弘兼憲史「課長島耕作(3)」

 

STEP20

満員電車で通勤する島は、目の前にあえいでいる老婆がいるのに平然と座って新聞を読む男に声を掛ける。「すみませんが、こちらのおばあさんが疲れてらっしゃるので、席を譲っていただけないでしょうか」「冗談じゃない。疲れているのはこの人だけじゃない。私だって疲れているんだ」「え」「君、私はこの電車の席を取るために、始発駅のホームで20分も並んだんです。私には座る権利があるんだ」

「権利とかそういう問題じゃないでしょ。あなたの気持ちのことを言ってるんです」「内政干渉だ。そんなことは。それにだね、私にそんなことを言う権利が君にあるのか」「君なんて、なれなれしく呼ばないでください。僕はあんたの部下じゃないんだ」「大体、席を譲ってくれなんて、当の本人がひとことも言ってないじゃないか。それを他人のあんたが何故ぐちゃぐちゃ私に言うんだ」「……」「おばあさん、私の席に座りますか」「いえいえ。私はここで結構で」「ほら見ろ。あんたのお節介じゃないか」(なんて奴だ。このクソったれ)

島にロスアンゼルスに行くと言う福田。「西部ハツシバアメリカの社長としてな。1年ほど行ってくる」「は、左様で」「ここで一年勤めて帰って来ると、平取の仲間入りすることになっとるのや」「そうですか。それはおめでとうございます」「ついでに大泉のバカのあら探しでもしてくるか。こりゃ一石二鳥ちゅうわけや。ハハハ」「……」「そんで、1年間、俺の代役として、検見川次長が俺の机に座ることになった。あとで紹介するが、ま、よろしゅうやってくれ」「その検見川さんとはどういう人で」「確か奈良の電子レンジの本部長やっとった言うとったな。まあ、大したことあらへん。雑魚や」

(その検見川次長が満員電車での例の男だった。俺に対する彼の接し方は特別のものだった。俺の提出する企画書はことごとく拒否されるし、俺が勧めていた下請けへの仕事は全部自ら電話をしてストップをかけてきた。その結果、下請けのデザイン会社及び企画会社に対する俺の顔は丸つぶれで、信用まで失ってきた。さすがの俺もこれにはまいった)

「すみません」「は、私ですか」「あなた、初芝電産の島課長でしょう。私、人材コンサルタント会社で働いている蒲池と申しますが、少々相談したいことがあるんですが」

 

私はヘッドハンターだと言う蒲池。「人材獲得のスカウトです。ま、引き抜きですよ」「それで、私に何か」「単刀直入に申しますと、ソラー電機があなたを欲しがっているんです」「え」「あなたの会社のライバル会社ですな。失礼ですが、あなたの年収はいくらですか」「700万ちょっとですけど」「わかりました。では年収1000万お支払いするように交渉しましょう」「……」

日本にヘッドハンティング会社は30以上あると言う蓮池。「殆どの上場企業から依頼が来てます。ところが、まだまだ日本では転職に関して保守的でして、アタックしてOKしてもらえるのは20人に一人ぐらいです。ま、アメリカでは常識ですよ。何回転職したかが、次の転職の売り込みのセールスポイントになるくらいですからね」「……」「一週間待ちましょう。一週間後の午後10時に、四谷アーバンホテルのロビーでお会いできますか」「は、はい」(これはチャンスかもしれない。俺は今、人生の岐路に立っている)

 

STEP21

島は典子を抱こうとするが途中で萎えてしまう。「すまん」「何か考え事してたでしょう」「……」「ねえ」「もう7時だぜ、お店に行かないといけないんじゃないか」「今日は休みなの。昨日はマスター・ド・クラブに出張して朝まで働いたから、今日は代休」「マスター・ド・クラブ?」「毎週一回開かれる高級会員制クラブのこと。南青山の経済連合会ビルの地下にあるんだけど、財界のトップクラスだけしか会員になれない秘密クラブなの」

「へえ、どんなメンバーなんだ」「殆どが超一流企業の社長とか副社長クラスね」「ウチの会社はいるの?」「いるわよ。裕介ちゃん。だから私がそこに出入りできるのよ」「なるほど」「でも昨日、大泉さんのカードで来てたわ。初芝の人が」「ほう、誰だ」「初めて見る人。確か検見川とか言ってた」(げ。あのクソったれが。でもどうして大泉社長のカードで)

「あら、知ってる人?」「俺の直接の上司だよ。そいつに睨まれて滅入ってるんだ」「それね。ナカオレの原因は」「俺、スカウトされてるんだ。相手はライバル会社のソラー電機。そんなことがあった矢先なもんで、心が揺れている」「じゃ、会社変わるの」「条件もいいしね。今日そのスカウトマンに会うんだけど」「面白そうね。あたしも行っていい?」

蓮池を見て、あれっと呟く典子。「あの人、マスター・ド・クラブにおたくの検見川さんと来てたわよ」そうかと気づく島。(これは罠だ。あのスカウトはニセモノだ。ソラー電機から依頼があったのもウソだ。冷静に考えると、先端企業の技術者ならともかく、単なる宣伝屋の俺を何故高額で引き抜く必要がある。これは検見川次長の仕掛けた罠だ。危ないところだった)

フロントに電話して蓮池を呼び出すように頼む島。「蓮池ですが」「島ですが、急用がはいりましてそちらに行けなくなりました。身辺整理をしたいので、一週間待ってください」「わかりました。じゃ一週間後の同じ時間にここで会いましょう」カメラマンと去っていく蓮池を見つめる島。「どうしたの。あの人、帰ったじゃない」「ああ、ちょっと気が変わったんだ。ところでマスター・ド・クラブに潜り込む方法はないかな」

典子のマネージャーに扮してマスター・ド・クラブに潜り込んだ木暮は検見川に接触する。「なぜ、私の名前を知ってるのかね」「あなたのことは全部調べてありますよ。出身校も年収も家族構成も」「え」「どうですか。会社を変わって見る気はありませんか」「何だって」「年収は2500万。待遇は常務取締役。悪い話じゃないでしょう」「……」「詳しいことをお知りになりたければ、ここにご連絡ください。では失礼」

どうだったと木暮に聞く島。「検見川はOKしたのか」「ああ。2500万をちらつかせば一発だった。このテープを聞いてくれ」<初芝電産を辞める気持ちが固まりました。よろしくお願いします><そうですか。それはよかった。うちの社長も喜んでくれますよ><あ、あの、どちらの会社でしょうか><某自動車メーカーです。後日責任者と一緒にお会いします>(サラリーマンなんて、こんなものなのか。俺を含めて、つくづく悲しい人種だと思うよ)

「ところでな、島、あの検見川って男を調べたら、福岡営業所時代に当時の大泉所長の懐刀と言われた男なんだ。かつては大泉ファミリーの一員だったに違いない。大泉のカードでマスター・ド・クラブにやってきたのも、その辺のコネがまだ続いているらしい。あの男がお前の近くにいるのは危険だと思って。このテープをダビングして、宇佐美専務に送ったぞ」「え。そりゃ荒業だな」

挨拶する検見川。「このたび、秋田ショウルームの所長として赴任することとなりました。短い間でしたけれど、お世話になった皆さまにお礼を申し上げます」廊下を歩く島に声を掛ける検見川。「島君」「何です」「いや。何でもない。失礼した」(たった一本のテープで簡単に飛ばされる。サラリーマンってのはつくづく悲しい人種だ)

 

STEP22

ラスベガスから島に電話する福田。「明日から初芝の新製品の展示会をやるんでな。少し人手が欲しいんや。君も来てくれ」「え。私が」「英語の出来るヤツが急きょ欲しいんや」「展示会の対象は一般消費者ですか」「ちゃうねん。今回は米国のハツシバ代理店の経営者の団体や。口うるさいのが多いんや。それに、ニューヨークのハツシバアメリカから大泉が来よるよってに、あんまり恥ずかしいとこ見せられへん。とにかくすぐ来てくれ。明日、東京を発て」「は、はい」(こらまた急な話だ)

成田空港で典子と会う島。「ウソ。どうしてこんなところにいるの」「君こそどうして」「あたし、ラスベガスに行くの。裕介ちゃんに来いって。あなたは?」「同じだよ」(悪い予感がする)

「でも、びっくりするだろうな、裕介ちゃん。あなたと私が一緒にやってくるなんて」「本当のことを言うと、俺の上司の福田部長、そして宇佐美専務は、君のパトロンである大泉社長と敵対関係になるんだ」「じゃ、あなたは微妙な立場にあるのね。だって裕介ちゃんからも目をかけられているんでしょう」「うん。そうなんだよ。俺の本意じゃないけどね」

(ラスベガスはロサンゼルスから東北へ470キロのところにあるギャンブルの街だ。一攫千金を夢見て年間1100万人もの観光客が集まる砂漠の中の不夜城だ。この街へ一歩足を踏み入れると、もうギャンブル一辺倒。空港ロビーには待ちきれない観光客の為に、スロットマシーンがずらっと並んで出迎えるのだ。もう街全体が完全に舞い上がっている)

「典子」「キャホー、裕介ちゃん」「島君。何で君が」「今日の展示会で呼ばれまして。典子さんとは偶然一緒になったんです」「そう。私をガードしてくれたの」「そうか、じゃあ、ホテルに行くぞ、典子」「島さん、あなたのホテルはどこ?」「私はラスベガス・グランドホテルです」「いいか、島君。典子のことはくれぐれも他言しないようにな」「わかってます」

(ハツシバ展示会はホテルの二階ホールを借り切っての盛大なものだった)「島君。よう来たな」「どうも」「あ。大泉のバカが来た」「お、福田君」「遠路ようこそ、大泉社長」「どうだね、ロス支社は?」「なにぶん、不慣れなもので四苦八苦ですわ」「島君じゃないか。久しぶりだな」「ニューヨークでは大変お世話になりました」

「福田君、今日はニュージャージーのハツシバ系列販売店店主の団体を連れて来たんだ。よろしく頼むぞ」「わかりました。早速、係をつけますので」「それから後でグランドキャニオンへ行きたいそうだ。誰か随行してもらえんかな」「かしこまりました」「それと、島君には夕方、私の泊っているシーザーズパレスに来てほしいんだが」島に囁く大泉。「典子のとこに行くのが遅くなる。食事の相手でもしてやってくれ」

「大泉さん。どういう用件か知りませんが、それは非常識です」「なんだと」「島君は私がここへ呼んだんです。ニューヨーク時代はあなたの部下かもしれませんが、今は私の部下です。勝手に使わんでください」「……」「島君、グランドキャニオンへは君が随行しろ。すぐチャーター機の手配をしてくれ」「は、はい。では」(うへえ、早速始まったぞ)

(グランドキャニオンはコロラド川は数千万年をかけて浸食隆起を繰り返して作り上げた大自然の傑作品だ。全長347キロのスケールにはただ圧倒されるのみだ。チャーターした飛行機は10人乗りの双発機。峡谷の上は気流の変化で激しく揺れる。全員フラフラになるが何とか峡谷の高台にあるエアポートに到着)

(特に太ったこの御婦人は腰が抜けて、ずっと俺が手を貸して歩いた。なんだか農協の団体に随行したツアー添乗員の気分だ。御婦人はメアリーと名乗り、夫はギャンブルが好きなので一緒に来なかったとペラペラと喋った。まあ、話好きの中年のオバサンの相手をするのも仕事の一つと割り切った)

自分の部屋でくつろぐ島。そこに現れるメアリー。「あの、何か私に」「夫がカジノに行ったきり帰ってこないのよ。淋しくて」全裸になるメアリー。「好きにしていいわよ。ジャパニーズ・ボーイ」(大峡谷が眼前に迫って来る。どうする島耕作)

 

STEP23

(ラスベガスはネバダ州にあって、米国政府が公認している賭博の街だ。カジノは各ホテルの1階にあって、全て24時間営業。夢と希望、失望と現実がないまぜになっていて、カジノの中は異様な熱気で膨らんでいる。ギャンブルはいろいろあるが、何と言ってもディーラーと客の戦いであるブラックジャックとルーレットが文句なく面白い。ギャンブルをしない人間はカジノの中にある劇場でショーを楽しむことができる。で、ギャンブルをショーも楽しまない人間はどうしているかと言うと、ホテルの部屋の中でこうなる)

島は意を決して、メアリーを抱こうとするが、メアリーの夫から電話がかかって来る。「部屋に帰ったら女房がいないんだ。どこに行ったか知らないか」「いえ。すぐ探します」「30分後にディナールームにいるから、見つけたらすぐ来るように行ってくれ」「かしこまりました」(助かった)

ほっとする島であったが、メアリーからの電話を受ける。「どうしました」「今、ディナールームで食事をしてるんだけど、私のカバン、あなたの部屋に忘れたらしいの」「あ、本当だ。ベッドの隙間に落ちています」「あたしは今からずっと主人と一緒にいなきゃいけないの。明朝まで保管してくれない?朝食の時、こっそり受けとるわ」「わかりました」「それからカバンの中には100ドル札が100枚入ってるから頼むわよ」

(え?一万ドル。えらいものを引き受けたぞ。ホテルの部屋に置いたまま出るのは危険だ。現金だけは肌身離さず持っていよう)

しかし島はバーラウンジで売春婦と話をしている隙に1万ドルをすられてしまう。(ああ、大変なことになった。メアリーにカバンを返すまであと5時間しかない)「どうしたの、島さん。浮かない顔して」「典子」「あなたの顔を見たくなって、裕介ちゃんには悪いけど、出てきちゃった。ま、とにかく一杯やりましょう」「う、うん」

「えっ、すられちゃったの」「そうなんだ。だから落ち込んでいる」「どうってことないじゃない」「え」「あなた、今いくら持ってるの」「千ドルちょっとかな」「10倍にすればいいんでしょ。ここはラスベガスのカジノなのよ」「なるほど」「島さん。あなたギャンブルの経験は?」「ルーレットなら新宿の飲み屋で少し練習したことがあるけど」「じゃ、大丈夫よ。ここの客は大方が素人。ディーラーの方もそう思って軽くやっているから、少しでもルーレットの心得があるなら、一万ドル勝つのは難しくないわ」(よし。やってみるか)

 

STEP24

(あと5時間のうちの千ドルを1万ドルにしなければならない。別に金が欲しいわけじゃない。1万ドルくらいなら会社に頼めば、容易に借り出せる。問題は盗まれた1万ドルがメアリーのものであり、何故俺がその金を持っていたかと言うことだ。とにかく朝食までに1万ドルきっちり揃えてメアリーに返さなければ、浮気がばれてしまう。負けるわけにはいかんのだ)

(ルーレットは一見偶然性の強いゲームに見えるが、とんでもない話だ。実はシューターと客との高度な心理ゲームと言ってよい。シューターは回転盤を無造作に回し、その中に白い玉を投げ入れるだけだが、あれは決してデタラメに投げ込んでいるのはなく、ちゃんとある数字を狙ってシュートしているのだ。従って客はシューターがどの数字を出そうとしているのか予測しなければならない。つまり真剣にやらなければ、ラスベガスでは絶対に勝てない)

(3時間後、俺は勝っていた。100ドルチップも50枚近くたまっている)「ふああ、あたし、眠くなっちゃった。スロットマシーンでもやってこようっと。少しチップをもらうわよ」「あ、それ100ドルチップ」「気にしない、気にしない。勝ってるんでしょう」(畜生、500ドルも持っていきやがった。多分6000ドルくらいあるだろう。後2時間で1万ドルに持って行きたい)

(シューターが交替した。おほ、凄い美人だ)「沢山勝ってらっしゃいますわね。日本人?」「そう。日本から来た旅行者です」(そうか。この女、俺を潰そうとしてるな。おそらくカジノが差し向けた腕利きのシューターだ。しかし、やめるわけにはいかんのだ。とにかく1万ドルは勝たせてもらうぞ)

(俺の想像は当たっていた。彼女はまず他の客から潰しにかかったのだ。朝の5時にはとうとう俺一人になった。一騎打ちが不利なことはわかっている。シューターは他の客のポイントを見なくていいわけだから圧倒的に強い。ただしラスベガスはシューターが投げてからチップを張ることができるので、読みさえあたれば勝つことができる。それでも1回の勝負で300ドルずつ確実に負けていた。彼女は時々投げる時に俺の顔を見るようになったが、最初何を意味するのかわからなかった)

(タイムリミットだ。あと10分しかない。手持ちは2500ドル)「時間?もうやめますか」「いあ。あと10分ある。これを1万ドルにするにはどうしたらいいかな」「2倍の勝負に2回勝てばいいでしょう。赤と黒の勝負がいいわよ」(やっぱり)「ちょっとトイレに行ってくる」

トイレで考える島。(やはりあの女は俺に信号を送っていたんだ。理由はわからんが、俺の顔を見た時は赤の目、見ない時は黒の目に入れている。彼女のほうから赤黒で勝負しろと言って来た。ひょっとしたら逆の罠かもしれない。よし、乾坤一擲だ)

(俺を見た)「赤に2500」「おめでとう。これで5000になったわね。最後の勝負よ」(見た)「黒に5000」「赤よ」(ど、どうして)「残念ながら、あなたの負けです」

(完膚なきまでにやられてしまった。やはり最後も赤だった。何故、あの女は俺に勝ち目を教えてくれたのか。とにかく負けたんだ。メアリーに何て言えばいいんだ)「島さん。大変よ。出たのよ。オール7のジャックポット」「え」(典子はスロットマシーンで1万6ドル稼いだ)「これ、全部あなたにあげる。おかげで楽しい夜を過ごせたわ」「い、いいのか」(涙が出て来た)「すまん、この穴埋めはきっとするから」「穴埋めなら、東京に戻って、あなたのオチンチンでしてちょうだい」

(ハツシバ展示会も無事終了。典子は大泉社長とニューヨークへ出発。狂乱のラスベガス滞在を終えて、ロサンゼルスに向かう空港で、あの女と目が合った)

「先日はどうも。お出かけですか」「カジノをクビになっちゃったの。私たちの商売は浮き草のようなもの。この街を出て行くわ」「クビ?どうして」「あなたにサインを送っているのを、天井のマジックミラーから見破られちゃったのね」「あ、あの、何で俺にサインを」「気に入った男に勝たせようと思うのは人情じゃない。でもあなたは私を信用しようとしなかった」「……」「あなたが黒に賭けた時、私ちょっぴり悲しかったわ」

(俺は放心状態で飛行機の中にいた。イヤホーンをつけると、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」が流れている。ラスベガスの街を眼下に見ながら。俺にはこの曲が「千ドルは飛んでいく」と言うふうに聞こえた。ああ、しかし、いい女だったなあ)

 

STEP25

(ロサンゼルスは人口300万人余、メトロポリタン地域を含めると1300万人と言われる巨大都市で、日本人の持つ都市概念と全く違った様相を呈する。20世紀になっていくつもの町が横に繋がって出来た街で、中心部といったところがなく、やたら広大な敷地にパラパラと町が散在する感じだ。俺はダウンタウン地区にあるハツシバアメリカのロス支社で一週間販売促進の実態を視察すると言う遊びのような日々を過ごすようになった)

リムジンに乗る福田と島。「わしがこっちで作った屋外看板を見てみるか」「はい」「そら、頑張ったでえ、3か月の間に50か所もHATSUSHIBAの10文字をぶっ立てたんや。何故かわかるか」「いえ」「仕事いうんは概ね抽象的なもんや。自分の業績を会社に具体的になおかつ派手にアピールするんは屋外広告が一番や。後々まで残るからな」「はい」(この人は会社発展のために働いているのではなくて、自分の出世のために会社の内側に向かって仕事している)

「見てみい。そのうち宣伝物の入る余地のないこのビバリーヒルズの聖域にもHATSUSHIBAの文字をぶちこんだるさかい」「でも大丈夫ですか。やりすぎるとかえって反感を買いませんか。ちょうど日米関係がこういう時だけに」「島君。それは政府レベルの考えや。一般市民はそんなこと考えとらん。製品がよくて安ければそっちの方を買う。アメリカ経済のことを考えて、多少損しても国内製品を買うなんてバカはおらへん。この国では自由競争が基本や。そう言った意味での資本主義は日本より遥かに徹底している」「なるほど」「1ドル100円時代が来るのはそう遠くない。その時のために円安の現在では、製品よりもイメージを輸出することや」

島に大泉と典子のツーショット写真を見せる福田。「先日のラスベガスの展示会の時に、シーザーズパレスに大泉とその女が泊っていたと言う情報が入っとるんや。どや、その女、誰か知らんか」「いえ。知りません」「この女、ニューヨークか銀座あたりの女だろうと思う。大泉は吉原初太郎会長の娘と結婚してるんだ。こいつをツカんだら、オモロイことになるで。島君、東京に戻ったら、その写真を調査会社に回して、その女の身元を調べるんだ」「は、はい」(えらいことになった)

(米国の夜はどちらかと言うと地味だ。日本で言うスナックとかクラブとかそういう類のものはない。ナイトスポットはせいぜいディスコかサパークラブで、大抵が女性同伴の客で占められる。日本のサラリーマンのように男たちだけでぞろぞろ飲み歩くなんてことはないのだ。従って、ホステスのいる店なんてのは全く必要ないのだ)

(しかし、あるのです。日本人ビジネスマンのための飲み屋がちゃんと存在するのです。客もほとんど日本人で、ホステスも日本人。まるで新宿か六本木で飲んでいるような錯覚を覚える。ここは情けないほど閉鎖的な日本人社会だ。店の片隅でルーレットをやっていた、よしやってみるか、ラスベガスの夢よ、もう一度だ)

「チップをくれ。あっ」「……」「どうも」(ラスベガスの夢が、もう一度現実になった)

 

STEP26

(ラスベガスの美人シューターとこの日本人クラブで再会した俺は同じトリックで勝ちまくった。別に頼んだわけでもないのに、彼女が勝手に合図を送ってきて、俺たちの阿吽の呼吸はピッタリと一致する。意気投合した勢いで、そのままホテルになだれ込んだ)「マイ・ネーム・イズ・コーサク・シマ」「アイム・パメラ」(夢だ。これは夢に違いない)

「私は自分でとても運がいい女だと思うわ」「どうして」「だって、あなたと初めて会った時、寝たいと思ったの。そして、その通りになった。本当に運のいい女。私は幸せよ」「そうかな、パメラ。本当に幸せか。この注射の跡を見ると、そんなに幸せそうには見えないな。それからこのキズ。帝王切開の痕だろ」「鋭い男ね。確か私はジャンキーで子持ちの女。でも薬とはとっくにオサラバしたし、子供とも別れたわ」

「子供は今どこにいるんだい」「サンフランシスコよ。6年前にその家を出てそれっきり」「戻らないのか」「男とは正式に離婚して飛び出したんだもの。関係ないわよ。でも、戻ってみたい気もするわ。子供は8歳になってるのよね。フフ。調子よすぎるか。そんなこと」「さっきの店から巻き上げた金が1000ドルある。この金でサンフランシスコに行ってみるか」「え」

(サンフランシスコは三方を海に囲まれた半島先端に位置し、その起伏に富んだ街のたたずまいで、世界でも有数の美しい街と言われる。最も有名なのは、市内を縦横に走っているケーブルカー。チンチンと鐘を鳴らしながら急な坂を走り回る姿は滑稽でもある。一応駅もあるのだが、コーナーを回る時に減速するので、その瞬間に飛び乗るのがなかなか面白い)

「この坂道を歩くのも6年ぶりね」「なぜ別れたんだ」「私のせいね。薬はやるし、アル中にはなるし、他の男を作るし。別れる時は私の方から出ていったの。育児とか家事とか全てに自信がなかったから」「ダンナと子供はもう引っ越して、いないかもしれんな」「でも、あいつ、最後に言ったの。『君がどう思おうと、俺はいつでも君を愛している。10年でも20年でも俺と娘はここで待ってるぞ』と」「へえ、そいつは凄いじゃないか」「バカね。ウソに決まってるじゃない。誰でも別れの時って、無責任なカッコいいセリフを言うのよ」

「ここだわ、この坂道。一番上の右端があたしたちの家だった」その家から出てくる女の子。「リサ」「ママ」「リサ」「ママ」パメラはリサを抱こうとうするが、リサはパメラの脇をすり抜けて、坂道を掛け下り、パメラの元夫といる女に抱きつく。

パメラに謝る島。「サンフランシスコに行こうなんて言わなきゃよかったな」「ううん。いいのよ。だって、よく見たら、あれ、私の娘じゃなかったもの」え」「ちょっと似てたけど別人。多分引っ越したのね」「パメラ」「……」「やっぱり、あの娘は」「ダメだね。私って」「なに、ちょっと運がなかっただけさ。腹減ったな。カニでも食いに行くか」「うん」

 

STEP27

(サウサリートはゴールデンゲイトブリッジを渡ったところに広がるサンフランシスコの別荘地だ。小ぢんまりとして美しい港町で、子供と決定的な別離を余儀なくされたパメラにとって、この明るい保養地の空気は、その辛い思いを払拭するのに十分な場所だ)

「ねえ、コーサク」「ん?」「あなたの家族のこと、聞いていい?「ああ、いいよ。女房と子供が東京にいる。でも今は別居中なんだ」「あら、そうなの。子供は一人?」「いちおう、一人と思うけど」「どうしたの。変な言い方ね。自分の子供の数がわからないの」「パメラ。昔観た面白い映画の話を聞いてくれるか」「話して」

「舞台はニューヨーク。登場人物3人。黒人の男と東洋人の男と白人の女の3人だ。黒人の男は売れないイラストレーター。白人の女は広告代理店のAEで、2人は恋人同士。そして東洋人の男が現れる。彼は日本のサラリーマンで、ニューヨークに1年間仕事で来ている。東洋人の男と白人の女はふとしたことで出会い、恋に落ちる。それから男2人と女1人の奇妙なトライアングルは進行する」「それでトラブルはないの」

「それがないんだよ。女は同時に2人の男を愛し、男はそれぞれ1人の女を愛する」「明日に向かって撃て、と言う映画を思い出すわね」「そのうち、黒人のイラストレーターは売れっ子になり、東洋人のサラリーマンは東京に帰ることになり、お話は終りに向かうことになるんだが」「どうしたの」

「女に子供が出来てしまった。勿論、どちらの子供かはわからない」「あら」「ニューヨークへ最後の夜に、女は東洋人に打ち明ける。「私はボブと結婚するわ」「子供はどうする」「もちろん産むわよ、どっちの色の子供が産まれても、ボブの子供として2人で育てるわ」「心に傷を残して、東洋人の男はニューヨークを去ってゆく」「……」

「映画はここで終わりだ」「制作・脚本・監督。みんなコーサク・シマね」「そうなんだ」「それはいつの話なの」「昨年の1月」「えっ。じゃ赤ちゃんはそろそろ」「計算上ではもう生まれて2か月目を迎えるところだ」「まだ連絡してないの」「うん。しようとは思っているんだが、ニューヨークに電話する勇気がない。どっちの子供とわかったところで、意味がないことのように思えるし」「でも彼女におめでとうを言うぐらいのことをすべきじゃないの」「しかし、もし無事に出産できてなかったら」「そうなっていたら慰めてあげればいいのよ。あなたは普通の間柄じゃないんだから」「そうだな」

「もしもし、オー、コーサク。久しぶりじゃないか。どうして。え?シスコ?アメリカに来てるのか。アイリーン?ああ、元気だよ。今、ちょっと出かけていないんだ」「あの、聞きにくいことだけど。ベビーは」「ああ、産まれたぞ。4000グラムを超える大きな男の子だった」「そうか。それはおめでとう。それで、その」「安心しろ、コーサク。肌は黒かったぞ。過去も親父に似ちまった。間違いなく俺の子だ」「おめでとう。ボブ。よかったな」

アイリーンに語り掛けるボブ。「コーサクがよろしくと言ってたぜ」「うん。ありがとう。電話に出ない方がいいと思って」「アイリーン、気にするなよ。俺は子供の色がどっちだって関係ない。俺たちが育てれば、俺たちの子供だ。そうだろ」「ボブ。愛してるわ」

ゴールデンゲイトブリッジを歩く島とパメラ。「そう。色は黒かったの」「うん。安心したと言うか、ホッとした。ずっと気になってたんだ」「本当かしら」「え」「私だったらウソをつくわよ」「……」「あなた、これからどうするの」「明日ロスから東京へ戻る。君は?」「私も明日旅立つわ。南の方にでも行ってみる」「じゃ、お別れだな」「ええ、ここで別れましょう。橋の上で別れるなんて、映画みたいでカッコいいんじゃない?」「そうだな」

(パメラはキスをする前に「ありがとう」と小さく言った。何に対しての「ありがとう」かよくわからなかったけど、俺も彼女に同じ言葉を言った。そして、この時、パメラともボブとも、そしてアイリーンとも二度と会うことないと思った)

 

STEP28

1986年10月21日、午前10時、京都・緑風庵。「会長。おはようございます。宇佐美です」「……」「会長。お迎えにあがりました」「……」「福田君。変だぞ」「失礼します」「会長」「……」「亡くなってます」「……」「大変だ。すぐ本社に連絡しないと」「待て」「え?」ちょっと待て、福田君。今ここにいるのは、わしと君の二人だけだ」

午前11時30分、初芝電産・東京本社。「はい、製作課」「島君。わしや。福田や」「あ。どうも」「今、京都にいるんだが、今からちょっと動いてもらうぞ」「え」「緊急だ。わしの指示通り動いてくれ。それから、このことは絶対に他言無用や」「は、はい」

午前12時40分。世田谷・宇佐美邸。「こちらです。この上の部屋が主人の書斎です」「どうも」「えっと。右へ2回。そして、左へ回して4,5,9。これだ」「運転手さん。すみません。急いでください。広尾まで」

午後1時50分。渋谷区・広尾。「初芝電産の島耕作と申します」「あなたの持ってきた株券とこれを交換するのね」「はい。じゃ、私は急ぎますから」「ちょっと待って」「え」「名刺をいただけるかしら」「あ、はい」

(一体何がどうなってるんだ。俺は福田部長からの電話による指示通りに動き回っているだけだ)

『島君、宇佐美専務の金庫の中にうちの株は10万株ある、それは宇佐美名義の株券だ。それを持って渋谷区広尾にある広尾スカイヒルズ506号室へ行け。そこには津本陽子と言う女性が住んでいる。そこで津本陽子名義の初芝株10万株を受けとるんだ。専務名義の株券は担保として置いてこい。ま、一時的な物々交換や。ええか、株券を受け取ったら、すぐ証券会社へ行け。お前は飛び込みのフリーの客だ。場が立っている時間は午後3時までだから、午後3時直前に持ち込むんだ。そこで焦って売るそぶりを見せるんじゃない』

「もう立ち会いが終わりますが」「あ。いいです。明日の寄り付きで売ってください」「初芝さんの株ですか。指定銘柄ですし、10万株ぐらいなら、明日の開始から5分以内で売れますよ」「じゃ、お願いします」

10月21日・午後3時10分。東京・兜町。証券会社を出て、ふうとため息をつく島。

10月22日・午前10時。初芝電産・東京本社。「ええ、発表します。昨日、吉原初太郎会長が逝去しました」<亡くなった場所は吉原会長の別邸、京都市郊外の緑風庵。死因は心不全と発表されました。吉原会長は一代で初芝王国を築き上げた立志伝中の人で、そのカリスマ性は多大なものがあり、今後の初芝の株の動きが早くも注目されています>

「初芝売り3500」「はい。初芝売り5000ですね」「おい。外人売りが凄いぞ」「吉原会長のカリスマ性はむしろ海外の方が大きいんだよ」「どうなるんだ」「まあ、吉原会長の影響力も10年前ならいざしらず、今は事実上引退してるんだ。あの人が亡くなっても会社に影響はない」「一娘的なパニック売りの気配だから1か月もすれば持ち直すさ」

考え込む島。(夜になっても福田部長からは何の連絡もなかった。昨日、部長から指示を受けて走り回った時、会長はすでに死んでいたのだ。そして発表前に株は売りさばかれた。犯罪の匂いがする。電話だ。福田部長か)

「はい。島ですが」「私、津本陽子。覚えてるでしょう。昨日、うちへ来ていただいたから」「ええ」「私、赤坂で小さなクラブやっているんだけど、時間がありましたら、いらっしゃらない?もう一度会いたいの」(よし、食いついてみるか)

(津本陽子は淫乱な女だった。俺は思う存分食いついた)「少し聞いていいか」「何」「宇佐美専務とはどういう関係?」「私の昔の男」「昔?」「そうよ。私は今は違う男の女になったの」「お金持ちなんだな。君の名義で10万株」「あの株、私の名義になってるけど、私のものじゃないの」「じゃあ誰の?」「あなた、刑事みたいね。そんなこと、いちいち聞かないの」(それなら、こっちで調べさせてもらうぞ)

「わかったかい。木暮ちゃん」「ああ、津本陽子は赤坂で芸者をやっていた女だ。現在は保守党の代議士、種山光太郎の女だよ」「じゃあ、あの10万株は」「おそらく種山の隠し財産だ。バレないように愛人の津本陽子名義にしている」「うむ。で、その10万株と宇佐美名義の10万株を交換したのは何故?」「おそらくこういうことだ。話は10月21日に遡る」

説明する木暮。「宇佐美専務と福田部長はゴルフに出かけるために会長の部屋に行くと、会長はすでに死んでいた。すぐに知らせるのが普通だが、そこであることを思いついた。死の現場には2人しかいないんだ。つまり、あれだけのカリスマ性を持った人間だから、吉原会長が死んだとわかると株価は一時的に急激に下がるだろう。そこで会長の死を発表する前に自分の持ち株を全部売る。そしてその後、株価は下がる。下がり切ったところで、もう一度買い戻す。そうすると実質上、持ち株は何割か増える」

「えっ。それはインサイダー取引になるんじゃないか」「そうだ。株価をあらかじめ下がることを予知しうる内部の人間が6か月以内に反対売買をすると、インサイダー取引として法に抵触する」「なるほど。それをバレないようにするために、津本名義の株券を借りたわけか」「そういうこと、たとえ捜査の手は入っても。宇佐美名義の株券は動いてないから、バレることはない」「畜生。俺は犯罪の片棒を担がされたわけか。クソったれ」

(初芝の株価は売りが殺到し、1700円から1200円まで下がった。そして1か月後に回復した。株価を底値で買い戻した宇佐美専務は5000万分の株券を増やしたわけだ)

宇佐美の部屋に呼ばれる島。「なんですか。これは」「今から説明するが、君の取り分と考えてくれ」「お断りします」「なんだと」「私は受け取れません。この金を受けとると、私も共謀共同正犯となります。私は何もしなかった。何も手を貸さなかった。そういうことにしてくさださい」「……」「失礼します」

(俺は初めて上に逆らった。今後、俺の身がどうなるかわからない。しかし後悔はしない。暮れには新しい会長が決まる。ハツシバアメリカ社長だった大泉さんは本社に戻り専務になった。これから、この会社は面白くなる)

 

STEP29

「こんにちは、お父さん」「どうした。髪を切ったのか」(最近、多忙で、娘とはこの公園で一か月に一度しか会っていない。女の子も8歳になると女としての自我に目覚めるのか、会うたびに女らしくなってくる)「いいでしょ。似合ってるかなあ」

(冬枯れの石神井公園は人気もなく、どんよりした鈍色の雲が重くかぶさっていた。別居中の妻は林の向うに見えるマンションに住んでいるが、顔を見えない。この冬の空気のように冷えた関係が続いているのだ)

「お母さんは元気か」「うん。最近はよく出かけてる」「出かけてる?家で翻訳の仕事をしてるんじゃないのか」「うん。でも雑誌の仕事もしてるから、昼間はいつも出かけてるよ」「そう」「だから今度の母親参観日に来れないんだってさ」「いつあるんだ」「12月15日だったかな」「そうか。そりゃ淋しいな」「アハハハ。そっちの方が気楽でいいもん」(娘は明るいB型だ)

「もうすぐクリスマスだな。プレゼントは何がいい」「別に何も。そうだ。クリスマスの夜はお父さんと一緒に食事をしようよ」「どうして?お母さんはどうするんだ」「だって、その日、マンションにおじさんが来るの」「おじさん?どんなおじさん」「普通のおじさん」「そう」(これ以上聞くのはよそう)「じゃ、奈美はあんまり好きじゃないんだ、そのおじさん」「うん」「よし、わかった。クリスマスの夜はお父さんとデートだ。そのことをお母さんによく話しておくんだぞ」「うん。やったあ」

<初芝電産会長吉原初太郎の葬儀は盛大に行われ、その後の新しい人事が世間の耳目を集めていたが、新会長には現社長の木野穰がそのままスライド就任し。新しい社長には副社長の苫米地功が就いた。空いた副社長のポストは来春の人事まで持ち越しになり、10人いる専務の中から選ばれることになった>

福田に島はどこに行ったと聞く宇佐美。「多分、社員研修所に行っていると思いますが」「あの男、何を考えてるのか」「どうしますか。この際、切り捨てますか」「そりゃまずい、この間の株の裏取引でわしらの弱味を握っている。野放しにできん。とにかく癪にさわるが、しばらく奴を抱き込んでおかねばなるまし。従来通り扱え」「わかりました」

典子のことで世話になっていると島に言う大泉。「義父も死んだことだし、副社長のポストも空いている。俺にとって今が一番大切な時や。典子のことはくれぐれも内密に頼むぞ」「はい」「どうだ。君ももうすぐ40だ。俺の下に来んか。企画室の室長代理にしてやってもいい。将来を思えば、宣伝畑より出世は早いぞ」

「有難うございます。でも私は入社以来宣伝部門を担当していますし、この場所が心地よいので、動く気はありません」「イヤにはっきり言うじゃないか。俺の派閥に加わるのがイヤなのか」「イヤとかそういう問題じゃなくて、どこにもつきたくないんです。どうせ私は人の上に立つ器じゃないし、ヘラヘラやっていくのが趣味ですから」

「なるほど。それが君流の哲学か」「はい」「それが賢いやり方かも知れんが、賢くないやり方かも知れん。どっちとも言えんな。わかった。そういうことなら俺も承知した」「申し訳ございません」「ところで、典子が君のことを褒めてたぞ。誠実な人だってな」「有難うございます」

(典子とのセックスは大泉専務が米国から帰って以来、彼女のマンションから昼間のラブホテルに変わった)「あなたのお嬢ちゃん、奈美ちゃんだっけ。元気?」「うん。明日が母親参観日と言ってたけど、女房が行けないらしくて」「じゃ、私が代わりに行こうか」「え」「私、一度でいいから母親の役、やってみたっかの」「で、でも」「大丈夫。わかりゃしないわよ。後ろの方にいるから」「そりゃ構わないけど」

「じゃ、みんなに先生から質問します。今、行ってみたいところはどこですか」「はい。イギリスです」「私はヒューストンの宇宙センターに行ってみたいです」「僕はディズニーランドかな」「島奈美ちゃん。君はどこかな」「はい。私は、うちのお父さんとお母さんがとても仲がいいので、2人が初めてデートしたところへ行ってみたいです」

島に電話する典子。「そうか。奈美のやつ、そんなことを」「奈美ちゃん。本当はつらい思いしてるのよ、きっと」

レストランで食事をする島と奈美。「どうだ。美味しいか」「うん、とっても。お父さん、ありがとう」「ああ」「今頃、お母さんはおじさんとケーキを食べてるのかなあ」「奈美。おとでお父さんとドライブに行こうか」「うん」

「ねえ、どこ行くの、お父さん」「そうだな。お父さんとお母さんが初めてデートしたところでも行こうか」「うん。行く。どこ?」「お父さんの大学」「やったあ」

「奈美、そろそろ着くぞ」「……」「奈美」「……」早稲田大学正門前に車を止めて、グラスにシャンパンを注ぐ島。「奈美。あの頃、お父さんとお母さんは本当に仲が良かったんだ」「……」「メリークリスマス」

大泉に聞く典子。「ねえ。高田馬場って、こっちの方向だったかしら」「ああ、そうだよ。なんだ」「ううん。別に」グラスを掲げて、小さく、メリークリスマスと呟く典子。

 

STEP30

初芝電産本社・午前7時半。7階第1会議室で臨時取締役会が開催される。

「ふわあ、眠いな。今日は5時起きだぜ」「まあ、早朝の取締役会はこの会社では大きな人事異動があるのが恒例だから、来ないわけにゃいかんだろう」「空席になっている初芝の副社長の椅子が座る人間がもうすぐ決定するんだ。業界じゃビッグニュースだから仕方ない」「10人いる専務の中から1人選ばれるわけだが、どういう状況なんだ」

「これは銀行レースだよ。アタマの二頭がもう決まってる」「大泉専務と宇佐美専務の二人か」「この2頭は角逐してる。単勝の予想となると極めて困難だ」「俺は大泉が勝つと思うな」「どうして」「何と言っても血統だよ、故吉原会長の娘婿だぞ。ゆくゆくは社長の座に就くのがスジだろう。東大法学部卒、四井銀行と言う経歴と毛並みの良さは初芝の若き指導者としては十分だ」

「それはどうかな、宇佐美は営業畑の叩き上げで、初芝が町工場からの生え抜きだぞ。初芝を世界の檜舞台に持ち上げたのはこの男だと言っていい。実績を掲げての迫力は他の追随を許さない。確かに将来、社長の椅子は大泉に譲るかもしれんが、今、副社長にならなければ、年齢的に言っても、もうアトがない。功労賞の含みもあって、今回は彼のもんだろう」

午前8時半。「さて、最後の議題になりましたが、新しい副社長を発表致します。大泉裕介君に副社長をお願いしようと思うのですが、いかがでしょうか」

俺はもうダメだと呟く宇佐美。「本社に居れるのもそう長くない。営業本部長はおそらく大泉派の稲井常務になるだろう。俺は関西方面に都落ちして、事業本部長に格下げとなる」「専務。大泉はそんな露骨に排除してきよるでしょうか」「来るな。なんせ俺はことごとくヤツに反目してきたからな。福田君、君も一蓮托生だ。少しは覚悟しておけよ」「は、はい。承知しております」

「島君。君はいい選択をしたな。最近は大泉派に寝返ったそうじゃないか」「寝返ったなんて、私はどの派にも属したつもりはありません」「君と大泉が親しく話しているのを見かけたヤツが、ぎょうさんおるんやで。しかも君は銀座のクレオパトラちゅう大泉の行きつけの店に出入りしとるそうやないか」「……」「つまり君は洞ヶ峠を決め込んでいるわけだ。全共闘世代には珍しい器用な生き方をするヤツやな」「いや、私は別に」

(言い訳はよそう。器用に見えるかも知れないが、俺は本当は不器用なんだ。70年安保を経験した世代の代表的不器用人間なんだ。誤解されやすく、その上弁解もヘタで、体制にも反体制にもなりきれない最大値の団塊の世代なんだ。その団塊の世代が、各企業の中枢になりつつある。管理職にむいてるヤツとむいてないヤツとがハッキリ分かれる時期だ。多すぎる人間、少なすぎるポスト。サラリーマンにとっては今が正念場だ。で、俺はと言うと、強い個性も際だった能力も頭の良さも押し出しの強さも何も備わってない普遍的なサラリーマンで、今まさに正念場を迎えようとしている)

「まあ、しっかり生きてゆけや。それだけだ」「失礼します」「島君」「はい」「大泉は君が宇佐美派の下で働いていたことを知らんと思う。我々も先日のインサイダー取引の弱味はあるが、君の立場も弱味はある。フィフティ・フィフティだな」「……」

クレオパトラで馬鹿笑いする大泉。「気分がいいぞ、今日は」「おめでとう、裕介ちゃん。こんなに偉くなって、もう近づけなくなるんじゃないの」「バカヤロー。心にもないことを言いやがって」「キャ」「典子。そろそろお前にも店を持たしてやろうと思っているんだ」「あら、嬉しい。本当?」

「おい、樫村。お前、島君と同期入社だったな」「はい」「俺の仲間にならんかって言ったのに、渋ってんだよ。俺が無理矢理ここに連れてきたんだ。お前からも説得してくれんか」「はい。わかりました」

「島、ところで、お前の上司の福田さんは宇佐美派の人だよな」「ああ、そうらしいね」(俺はこの男が好きじゃない)「じゃあ、お前も大変だよな」「俺は関係ないよ」「そうか。そりゃ結構」(樫村建三。本社国際部渉外課の課長で大泉裕介の秘蔵っ子と言われる。頭脳明晰で何事もソツがなく、同期の中では出世頭だろう)

 

「じゃあ、島君。俺たちはここでおさらばする。典子を送っていってくれ」「わかりました」「ね。島さん、ちょっと寄っていかない?」「大丈夫?」「大丈夫よ。明日ゴルフだから、今日は早く帰るって言ってたもの」

一戦終えて一服する島と典子。「でも、嬉しいわ」「何が」「あたし、裕介ちゃんの担当になって5年になるけど、自分の男がどんどん出世していくのって、凄く嬉しいの。まるで自分が偉くなったみたい」「そんなもんかね」「そうよ。銀座の女って、男と一緒に大きくなるのよ」「大きくない俺はどうするんだ」「いいのよ。あなたはオチンチンさえ大きければ」

「典子。いるか」「あら、大変。裕介ちゃんが戻ってきたわ」「げっ」「さ、早く、衣服を持って、箪笥の中に隠れて」「はいるぞ、典子」「裕介ちゃん。やめてよ」(うへえ、もうダメ)箪笥を開ける大泉。「ど、どうも」「こんな夜中にかくれんぼして面白いか」「すいません」

 

STEP31

前から少しおかしいと思っていたと島に言う大泉。「いつから、こうなったんだ」「……」「まあ喋りたくないなら、それでいい。典子、コーヒーでも入れろ」「はい」「ところで、お前が宇佐美派だってことは、前から知ってたんだ」「え」「樫村が教えてくれたよ」「じゃ、ここへ戻ってこられたのも、彼が」「そうだ。ハイヤーの中で、俺に進言した。典子とお前が出来ている噂を聞いた、と」「……」

最初はお前がスパイかと思ったと語る大泉。「俺と典子の関係を公にして潰しにかかるんだろうと思った。ところがお前は俺たちの関係を宇佐美に一切喋ってない。どうやらスパイじゃないらしい。じゃあ一体なんだと言うことになる。次に考えたことは、お前が俺と宇佐美を天秤にかけて、自分の有利な方につこうとしてる、と言うことだ。つまりは日和見のコウモリじゃないかと」「……」

「ところがお前は室長代理にしてやると言う俺の誘い水を断った。ここでわからなくなった。何故、お前は俺のところにいる。何故、典子の監視役をイヤな顔ひとつせずにやっている。しかし全ての疑問が氷解した。お前は典子に横恋慕したんだ」「はい」「違うのよ。私が強引に関係を持ったの」「お前が。何故」「私、あなたが監視役で島さんを送り込んだのを悟ったの。癪に触ったから、逆に弱味を掴んでおこうと思ったのよ」

「そして、ズルズルとこういう関係になったと言うのか。じゃあ、俺は一体何なんだ。2人で俺を笑い者にしてたんだろう」「いや、決してそういうわけでは」「いいよ、島。気を使うな。今、俺とお前は上司と部下の立場で話してるんじゃない。男と男の立場で話してるんだ。お前には罪はない。男と女の関係は奪った方が勝ちだ」「……」「典子、お前の店の話、これでなくなったな」「しょうがないわね。別に店なんか欲しくなかったし」「島、帰ってくれ。俺は典子に話がある」「わかりました。失礼します」

(どうして俺はあんなに卑屈になったんだろう、大泉副社長が戻って来た時、箪笥の中に隠れることはなかったんだ。堂々と「俺が寝取りました」と言えば良かったんだ。しかも典子が「私の方から誘ったのよ」と助け船を出してくれたのに、俺は黙っていた)

(俺はいつもそうだ。女の方から誘わせといて、いざという時の口実にしようとしている。女に背を向けながら、後に手を回していたのは俺の方じゃないのか。卑怯者めが。なんという弱い男なんだ。居直ることも出来ない情けないサラリーマンだ。最低だ)

(樫村からコンタクトを求めて来たのは、それから一週間後だった)「用件はなんだ」「島。お前とは大学時代から何かと付き合いがあったな」「ああ。あんまりいい付き合いじゃなかったけどね」

(樫村はESSの部長をしていて、校内でも華々しく活躍をしていた。就職時にはちゃんと髪を切り、優を35個取って、初芝電産には無試験で入った。俺は雀荘に入りびたり、資本論を最初の5ページだけ読み、反代々木系の学生運動にちょっと参加しながら、ジャーナリズム研究会のような暗いクラブに入って、樫村に比べれば、ジメジメした4年間を過ごした)

(この相反する2人がなぜつきあいがあったかと言うと、下北沢の近くにある学生寮で俺たちは一緒だった。彼は俺にやたらと接近して、何かにつけてあれこれ干渉した。俺はあまり相手にしなかったが、樫村は俺のことを気に入ったらしくて、田舎から送ってきた干し柿とかを持ってきてくれたものだ。その樫村が何故かまだ俺のそばにいる)

「島、大泉派にはいらんか」「ハハハ。俺は元宇佐美派だぞ。そのことはお前も知ってるだろう」「ウソつけ。お前は本当は宇佐美派じゃなかったんだ」「どっちにしろ、俺はそんなことに興味はないね」「第一、大泉さんに聞いただろう」「聞いた?何を」(あれ。大泉副社長は俺と典子のことを樫村に言ってないんだ。何故だろう)

「とにかく、俺は派閥に興味がないんだ」「島、お前は40だぞ。いつまでも全共闘を背負って生きるなよ。反体制は単にあの当時の若者の属性だった。そういう不器用な生き方をしている自分にいまだに酔ってるんじゃないか。もっと大人になれ」「大きな力に自分を委ねることが大人だと思わん」「じゃあ、お前はなぜ初芝のような大企業にいるんだ」「う」「お前は言動に一貫性と合理性がない。だから俺に対してちっとも説得力がない。昔からそうだった」(どうして樫村はこんなに鋭いんだ。どうして俺の弱味を熟知してるんだ。どうして俺にいつも干渉するんだ)

(その日、樫村の誘いを受けて、俺たちは新宿で飲んだ。樫村は節度をわきまえた綺麗な酒だ。口惜しいけれど、何から何まで出来過ぎている。この男にアキレス腱はないものか。俺は嫉みに近い感情すら抱いていた)

「樫村」「なんだ」「実は先日の夜、俺は副社長に典子と寝ているところを見つかったんだ」「え」「お前の告げ口が功を奏して、俺は見事に副社長に引導を渡された」「まさか。本当だったのか」「そうだよ。俺は宇佐美派の連中同様、本社から外されるだろう」「知らなかった」「どうした?お前の思惑通りの結果になっただろう。もっと喜べよ」「島、違うんだ。大泉副社長にいろいろ進言したのは、お前をスポイルしようとしたからじゃなかったんだ。そうやって、いったん切れそうになった大泉さんとお前の糸を俺が再び結んでやろうと思ってたんだ」

「どうして」「そうすれば、お前は俺に感謝する。少しは俺の方に振りむいてくれると思った」「え」「昔からお前は好きだった。俺は妻も子供もいる。でも、それは表向きの体裁だけなんだ。俺が頑張っているのは、常にお前より前を走っていたいからだ。そうすればいつも俺に関心を持ってくれると思った。俺が初芝に入社したのもお前がいたからだ。しかし、お前は俺を見るどころか、俺に背を向けていた」「……」

「すまん。こんなことを言うつもりじゃなかった」「仮面の告白か」「……」「悪いな、樫村。俺にはお前と同じ趣味がない。昔からそうだった」

(自宅に戻ると、典子から電話がかかって来た)「この間、あれから大変だったのよ。裕介ちゃん、暴れたの」「え」「私の方から別れましょうって言ったの。そしたら急に大声で泣き出して、土下座したの。『俺を捨てないくれ。残り少ない人生でお前が最後の女なんだ』って」「本当か?あの自信家の大泉さんが」「そうよ。ビックリしちゃった」(何故、大泉副社長が樫村に黙っていたかわかった。そして何故かホッとする電話だった)

(それから間もなく俺は転勤の辞令を受け取った。行く先は京都の工場だ。樫村は本社企画部の室長代理に昇進。並みいる先輩を飛び越えて、次長待遇の見事な三段跳びだ。春からは京都の生活が始まる)

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