい。いやか?」「いえ。そんなことはありません。私は独身ですし」「あなた、昨日、私に嘘をついたわね」「……」「大町愛子がプールの中にいるのを確認していたのにいないって言ったでしょ。どうして」「申し訳ありません。彼女には借りがあったので、何となくかばってしまったと言うのが事実です」「私をコケにして、クビにならなかっただけでも幸せと思いなさい」「……」「あなた、帰るわね」

すまんなと島に詫びる大泉。「俺も養子の立場だ。強く言えないんだ。わかってくれ」「……」「実はフィリピンを選んだのも樫村がいるからだ。ヤツなら君をうまく処遇してくれる。あいつからの要望もあったしな」「そうでしたか」

海の見えるレストランで食事をする島と久美子。「そう。島さんもフィリピンに行くんですか」「お互い海外暮らしになるんだ。壮行会を兼ねたデートだな」「手紙くださいね」「勿論だ」「変だわ。突然2人はプラトニックなペンフレンドに変わるのね」「でも、今日はまだ違う」

「思い切り愛して」「ああ。朝まで時間はたっぷりあるさ」(その夜、夢を見た。光の中を巨大な鯨が泳いでいく。音もなき、しかし着実な速度でゆっくり上昇してゆくのだ。鯨の通り過ぎた後を、希望の虹が船の航跡のように追いかけてゆく。俺は洋上の小船から、ただ手をかざして、その姿を見つめるのみだ)

(朝日のごとく、爽やかに大町久美子は俺の視界から遠ざかった)

 

STEP90

中沢に島がフィリピンに行くと伝える福田。「どうしてですか、本部次長。現在のハツシバショウルームの運営が軌道に乗ったのも、彼がいたからこそ出来たことでしょう」「まあ、そんな怖い顔をするなよ。わしが言うたんじゃない。人事本部の清水専務から直々に通達が回って来たんだ」「後任は?」「今野君を考えとる」「……」「どうした。彼じゃ不服か」「いえ。ショウルーム運営の経験はありますが、人望がないんですよ。他のショウルーム所長の間で」「人望なんかどうでもいい。要は仕事が出来るか出来んかや」「わかりました」

喫茶店に島と今野を呼ぶ中沢。「島君には5月からマニラにあるフィリピンハツシバに行ってもらうことになった。今日、人事から通達が来た」「はい」「え。ほならショールーム課は」「今野君。君にやってもらうことになった」「わ、私が全国のショウルームの責任者になるんでっか」「そういうことだ。職責は課長代理になる。君も来月からは非組合員だ」「は、はい」

社長と何かあったのかと島に聞く中沢。「課長クラスの人事異動にトップからの通達が来るなんて、普通じゃない」「いえ。別に社長とは」「まあいい。君が行くところは樫村のところだ。同期の下で働くのはやりづらいだろうが、彼はしっかりとした男だ。その点では安心してる」「私は別にマニラに行くことはイヤではありません」「しかし、俺は残念だ。君は稀に見る俺と同タイプの人間だからな」

「そうですね。私も中沢部長は自分のお手本となる人だと思ってました」「カカカ。そんなお世辞は君には似合わない。いずれにしても今度は長いかもしれんぞ。3年、いや、5年になるかも」「ええ。その辺の覚悟は出来ています」「ま、今野君との引き継ぎが終わったら、しばらく市場調査でもして、遊んでろ」「はい」

(確かに中沢部長と離れることは残念だ。残念だが、それがサラリーマンだ。命令には従わなければならない。いや、それが人生と言うもんだろう。人と出会い、人と別れる。人生と言うのは、その繰り返しなんだ。そうだ。いい言葉がある。生々流転だ。諸行無常なんだ)

城南無線に行く島。(あった。ちっとも変わってない。昔のままだな)「ごめんください」「はい」「覚えていらっしゃいますか。もう20年前に販売実習生として3か月この店でお世話になった初芝の島ですけど」「おー、あんたか、覚えているよ。懐かしいなあ。おーい、母さん。お茶、持ってきてくれ」「はい」「ほら、うちの実習生に来ていた島田さんだよ、覚えてるか」「あ、島ですけど」「ああ、島田さん。勿論覚えてますよ。ほら、アンテナ取りつけていて、屋根から落ちたことあったでしょう」「え、そうでしたっけ」(何か間違っているみたいだな)

「そうですか。今はもうご子息にお店を任せておられるんですか。あの頃は小学生だったのに」「息子も30になったんだよ。偉そうにしているんだ、これが」「ホホホホ。お父さん、もう子供じゃないのよ、和之も」「ご子息はお出かけですか」「ええ。何でも駅前商店街の会合に出席する、って朝から出かけたまま。鉄砲玉みたい」「若手商店主の勉強会だよ。店の二代目が集まって、しょっちゅう会議している」「若い人は熱心ですね」「ホホホ。雀荘で中国語の勉強でもやってるんじゃないの」

「でも大変でしょう。駅に新しく大型量販店が出来てしましたね」「なに大丈夫よ。どってことないさ。そりゃ確かに大型店はうちのようなパパママショップと違って安いよ。品物もいっぱい揃ってる。だけど、こちとらには真心があるお客様と通い合う心があるんだ、あいつらの商売は店と客との交流が全くないんだ。販売店員と言っても満足に商品説明の出来ねえヤツが突っ立ってるだけだ。客が来ても知らん顔だしな。物が溢れている時代だからこそ、人と人が触れ合う温かさと言うものが必要になってくるんじゃないかな。道で出会っても挨拶も出来ねえ街になったら、世の中情けねえよ。違うかい?」

「そうですね。その通りだと思います。商売の根本は人と人との触れ合いですよ」「ね、あなた、おそばでも取るから、一緒に食べましょう」「あ、お気を使わないでください。もうすぐ、お暇しますから」「水くせえこと言うんじゃねえよ、島田さん。うめえんだぜ、駅前の半月庵のてんぷらそば」「じゃ、ご馳走になります」(いいなあ。この人たちは。東京と言う大都会に下町の人情世界はまだまだ残っている。まだこの街も捨てたもんじゃない)

初芝本社で開かれる営業本部の課長会議。「アメリカの対日経済姿勢は今後変わることはないでしょう。日本政府もこのまま大規模小売店舗法による大規模店の規制を続けるわけにはいかない。この大店法がなくなると、アメリカの大規模店がどっと日本に送り込まれてくる。アメリカ製品を専門に販売するスーパーなんかも日本各地に出現するでしょう。店頭には安い牛肉と安いオレンジ、カリフォルニアの豊富な野菜類が山積みされ、消費者はその安さを選択するから、殆どの客を奪われてしまう。食料品を買ったついでに2階の電気製品売り場等へ足を運ぶ。品質に関わらず、多少高くても一か所で買える便利さで、その売り場の商品を購入してゆくでしょう」

「豊かな日本だ。千円2千円の違いじゃ、わざわざ遠くまで行って、安い品物を買いたいとは思わないよな」「こうなったら、駅前の個人商店はひとたまりもないでしょう。大した努力もしないでテレビを見ながら客が来るのを待っているようなパパママショップののんびりした商売では、資本主義の競争社会では勝てっこないと言うことです」「……」

「今まで我が社はもとより電気業界は個人経営の系列販売店を柱にやってきました。しかし、ここに来てその販売方法が通用するかどうか疑問です。今後の販売経路として、個人経営店を中心にするのではなく、大型店・量販店に対する販売推進をメインに持ってくるべきではないでしょうか。つまり、極論すれば、日本全体がもはや小売店を必要としない時代になっていると言うことです」

反論する島。「確かに大型店は大資本がバックにいて、経営は安定している。品物も豊富だし、価格競争にも強い。しかし商売の方法はと言えば無味乾燥です。売る側と買う側の交流というか、温かさと言うのが全くありません。人間社会、そこまでビジネスライクになってもいいものでしょうか。個人商店には大型店にないきめ細かい販売方法があります。それを全否定する考え方には疑問があります。人と人のつながり、サービスの重視を考慮すれば、まだまだ太刀打ちできると思いますが」

「島課長。異論があります。私ども販売推進部はこの一年、あらゆる角度からマーケティングリサーチをしました。結論を言えば、あなたの考えているようなことを消費者は決して考えていないと言うことです。お店とお客の心の交流なんて消費者は、全く望んでいません。むしろ、今の時代はそんなことは煩わしいのです」

「ここにあるデパートが最近作った客へのアプローチのマニュアルがあります。従来ですと、係員が買いそうな客に近づいてゆき「どういう品物をお求めでしょうか」と、聞くことから始まりました。しかし今の時代では、そういうことをすれば、かえって客が逃げてしまうのです。つまり、客に自由勝手に触らせて、向うから係員を呼ぶまでは近づくな、ただ黙って見ていろ、と言うマニュアルなんです。客は自分で選んで自分で買う。今の日本にカタログ販売が定着してきた現状を見ても、そのことはわかるでしょう」

「私も今の意見に賛成です。そりゃ確かに個人商店の人情も捨てがたいものがある。しかし、もうそんな時代じゃないんでしょう。古き良きものが消えてゆくのは淋しいけど、経済大国になると言うことは、それなりの犠牲も経験しなければなりません。人情論ではなく、その辺の見極めも必要なのではないでしょうか」

城南無線に行き、和之と会う島。「その通りですよ。うちのオヤジがあなたにどんなことを言ったのか知りませんが、考え方が甘いですよ。もう半分ボケてますしね。うちの店を見てください。商品の現物なんか置いてないですよ。今や機種が多すぎて、置くスペースもありませんしね。店は構えていますが、うちもカタログ販売なんですよ。郵便受けに全品カタログを放り込んでおいて、電話で注文を受けるんです。アフターサービスはサービス専門の業者に回します。その方がよっぽど効率がいいですしね」

「もしアメリカの大型店が来たら、どう対処するんですか」「大資本には勝てっこありませんよ。そうなったら、その店に勤めますよ。その方が安定収入が望めますしね。もう個人で商品を経営する時代は終わったんじゃないですか」

(日本人の意識も着実に変わってきている。生々流転か)

 

STEP91

石神井公園で怜子と奈美と会う島。「へえ、じゃ、しばらく日本からいなくなるわけ」「そうなんだ。いつ帰って来れるかわからないけど」「そうなの」「今度、日本に帰って来る時は、奈美はもう立派な大人になってるかもな」「浦島太郎みたいだね」「サラリーマン。特に商社マンなんてのは、みんな浦島太郎だよ」「ふーん。じゃあ、奈美、商社の人と結婚するのやめよ」

「おいおい、急にませたこと言うようになったな」「もうこの子も今年は6年生よ、気が付いたら子供がいつの間にか他人になってるわ」「その後、電報堂の奥本とはうまくいってるのか」「まあね。適当にやってるわ」「変なものだな。離婚しちまうと、君が他人に見えてきて、かえってギクシャクすることなく話せるな」「それでいいんじゃないの」

ボートに乗る島と奈美。「あのさ」「何だ」「お母さん、奥本さんと別れたみたい」「そうか」「奈美が言ったってこと、お母さんには内緒にしてね」「わかった」「ね、奈美、今日、お父さんのところに泊まっていいかな。明日は日曜日だし」「いいとも。その代わり、お母さんにはちゃんと言っとけよ」「うん。やったね」「だけど、お父さん、今晩ちょっと遅くなるから、奈美一人で待ってろよ」「わかってるって」(もう、なんでもわかる年齢になったんだな)

コスモス企画に行き、五十嵐と会う島。「相変わらず忙しそうだな」「ああ。涙の土曜出勤。貧乏暇なしよ。聞いたぞ、島。フィリピンに飛ばされるんだって」「さすが地獄耳だな。情報収集能力は全共闘情報部長の頃とちっとも変わってない」「あとでちょっとつきあってくれ。お前に相談したいことがあるんだ」

ショーパブに島を連れて行く五十嵐。「右から2番目の女を見てくれ」「東南アジアの女性だな」「そうだ。お前の行くフィリピンだよ。ステラって言うんだ」「彼女がどうかしたのか」「彼女を愛してる」「え」「結婚しようと思う」「お前、本気で」「勿論本気だ。もう、このことについて、彼女とは十分話し合った。彼女も俺を本気で愛している」

焼肉屋に行く島と五十嵐とステラ。「日本語は話せるのか?」「ああ。片言ならな。まだ日本へ来て6か月だ」「ステラさん。君いくつ」「ニジュウニサイデス」「結婚のこと、故郷のご両親は知ってるの」「ニカゲツマエ、デンワデツタエマシタ。OKシテクレマシタ」「ステラには扶養家族が多いんだ。月々5万円の仕送りと言う条件付きだけどな。5万円は俺にとっては大した負担ではないが、向うにしたら大変な金額だ」「ワタシ、イガラシサンヲココロカラ、アイシテイマス。ケッコン、シタイデス」

「隆介君には話したのか」「問題はそこなんだ。彼女は今月で観光ビザが切れる。いったんフィリピンに戻らなくてはならない。次に来るのは6か月後だ。彼女が帰国する前に隆介に会わせようと思う。息子の了解を得たいんだ」「まあ、そうだな」「そこで頼みがあるんだが、いきなり会わせると息子も動揺する。お前の方から先にそれとなく教えておいて欲しいんだ」「いつ」「今日だ」

「おい。それはまた急な話だな」「いずれ会わせなきゃならないんだ。今日話したい。お前がいてくれれば、少しは雰囲気も和らぐだろう」「隆介君はいくつになった」「14歳だ。中学3年になったばかりだよ」「難しい年齢だな。こりゃ大役だぞ」「そうだ。この役はお前しかいない。頼りにしている」

「で、どうする」「お前が先に家に行って、隆介にそれとなく話してくれ。俺たちは30分後に2人で行く」「わかった。じゃ、先に行ってる」「島」「何だ」「俺、変だと思うか」「何言ってるんだ。愛し合って結婚するんだ。素晴らしいことじゃないか」「ありがとう」

島を見て驚く隆介。「ごめんな。夜遅く訪ねて。お父さんと一緒なんだけど、ちょっと先に来させてもらった。お邪魔するよ」「どうぞ」「ところで隆介君」「はい」「お父さんが結婚すると言ったらどうする」「嫌です」「……」「僕にはちゃんとお母さんがいます。姓は変わったけど、僕のお母さんには変わりありません。新しいお母さんなんて認められません」「それはそうだけど。しかし、お父さんもまだ若い。そういう風に言われると、お父さんが可哀想じゃないのかな」「何と言われようとイヤなものはイヤなんです」

 

STEP92

君の気持ちはわかったと言う隆介に言う島。「しかし、お父さんの気持ちはどうする。結婚するのは君ではなくお父さんなんだ」「父があなたに結婚するって言ったんですか」「実はそうなんだ。そして、その相手の女性を連れて、もうすぐここに来る」「そんな。いきなり、そんなことするなんて、一方的すぎます」鳴る玄関のチャイム。「もう遅い。2人が来た。会ってくれるな?「……」

ドアを開ける島。「どうだ。隆介は」「芳しくない。最悪のケースだ」「そうか。しょうがない。ここまで来て。引き返すわけにいかん。ステラ、入れ」ステラを見て唖然とする隆介。「コンバンハ」「……」「ステラって言うんだ。よろしくな」「ワタシ、ステラ・バルアルテデス。フィイピンジンデス。オトウサントケッコンスルヨテイデス。ヨロシクオネガイシマス」「……」

「そういうことだ。俺はこの女性と結婚しようと思う。お前が彼女をお母さんと呼ぶかどうかは、お前の自由だ。しかし、とにかく俺は彼女と結婚する。できることならお前にも祝福してほしい」黙って自分の部屋に駆け込む隆介。

「ワタシ、ヤッパリ、カエリマス。カレハ、ワタシノコト、キライミタイデス」「ステラ。気にするな」「ステラさん、帰ることはないよ。とにかくここにいてください。僕が隆介君を説得してくるから」

「隆介君、どうした」「島さん。僕はあの人が帰るまで、この部屋を出ません」「彼女の肌の色が違うからイヤなのか」「いえ。それは関係ありません。お父さんがお母さん以外の人と結婚するのがイヤなんです」「君ももう少し大人になったらわかると思うけど、人間の感情と言うものはどんどん変わるもんだ。好きだった人が突然嫌いになったりするし、その逆もある、だから離婚することも自由なら、再び結婚することも自由なんだ」「……」

「君とお母さんは籍が変わっても血は繋がっているから永久に親子だけど、お父さんとお母さんは離婚したら、その瞬間に全くの他人になるんだ。もともと他人同士なんだからな」「じゃあ、夫婦って言うのは、とっても弱い絆でくっついているんですね」「そういうことだな。だから双方の努力がなければすぐ壊れてしまう。非常にもろい関係だ、実は俺も君のお父さんと同じで去年離婚した。努力が足りなかったんだ」「え。そうなんですか。なあんだ」「そう。なあんだ、なんだ」

「いいか、ステラ。今日はどんなことがあっても帰るな。うちへ泊ってゆくんだ」「ワタシノコト、ムスコサン、スキデハナイ。ワタシ、トテモツライ」「だからここで頑張るんだ。私はこの家に入って来る女ですって、力強く宣言するんだ。それくらいの強い気持ちを持たなければ、これから日本の社会に溶け込んで暮らしていくことはできないぞ」「ハイ」

「そうだ。いいことがある。今晩は俺の家に泊まらないか」「え」「今日はステラさんがここに泊まる。彼女にとっては五十嵐家にはいる儀式のようなものだと考えてくれ」「はあ」「よし、決まったな。君はいない方が2人にとって都合がいいかもしれんぞ。ハハハ」

「五十嵐。今日は隆介君を俺んちへ連れて行く。了承してくれるな」「え。そりゃいいけど」「じゃ、行ってくる」「隆介、ステラに挨拶していけ」「……」「じゃ、預かるぞ」「ああ。頼む」「どうした。ステラと口をきくのがイヤなのか」「いえ。イヤと言うワケじゃなくて」

「あれえ、お父さん、一人じゃないの」「うん。今日はちょっとわけがあって、彼もこの家に泊まることになった。お父さんの友達の息子だ」「夜遅くすみません。五十嵐隆介です。よろしく」「あ、よろしく。島奈美です」「奈美、今まで起きていたのか」「うん。今、ちょうど寝るところだったの」島に囁く奈美。「困るじゃない。お客様が来るなら来るって、前もって電話してくれなきゃ。私、パジャマで恥かいたわよ」(へえ、いっぱしのこと言うじゃないか)

「私、お父さんのベッド借りるからね。2人は和室で寝てください」「あれ。ちゃんと、2組敷いてあるじゃないか」「そうよ。今日はお父さんと2人で寝ようと思ってたの。じゃあね、おやすみ」

「じゃ、今日は遅いかあ、我々も休もうか」「はい」「隆介君、お腹空いたか」「いえ、大丈夫です。島さん、ちょっと電話お借りします」顔を洗いながら、隆介の電話を耳にする島。「あ、お父さん。今、島さんの家です。今から寝ます。うん。わかってるって。うん。あ、それから、ステラさん。出してくれる?もしもし、隆介ですけど。おやすみなさい」

「どうした、ステラ。泣いているのか」「ウウン、ナンデモナイ、ナンデモアリマセン」

朝ごはんを作る奈美。「うわあ。凄いご馳走だな」「2人ともなかなか起きてこないから、もう冷めちゃったわよ」「うん。おいしい」「ありがとう」(奈美は知らないうちに女になっていた)

 

STEP93

あと一時間で出発かと呟く島。「気をつけろよ。政情不安の国だ。命に関わるアクシデントに巻き込まれないようにな」「大丈夫だろう。特に対日感情が悪い国だとは聞いてはいないが」「しかし先日のニュースではODAに関わる日本人がゲリラのターゲットになりそうだと言っていたぞ」「うむ、確かに初芝も無関係ではないけれど。とにかく俺はこの日本と言う国はアジアの国々にどのような目で見られているか見届けようと思ってるんだ」

奈美に話しかける隆介を見て笑う五十嵐。「この野郎、奈美ちゃんがすっかり気に入ったらしくて、今日もどうしてもついてくると言うんだ」「違うんだよ。先日、美味しい朝食を食べさせてもらったから、そのお礼に来たんだ」「どうした、奈美。少し顔色が悪いぞ」「うん、今朝からちょっとお腹が痛いの」「我慢しないで、トイレに行ってきたらどうだ」「う、うん。そうしようかな。どこだっけ、トイレ」「隆介。お前、連れていってあげなさい」「うん、いいよ。行こう。奈美ちゃん」

「あいつ、いっちょ前にエスコートしてるつもりだぜ。ハハハ」「ところで、ステラの方はどうなった」「あれから、隆介と3人でファミリーレストランに行って、いろいろなことを話したけど、結局は認めたようだ。まだ自分の中では未消化だとは思うけど」「感受性の強い年代だ。ゆっくり時間をかけて理解してもらうことだな。それでステラはもう帰国したのか」「うむ。一週間前にな。これが彼女のマニラの住所だ。一度顔を出してくれんか。おそらく貧民街と思うけど」「うむ。わかった。マニラに慣れたら訪ねてみるよ」

「島さん、ちょっと」「どうした」「奈美ちゃんが大変なんです。ほら、急にあそこに座り込んで」「奈美、どうしたんだ」(あっ、生理)「奈美ちゃん、大丈夫ですか。凄く血が出ているけど」「あ、いいんだ、隆介君。むこうへ行ってくれ。これは病気でも何でもないんだ」

「奈美、これ、初めてか。これが何だか知ってるか」「うん。学校で少し習ったけど」「困ったな、どうしよう。薬局があったっけ」「何かお困りですか」「あ、つまり、娘が、その初潮らしいんです」「あら、大変。お母さまはいらっしゃらないんですか」「ええ、私は、今、離婚中、いや、その、一人暮らしで」「わかりました。ここは女性に任せてください。ちょっとお嬢さん、お借りします」

「お待たせ。もう大丈夫です。ちょうど新品の下着を持ち合わせていましたので、履かせておきました」「あ、すみません。ぶしつけで申し訳ありませんが、下着代と言うことで」「いえ、いりません。バーゲンセールの安物ですから。とにかくおめでとうございます。では急いでいますので」「ありがとうございます」

「じゃあ行ってきます」(奈美はショックだったのか、終始寡黙だった)

「お食事でございます。あら、先ほどの」「あ。パンツくれた方。あなた、パーサーだったんですか」「ウフフ。偶然の一致と言うのかしら。どうぞ、お召し上がりになって」「うわ。お赤飯」

 

STEP94

マニラに到着した島を迎える樫村。「どうだ、フィリピンは」「ああ、暑いね」「そりゃそうだ。4月5月ってのが、フィリピンじゃ一番暑い時だからな。最初にこの暑さの洗礼を受けておけば、後は楽ってもんだ」

渋滞の凄さに驚く島。「割り込んで来る車まで身動きが取れない」「マニラの道路はさながら無法地帯だね。怖くて自分じゃ運転できないよ。初芝電産では市内を自分で運転することは、基本的に禁じられているんだ。それだけ交通事情が悪いってことさ」

車の窓を叩く少年。窓を開ける島。「おじさん。新聞買ってよ。タバコのあるよ」「知らん顔してろ。そんなのにいちいち取り合っていると、キリがないぞ」島のハンカチを盗んで走り去る少年。

「ハハハ。やられたな。この国はいつでもどこでも油断するな、と言う教訓と思え。彼らはストリートチルドレンと言ってな。ああやって生計を立てているんだ。最近は日本人との混血が多いらしい。ジャパユキさんとして、日本に出稼ぎに行った女たちが帰国して産んでしまうんだな。勿論父親はわからない。生活が苦しいこともあって、産み捨てられることも多い。ある時期までは施設で育てられるが。あとは一人で生きてゆかねばならない。すでにこういったところにも経済格差の歪みが見られてるのかもしれんな」「……」

(マカティ地区はマニラの南東部に位置する近代都市の様相を呈したエリアだ。銀行・保険会社・商社などのビルが林立し、フィリピンの一般的な風景から乖離した別世界がそこに存在する)「凄いな。ここはまるでハワイかシンガポールみたいだな」「昔はここもただの原っぱだったが、この国に君臨するスペイン人の政商アヤラ一族が開発して、こういう姿になった。初芝電産のオフィスはこのビルにある」

島を迎える初芝電産海外事業部部長でフィリピン出向責任者の戸倉。「やあ、いらっしゃい。樫村君から聞いてたよ。島君はとても有能な男だから、フィリピンハツシバに来てくれたら、鬼に金棒だってね」「で、私はここでどういう仕事をすることになるのでしょうか」「樫村君、概要を説明してくれ」

「初芝はフィリピンに現地資本と共同出資の2つの合弁会社を持っている。一つはハツシバ・フィリピン・エレクトリック(HPE)。従業員1500人を越える一大生産工場だ。うち、日本人スタッフは約30名。マニラから車で40分の郊外にある。VTR以外は何でも作っていると思っていい。もう一つはフィリピンハツシバ(PHI)、ここは販売会社だ。俺はここの社長となっている。マニラから20分くらい東に行ったところにある。従業員は300名。日本人スタッフはお前を含めて5名だ」

「俺はこの会社で働くことになるのか」「そう。俺たちは初芝電産の海外駐在員ではなく、現地法人に雇われた出向社員と言うことになる。つまり、初芝電産から給料をもらうんではなく、現地のオーナーからペソでもらうことになる」「オーナーは誰なんだ」「オーナーは工場も販売会社も同じだ。カルロス・メンドーサというスペイン人のじいさんだ」

持株比率を説明する戸倉。「工場(HPE)がメンドーサ40%、ハツシバ52%、その他が8%。販売会社の方はメンドーサが55%も持っている。ハツシバは30%強しかない。こっちの方はまだ主導権を握っていないのが現状だ」「ハツシバの資本をもっと導入できないんですか」

説明する樫村。「基本的にはフィリピンの合弁会社では外国資本は40%までと決められている。しかしフィリピンは対外債務を300億ドルも抱えていて、アキノ政権は外貨が欲しい。その合弁会社がどんどん輸出をして外貨を稼いでくれると、条件は変わってくる。輸出比率は70%を超えると、100%の外国資本が認められることになる。工場の方は50%を確保して、一応、初芝電産が主導権を握っているが、輸出をしてない販売会社の方はそうはいかない。その大変なところの社長が俺で、お前にはナンバー2のマーケティング・アドバイザーをやってもらう」「なるほど」

島の暮すマンションを案内する樫村「俺たち、家族持ちは高級住宅街の一戸建てに住むが。単身赴任の連中は、殆どこういうマンションに住んでいる」「ああ。その方が面倒くさくなくていい」「荷物がまだ着いてないから、しばらくはホテル暮らしをしてくれ」

クラブ・みかんに島を連れて行く樫村。「落ち着いたいいクラブだな」「ここは日本の商社や一流企業が使う上品なクラブだ。およそフィリピンらしからぬところだが。彼女たちはみんな大学生だ。大学生と言っても、六本木のキャバクラにいる連中とはワケが違う」「生活がかかっていると言うことか」

「そう。この国は男はあまり働かない。優秀なのも女性が多い。フィリピンでは一家の中に1人くらい頭のいい子がいると、その子に全部投資するんだ。決して裕福な家庭ではないのに、無理をして大学まで行かせる。この店にいる子はみんなどうだ。その代わり、彼女が卒業すると、彼女の収入をあてにして一家全員が彼女によりかかる」

「典型的なたかりの構造だな」「とことが、この国にはそうそう職がない。一家を養うためには、電子工学を学んでいても、ホステスまでしなければならないのだ」「ホステスのペイは高いのか」「高くない。3000ペソがいいところだ。あとは体を張ったアルバイト収入に頼ることになる」「……」「じゃあな、運転手にはホテルにまで送るように言ってあるから」「ああ、すまん。じゃ、明日」

島に話しかける運転手。「ミスター。マニラは初めてですか」「そうだ」「あの店の女の子はつまらないよ。女抱くなら、もっといい店を案内しようか」「いや、結構。ホテルに直行してください」「あれ。何かあったみたいですよ。人が集まっている」

車から降りる島と運転手。「どうした」「いやね。この辺をねぐらのしているガキが、盗みを働いて、警官に撃ち殺されたみたいだよ」(あの少年だ)「さ、行きましょう。ミスター」(ショックだった。言葉を失った。血で染まった自分のハンカチを見て、これからこの国で過ごす日々の前兆を見せられた気がした)

 

STEP95

(フィリピンハツシバの朝は早い。午前7時半に始まり、午後5時20分に終わる。昼休み50分を含めて、実働9時間の勤務だ。暑い国にありがちな長いランチタイムや昼寝の慣習を取り入れないので、最初のうちは戸惑う者もいるが、結局その方が合理的とわかると、規則に従順になる)

「今日は新しいスタッフを紹介する。日本の初芝本社から来たミスター島耕作だ。彼は宣伝や広告のプロフェッショナルだ。本日より我が社のマーケティング・アドバイザーとして一緒に働いてもらうことになった。じゃ、島君から挨拶を」「島耕作です。フィリピンは今回初めて来ました。何もわかりません。しばらくの間は皆さんにいろいろ教えてもらうことになると思います。どうぞよろしくお願いします」

重役用の椅子を指さす樫村。「あれがお前の座るところだ」「なんだか新米がいきなりやってきて、偉そうに上座に座るなんて、居心地が悪すぎるな」「島、あまり謙虚になるな。ここは日本と違って、下手に出ると、自信がないものと思われてしまうぞ。先ほどの朝会の挨拶もあれじゃマイナスだ。もっと高圧的に出て「俺がボスなんだぞ」とアピールするぐらいの方がいい」「そうなのか」

「フィリピン人はプライドが高い。それだけに、逆に階級社会もきっちり受け止めている。彼らは過去、スペイン、アメリカ、そして日本軍も加わって、400年近くも統治された民族だ。その辺から支配と被支配の意識が確立しているのかもしれない。びっくりするくらい、会社の中でも上下関係をはっきり意識している。上司には絶対服従なんだ。部下は上司の言うことに殆どクレームをつけない。ある意味ではマイナスではあるな」「なるほど」

重役用の椅子に座る島。「どうだ。座り心地は?」「よろしくないさ。俺がこんな席に座れるなんて、人生の中で一度も考えたことがなかった」「相変わらずだな。ま、海外事業所ならではのポジションだ。頭を切り替えて、部下を睥睨することをエンジョイしろ。それから、お前に有能な秘書が1人つくからな。もうすぐ来る」「秘書?」「そう。なかなかの美人だぞ。フィリピン大卒の24歳。日本で言えば東大卒と言う所かな。とにかく頭の切れる優秀な社員だ」

「ローラ・フェリシアーノです」「あ、島耕作です。よろしく」「こちらこそ、よろしくお願いします」「よし、顔合わせが終わったら、2人とも会長室に来てくれ。今日はオーナーのカルロス・メンドーサが来てるんだ。紹介するよ」

メンドーサに島を紹介する樫村。「島耕作です。よろしくお願いします」「最初に言っておくが、ここの全ての決定権は私が持っている。ミスター樫村ではない。ミスター樫村はわしの言うことに、ことごとく反対する。君も彼と同じようにならないように頼むぞ」「は、はい」「よし、じゃ、よろしく頼む」

樫村に相当派手にやってるようだなと聞く島。「あの、とっつあん、企画が決まりかけたところで、いきなり出てきては、トンチンカンなことを言うからな。何回か理詰めでペチャンコにして、経営とは何か教えてやったんだ」「それでお前に敵愾心を持っているんだ」「年寄りのタワゴトと思って、聞き流せ。いつも自分の方が間違っていると知ってるから、悔しくてしょうがないんだ」「ハハハ、強気だな」「当り前だ。いちいち構ってたら、この会社がつぶれる」

ローラに今日の予定を聞く島。「このあとHPEに行って、見学していただきます」「じゃあ行こう」「え。もう行かれるんですか」「そうだ。ここにいても、することがないからな」「食事は?もうすぐお昼ですけど」「途中ですればいいさ」

車の中でローラに聞く島。「君は今までどういう仕事をしていたんだ」「前任者のミスター石川の秘書をしておりました。あの人はミスター島を入れ替わりに日本に帰られました」「そうだな。彼のことはよく知らないのだが、いろいろと仕事を教えてもらったのか」「いえ。ミスター石川は殆ど仕事をなさいませんでした。ゴルフとお酒の毎日でした」「あ、そう」「夜の女性を買って、ホテルに入っておられる間、外でずっと待たされることも少なくありませんでした」「そうか。それは気の毒だったな」

「ミスター島。フィリピンの女性はいかがでしたか」「ハハハ。俺はそういうことはしない」「どうしてですか」「俺は女性をお金で買うことはいいことでないと思っている。そういうことは好きではない」「女性がお嫌いなのですか」「いや。そうじゃない」「フィリピンには単身赴任でしょう?その間の女性はどうされるんですか」「そんなことは君に答える必要はない」「すみません。失礼いたしました」

「ローラ。あれは何だ」「屋台の食堂です」「よし。そこで昼飯を食おう。運転手さん、車を停めてくれ」「ミスター島。食事なら、この先にちゃんとしたレストランがあります。そこでしましょう」「いや。俺はフィリピンの人たちと同じものを食べたい。フィリピンに来たからにはフィリピン人と同じ生活をしたいんだ」

屋台料理をうまそうに食う島を見つめるローラ。「ミスター島。あなたは変な人です」「どうして」「だって、こんなところ食事をした日本人はあなたが初めてですから」

 

STEP96

HPEの社長の竹熊と経理部長の岡村に挨拶する島。「岡村君と島君はどっちが上なのかな」「私の方でしょう。私は43年入社ですから」「そうですね。私は45年組です」「一休みしたら、島君、岡村君と一緒に工場を見学してくれ」

島に工場を案内する岡村。「実際、連中、よく働くよ。日本の工場のヤツより真面目だしな」「給与は平均どれくらいなんですか、こっちは」「事務職で5千ペソ、工場の連中は4千ペソくらいかな」「その額はこっちではいい方なんですか」「ああ、勿論さ。みんなハツシバで働けることを誇りに思っている。その他、臨時工ってのがいる。あっちの征服の色がちょっと違う連中がそうだ。彼らは手配師が集めて来た連中だけど、給与は安くて月2千ペソぐらいかな。それでも大喜びさ。うちは臨時工でも高卒以上しか採らないからな。みんな、多くの中から選ばれた優秀な奴らだ」

社員食堂に島を案内する岡村。「あいつら、君が初顔だから珍しそうに見てるぞ。ああ見えてもみんな年頃の女だ。結構色目を使ってくるやつもいる。だけどうっかり乗るなよ。大変なことになるぞ」「ハハハ。大丈夫ですよ」「ここはスペイン統治300年の歴史があり、そのため国民の85%がカトリック教徒だ。つまり死ぬまで離婚はできないし、男女間の不倫なんてことになると、死ぬか生きるかだ」「へえ」

「よくあるんだよ。日本人の男がこっちの素人の女に手を出して、相手の女の男に撃ち殺されると言う事件が」「本当ですか」「ああ。何せプライドの高い国だからな。フィリピンでは金で済まされない遊びはタブーと言うことだ。ところで、こっちに来て、女の方は?」「いえ、別に」「よし。じゃ、今日はエルミタに繰り出そう。フィリピンの側面を覗くという意味ではいい社会勉強だ」「は、はあ」

(マニラ最大の歓楽街エルミタ地区には、バー、クラブ、ディスコ、マッサージパーラーなどが軒を連ね、辻々には娼婦とストリートチルドレンがたむろしている。殆どの店にはホスピタリティーガールと呼ばれるセックスの相手をする女性がいて、24時間営業の激しい街だ)

岡村と岡村の部下の大野とストリップバーに行く島。「島さん。好きな子を指名してください。このテーブルに呼べますよ」「ハハハ。私は結構です。よし、じゃ、俺は指名するぞ」適当に3名指名する岡村。「島君。これから先は交渉次第だ。千ペソも出せば、十分だからな」「いや、私は遠慮します。そういうのは苦手でして」「どうして?女性はお嫌いですか」

「どうも、女性を買うのは気が進まないんです。特に東南アジアでは、そういうことをすることが、私の気持ちの中でしっくりこないもんで」「島君。君の気持ちもわかる。日本の過去の歴史を考えても、そう考えるのは当然だ。しかし、少なくとも、ここにいる女性に対しては、金を掴ませる方が断然喜ばれる。それがお互いの利益なんだ。それをしたからって、対日感情が悪くなるわけじゃない。今じゃ欧米の連中の方が派手に遊んで喜ばれているくらいだ」「あ。ちょっと会社に電話します」

「あ。ローラ、まだいたのか」「ミスター島。昨年度の業績をまとめたファイルを作成し終わりました。今、どちらから?」「うん。ちょっと、エルミタ地区で飲んでるけど、すぐ戻る」岡村と大野に失礼すると言う島。「販社のほうに仕事を残してますので」「あ。そう。島君、今、どこに泊まっているんだ」「サンセットホテルの315号室にしばらくの間、住んでいます」

へえと感心する大野。「意外に固い人ですね、あの人」「なに、まだカッコつけてんだよ。少しイタズラしてやろう。ヤツはフロントにキーを預けている。315号室の島と言えば、キーをくれるからな。ヤツが帰らないうちに、こっそり女の子を一人、部屋に置いてこい」「なるほど」

ローラに遅くなってすまないと詫びる島。「島さんから言われた資料を揃えたら、こんなになりました」「こりゃ大変だ。ホテルに持って帰って、徹夜で目を通すよ。じゃ、ローラ、俺をホテルに落として、君はこの車を使って、帰ってくれ」「はい」

車に乗る島とローラ。「島さん。お酒の席、途中で抜けて出て来たんでしょう」「実はそうなんだ。君に仕事を頼んだことをすっかり忘れていた。ごめん」「いいえ。島さんは今までの私の持っていたイメージと違います。素敵です」「おいおい。そりゃ、買いかぶりって言うもんだ」「島さんを見て、日本人を少し見直しました」

「あ、もう、サンセットホテルに着いたな」「私、お部屋まで資料運びます。おひとりでは持てませんもの」「え。ダメだよ。女性一人でホテルの男の部屋に来るなんて危ないぞ」「ホホホ。大丈夫。島さんはそんな人じゃありません」

 

STEP97

315号室に入り、ベッドで裸で寝ている女を見て、絶句する島とローラ。「君は誰だ」「マイ・ネーム・イズ・ギティ」何事か女と会話し、部屋を飛び出すローラ。女に聞く島。「君、今、ローラとタガログ語で喋ってたな。何を言ったんだ」「何してるんだ、と聞かれたから、私は頼まれてここに来た、と言ったの」「頼まれた?俺はこんなこと、頼んじゃいないぞ」「だって、あなたの友達にこの部屋に連れてこられて、あなたが帰ってくるのを待てって言われたんだもの」

(そうか、岡村さんだ。なんて余計なことを)「ねえ。しないの」「ああ、今日はちょっと体調が悪いんだ。君はもう帰っていいよ」「私が嫌い?」「いや。そうじゃなくて、疲れていて眠りたいんだ。お金はちゃんと払うから」(これでローラとの信頼関係は崩れてしまった。せっかく打ち解けてきてくれたのに、残念でならない)

(翌日からローラの態度は一変した。俺の目を見ないのだ)「前年度の商品別売上額の一覧です」「ありがとう。それと売上台数の一覧も作ってくれないか」「はい」(決して仕事をネグレクトしているわけではない。言われた仕事は100%こなすが、それだけなのだ)

ミーティングを開く樫村。「フィリピンにおける経済の伸び率はここ5年でやっと15%アップしたというところだ。特に電機業界ではここ3年で50%の凄まじい伸び率を示している。この業界では今、最も伸びる市場を持っているんだ。特に、洗濯機の売り上げが著しい。何故だろう、誰か答えてくれないかな」

答えるローラ。「ここ3年間、我が国の経済は停滞しています。しかし物価は着実に上がり、スタグフレーションの傾向が見られます。生活は決して楽ではなく、今まで家庭にいた主婦が働かざるを得ない状況が出来てきました。共稼ぎの家庭が増え、家に洗濯する女がいなくなったと言うことでしょう。しかし、まだ洗濯と言う作業を機械に任せるほど、フィリピン人の意識は進んでいません。洗濯はあくまで手でするものなんです。従って、全自動などは当然受け入れがたく、洗濯のみのシンプルなものがいいと思います」

「極論すれば、今の機種から脱水装置を外してもいいのではないでしょうか。その代わり、価格もうんと下げるんです。3千ペソを切る機種を出せば売れると思いますが」「ローラ。その通りだ。君の答えは120%だ。今のことを早速工場に提案してみよう」

君の会議での発言は素晴らしかったとローラに言う島。「ありがとうございます」「しかし、俺は確か同じ質問を、今朝、君にしたよな。その時、君はわかりませんと答えた」「その時は、まだ考えつかなかっただけです」「君は何か俺に対して、ある感情を持っているようだ。先日のサンセットホテルのことが引っかかっているのか」「関係ありません」「あのことに対して、特に弁明しない。しかし私情を仕事に持ち込むのはやめろ」「……」「以上だ」

 

STEP98

(ホテル暮らしから解放され、俺はマカティ地区の単身赴任者用マンションに住むことになった。オシャレな広いワンルームで、一人暮らしには十分な広さだが、なにぶんラブホテルのようなインテリアで落ち着かない。このマンションには約30名の日本人が住んでいるが、ハツシバの社員は俺一人で、あとは商社や他メーカーの連中だ)

「初めまして。隣に引っ越してきた島と申しますが、今後ともよろしくお願いします。これはつまらないものですが、お近づきのしるしに」「こりゃどうも。義理堅いことで、スンマヘンな。ま、ちょっとはいっとくなはれ。わし、松原、言いますねん。島さん、おたく、どちらの会社です?」「初芝電産です」

「ほう。そりゃ素晴らしい会社や。羨ましい。わが社は関西のちっぽけな商社ですわ」「そうですか。何を扱っておられるんですか」「エビですわ。イセエビ。あいつをこっちで養殖して日本へ空輸するんです。結構もうかりまっせ」「そうですか」「そや、ちょっと、おフロ行きませんか。マッサージ付きで」「おフロ?ソープですか」「ちゃいまんがな。本当のお風呂や。エッチするとこやあらへん。とにかく行けばわかります。わしのオゴリですよってに」

(松原の連れてくれたところは、いわゆるサウナだった)「安いもんでっせ。サウナ、シャワー、マッサージ60分でワンコースたったの500ペソや。日本の理髪料金と変わらへん。まずサウナに入りますねん。ここでたっぷり汗をかいたあと、シャワールームへ行きまんねん」

(シャワールームはまるで銭湯だった。銭湯と違うところは、ショートパンツの若い女の子がいること。昔の特殊浴場という風情のスタイルだ。彼女は無言でいきなり俺の前に座り体を洗い始めた。事務的な動作だが、なんだか気恥ずかしいものだ)「立ってください。ミスター」(まさか、あそこは。え。まずい。勃起しそうだ。いかん。笑われてしまった)

(コースの仕上げのマッサージルームは2人ずつの個室になっていて、延々1時間もマッサージを受けることになる)

「どうですか、島さん。こっちの暮らしは」「はい。新しい職場の秘書の女性とうまくやってゆけなくて少々悩んでいます」「こっちの女事務員はプライドが高くて優秀なヤツが多いですからなあ。取引先のマネージャーの7割は女ですわ。真面目なんでっか、その娘は?」「そうですね。最初にちょっとした感情のこじれがあって、それ以来あまり口をきいてくれないんです」「そら、島さん、なめられとるのです。1回ピシッと言いなはれ」「ピシッとね」「ピシッと言って平気な顔しとるヤツは見込みあらへん。せやけど、ちょっとでも動揺するヤツは、まだ向上心を持っとるヤツですわ」「なるほど」

(翌日、ローラと2人でダウンタウンの販売店を視察して回ることになった)「今日はハツシバです」「しばらくです。サントスさん」「ああ、ローラ。よく来てくれた」(2人は急にタガログ語で話し始めた。店主は俺の方には見向きもせず、ひたすらローラと喋りつづけた。何のために俺はここにいるんだ。ただ立っているだけじゃないか。ピシッと言ってみるか)

「ローラ。店主は何て言ってたんだ」「扇風機の売り上げマージンを何とか増やしてくれないかって言ってました」「何故、俺を紹介しない。俺は君のお供で販売店回りをしてるのじゃないぞ」「……」「それに、タガログ語で喋るな。俺にわかる英語で喋れ」「サントスさんがタガログ語で喋ったから、私もタガログ語にしたんです」「それは屁理屈だ。俺は販売店の声を聞くために回っているんだ。そのぐらい、頭のいいお前ならわかるだろう。何のための秘書だ」「……」

「そんな態度を取り続けるなら、君は必要ない。これからは俺一人で回るぞ」「秘書を代われと仰るんですか」「そうは言っていない」「……」「ローラ。俺たちは仕事をしているんだ。注意されたぐらいで、涙を見せるな」「いいえ。泣いてなんかいません」(ローラ。君はまだ見込みがある)

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