弘兼憲史「課長島耕作(7)」

 

STEP64

島に結婚するので来月いっぱいで辞めたいと申し出る中川。「結婚か。おめでとう」「ありがとうございます」「それで相手の男性は?」「千葉企画の神長さんです」「神長さん。あ、あの人か。確か、隣の販売推進部によく来てるんだよね。PR誌の編集の」「はい。PR誌、ハツシバライフのエディトリアルデザインを担当しているんです」「へえ、いつの間にそんな仲になっていたのかな。知らなかったよ」

「彼って、東京芸大の大学院を出てるんですよね」「そう。そりゃ凄いね」「彼のうちって、富山の資産家でいくつも山を持ってるらしいんです」「坊ちゃま育ちだから37歳の今まで、一人でのんびり暮らしたみたい」「趣味はヨット」「ウォーホルが好きみたいで」「10年前に朝日広告賞を取って」「弟は医大生」「そ、それは凄いね」

ハツシバライフの担当に聞く島。「装丁の神長さんねえ」「仕事の方はどうだ」「うーん。なんか無難にはこなすけど、今イチなんだよね、センスが」「あ、そう」「デザインやらしても誰かの真似なんだよ。クリエイティブな部分は皆無だね。ま、千葉企画とは古いつきあいだから、なんとなくあそこに頼んでいるけどね。近々変えようと思うんだ」

千葉企画の川北に聞く島。「え。神長さんは芸大の大学院?家が資産家?冗談でしょう。あの人、名古屋の豆腐屋の息子ですよ。学校は大阪の専門学校。しかも中退」「……」「あの人、ホラ吹きで有名なんです。今じゃうちの会社でも誰も相手にしませんよ。人間はいい加減だし。ここだけの話ですけど、あの人、一時ギャンブルに凝って、サラ金から凄い借金を抱えてるんですよ」「借金?どれくらい」「1000万近い金額です。サラ金とひそひそ話をしてるのを聞いたことがあるんです」「……」「仕事はしょっちゅう休むし、もうすぐクビになるんじゃないですか。まあ、はっきり言って、とんでもないヤツですよ」

中川に川北の言ったことを教える島。「そんな。私、あの人にお金を貸したんです」「いくら?」「800万です。私の定期預金を全額おろしました」「どうして、そんな大金を」「あの人、もうすぐ独立するって言いました。デザイン会社を設立するから、そのための運転資金として貸してくれって」「とにかく、彼に会って、よく聞いてみるんだな。「私に嘘をつていることじゃないか」って」「わかりました。どうもありがとうございました」

午前2時、島のマンションに電話する中川。「今、近くの公衆電話にいるんですけど、ちょっとお邪魔していいですか」「え」(彼女は酩酊していた)「どうした。こんな時間に」「お水ください」「ほら」「おいしい。さあ、ビールを飲みましょう」「え。止めといたほうがいいんじゃないか」「だめ。ケチケチしないで、冷蔵庫から冷たいビール持ってきて」「わかった」

「じゃ、乾杯」「ああ、乾杯」(なんだか妙な具合だな)「島課長、今日、神長さんと会ってきたんです」「それでとうだったの」「あの人、やっぱり、大ウソつきでした。芸大も、実家が資産家も、弟が医者も、朝日広告賞もみんなウソ。私が問いただしたら、すぐに白状しました」「それで」「私が貸した800万は借金の支払いに使ったと言いました。でも独立するのは本当らしくて、私の退職金があれば会社を作ることが出来ると言ってます」

「この上さらにお金を貸せって言うのか」「はい」「それで、何て答えたんだ」「当然断りました。ウソがばれないように、また新しいウソを上塗りするような人ですから」「うん。それでいいと思う」「島課長、始発で帰りますから、それまでここで眠っていいですか」「ああ。いいとも。俺は向うの部屋で寝るから、君は適当にシャワーを使うなりして寝てくれ」「すみません。じゃ、お言葉に甘えて。おやすみなさい」

(まあ、これで、よかったのかもしれない。じゃあ、寝るとするか。あれ、シャワーの音が鳴りっぱなし。まさか)

「中川君。ああ、なんてことを」「島課長。わたし」「いいから早く出て」(中川社員の手首の傷が大したことはなかった。安全カミソリだったので、傷が極めて浅かったことと、お湯だったので血が溶けなかったことが幸いしたのだ)「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったですけど」「気にするな」(彼女はまもなく会社を辞めた)

<拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。初芝在勤中は大変お世話になりました。島課長には個人的に随分ご迷惑をおかけして、申し訳なく思っております。ところで、私、やっぱり結婚することにしました。ウソつきで見栄っ張りで怠け者で。どうしようもない男ですけど、何か私には向いているみたいです。とにかくやれるところまでやってみようと思っています。時節柄お体にはくれぐれもご自愛の程を。敬具 中川燿子 島耕作様 <二伸>あ、ところで私、今、妊娠5か月です。赤ちゃんが産まれたら、是非一度見に来てください>

 

STEP65

苫米地を追い出した方がいいわと大泉に言う笙子。「え。もう、やんのか」「そうよ。あいつ、自分の城を強固なものにしようと、着々と派閥固めしてるわ」「でも、あいつを追い出すと、俺が社長になるわけだから」「時期尚早だって言うの」「ま、まあ、そう言うことかな」「社長は忙しすぎてイヤだ。俺はまだ閑職の副社長のまま気楽にやりたいってこと?」「別にそんなわけじゃ」「愛人作るヒマがあったら、財界人らしくきちんと仕事しなさいよ」「……」「とにかく、早く潰さなきゃ苫米地は危険よ」

社長室に呼ばれる島。「どうだね、ショールームの方は」「はい、最近は季節ごとのキャンペーンと展示即売会は好調で、実質的な売上にも貢献していると思います」「そうか。ところで、今日、来てもらったのは他でもないが、君の課にいる大町久美子と言う女の子。彼女の実家は何をしているのかな」

(来た。ついに大町愛子の存在を掴んだ)「人事部の書類では、港区の白金で貸家業をしているらしいんですが」「父親は?」「いません。母子家庭です」「彼女の家は相当な資産家と言う噂があるのだが、知ってるか」「いえ、知りません」(知ってるさ。故吉原会長の女で初芝の株を1500万株持ってる怪物。決して表に出てこないミスティな存在)「彼女の母親に会いたいんだが、君の方から頼んでくれないか」(そう来ると思った)「はい。わかりました」

「ところで、君は大泉副社長と角逐して敗れた故宇佐美専務の腹心だったそうだな」「いえ、そういうわけでは」「それで一蓮托生、本社から京都の事業所に飛ばされて、去年帰ってきた。つまり、大泉副社長に対しては、快く思ってない。これは確かだな」「いえ。私はそんなことは思ってません。京都では現場の勉強をさせてもらって、私自身随分プラスになりました」

「まあいい。とにかく君は今フリーだ」「はい」「どうだ。俺の派閥に入らんか。俺が社長になって業績もかなり伸びた。当分の間、俺の政権は続くはずだ。いや、続けて見せる。そのためにも俺の周りを優秀なスタッフで固めたいと思っている。君は実績も挙げている。俺と一緒にこの初芝を大きくしていこうじゃないか」「……」

「どうだ。決して悪い選択ではないと思うが」「そのことに関しては大変ありがたく身に余る光栄だと思っています。しかし私は苫米地社長のスタッフになれるほど優秀ではないし、その自身もありません。誠に申し訳ありませんが、この話はなかったことにしていただけないでしょうか」「なに」「大町社員の母親の件は実現するべく全力を尽くします。どうかそれでご容赦ください。失礼します」

久美子とレストランに行く島。「最近どうなんだ。竹綱君との間は」「週に一度くらい会ってます」「へえ。結構地味じゃないか」「私って飽きっぽいのかな。一人の男と一年以上続くことってあまりないみたい。なんだかもうつまんなくて。竹綱さんにインスパイアされることって何もないんですもの。ところで話って何ですか」

「大きな声では言えないけど、苫米地社長が君のお母さんに会わせろと言って来た」「母に。どういうこと?」「君のお母さんは初芝電産の株を1500万株持っている。このことは知っていたか」「いえ、知らなかったわ。かなりの資産を持っているとは聞いてたけど」「苫米地社長は保身のためにその1500万株の大株主を自分のグループに入れたいらしい」「ちょっと待って。その話、ここでは危ないわ。壁に耳ありよ」席を立って電話する久美子。「お待たせ。場所を変えましょう」「え」「もっと安心して喋れるところを予約してきたわ」

赤坂プリンセスホテルの317号室に行く島と久美子。「ここなら、安心して喋るでしょう」「安心はできるけど、随分際どい場所だな」「あら、当然よ。際どいことしようとして来たんだから」「だけど君には竹綱君と言うボーイフレンドがいるじゃないか」「一人の男性としかつきあっちゃいけないって誰が決めたの。結婚しているわけじゃないし。それにそんなこと、島さんが考える問題じゃないわ。私の問題よ。島さんだって離婚して、今は独り身でしょ。誰はばかることなく出来るじゃない。自由恋愛の世の中よ。何の問題もないわ。それに私たち、初めてじゃないし」

(この状況に抗えるほど、俺は人間ができてない。セックスは少しのためらいと多大なる罪悪感がある方が燃え上がる。そしてきれいなセックスではなく、うんと猥雑にするのがベターだ。俺たちは爛れた時間帯をゆったりとたゆとう波のようになっていた)

波が引いた後、コーヒーを飲んで本題を話し合う島と久美子。「私の母が苫米地社長と大泉副社長の政権争いに巻き込まれようとしてるのね」「君のお母さんは大株主でありながら、名義をいろいろ分散していたから、あまり名前が表に出なかった。ところがここに来て、その存在を苫米地社長は掴んだ。こうなると黙っていない」「苫米地派と大泉派の持株数で社内の力関係をはっきりさせようと言う魂胆ね」

「うむ。現在、苫米地派は約1800万株、大泉派は約2800万株。およそ1000万株の差がある」「私の母の1500万株を抱き込めば、力関係が逆転するわけか」「そう。だから君の母親に会いたいと言ってるんだ」「でも、母はどこにいるかわからないわ。一か月前から家を空けているの」「え。木野会長の所じゃないのか」

「ううん。木野の伯父様じゃ経済友好会の石田会長と欧州諸国を視察中よ。あの二人、最近は会ってないみたい」「じゃ、お母さんは行方不明ってことか」「そんな大袈裟なものじゃないわ。時々電話をくれるもの。よくあることなのよ。私もどこから掛けてるか気にも留めないし、あえて干渉しないの」

久美子の母親は現在所在不明だと苫米地に報告する島。「従って」「もういい」「え」「もういいと言ってるんだ。つまり母親と会うことはできんと言うことだろ」「はい。現時点ではそうです」「現時点?ふざけたこと言うな。お前が大泉派の走狗だというとは調べがついているんだ」「いえ、私は別に」「どうもおかしいと思った。俺の派閥に入るのを断るヤツなんて普通じゃないからな」「そ、それは」「社長の言うことが聞けないヤツは初芝にいる必要はない。君はクビだ。正式な辞令は一か月後出す。それまで身辺整理でもしておけ」

 

STEP66

「ど、どうして私がクビなんですか。私は初芝を愛してますし、仕事も過不足なくやってるつもりです。辞めなければならない理由は何でしょうか」「理由?非組合員の君に理由などいらん。俺が気にくわない。それだけで十分だ」「……」「君はどの派閥に属さなない振りをしながら、実は大泉副社長に最も接触している人間だと報告が入っている」「そんなつもりはありません」

「君は大泉が担当した京都フェスティバルホールの緞帳の仕事で大泉に認められ、大泉の手で本社に戻ることができた」「……」「それに君は大泉の女がやっている銀座のクラブ、のんのんに常連客として出入りしている。しかもそこのママと随分懇意にしてるそうじゃないか」

(一体誰がそんなことを。そうか今野主任だ。おそらく今野主任は社長派の役員たちに俺のことを聞かれ、あることないこと織り込んで、ご注進したと言うことか)「どうした、島君。返す言葉がないじゃないか」「……」「大泉に泣きついても構わんが、現在、初芝の最高責任者は社長のこの俺だ」「君がクビだと言う決定は覆せんぞ」「はい。失礼します」

レストランで久美子にクビを通告されたことを話す島。「どうして」「苫米地派に加わるように言われたけど、俺が無下に断ったからだと思う」「邪魔者は露骨に排斥しようと言うやり方ね」「あと一か月後にはこの会社を去らなければならない」「どうするの」「どうするもこうするも、俺は一介のサラリーマンだ。命令に従うしかない」「そんなバカな」「それで辞めなくていい方法を考えたい。そのためのブレーンをここに呼んでいる」

「よう、島」「あの人?」「そう。俺の友人の木暮久作。池袋で私立探偵をやってる男さ。紹介するよ、部下の大町久美子君だ」「木暮です。初めまして」「よろしく」「噂はかねがね聞いてます。想像以上の美形ですね」「ありがとうございます。島さん、どれくらい喋ったの」「事の成り行き上、全部話してある。君が故吉原会長の隠し子であることも」「そう、全部聞いてます。ところでこいつとやった?」「あら、そこまでは喋ってないのね。ええ、2回ほど」「くそう。やっぱりか。島、これは恋愛じゃない。犯罪だ。20歳も年下の恋人を持つなんてのは今の日本の法律では許されてない」「すまん」

お前が生き残る道は一つしかないと島に言う木暮。「元凶を潰すことだ。つまり、苫米地を社長の座から引きずりおろすんだ」「どうやって」「大泉副社長を叩きつけて、早く苫米地を追放するように画策する。そのためには全面的に大泉に支援する側に回らなくてはならん」「しかし俺は借りを作るのはイヤだ。あとで大泉派に入るなんて遠慮したいな」「バカヤロー。そんなこと言ってる場合か。お前は初芝に残りたいんだろ」「……」「大丈夫よ。島課長。私たちは裏で動けばいいんだわ。大泉にいろんな情報を流して焦らせるのよ」「わかった」

典子に大ピンチだと電話する島。「助けてほしい」「どうしたの」「苫米地社長からクビを言い渡された。俺が大泉派のスパイだと思ってるんだ」「そんなの、裕介ちゃんに言えばいいじゃない。裕介ちゃん、あなたのこと気に入ってるみたいよ」「それは無理だ。大泉さんの権限は社長の苫米地には及ばない。こうなったら、大泉さんを社長にして俺を呼び戻してもらうしかない」「それでどうするの」「以前、君が松本常務の背広のポケットから落ちたメモを俺にくれたのを覚えているか」「ええ」「これを大泉さんに渡してほしいんだ」「……」

「このメモを大泉さんに渡すと、君が松本常務と付き合ってたことがバれ、君の立場が悪くなる。それを承知でお願いしたい」「任せてよ、コーサク。これくらいのことがやれなきゃ、銀座のママなんかやっていけないわ」「すまない。君にはいつも窮地を助けてもらって。なんとお礼を言っていいのか」「何言ってるの。私こそあなたにいい思いをさせてもらってるから」「何だ、今の変な音は」「私のアソコを受話器にこすりつけた音。じゃあね」

「大町君」「なんですか、今野主任」「苫米地社長が直々に会いたいゆうてはるんや。ちょっと来てくれへんか」「忙しいのよ。そんな暇ないって、断ってください」

 

STEP67

大泉に謝ることがあるのと言う典子。「時効だと思って、白状するんだけど、私と松本常務のこと」「知ってたよ。あの野郎、お前が俺にくれたゴルフボールと同じものを使ってた。で、何回やったんだ、あのバカと」「やってないわよ。食事に誘われたからお付き合いしただけ」「どうだか。それであのバカがどうしたんだ」「あの人、私に本を読めって、いろんな本をくれたけど、難しくて読めないの。そんな本の中に変な紙が挟まっていたのよ」

「何の本だ。ニーチェ?バカか、あいつは。女にニーチェを読ませてどうしようってんだ」「その本の最後のページのところ」「何だって。あっ」「それ、あなたと対立している勢力の持株数じゃない」「その通りだ、松本の野郎、苫米地のスパイだったのか。これで納得できた。これは貴重なメモだ。苫米地派の名前が完全に列記されている」「あら。よかったじゃない」「うかうかしておれん。帰るぞ」

樫村にリストを見せる大泉。「こ、これは」「俺を潰しにかかっている連中の一覧表だ」「なるほど。この人も苫米地派だったのか」「役員36人中、15人が苫米地派だ。俺もうっかりしてたよ。当然社長になる身と思ってたから、のんびり構えてた」「でも持株数はまだまだ上ですよ。奥様が個人では断トツの筆頭株主ですから」「しかし油断できない。その差は推定1000万株だ。しかもヤツは社長権限で初芝愛護会、従業員持株会などの株式を自分に委託することができる」

「では、木野会長にお願いしてみてはいかがでしょう」「木野会長か。あの人は以前は優秀だった。実はあの人あっての吉原だったんだ。影の将軍と言った存在で初芝をここまで発展させたのも、吉原にカリスマ性を植えさせたのも、実はあの人の力だった。ところが吉原が死んで、あの人も死んだ。あの人は宰相になるタイプではなく、ナンバー2で成功するタイプ。だから吉原が死んだ時、自分の仕事にも幕を下ろしたんだ。今まで会長が持っていた権限は、会長就任時に全て放棄した。現在は初芝の実力者は苫米地だ」「そうだったんですか。だから木野会長は表に出てこられない」

1枚大きな切り札が遊んでいると言う大泉。「切り札?」「大町愛子。吉原会長に長年連れ添った女だ。事実上の女房と言ってよく、1000万株を相続している」「その女、どこにいるんですか」「わからん。俺も会ったことがない。その女を探して、こっちサイドにつけたい。これで勝負は決まる」

「わかりました、ところで、副社長。20万株ほど都合できませんか」「何に使うんだ」「実弾攻撃です。持株数で対抗するのは単なる社内での力関係のみ。社長交代の事実上の手段は取締役会での役員の評決です。敵が15名ならその15名を買収すればいい」「うまくいくかね」「社長派の役員を寝返らせるためには、苫米地社長を窮地に追い込む社会的状況を作ればいい」「どうやって」「少し時間をください」「わかった。20万株用意しよう。お前に全てを任せる」

残業する島に話があると言う今野。「島さん、クビにならはったんですってなあ」「誰から聞きました」「部長から聞きましてん。それでショウルーム課は私が見るように言われましたんや」「それが私を密告した代償ですか」「密告?私は本当のことを報告したまでです」「そうですか。ま、頑張ってください。失礼します」「島さん。悪いこと言いまへん。苫米地派に入りなはれ、今ならまだ許す言うてはりましたで」「社長に伝えてもらえませんか。人の心配するより、自分のことを心配した方がいいんじゃないか、ってね」

 

STEP68

島を呼び出す樫村。「何事だ」「お前の所にいる大町久美子という女子社員について知りたい」「どうしてだ」「詳しいことは言えない」「お前が聞きたいことは、彼女が吉原会長の愛人だった大町愛子の娘じゃないかと言うことだろう」「どうしてそれを」「実は俺は苫米地社長からクビを言い渡された。来週には会社を去らなければならない」「クビ?何故だ」

「お前のボスの大泉さんと苫米地社長は初芝の覇権をめぐって争っている。俺は苫米地社長の派閥に入るように進められたんだ」「お前のことだから当然断った」「うん。社長のプロポーズを無下に断ったので、いたくプライドを傷つけたのかもしれん」「それでクビか」「どうやら、俺は大泉派の人間で苫米地社長の内情に探りを入れに来たスパイだと思われているらしい」「で、どうする」

「当然辞める気はしないさ。恣意的な感情でクビにされたんじゃ納得いかない」「なるほど」「そこでこうなったら大泉副社長を支援して政権を取ってもらうしかないと思った」「それは正しい考え方だ。それで?」「実は持ち株数のメモ。あれは俺がのんのんのママを通じて仕掛けたものだ」

「島。お前の持っている情報を全てくれ。俺はボスのため、と言うより、お前を救うために働きたい。大袈裟な言い方だが、お前が初芝を去ったら、俺は生き甲斐を失う。前にも言った通り、俺はお前を愛している。イヤだと思うけど、この気持ちは今も変わらん」「……」「すまん。また、お前を不快にさせたな」「いや、いいんだ、樫村」

腹心の役員に決めたと言う大泉。「11月の取締役会だ。苫米地追放の日は11月の取締役会に決めたぞ」「わかりました」「ところで株の力関係以外で、苫米地に直接関係するマイナスポイントはないのか」「今月の2月に米国KBRレコードを買収しようとして不成功に終わった件を追及しますか」「ふむ。そんなじゃ弱いな。もっと強烈な何か欲しい」

Ⅹデーは11月20日だろうと腹心の役員に言う苫米地。「Ⅹデーと申しますと」「大泉のクーデターの日だよ。その日が11月20日。定例取締役会の日だ。大泉笙子の2500万株にものを言わせて、俺を追放しようとする日だ」「大丈夫ですよ、社長。役員36人中15名がうちの派閥です。あと3人こちらにつけば過半数です」「純然たる大泉派の役員は何人いるんだ」「多分、石神と保谷の二人だけだと思いますが」「そうか」

「木野会長はどういう動きをなさるでしょうか」「木野?あのオッサンは床の間に置かれた人形と一緒だ。今や何の力もない」「しかし変ですなあ。半世紀以上も初芝にいる人なのに自分名義の株式を持っておられない」「うむ。そう言えばそうだな。確かにその辺は何かありそうだな。ちょっと調べてみろ」「はい」

「しかし気になる」「何がですか」「あの島耕作と言う男の存在だ」「杞憂ですよ、社長。あんな小兵に何が出来ると言うんですか」「いや。あいつ、大町愛子のこと、全部掴んでいるんじゃないかと思ってな。大町愛子は俺たちの城を土台から吹っ飛ばすほどの破壊力を持った行方不明の爆弾だ。その爆弾をあの青二才が手中にしているような気がしてならん」

木暮を樫村に紹介する島。「オタクのような外部の人間が必要だ。ちょっと動いてもらいたい」「汚いことでも何でもやるぜ。それが俺たち探偵の唯一の存在価値だ」「実はちょっとした事件が福岡で起きている。その情報は俺のところでストップしている」「何だ、それは」「ある安売り店に初芝の代理店が圧力をかけたらしい。これ以上安く売ったら、初芝の製品を卸さないと」

「ヤバいな、それ。独占禁止法違反で公正取引委員会に知られたら偉いことだ」「その指令を出したのがうちの営業所らしい。大慌てで対処しているが金で話し合いがつきそうなんだ」「そうか」「そこで、俺がこの情報を木暮さんにリークする」「え」「木暮さんはまず地元の新聞にすっぱ抜かせる。そのあと、地元の主婦中心の圧力団体を煽って、ちょっとした消費者運動を起こさせる。この事実を睨んで、公取委にどっと証拠書類を流す。公取委の捜査が入れば、全国ネットのニュースで流されて、苫米地社長の大きな汚点になる」「なるほど。それは社長交代劇のスムーズな引き金になる」

「待てよ、樫村。それは初芝の汚点になるわけだぞ」「そうだ。だからそうした」「それは会社の不利益に」「島。お前は会社の利益と自分の利益とどっちが大切あんだ。そんな子供っぽい正義感を振りかざして何になる。それに正義を云々するなら、会社の不正を隠蔽する方がおかしいんじゃないのか。身内の不正なら隠す方が正義なのか。俺はそんなイデオロギーは認めんぞ」(なるほど。その通りだ)

 

STEP69

島にクビになる事情を説明させる中沢。「そうか。お前は苫米地さんと大泉さんの争いの渦に巻き込まれた犠牲者と言うわけか」「私は性格的に誰かの傘下に入るのが苦手でして」「ハハハ。その青臭いところが俺に似ている。俺もそうなんだ。一匹狼。大いに結構。大賛成だ」「そうですか」

「俺も随分いろんなところかお誘いがかかったよ。確かにこの地位から上に行くには、上から引っ張りあげてもらうしかない。そのためには「この人と一緒なら」と思える上にくっついて、運命を共にするんだな。しかし、これは大きな賭けだ。ボスがポシャれば自分も終わりだ。いくら実力があってもそんなこと関係なしだ。福田部長の例もある」「そうですね」

「所詮、サラリーマンなんてものは危険な運命共同体の筏に乗っているようなもんさ。会社そのものが筏なんだからな。ま、俺は部長になった。大卒のサラリーマンで部長になれば大出世だ。これ以上は望まんし、人に運命を委ねるのも性に合わん。だから俺は一匹狼でいるんだ。これで終わりだけど、気楽に会社生活を楽しんでいる」「私も全く同感です。出世するより、好きな仕事が出来ればいいと思ってます」「そうだ。その考えで行けば、人生あくせくしないで、楽しく歩いていける」「はい」

「ところで島君、さっきの話だが、俺の勘では負けるのは苫米地さんだと思う。このまますんなり会社を去るな」「と言いますと」「今すぐ俺に休暇届を出せ。そして明日から会社に来るな」「え」「あと一週間で解雇通知が来る。周囲には別れの挨拶をしなければならない。しかし休職中ならそんなことしなくてすむ。クビになったことは誰にもわからん」「はい」「苫米地さんは失脚すれば、大泉新社長に俺が頼みに行く。君を復職させるようにな。それがスムーズに職場に戻れる唯一の方法だ」「あ、ありがとうございます」

(中沢部長とはスタンスが同じだと思った。この人のあとならついてゆける。そういう人の存在を初めて感じた。その日のうちに休職届を出し、俺は会社を離れた)

島のマンションを尋ねる久美子。「なんだよ、一体」「夜中に男のマンションに電話して。やってきた女がトランプをしようと言うと思う?これ、ドンペリ。休職祝いよ」「これはリッチだ。早速冷やさなきゃ」「シャンパンが冷えるまで、まだかなり時間があるわ」

シャンパンが冷えるまで汗まみれになる島と久美子。「じゃ、俺のサボタージュを祝って」「乾杯」「うまいや。明日から会社に行かなくていいと思うと余計にうまい」「会社には行かなくてもいいけど、島さんが行かなきゃいけない所ができたわ」「え」「これ、今日、うちの郵便受けに入ってたの。母親からのハガキ」「絵ハガキ?ココヤシに寺院。ここはどこだ」「バリ島よ。消印はバリのもの。でも住所は書いてないわ。島さんが行って探すのよ」「見つかるかな」「大丈夫よ。狭い島だもの。それに私の母親、かなり目立つと思うわ」

 

STEP70

福岡に行き、福岡日報の香山と「女が社会を見つめる会」の会長の矢嶋と接触する木暮。「初芝電産福岡営業所が安売りで有名なめるへん電気に「これ以上安く売るな」と圧力をかけたわけです」「それはどういう罪になるわけ」「ヤミ再販さ。独禁法で公取委が指定した商品以外の再販行為をしてはいけないことになってるんだ」「再販って?」「再販売価格維持制度のことだよ。小売業者に対して価格を指定し、それを守らせる制度だけど、現在ではわずかに医薬品、千円以下の化粧品などが、この適用を受けている。それ以外の品目について、メーカーが勝手に価格を決めるのは、独禁法違反になるんだ」

「それで初芝は具体的にどういうことをしたの」「初芝電産福岡営業所の宮城所長名で、福岡市にある代理店の福岡ハツシバ販売社長あてに、めるへん電気に商品を卸すことを禁止する旨の文書をファックスで送った。ところがハツシバ製品をいくらで売るかは小売店の自由なんです。例えば、損する覚悟で仕入れ価格より安く売ってもいいんです」「それじゃ損するじゃない」

「それが損をしないカラクリがある。量販店や大型販売店では大量に仕入れをします。たとえば洗濯機を100台購入すると。メーカーから報償金が出るんです。500万で仕入れて、480万で売っても、報償金が50万出れば、トータルで30万の儲けになる」「なるほど。しかし、量販店じゃなくて小売店が仕入れ価格割れで安く売る場合もあるけど、それはどういうことですか」

「ハツシバショップ等のメーカー系列店以外の店なら可能ですね。ハツシバのマージンは25%でも他社のマージンが40%や45%と言うこともあるのです。お店としては全体として利益が出ればいいわけだから、目玉商品としてハツシバの商品を5割引きしても、どんぶり勘定でプラスになればいいわけです」「めるへん電気はそれをやった」「しかも、その目玉商品が携帯用ビデオのウォッチャー3だった。ウォッチャー3はハツシバの最も力の入れている新製品で、今、値崩れされると、市場が混乱して非常に困るわけです。だから必死に防ごうとした」

「もともと、めるへん電気はバッタ屋から仕入れたり、超安売りをして、市場を乱してたからな。我々消費者にとっては大変いい店だが、メーカーとしては非常に腹立たしい店と言うわけだ。それで今回の出荷差し止めと言う暴挙に出たと言うことか」「めるへん電気はこの措置に対して怒らなかったの?」

「めるへん電気の社長は「新聞のこのことを公開するぞ」と初芝営業所に怒鳴りこんだ。ハツシバ本社は驚いて、金の力でもみ消そうとした。その書類がこれ。めるへん電気に対する臨時報償金の名目で500万支払おうとした」「めるへん電気は断ったんだ」「いや、足元を見てるのか、まだウンと言っていない」「叩くなら今ね。ハツシバは我々消費者にとって絶好の標的だわ。世論を盛り上げて、不買運動に持って行くのよ」

 

STEP71

(バリに着いた。バリ島はインドネシア共和国に属する島で、広さは東京都の2.5倍。赤道に近い南半球に属する熱帯型気候の島である。人口は257万で州都はデンバサール。街の至るところにヒンズーの寺院が立ち並び、その数は1万とも言われる。この小さな島は隅から隅までヒンズー教一色に塗り込められているようだ)

(観光ガイドブックにあるリゾートホテルとマリンスポーツは限られたエリアにだけ存在し、それはバリ本来の雰囲気とはおよそかけ離れた異質な文化だ。まるで無作法にこの島に上がり込んで来た招かれざる客のような気がする。大町愛子なら、この島ではかなり目立ってるはずだ。美人だし、金持ちだし、探し出すのにそんなに時間はかからないだろう)

中央マーケットで果物売りのオヤジに聞く島。「オオマチって言う40歳くらいの日本の女性を知らないか」「オオマチ?またオオマチか。日本人にはその名前が多いのかな」「え。知ってるの」「いや、先ほど来た日本人が同じことを聞いたんだよ」「日本人?」「中年の男の二人組で、あまりいい感じのしない奴らだった」(何者だ。ひょっとしたら、俺は跡をつけられているのかもしれない)

報告を受ける苫米地。「島耕作を尾行してバリに行った興信所の調査員から連絡が入りました。大町愛子の居所は不明です。島耕作も探し出していません」「大町愛子がバリ島にいることは確実なのか」「はい。外務省の安藤氏に調べてもらいました。滞在場所はヌサドア・ビーチホテルとなっていますが、1週間宿泊した後はどこへ行ったかわかりません」「その辺は焦ることはない。こっちは鵜飼いの鵜匠になればいいんだ」

「社長。大変な事態になりました」「なんだ」「これは福岡日報と言う地方新聞の朝刊のファックスですが」「読んでみろ」「初芝電産、ヤミ再販。公正取引委員会近く調査か?消費者の間に不買運動の動き」「なんだと」「初芝電産は今年の5月、安売り店・めるへん電気に対して、安売りをしないように指示。これを守らなかっためるへん電気に対して、7月27日、出荷差し止めと言う措置を取った。これは独占禁止法に抵触する不法行為であり」

蒼ざめる苫米地。「どこのバカだ。こんな指示を出しやがって。第一、今まで俺の耳に入らなかったのは何故だ」「それが私のところにも今日初めて飛び込んで来たニュースでして」「現地ではどんな処置を取っていたんだ」「それがめるへん電気とは内々に話し合いがついて、ほぼ解決していたのですが、そのことも何故か福岡日報はつかんでいるらしくて」「と言うことは、内部から情報が漏れたのか」

 

STEP72

(バリ島の印象をひとことで言うと、決して南海の楽園ではない。神々の棲む神秘の島だ。寺院と田んぼと蛙の合唱。一日の時間が実にゆったりと流れ、素朴な田園風景が眼前に広がる。とりわけ東部に広がる棚田には圧倒される。見事な大地の芸術だ。島にはガムランの旋律が横溢し、村のあちこちで祭事に使う献花や供物を頭の上に乗せた女性に出会う。宗教と生活が完全に一体化しており、島全体が幻想的な雰囲気に包まれて、気分が妙に高揚していた)

<初芝電産のヤミ再販価格疑惑に関して、公正取引委員会は関係書類を入手し、本格的な調査に乗り出しました。この書類が事実に基づくものであると判明すれば、初芝電産は明らかに独禁法24条に違反しており、近く関係者から事情聴取をすることになります>

何たることだ、と叫ぶ苫米地。「畜生。このままじゃ俺の身が危なくなってきたな。11月の取締役会で社長解任の格好の理由にされてしまう。苫米地派全員を集めろ。今こそ結束を固めるんだ。3日の1度は会合を持て」「は、はい」「あとはバリ島の大町愛子か。早く見つけて、こっちサイドに抱き込む。これで完璧だ」

レストランに行く島。「何だかわからないけど。適当に注文してみるか」(バリへ来て一週間。手掛かりなしとは情けない)「あれ。なんだ。これはオムレツか」(なんだか変な味だな。苦くてドロドロしてケチャップまみれで)「変なものを食ってしまったな」(あれ、おかしい。なんだかフラフラしてきた。なんだ、この風景は。何がどうなってるんだ)

「あれ?」「やあ、日本人。目を覚ましたか」「ここは一体」「警察だよ」「警察?何故私がここに」「お前はマジックマシュルームを食い過ぎて、路上にぶっ倒れて、半日気を失ってたんだよ」「マジックマシュルーム?」「さあ聞かせてもらうぞ。どこで食った?」「何のことだがよくわかりません」「ふざけるんじゃない。お前が食ったドラッグキノコだよ。バリでドラッグ類が禁止されているのは知ってるだろう。過去には99年の実刑判決を受けた白人もいるんだぞ」(マジックマシュルーム。あのオムレツに入っていたえのき茸のようなもの?)

「日本人。本当にマジックマシュルームを知らないのか」「はい」「教えてやろう。そいつは牛糞に生える小さなキノコで食うとドラッグをやった時のようにトリップしちまうんだ。わざわざこいつを食うためにバリに来る人間も大勢いる。しかし、食い過ぎるとぶっ飛んで精神病院へ直行したヤツもいるくらい危険なものだ」

(そうか。俺を陥れようとしたヤツがいるんだ。デンバサールのマーケットで大町愛子を探していた二人の日本人。こいつらだ)「パスポートを見ると入国して一週間経っている。しかもパックの旅行者じゃない。何の目的でバリへ来たんだ」(そうだ。これはチャンスかもしれない)「大町愛子と言う日本人を探しに来たんです」「そういう人間がいるかどうか調べてやる」

「いました。現在はベドゥグルの政府高官の別荘にVIPとして住んでいます」「VIPだと?じゃ島耕作と言う日本人を知っているかどうか問い合わせてみろ」「わかりました」「いいか。彼女がお前を知っているなら、あるいは会うと言ったなら、釈放だ。しかし、彼女が拒否すれば、しばらくここにいてもらうぞ」「……」

「奥様。今、警察から電話がありました。シマ・コーサクと言う日本人が奥様を尋ねて、バリ島へ来ているそうですが、お会いになりますか」「シマ・コーサク?知らないわ。そんな男」「じゃ、断ってきます」

(シマ・コーサク。その名前、どこかで。軽井沢の別荘にいた時、娘からもらったハガキの中に。<追伸、ママ、私は今、恋してるわ。相手の名前は島耕作。42歳のオジサマよ>)

「シンドラ」「はい、奥様」「島耕作に会うわ。連れてきて」「かしこまりました」

 

STEP73

山奥の豪邸で嫣然と微笑む大町愛子と対峙する島。「初めまして。島耕作と申します。突然、こんな形でお会いすることになって、大変失礼いたしました」「警察から電話があった時は断るつもりでしたが、あなたがうちの久美子のボーイフレンドと知って、会う気になったのよ」「え。どうして、そのことを」「今年の夏、軽井沢にいた時、久美子からもらったハガキの中にあなたの名前が書いてあったの。もしや、久美子を嫁に来て欲しいと言うお願いに来たのかしら」「いえ、そういうのじゃなくて」「じゃあ、なに?」

「単刀直入に申し上げます。あなたのお持ちの初芝電産の1500万の株式、お借りできないでしょうか」「あら。随分生臭い話ね。興ざめだわ」「初芝は社長交代の気運が高まっています。次の取締役会で苫米地社長に変わって、大泉副社長が社長の座に座ろうとなさっています。大泉副社長は故吉原会長の娘婿。個人筆頭株主である奥様の2500万株を背後に圧倒的な力を持っていると思われましたが、苫米地社長は関連持株組織を社長権限で配下に入れて、拮抗しているのが現状です」

「そこで、私を大泉派に入れて、天秤の片方を下げようと言うわけね」「なにとぞご協力賜りたくお願いにあがりました」「それで、あなたをここに寄越したのは、娘のボーイフレンドと言うことで私が承諾するだろうと言う腹積もりだったの。大泉裕介の考えそうな薄汚いやり方ね」「いえ。大泉副社長は全くこのことをご存知ありません」「じゃ、なんであなたが来たの」「正直に言うと、私の保身のためです。私は苫米地社長に会社を追放されました。身分回復のためには苫米地社長に辞めてもらうしかない。そういう図々しい考えから、あなたにお願いに来ました」

「あらまあ、獅子に噛みついた蟻みたいね。でも、気に入ったわ。いい根性をしてる。男の世界はそれぐらい突っ張らなきゃ面白くないわよね。あたし、そういう牙をむき合っている世界って好きなの。だけど私も一筋縄じゃいかないわよ。私はヤワな女じゃないわ」「ヤワとは思ってません」「しばらく考えさせて。結論出すまで、この屋敷に滞在してくれるわね」(大町愛子は人を圧倒する不思議なパワーを持っている人間だ。その神秘的な力は日没を迎えて、ますます大きくなった)

(ケチャックダンスはバリに伝わる伝説を猿の鳴き声の合いの手で構成した幻想的な舞踏劇だ。その緩急を心得たリズムが、まるで催眠術のように見る者をトランス状態に導いていく)「島さん。私と一緒に閨房まで来て」「は、はい」

(彼女の天蓋つきのベッドの側にはすでに3人の男が立っていた)「さあ、みんな始めて」(目くるめく世界が眼前に広がった。3人の屈強な若者が大町愛子の体を弄び、時には慈しむように、ねっとりと攻めていくのだ。これを何と表現すればいい。そうだ、至福だ。至福の境地に入っている。大町愛子は他人に自分のセックスを見せて燃え上がるのだ。この悲しい性癖は故吉原会長と木野会長によって培われたものだ)

「みんな、どいて。どきなさい」「え」「島耕作。私に来て。あなたの欲しいものは、あなたの行動如何にかかっているわ。さあ、ここに来て。私を抱くのよ。私をメチャクチャにするのよ」「……」「さあ、早く」

 

STEP74

私にはできませんと断る島。「あなた、1500万株が欲しいんじゃないの」「はい」「じゃ、なぜ。私に魅力がないから」「いえ、そんなことはありません。大変魅力的です」「なるほど。そういうことか」「え」「島さん。あなたが私を抱けなかったのは、私が久美子の母親だから、でしょ」「……」

「これでわかったわ。あなたと久美子がどういう関係にあるのかってことが。自分と大町久美子は普通の仲じゃない。だから大町愛子は絶対説得できる。そう思って自信満々で乗り込んできたわけね」「いえ。決してそういう気持ちでは」「だから私を抱かなかった。そのあざとい計算がとてもイヤ。あそこで臆面もなく私を抱けるような図太い男でなきゃ、今度の勝負には勝てないわよ」「……」「返事は明朝するわ」

20万株を木暮に渡す樫村。「こいつで苫米地派の役員15人を買収しようってわけか」「一人1万株、時価にして2500万円だ。裏切りの報酬としては決して安くない。明日からあんたに働いてもらうぞ。俺は立場上、表には顔を出せない」「そういう役回りは俺のもっとも得意とするところさ。任せてくれ」

1500万株の件はお断りすると島に告げる愛子。「理由は言わなくてもわかってるでしょ。私の出した条件を飲まなかったのは、あなたなんだから」「し、しかし」「それ以上聞かないで、別室に客を待たせてあるんで失礼するわ」

(予想はしていたが、こうまでそっけなく断られるとは思わなかった。残念ながらあの状況で大町愛子を抱けるほど、俺は図太くない。しかし、これでいいのかもしれない。要するに敵方に彼女の1500万株が渡らなければ、それでいいのだから。ん、二人の日本人。え。苫米地派)

はははと笑う大泉に、こんなにうまく行くと思わなかったと言う樫村。「いやあ、みんな君のおかげだ。ところで実弾攻撃はうまくいきそうか」「ええ。機が熟するまで待ってましたけど、今日あたりから攻勢をかけます」「くれぐれも慎重にやれよ」「その点は心配ありません。信頼のおける外部の人間に頼んでありますから」

「持株の力関係はどうなってる」「大町愛子の1500万株。これを押さえることが出来れば楽勝です」「なるほど」「その件に関しては、バリ島に行っている島課長が交渉していると思います」「大町愛子は難しいぞ。少なくとも俺たち夫婦には敵愾心を持っているからな。本妻の子と愛人の確執と言うやつだ」「島課長ならやってくれると思います」「うむ。もし大町愛子を引っ張ってこれたら、大手柄だ。そうなったら島君を会社に戻すだけじゃなく、一気に部長職まで引き上げてやる」

(完敗だ。大町愛子獲得に失敗しただけじゃない。敵に彼女の居場所を教えてしまったんだ。こんな気持ちでバリを離れようとは正直思っていなかった。さらば神々の島。グッドバイ)

 

STEP75

バリの大町愛子は大丈夫なんだろうなと石渡専務に聞く苫米地。「はい。1500万株の委託を受ける確約を取ってあります」「どうやら、俺のかいかぶりだった。島耕作と言う男も大したことない。あの野郎、何しにバリ島くんだりまで行ったんだ」「これで、我が陣営の持株数も2700万株を超えて、大泉派より上になります」「よし、乗り切れるぞ。大泉裕介。お前みたいなバカ殿様にこの初芝電産を渡すわけにはいかん。あと10年はこの苫米地功が君臨してやる」

実弾は威力を発揮してるかと樫村に聞く大泉。「現時点で苫米地派15人中13人に接触しました。これは株式売買契約書と苫米地派離脱の念書です」「ほう、13枚ある。全員成功か」「はい。実弾の威力は抜群です。時価2500円の株を額面50円で1万株売ってやると言えば、誰だって飛びつきます。ましてや、今、ヤミ再販の問題で、苫米地社長の地位がぐらついている時です。この2つを絡ませて攻めれば、いとも簡単に全員落ちましたよ」

「それだけ、苫米地は部下に信頼されてないと言うことだ。あいつがここまでのし上がって来たのも恐怖人事。いつ何時飛ばされるかもしれないと言う恐怖で、みんな服従して来たんだ。だがそんなことじゃ人は動かせない。ハートだよ、樫村君。大きな愛で包み込まなければダメだ」「ごもっともです」

「ところで、残りの2人は誰だ」「石渡専務と久米専務です」「なるほど。この2人はちょっと厄介だぞ。苫米地の腹心中の腹心だからな」「この2人はこのままにしておきますか。すでに多数派工作には成功しているわけですし」「いや。アタックするなら全員だ。完璧な方がしこりが残らないだろう。俺は報復人事はやらない。いずれは俺の傘下に入る連中だ。くだらないことで折角の人材を失いたくないからな」

家に戻った久米は宅急便が届いていると言われる。(おかしいな。差出人が書いてない。初芝の株券。しかも1万株。誰がこんなものを)電話に出る久米。「ハツシバの株、お手元に届きましたか」「あんたは何者だ」「その辺のことをお話したいので、駅前の喫茶カトレアまでご足労願えませんか」

カトレアで久米を迎える木暮。「初めまして。故あって名乗れませんが、株をお宅に送付したものです」「この株はどういう意味か説明してほしい」「それは、あなたに買っていただきたいと思ってる株です」「いくらで」「額面通り、1枚50円で1万株。50万円ですね」「……」「今まで、これだけの方に買っていただきました」「……」「苫米地派のお歴々はあなたと石渡さんを除いて、全てこの株をお買いになりました」

「ウソだ。信じられない。これは罠だ。私を陥れるためもねつ造だ」「現実ですよ、久米さん。派閥の結束なんて所詮その程度のもの。最終的には自分が一番可愛いんだ。みんな賢明ですよ。船を乗り換える時を知ってるんです。沈んでいく船と生命を共にするのは船長一人で十分でしょう」「……」「大泉さんは報復人事はしないとおっしゃってます。内輪の些事で人材を失うような愚行はなさいません。あの人は20年間帝王学を学んできたんです。そういう意味ではガツガツした権力志向者でないことは確かです」「少し考えさせてほしい」

失敗したのかと島に聞く樫村。「すまん」「失敗はともかく、大町愛子の存在を苫米地派に知られたかもしれないと言うのは痛いな」「そうだ。知られたばかりか、彼女の1500万株を苫米地派に握られてしまった可能性が大きい。動き過ぎて墓穴を掘ってしまった。俺の力が足りなかった」

「島さん。ママはどうして断ったの。私と島さんが出来てること、知ってるはずなのに」「……」「いや、それは妾の意地だよ。君のお母さんと大泉笙子はいわば敵対関係にあるんだ。道理から言えば、今まで敵視されていた相手に協力するはずがないだろう」「いや、そうじゃなくて」「どうしたの」「なんでもない」

「島さん。今から一緒に成田まで行って」「え」「木野のおじさまがヨーロッパから帰って来るから迎えに行きたいの」「木野会長が?」「木野のおじさま?木野会長を知ってるのか」「ええ、木野のおじさまは私が子供の頃からお世話になってるんです。父親代わりみたいなもの。父が亡くなってからは、母の現在の事実上の男よ」「そうだったのか。じゃあ好都合じゃないか」「そうよ。木野のおじさまに頼めば、母を呼び寄せることができるわ。9回裏の大逆転ありよ」

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