弘兼憲史「課長島耕作(2)」

 

STEP9

(ニューヨークに来て、俺はジョギングを始めた。その途中で偶然アイリーンを見つけた。アイリーンは車に乗ってる黒人とキスを交わしていた。そういえば俺は彼女のことを何も知らないでいる。アイリーンとのセックスは市内のホテルで週に1、2回くらいだ。俺は自分が彼女のステディだと思っていたが、どうやら思い違いのようだ。第一、彼女が独身かどうかもまだ聞いたことがない)

「なあ、アイリーン」「え」「ニューヨーカーは他人のことに干渉しないと言うのは大原則と言うのはわかってるが、俺は君のことをあまりに知らなさすぎる」「だから?」「まずどこに住んでいるのか。一人暮らしなのか。ボーイフレンドは他にもいるのか。俺はそう言った極めて低レベルの問題を明らかにしたいんだ」「じゃ、次の土曜日、うちに来て」

(土曜日のブルックリンは明るい陽射しに包まれていた。イーストリバーを挟んでマンハッタンと向かい合わせにあるこの閑静な住宅地は驚くほど色彩が豊かだ。アイリーンはこの借家に一人暮らしだと言う)

「ハイ。コーサク、待ってたわよ。入って。紹介したい人がいるの」(やっぱり。あの日の朝、あの車の中にいたあの男だ)「紹介するわ。ロバート・アレン。時々、うちの仕事をやってもらっているイラストレーターよ」「初めまして。シマ・コーサクです。ハツシバアメリカのADをやっている」「2年前から彼女とつきあっている。ボブと呼んでくれ」

(それから俺たちはしばし談笑した。映画のこと、音楽のこと、日米関係のこと、スーパーリアリズムのこと。内容は多岐に渡り、ボブがかなりの知識を持った男であることがわかった。しかし、このインテリはカリフォルニアワインをいささか飲み過ぎたようだった)

「コーサク。君はアイリーンと何回寝たんだ」「ボブ。そういう話題はこの場にふさわしくないな」「じゃあ、話題を変えよう。アイリーンはご覧の美人だ。言い寄って来る男も沢山いる」「ボブ。やめてよ」「しかし、アイリーンはそういう男には興味がない。彼女が相手にするのは俺とかあんたのような有色人種ばかりだぜ。何故だかわかるか」「ボブ。何を言い出すの」

「彼女の父親は南部の黒人専用の教会で牧師をやっていてな。KKKと正面に渡り合って、彼らに殴殺されたんだ」「……」「それ以来、彼女は白人嫌悪症になってしまってな。反動として、俺たちのような有色人種と好んで寝るのさ。彼女も可哀想な女なんだ」「それ以上、減らず口を叩くと、貴様のアゴにパンチを浴びせて、喋れなくなるようにするぞ」「黙れ、ジャップ」

思いきり殴り合う島とボブ。やめてと怒鳴るアイリーン。「私は確かに性的偏執狂かもしれないわよ。でも、あんたたちと違って平和主義者よ。野蛮な殴り合いについてゆけないわ。馬鹿みたい」(それから俺たちは黙々と喧嘩の後始末を始めた。その晩アイリーンは帰ってこなかった)

翌日、退社したアイリーンをタキシードを着て馬車で迎える島とボブ。「ハーイ。我ら二人のお姫様」「再会を祝って、これから夜景の素晴らしいレストランへ直行しようではありませんか」「ハッハッハ。2人とも最高よ。タキシードが凄く似合ってるわ」

(2人の男に1人の女。アンバランスの構図だが、この都会では殆ど不自然さを感じさせない。同心円でなく別々の3つの円が不規則に動き回って、時々接点を持つと言う新しいタイプの生き方。俺は悪くないと思った。5月のニューヨークは夕方の風がミンクのように柔らかい)

 

STEP10

(マンハッタンを斜めにカットする道、ブロードウェイ。そして、そのブロードウェイの西47丁目から57丁目あたりの地区をタイムズスクエアと言う。ここは世界の舞台人にとっての檜舞台で、このわずか10ブロックの中に約40軒の劇場が林立している。栄光と挫折が交錯するこのタイムズスクエアは、莫大な金が動く大投資地域なのだ)

(ここでの興行はその芝居を打つにあたっての資金を一般投資家に頼るシステムになっており、その芝居が大ヒットすれば投資家は一夜にして大金を手にすることができ、失敗すればその場で投資額の全てを失うことになる。つまり大きな危険と背中合わせになったアメリカンドリームがこの狭い地域に渦巻いている)

(その中の一角にワイスコフ劇場というのがあり、初芝電産は、この老舗の大劇場の前に、巨大はHATSUSHIBAの文字をネオンサインにして設置すると言う快挙を成し遂げた。この10文字はワイスコフ劇場の2階ロビーの正面に位置し、ロビーからは圧倒的な力強さで人々の目に飛び込んで来る。

「おーい、水口さん」「おお、島か」(そして、この男が快挙をやってのけた立役者。屋外広告課の水口治夫、40歳)「どうだ。凄いだろう。見てくれ、このネオン」「宣伝効果が凄すぎて、逆に反感を買うんじゃないですか」「ハハハ。そうなれば望むところだ。ところで昼飯でも一緒に食わないか。ちょっと会わせたい人がいるんだ」

(水口さんが俺に紹介したのは女だった)「こちらプレスエージェントのGMのクララ・シェールさんだ。実は彼女のおかげで、今回のネオン装置の契約が取れたようなもんだ」「いえ。私はただ口を利いただけ。あれはハルオの実力」「プレスエージェントと言うのは、どういうお仕事なんですか」「新作ミュージカルのPRを一手に引き受けて行う代理店よ。ハルオと知り合ったのは、ポスターやってる時、カメラマンに紹介してもらったの」

島に囁く水口。「実はこいつ、今の俺の女なんだ。どうだ、いい女だろう」「そうですね。水口さんも隅に置けないな」「お前も単身赴任だろう。女ぐらい見つけろよ」「はあ」(俺にはアイリーンがいる。クララ女史より遥かにいい女ですよ、と言いたいところだが、ここは水口先輩の顔を立てて伏せておこう)

(フランス料理を食べながら、クララはブロードウェイのミュージカルが出来るまでを語ってくれた。まずミュージカルが企画されると、幕が開くまでに最低2年は要すると言うこと。そしてプロデューサーは地方で予備公演などをしながら反応を見て、これはいけると思ったら、ブロードウェイの劇場と交渉を始めること。そして最も大切なことは制作に要する資金を集めることだと言う。この資金はバッカーズと言う一般投資家から集めるのだ)

「と言うことは一種の株式会社みたいなもんだ」「そう。だから、そのショーが当たれば、バッカーズはその出資額に応じて、利益の配当を受けると言うことね」「その代り、当たらなかったら、配当金はおろか出資額も返ってこない。全てパーだ。株と言うより商品相場の先物取引だな」

「どう?シマさん。あなたもひとつバッカーズになってみない」「そりゃ確実にヒットすることがわかっていれば、喜んで投資しますがね。でもそんな作品はないか」「ところがあるのよ。私が今担当している「ドント・フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。これは凄いわよ」「え」「今までいろんな宣伝を担当してきたけど、こんな凄いのは見たことないわ。日本民話の「かぐや姫」をリメイクした作品なの。音楽はスピーディー・ワンダーで、演出はトニー賞を2回も取ったボボ・ホッシーなの。盤石の布陣でしょう」「それは凄い」

「バッカーズ・オーディションは3日後に迫っているの。どう、シマさん。参加しない?」「バッカーズ・オーディション?」「投資してくれそうな人間を集めてパーティーをするんだ。そのあと芝居について説明する、その内容を聞き、投資するかどうかを決定する。プロデューサーにとってはここが正念場だな。1回のオーディションで全額集まることもあるし、目標金額に全く届かない時もある」

「ところで投資の単位はどれくらいなんです。クララさん」「ミュージカルの総予算が400万ドル。投資は1口8万ドルで募るわ」「8万ドル。2000万か。こりゃとても無理だ」「俺たち庶民にとっては夢のまた夢と言うことか」「あら。折角の情報なのに勿体ないわね」

「シマさん、ちょっといいですか」「なんだ。スザンヌ」「実はDRBに振り込まれるはずの16万ドルがまだ入金になってないと先方から言われたんですが」「16万ドル?我が社の窓口は誰だ」「屋外広告課の水口さんです」

16万ドルを投資したと島に言う水口。「バッカーズ・オーディションに行ってな。2口投資した」「水口さん。自分がしたことがわかってるのか。会社の金を横領したんだぞ」「島、俺はまさにアメリカンドリームを掴もうとしている」「しかし、勝手に会社の」「DRBは俺が話をつける。半年後には十分な利子をつけて返すんだ。お前さえ黙っていればわかりはしない」

「しかし、水口さん。この興行が当たらなかったら」「俺はクララの言葉を信じてる。絶対に大ヒットする。それに、そんなことを考えていたら、一生大金を手にする機会はないぞ。ニューヨークと言う世界を見ていたら、日本のサラリーマンで一生を終えるのがとても空しく思えてきたんだ。俺は今に賭けた。わかってくれ、島」(わかるもわからないも、とにかく芝居は明日だ)

 

STEP11

(新作ミュージカル「ドント・フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」の幕は切って落とされた。芝居は当たらなかったら3日も経たないうちに打ち切られることも珍しくないこの世界である。初日の動向はバッカーズにとっても大いに気になるところだ)

(芝居は面白かった。日本の竹取物語をアレンジしたこのアメリカ版「かぐや姫」はオリエンタルの曲想もあって、十分楽しめる内容だった。ところが客の反応が鈍い。やがて客席からブーイングが入った。そして大きな盛り上がりもないままに幕。そしてカーテンコール。通常、最後のこの場面では観客は立ち上がって拍手を送る。スタンディングオベイションであるべきなのだが、立ち上がっているのはバッカーズらしき人間ばかり。そして、この夜の反応がこのミュージカルの今後の評価そのものだった)

まいったと呟く水口。「各新聞社の文芸欄はこの新作ミュージカルの酷評を載せるために、多くの紙面を割いている」「かつて、これほど凡庸な作品を見たことがない。内容は退屈でかつ難解である」「東洋的な神秘さがまったく理解されなかったようだ」「日本人の俺には面白かったけれどな」「でも、これだけ一斉に酷評されると、このショーは当たるどころか、元金も回収できない。俺は破滅だ」(「ドント・フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」は開演から数えて10日後に打ち切りとなった)

島に聞くハツシバアメリカ社長の大泉裕介。「君が知った時はもうすでに16万ドルは投資されていた、と言うことだな」「は、はい、そうです。しかし水口さんは金は必ず返すと言う意思は持っていました」「ふむ」「その時、すぐにそのことを会社に報告しなかったのは私の責任です。しかし、あの段階ではどうにもならない状態だし、水口さんが成功すれば誰にも損害はない。それなら今の時点では静観すべきだと思ったのです」

「そういう判断は会社では通用しない。君は単に報告義務を怠ったんだ」「私たちはクビですか」「いや、そうはしない。君の理論を借りれば、会社には損害は生じてないからな」「え」「水口は東京の自宅を売って、会社からの借金に充当することにした。彼はワイスコフ劇場の前にHATSUSHIBAの巨大ネオンを設置した功績もある。それで今回の汚点とチャラだ。君は君なりに武士の情けと言ったところだろう。大したミスじゃない。今後、気をつけたまえ」

来月本社に戻ることになったと島に言う水口。「地下にある資料室に行けだとよ。この若さで日の当たらない窓際族になっちまった」「世田谷のお宅を売ったんですって」「ああ。親父からもらった小さい家だからね。どうってことないさ」「御家族には何と言ったんですか」「女房は子供を連れて岡山の実家に帰った。おそらく戻って来ることがないだろう」「では離婚ですか」「そういうことだ。いっそのこと、こっちで永住権を取って、クララと一緒になろうかと思っている。ハハハ」

変なことを言わないでと水口に言うクララ。「私があなたと結婚するなんて」「しかし、俺たちは愛し合ったじゃないか」「私にはステディーがいるの。彼は「ドント・フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」のGM。一人でも多くの投資家が欲しかったの」「……」「そんなにビックリした顔をしないで、考えてごらんなさいよ。どうして、私があなたのような日本人と寝るのよ。そうでしょう」

島に聞くアイリーン。「で、水口さんはどうなったの」「結局会社に辞表を出して、日本へ帰った。あとはどうなったか知らない」「寂しい話ね。ニューヨークなんかに一人で来るからよ。あなたは大丈夫なの。コーサク」「そう言えば、俺の一人でニューヨーク組か」(とにかく海外単身赴任の男が一人潰れた。口の中に残る苦さはビールだけではなさそうだ)

 

STEP12

(週末の2日間、俺はアイリーンとグリニッジビレッジの安ホテルでベッタリ暮してみた。女と怠惰に暮らすことで、ニューヨークの匂いと生活感を吸収しようと思ったのだ。たった2日間なのに、ずっと以前から俺たちは夫婦だったような錯覚に陥ってしまう。とにかくリラックスできるのだ。この気持ちは妻の怜子には感じたことがない)

「コーサク。奥さんのこと、思い出さないの」「思い出すよ、時々」「愛してる?」「そういう言葉に象徴されるような恋愛感情はないね」「変なの。じゃあどうして結婚したの」「勿論、結婚当初は愛していたさ。だけどそういう感情は早晩なくなるものなんだ。日本では夫から見た妻と言うのは一番愛する人じゃなくて、一番大事な人なんだ。それで結婚生活は持続できる」「じゃあ、コーサク。私とこうしていても、奥さんに対しては裏切りにならないわけ?」「俺は裏切ってるつもりはない」「じゃ、あなたのいない間に奥さんが同じことをしていたら?」

(答えが出なかった。自論を肯定するのなら、それも平気だと即答しなければならない。と言うことは、自分の言ったことはどこか大きな錯覚があるのだ)

明日から2日ほど東京へ行ってくれと島に言う大泉。「え」「ほら。例の社内宣伝物コンクールだよ。今度はハツシバアメリカも出品する」

(社内宣伝物コンクールは前年度に実施されたあらゆる宣伝活動に対する表彰式である。おびただしい宣伝物の展示の山を審査員が一日がかりで見てまわり、投票によって賞が与えられると言うどうってことない社内活動だ。ところが、その社内行事に多大の金と時間が費やされる。つまり、会社で出世すると言うことは、いかに自分がよくやったかと言うことを社内にPRして認めてもらうことに繋がっている。宣伝物コンクールもそれと同じことだ)

「何故私がそのコンクールに」「ウチが今年出品するのはワイスコフ劇場前に設置したHATSUSHIBAの大ネオンだ。すでにあらゆる方面から写真を撮ってパネルにして、本社に送ってある。君はパネルの横で、審査員にこのネオンのアピールがいかに強いか説明してほしいんだ。実はネオンを作ったのは君と言うことにしてある。だから君が行ってくれ」

「でも、あれは水口さんの手柄です。彼が一人で契約を取って」「バカたれ。水口は問題を起こして会社を辞めた男だぞ。こんな手柄を立てた男が、なぜ会社を去らなきゃならなかったか。調べられたらそれこそ大問題だ」「そ、そうですね」「な、島君。2泊するだけのとんぼ帰りだが、久しぶりにカミさんの尻でもさわってこいよ。感謝されるぞ」「は、はい」

(慌ただしい帰国だったので、妻に連絡を取るヒマもなかった。俺はいきなり帰ってきて、妻と娘を驚かそうと思った。半年ぶりの自宅周辺は死んだ街のように静かだった。我が家は留守だった。5時か。奈美は学習塾に行って、帰宅するのは7時ころだと手紙に書いてあった。しょうがない。帰って来るのを待つか。しかし、それにしても、よく片づけてある。相変わらずだな、怜子は。この整然とした台所がかえって居心地を悪くするような気がする。あっ、電話か)

「はい、島ですが」「……」「もしもし。なんだ、間違いか。失礼なヤツだ。何も喋らないで」(え。男?電話の向うにいたのは男じゃなかったのか)

怜子の化粧棚や洋服ダンスを調べる島。(一体俺は何をしてるんだろう。自分の家にこっそり帰って、空き巣のようなことをしている。今、自分がどんなに情けないことをしているか、よくわかってるつもりだが、しかし調べずにはいられない。妻に男がいると考えるだけで、疑心暗鬼が生じ、頭の中で鬼どもが跳梁跋扈するのだ)

(ライター?おかしい。怜子は今までタバコを吸わなかったはずだ。このライターはデュポンの高級タイプだ、しかもかなり使い込んでいる。一体誰のライターなんだ。何故それが、怜子のバッグに入っているんだ。いいか、落ち着け。まだ妻に男がいると決まったわけじゃないんだ。ライターは道で拾ったのかもしれない。でも、そんなことはあまり考えられることじゃ。俺は妻と娘が帰って来る前に自分の気配を消して、家を出た)

(その晩から2日間、俺は池袋のカプセルホテルに泊まり、ニューヨークに向かった。とうとう家族には俺が東京に戻ったことを連絡しなかった。連絡したのは調査会社の木暮だけだ)

『わかった。奥さんの身辺を調査して、お前に連絡すればいいんだな』『うん』『しかし、島、人間知らない方が幸せってことも間々あるんだぞ』『わかってる』『島、いいのか、本当に』『うん』

(島耕作、37歳。結婚航海に乗り出して8年目。前方暗雲、波高し)

 

STEP13

ふうとため息をつく島。「忙しいな、まったく」「コーサク。やっと二人きりになれたわね」「よせよ。アイリーン。職場だ、ここは」「そうよ。だから、どうしたって言うの」「職場は神聖な場所だ。不謹慎だとは思わないか」「あら、日本のサラリーマンって、そんなこと思ってるの。馬鹿みたい」(なるほど。そう言われてみればそうだ)

「ねえ、奥さん、浮気してるらしいんだって」「そうなんだ。今、知り合いの探偵に頼んで調べてもらってるんだ」「それで浮気してることが判明したらどうするの」「一応、日本から離婚届を持ってきた」「コーサク。自分の言ったこと覚えてる?」「……」「日本では配偶者は一番愛する人でなく、一番大事な人でいい。それで結婚生活は維持できる、と」「……」「奥さんはあなたを愛していなくても、大事な人だと思ってるかもしれないわ。そこを確かめないで、即離婚と言うのはあなたの論理に矛盾が生ずるんじゃないの」

(その通りだ。俺は言うことと行動が一致してない。実に調子が良すぎる。俺は単に理性と言う薄っぺらな鎧で武装しただけの小さい人間なのかもしれん)「島君」「あ、社長」「職場は神聖な場所だ。不謹慎と思わないか。あとで私の部屋へ来い」呟くアイリーン。「あなたと全く同じことを言ったわ」「俺、ちょっと社長の部屋に行ってくるよ」「口紅、ついてるわよ」

社長室に行く島。「あの、先ほどのことは、不徳のいたすところで」「島、女もいいけど、身を持ち崩すなよ。水口の例もあるだろう。おかげでヤツにとっては自分の業績が他人の大手柄になってしまった。島、お前は出世街道の通行手形を手に入れたんだぞ」「え」「社内宣伝物コンクールでハツシバアメリカのネオンサインが社長賞を取ったんだ。わははは。グランプリを海外部門が撮ったのは前代未聞のことなんだ。水口の野郎、結構な置き土産をしていってくれたもんだ」(俺は最近どうも他人のフンドシで相撲を取っている。それがことごとく勝ち星につながる。正直言って、自分の実力以上に評価されるのが怖い)

日本料理店で考え込む島。(妻の浮気云々を言う前に、俺自身の浮気は何なんだ。自分の浮気は認めても、妻の浮気は許せないなんて、そんな滅茶苦茶な論理はない。と言うことは俺は浮気を望んでいるんじゃないのか。今気づいたが、俺たちの結婚は間違っていたような気がする。怜子との結婚を決めた時から、離婚と言う概念がアプリオリな形で見えていたような気がする)

「すみません」「えっ」「助けてくれません。何か話しかけられてるけど、私、英語全然わからないんです」「あなたを誘ってるんです。お一人なら一緒に飲まないかって」「ダメよ、私、人と待ち合わせてるんだから」「じゃあ、そう伝えます」

どうもありがとうと島に感謝する女。「助かったわ。私、アメリカ初めてだから」「おひとりで来られたんですか」「そう。私のお店のお客様に招待してもらったの」「お店?」「ええ。私、銀座のクラブで働いているんです。クレオパトラって店。よかったら来てくださいね」「お待たせ。あっ」「社長」「あら、大泉さん、お知り合いなの」「ハハハ。まいったな。君とアイリーンのこと、これでチャラにしよう」「はい。了解しました」

(天気がよかったので、アイリーンと二人でエンパイヤステートビルに登ってみることにした)「コーサク。何を持ってるの」「妻の浮気調査を頼んだ探偵社の友人から受け取った手紙だ。さっき受けとったばかりでまだ開けていない。ショッキングな内容でも落ち込まないように高い所で読もうと思ってね」

(木暮からの手紙は予想を裏切って極めて平凡なものだった)<島。怜子さんは浮気なんかしていない。俺は2週間、彼女を密着取材した。お前が日本に帰った日のちょっと前に女子大時代の同窓会に出席したらしい。そこで旧友とダベってるうちに、ライターを間違えてバッグに入れて持ち帰ったのだと思う。現に俺は彼女が後日喫茶店でそのライターを返すのをこの目で確認した。彼女の浮気はお前の取り越し苦労だ>

「……」「よかったじゃない。奥さんの潔白が証明されて」「と言うことは、この離婚届の紙も不要になったわけか」「紙ヒコーキにでもして、ここから飛ばせば」「そうだな」

離婚届を紙ヒコーキにして飛ばす島。(俺は木暮と長いつきあいだ。ヤツの性格はよく知っている。ウソは罪だぞ。木暮ちゃん)

 

STEP14

(ニューヨークは人種のるつぼだ。世界各国から、ありとあらゆる人種が集まって、それぞれの国の習慣や生活様式の違いをうまく溶かし込んで生活しているエスニック社会だ。そして、それぞれの人種が集まって暮らしている地域がある。ウエストサイド物語で有名なプエルトリカンの集まっている地域、ダウンタウンのリトルイタリー、コリアン街、そしてチャイナタウン等々)

(しかし、もっとも有名な場所はハーレムだ。ここはセントラルパークの北端10キロ四方にわたって広がる黒人居住区で、100万を超すニューヨーク在住の黒人の過半数が住んでいると言われている。そして、このハーレムの一角のビルにアイリーンのもう一人の恋人、イラストレーターのロバート・アレンが住んでいる)

「アイリーン。君は平気なのか。この街を歩いてて」「あら、どうして」「だって、ハーレムやブロンクスの黒人街を部外者が歩くのは危険だって聞かされてるぜ」「そういうのは多分にこの街の雰囲気から来る噂話よ。この手の噂話は旅行代理店の社員がツアーの客に日本人に少し脅かしておくために、大袈裟に作られたものなのね。彼らにしてみれば、面倒が起これば、自分たちの責任になっちゃうものね。それに部外者が危険と言うなら、部外者じゃないみたいな顔をしてればいいんじゃないの」

(なるほど。アイリーンの言うことは的を得ていた。黒人街や中華街が危険だと言う概念は根っこの部分が人種偏見につながっている。俺は自分を少し恥じた。考えて見れば、俺自身、有色人種だから差別される側にあるんだ。ハーレムは決して部外者じゃない)

「やあ、アイリーン、どうした?コーサクも一緒とは嬉しいな。さあ、入ってくれ」(アイリーンは吉報を持って、ボブを訪ねたのであった)「え。ホントか、アイリーン。俺の作品が採用されたって?」「そうよ。あなたのイラストレーションが採用されたの。まだ発表前だけど」「やったぜ」

「イラストレーションって何の仕事?クライアントはどこ」「キャットフードのパッケージよ。ロイヤルガーモント社のキャットフードは世界中で売れてるわ。そのパッケージデザインなら、かなりの画料がとれるわね。この仕事が成功して、大金が入れば。ボブもここを引っ越して、ダウンタウンに来れるわね」「いや。生憎だな、アイリーン。いくらリッチになっても、俺はこの街を離れる気はないさ。俺はこう見えても、皮膚が黒いことに誇りを持っている。安っぽい負け惜しみに聞こえるかもしれないが、本当にそうなんだ。ハーレムは俺が最も愛する場所だ」

「そうね。あなたらしいコメントだわ」「サンキュー、アイリーン。君が俺を推薦してくれたんだな」「あら、私は公平な目であなたの才能を押したまでよ」「とりあえず、これから俺はどうすればいいんだ」「そうね。まだ発表の段階じゃないけど、POPのラフも作っておいた方がいいわね」「悪いが、ブロンクスに野暮用があるんだ。これで失礼するよ」(どうやら、今日は俺が味噌っかすだ)

真夜中、島を訪ねるアイリーン。「コーサク。今晩ここに泊まっていい?」「ああ。どうしたんだい。藪から棒に」「抱いて、コーサク」「アイリーン、どうして泣いている」「ボブのイラストレーションが不採用になったわ」「えっ、何故」「ボブが黒人とわかったからよ。ロイヤルガーモント社の社長が、ガリガリの南部出身だったの」「……」

「ねえ、コーサク。口惜しいと思わない?今だにそんなバカがいるなんて」「ボブには知らせたのか」「まだ。ボブは今頃一生懸命、POPのデザインをやってると思うの。私の口からはとても言えないわ。コーサク、お願い。あなたの方から電話して」

 

STEP15

「ボブ、聞こえてるか」「ああ、よく、聞こえてるよ」「日本人の俺としては全く不可解なことだが、お前が黒人と言う理由で、お前の作品が不採用になったんだ」「わかっている。平気だよ。そんなことは子供のころからしょっちゅうあったことだ。大したことじゃない」「このことでアイリーンを責めるなよ。彼女だって、このことで随分悩んでいるんだ」「彼女には気にするなと言ってくれ。俺は慣れっこだ。ハハハ」

島に聞くアイリーン。「ボブ、怒ってた?」「いや。そんなに落ち込んでもいなかったみたいだ。彼は笑っていた」「彼らはそういうポーズの取り方が慣れっこなのよ。落ち込んでないはずはないわ」「ボブの作品が優れてることは変わりないさ。必ずどこかが採用してくれる」「南部出身の社長がロイヤルガーモント社だけとは限らないわ。この意識の進んだニューヨークでも見えないところで人種偏見は厳然と存在してるのよ」

翌朝、アパートを出るアイリーンを送る島。「まさか」「どうした」「あそこで走ってるのが、ロイヤルガーモント社の社長よ」「え」

(俺とアイリーンはこう見えてもアイデアで飯を食っている広告マンだ。この社長の行動パターンを調べた結果、朝6時から7時の間にセントラルパークをジョギングして、2日に1度は朝食レストランで食事をする。その際、窓際のカポックの植木の横に座る。これが彼のルーティンだ。俺たちはその後ろのテーブルに陣取った)

「まいったなあ。ロバート・アレンのイラストレーションが使えないなんて」「なぜ」「彼はロイヤルガーモント社のキャラクターデザインを引き受けるらしいんだ」「彼のイラストはどうして今もてはやされるんだ」「この間、イラストレーションのキャラクターについて、ある調査会社が人気投票したの。そしたら全米35州の子供たちから絶大な支持を受けたのが彼の作品なのね。特に猫のデザインがトップを占めた州が28もあるわ」

「そりゃ、凄い話だ。そのキャラクターをパッケージに使うと凄い売れ行きになるだろうな」「特に子供向けの商品の場合、効果絶大だな」「じゃあ、キャットフードのキャラクターなんかに取られるより、ドリーミーバーガー社にプッシュしたほうがいい」「ところでロバート・アレンはロイヤルガーモント社と契約したのか」「いや。まだらしいから、早く手を打てば、引き抜けるかもしれないわ」「よし。彼を獲得しよう。金の卵を転がっているのを、みすみす見逃す手はない」急いでレストランを出て、電話するロイヤルガーモント社の社長。「うまくいったかな」「そのようね」

(ニューヨークはとりあけ秋が素晴らしい。この期間は短く、日本で言えばちょうど青森市にあたる緯度のせいか、夏のあとに突然冷涼な気候がやってきて、セントラルパークの木々が一斉に鮮やかな黄葉を始めるのだ。特にハツシバアメリカ所有のこの高級アパートのテラスから眺めるセントラルパークの変わりゆく様は絶品だ)

「いい気持ちだぜ。コーサク。この陽だまりがなんとも心地いい。ここは最高のロケーションだ」「ボブ、お前に電話だ」「コーサク、見て。ボブの作品があちこちに見えるわ。あそこにも、ここにも」「うわあ。この看板は巨大だな」「コーサク。悪いが、ちょっと打ち合わせに行かなければならなくなった。ここで失礼するよ」「ああ。じゃあな」「じゃあ、アイリーン」「またね、ボブ」

よかったわねと呟くアイリーン。「ボブ、すっかり売れっ子になっちゃって」「しかし、ロイヤルガーモント社の社長がああも簡単にスティングに引っかかるとは思わなかったな」「しかもキャラクター買い取りで30万ドル。悪くはないわね」「でも新しいパッケージのおかげで売り上げが20%も伸びたらしいから、あのジョギングおじさんもいい買い物をした」「これで彼の人種偏見がなくなるとか。そんなことは」「うん。絶対にない」

「ねえ、コーサク」「ん?」「あたしたち、いつまでこういう関係を続けられるのかしら」「日本に帰る日が来るまでさ」「日本にはいつ帰るの」「さあ、それは会社が決めることだ」(アイリーン。君とは別れたくない。別れたくないけど、別れる日が近づいているのは確かだ)

 

STEP16

宇佐美におめでとうございますと言う福田。「聞きましたよ。12月の定例取締役会で専務に昇進されるそうで」「ハハハ。昨年、君が水野を追い出してくれたおかげだよ。感謝している」「そろそろ島君を呼び戻しましょうか」「そうだな。水野追い出しのキッカケは彼が作ったんだ」「ニューヨークに行って一年になります。ちょうどいい時期だと思いますが」「ところで、ハツシバアメリカの社長は大泉裕介だったな」「ええ。吉原会長の娘婿にあたるイヤミな野郎でっせ。ゆくゆくは宇佐美常務と社長の座を争うことになると言われてますな」「ふむ。なるほど。よし、急きょ島君を帰国させろ。色々聞きたいことがある」

「はい、島です」「あ、本社の福田や。どや。そろそろ帰ってこんか」

(肌寒いハロウィンを迎えたニューヨークの街は冬の到来に備えて、何となく慌ただしい。そして俺の心もまた慌ただしい。あと半月でここを離れることになったからだ。ついにその日が来たと言う感じだ)

怜子からの手紙を読む島。<単刀直入に言います。あなたと別れたいの。このことはもう何年も前から思っていたことです。あなたもうすうすわかっていたでしょう。私はあなたと一緒に暮らすことで何の潤いも感じないし、むしろマイナス面が遥かに多いことに気づいたんです。あなたと離れて暮らして、このことを更に強く感じるようになりました。今があなたに私の意志を伝えるのに一番いい時期だと思うの。顔を合わせている時は、どうしても切り出せなかったから>

<あなたに他の女がいるかどうかなんて、別に知りたくないわ。ただ、あなたは課長になる頃から人が変わっていった。あなたの頭の中は会社のことでいつもいっぱいだったでしょう。女にとって男は社会的にいかに認められるかよりも、家族が築き上げる小さなテリトリーでどれだけいいお父さんであるかと言うことの方が、ずっと大切なの>

<子供は私が育てます。勿論。私たちが別れても、あなたと奈美は永久に血のつながった親子ですから、定期的に会う機会は作ります。これは私の一方的な提案ですから、あなたの同意がなければ成立しないけど、このことはあなたが日本に帰って来てから、ゆっくり話し合いましょう。とにかく成田にはお迎えに行きませんから、そのつもりで>

アイリーンに電話する島。「ナイアガラに行かないか?」「どうしたのよ。突然おのぼりさんみたいなことを言って」「いや、せっかくアメリカに来たんだから、一度くらい見ておきたいと思ってね」「ちょうど今、ボブが来てるの。代わるわ」「コーサク。ナイアガラだって?そりゃいい趣味だ。正直言って俺も行ったことがないんだ」「あら、私も子供の頃行ったきりで、ほとんど記憶にないわよ」「じゃ、俺の新しい車で行こう。SAABを買ったんだ」

SAABでナイアガラに向かう3人。(ナイアガラはニューヨーク州バッファローの郊外にあり、約500キロのロングドライブだ。ニューヨーク州と言っても、このあたりは果てしなく田園風景が続く農村で、今、改めてアメリカの広大さを知らされた)

(ナイアガラに着くことは、もう日も落ちて、家々の窓にオレンジ色の灯りがつき始めていた。田園の中に点在しているどの家にも窓にベタベタとハロウィンのお化けのシールが貼ってあり、こういうのが家庭の幸せと言うのだろうか。家の中から漏れる光がとても暖かい感じがする。訳もなくジーンと来てしまった)

(ナイアガラの滝はアメリカ滝とカナダ滝があって、規模が圧倒的にカナダ滝の方が出逢い。従って、殆どの観光客はパスポートを持参して、いったんアメリカを出国する。とにかくその景観は圧巻だ)「こりゃ凄いや。まるでウソみたいだ」(最初の印象は夜でサーチライトに照らされていたせいか、実物を見たような気がしないのだ。何か巨大なスクリーンに映された映画のような気がした)

「あのさ、日本の青春映画なんかにあるくさいシーンだけど、ちょっとやってみないか」「何をするの」「つまり感動的な大自然の景色に出会った時に、そこに向かって思わず大声で叫ぶやつ。夕陽とか青い山脈を前にして、面と向かって相手に伝えられない自分の意思を大声で叫ぶのさ」

「俺はアイリーンが大好きだ」「と言う具合にね」「じゃ俺の番だ」「俺だってアイリーンをコーサクの10倍愛しているぞ」「俺にもう一つやらせえくれ」「俺は来週東京に帰ることになったぞ」「そう。いつかは来ると思ったけど。じゃ、私の番ね。2人ともビックリするわよ」「私。子供が出来たわよ」叫ぶ島とボブ。「おめでとう」

 

STEP17

アイリーンに電話する島。「今日、ニューヨーク最後の日なんだ。出来ればボブと3人で食事したいんだけど」「勿論よ。今日は会社をオフにして、あなたとの時間を作るわ」

(今日でこの街ともお別れかと思うと、何となく寂しくなってくる。と同時に東京に戻ってからの忙しい日々を考えると、いささか憂鬱にもなる。やらなければならない仕事が山積みしているし、何と言っても女房から申し出のあった離婚についての話し合いもしなければならない)

「社長。短い間でしたが、いろいろお世話になりました」「ま。東京に戻ったら、皆によろしく伝えてくれ」「はい」「ところで、島君。ちょっと頼みがあるんだ」「え」「典子って女、覚えているだろう」「ノリコ、ですか」「ほら、5番街の日本料理店・淀兆で私と待ち合わせていた女がいただろう」「あ」「わかっているだろうが、アレは私が5年前から面倒見ている女なんだ」「はい。承知しております」

「そこでだ。君に東京での監視役を頼みたい」「え」「出来れば週も1回ぐらい店に顔を出して、典子が他の男と変な関係になっていないか、報告してほしいんだ」「そんな高級クラブに私の給料では出入りできませんよ」「そんな心配は無用だ。クレオパトラには私の方から電話を入れておく。君はあの店ではフリーパスにしておくさ」「ええ、でも」

「頼むよ、島君。私は約1年間君を見てきたが、君なら全面的に信用できる男と見たんだ。どうだ、私の腹心にならんか。私につけば将来はまず安心だぞ。私は近々東京に戻る。その時は筆頭専務だ。私が次の社長の座に座る最短コースにいる人間と言うことは君も知ってるだろう」「……」「引き受けてくれるな」「は、はい」

(そう言えば、福田部長が電話で言ってたな。社長の弱味はないかって。『島君。大泉社長と宇佐美常務が次期社長の座を争うことになるのは、承知しているな。ええな、大泉の弱点をしっかりつかんでこい。奴を叩き落とすために、少しでもマイナスの資料を集めとかなならん』冗談じゃない。俺はどこの派閥にも属さないぞ。そんな際どい勝負に出るには、まだ人生は長すぎる)

「コーサク」「アイリーン。ボブはどうした。来ないのか」「うん。ちょっと遅くなるけど来るって」(こうしてアイリーンと2人きりで歩くのもこれで最後なんだ。ボブの気遣いに感謝した)

「短い滞在だったけど、ニューヨークで一番印象に残ってることは」「そうだな。君との楽しいセックスかな」「コーサク。ふざけないで」「いや、ふざけてない。本当にそう思う。この街では男と女のつながりが非常に大切なことだと言う気がする」「どういうこと」「このエスニック社会で人種の違いや考え方の違いをうまく調和させていくには、個人個人の考え方をしっかりさせておく必要がある。お互いに他人は他人、自分は自分と言う立場を認め合うことだと思う」「……」

「その反動として一人でいると言う孤独感は強烈なものがあったね。孤独感は同時に緊張感であり、それが男女の性的な結ぶつきをより高めたような気がする」「だから2人で逢っている時間が、心を解放する唯一の瞬間だったと言うわけね」「楽しくて淋しい。めくるめく時間だった」「奥さんとはどうなったの」「多分離婚すると思う。日本に帰ったら話し合うことになっている」「今日は最後の晩餐だから豪華にフランス料理よ」「いいね」

(俺たちが行ったフランス料理の店にはボブが待っていた。ボブは本当にいいヤツだった。この男に知り合えてよかったと思う。考えてみれば、俺は少しの間、ボブとアイリーンの間に割り込んではいった突然の闖入者だったんだ。それをボブは受け入れてくれた。エスニック社会ならではの不思議なトライアングルだ)

(でも、このトライアングルをこれ以上続けるわけにはいかない。アイリーンのおなかには、3か月の子供がいるのだ。その父親は今の段階ではボブか俺かはわからない。しかし、あと半年すれば答えは確実に出る。生まれてくる子供の肌の色は極めて明快な解答なんだ。俺はこのことについて何か話さなければならないと思いながら、何を話せばいいのかわからなかった。そして時間だけが経っていった)

「そうだ。ねえ、コーサク。ヘリコプターに乗らない?」「ヘリコプター?」「そりゃいいい考えだ。ニューヨークの記念に夜景を空から眺めるのもいいもんだぞ。行ってみようじゃないか」

(観光用ヘリコプターの発着場はイースト川に面したひどく薄汚れた場所にある。この観光旅行はマンハッタン上空をぐるっと一周するコースで一人45ドルだ)「2人で行ってこい。俺はここで待ってる」「え。どうしてだ。一緒に乗ろうぜ」「いや。俺は高所恐怖症だたんだ。今思い出した」「わかった。じゃ2人で飛んでくる」(ボブはまた俺に気を使っている)

(ニューヨークの夜景は素晴らしいの一言だ。月並みな形容だが、まさに宝石箱をばらまいたと言う感じで、夥しい光の洪水にはただ圧倒される。その光を瞳に映したアイリーン。君の笑顔も100万ドルの夜景だ。そしてエンパイヤステートビルの上空には黄色い月。ニューヨーク最後の夜は素晴らしい演出効果に溢れている)

「アイリーン。一つだけ質問させてくれ」「なに?」「俺はこのまま東京に帰る。子供は産むつもりなのか」「勿論よ。折角神様が授けてくれたんだもの」「生まれてきた子供があの月のように黄色い色だったら、どうするんだ」「ボブと2人で育てるわ。勿論、ボブと私の子供としてね」「そうか」「……」「おめでとう。幸せになれよ」「コーサク」

(俺は力いっぱいアイリーンを抱きしめた。このまま地上に降りるまで、キスを続けよう。グッドバイ、ボブ。グッドバイ、アイリーン。そして、グッドバイ、ニューヨーク。翌日、俺はニューヨークを発った)

 

STEP18

1986年・新年。赤坂の料亭で酒を酌み交わす宇佐美と福田と島。「どうだったね、島君。アメリカの広告業界は」「正直言って、もはや日本が学ぶべきものはないと言うのが私の感想です」「ほう。それはどうして」「広告そのものにアートが感じられません。これはどの媒体にも共通しています。アメリカ合理主義を煮詰めていったら、そういう形になったと言うことでしょうか」「昔はよかった気がしたが」

「はい。確かに15年から20年前までのCMは優れていました。テレビ番組で海外CF特集なんてのもやってましたし。ところが今や同じCMを3年間も平気で流し続けるようなガサツな業界になっています」「有名なスターやタレントが出るCMも少ないらしいな」「ええ。でも考えて見れば、アメリカの方が先に広告本来の姿に戻ったと言う考え方もできます。そういう意味では、あるいは向うが逆にプログレッシブなのかもしれません」

「ところで大泉社長はどんな具合や」「ええ。とても情熱的な方で、仕事もバリバリするタイプです」「俺の前で方なんて言わんでいい」「あ。申し訳ありません。これがハツシバアメリカの一年間の業務報告と決算報告書のコピーですが」「そんなこと、聞いてるんやない。大泉の弱味を掴んだかとどうか知りたいんや」「その、別に弱味と言うものは」「私生活はどうだ。酒とか女とか」「は、はい。特にそういうこともありませんでした」(困ったな。俺はどっちの側にもつきたくないんだ)

トイレで島に聞く福田。「ところでちょっと小耳にはさんだんだが、カミさんと別れたんあやて?」

(そうだ。俺たちは別居している。と言うより俺が帰国した日にはもう女房と子供の姿は家になく、置手紙には、怜子は奈美を連れて、石神井公園の賃貸マンションに引っ越した、と書いてあった。妻から申し出のあった離婚についての話し合いは、新宿のホテルのティールームで行われた。話し合いは実に明快な内容のものだった。なにぶん相手の意思が固くて、話の方向が変えようがない)

「じゃ、離婚と言うことか」「ええ」「俺は賛成しがたい」「会社の中での自分の評価がマイナスになるからでしょう」(それもある)「いや、そうじゃなくて、奈美の将来と教育問題を考えると」「いいよ。あたし平気だもん。2人が別れても、パパとママは好きだし」「ん」「とにかく、しばらく別れて暮らしてみない。その方が互いの存在を強き認識できると思うの」

「別居か」「そう。ある期間、この状態で暮らして、お互いの意思が全然変わらないなら別れましょう」「わかった」(会社で言えば、正社員になる前の試用期間みたいなものか)「奈美とは週に一回くらい会う時間を作るわ。それでいいでしょう」「うん」

(はっきり言えることは、女房は確実に若返っていると言うことだ。ただいま恋愛中なんだろう。男がいるのだ。しかし、それに関して、一言も口に出さなかった。この種の話し合いの席で出せば、ひどく醜い泥試合となるからだ。とにかく双方にとって、この別居はいいタイミングの冷却期間なのだ。そう思うことにしよう)

「じゃあ、島君。私は専務を送っていくからな」「はい」タクシーに乗る島。「どちらまで」「銀座8丁目のホテル日航の前あたりで止めてください」(残念なから、これで帰宅と言うわけにいかない。俺にはもう一つ仕事が残っている)

(クレオパトラは8丁目の高級クラブばかり集まったクラブビルの2階にあり、高圧的な雰囲気が店内に横溢していた。座っただけで5万円の請求書が来ると言われているこの店の雰囲気では、俺は全くのエイリアンだ。大学時代から新宿の垢を身に着けている俺にとって、この店で飲むバランタイン30年やルイ13世よりも、ゴールデン街のホワイトの方がよほど旨いと思ってしまう)

「初めまして、典子です」「いつぞやはどうも」「あ。あら、ニューヨークで」「思い出してくれたな。島耕作です。よろしく」「嬉しいわ。本当に来てくれたのね」「ああ、義理固い方だからな」「あなたの意思でいらしたの」「勿論だよ。他に誰の意思で来るんだよ」「典子さん。4番の奥田様のところへ」「あ。ごめんなさい。ちょっと席を外します。でも、すぐ戻って来るから待っててね。お店はねたら、食事でも付き合ってくれません?」

(典子と行った店はどうってことのない六本木のカラオケバー。こういう所なら俺もビビることなく、大騒ぎできる)「ふわあ。私、今日凄く酔っ払っちゃったあ」(この時、典子の芝居がかった酔い方に気づけばよかったのだが)「ごめんなさい。あたし酔っ払って」「大丈夫だよ。西麻布のダイヤモンドパレスだろ。ちゃんと送るから」「お客さん。着きましたよ」「だめえ。私、歩けない」「わかったよ。ほら、もう7階だよ」「702号室なの。これ鍵」「好きよ」「ち、ちょっと」「ダメよ。このままじゃ帰さないわよ、絶対」(まずい。これじゃミイラ取りがミイラになっちまう)

 

STEP19

(結局、俺はミイラになってしまった。この女が仕掛けて来た罠にまんまとはまった。と言うより、はまってやったのだ。そう、これは絶対罠だ。初対面で、しかもこの女にとって、何のプラスにもならない俺みたいな男とどうして寝るんだ。つまり、この銀座の女は何か俺に対して策略がある。しかし、それがどういう企みなのかわからない)

「しかし、いい暮らしだな。銀座のホステスってそんなに儲かるのか」「大したことないわ。あたしの場合、1日4万プラス歩合が10%」(す、すげえ)「ふーん、そう。でも、こんな都会のマンションなんて、俺たちサラリーマンから見れば、垂涎の的だね」「あら、このマンションの家賃、全部おたくの大泉さんが出してくれているのよ」(うへ。突然、向うから切り込んできやがった)「あ、そう」「そんな顔しなくていいわよ。知ってるくせに」(いかん。全部見抜かれている)

「あててみようか?あなたは大泉さんに頼まれて、私の行状を監視するためにクレオパトラに派遣されたお目付け役。図星でしょ」(返す言葉がない)「いや。その」「裕介ちゃんのやりそうなことよ。一見豪気な感じだけど、小心翼翼。ケツの穴が小さいの」「……」「はっきり言って、私、浮気してるわよ。勿論、ステディなパトロンは裕介ちゃんだけなんだけど」「……」「この世界で生きていくには、やっぱり体張って商売するしかないのよ。仮にこの女は絶対に寝ないとわかったら、お客さんなんて、誰もついてくれないわよ」

「じゃ、監視役の俺と寝たのも、君の行状を大泉社長に報告できないように」「そうよ。質草取ったの」(なるほど。こりゃしてやられたな。もっとも大泉社長に忠誠を尽くす気もなから、どうってことないけどな)「じゃあね、おやすみ」「ああ」「あ、ちょっと」「え」「あたし、あんまりイカないタイプなんだけど、今日は3回もイッちゃった」「そいつはよかったな。おめでとう」

石神井公園で奈美と会う島。「奈美、パパって言うのはやめなさい」「どうして」「だって奈美はもう小学生なんだろう。パパって言うのは子供の言葉だ」(奈美は昨年、難関をかいくぐって、国立大附属の小学校に入った)「でも、ママは、パパって言っても別に注意しないよ」「ママって言うのもおかしい。お母さんと言うんだ。日本人は」「変なの」(いかんいかん。俺の教育方針を子供に押し付けるなんて。今の俺にはそんな権利はないんだ。少なくとも俺は女房と別居して、父親の権利を放棄している)

怜子に電話する島。『どうだ、元気にしているか。石神井のマンショライフはどんな具合だ』『なかなか快適よ』『生活費は足りるかい?月15万の送金じゃ少ないんじゃないか』『大丈夫よ。ちょっとアルバイトしてるし』『アルバイト?』『専門書の翻訳よ。大学時代にやったこともあるし』『どこの出版社なの。誰か知り合いでもいるのか』『関係ないでしょ。いちいちあなたに報告する義務はないわ』(こいつだ)

『ところで、奈美のことだけど、引っ越して変わったことはないか』『成績の方がちょっとよくないみたい。テストのようなものがあるらしいけど、私には一度も見せないの』『ついていけないのじゃないのか。無理してそんな難しい学校に入れるからだ』『相変わらず口うるさいのね。あなたにそんなことを言う資格があって?』(ない)

(考えてみたら、俺は娘が一体どこの小学校に行くのか全然知らなかったし、知ろうともしなかった。ニューヨークに行ってる時に妻から来た手紙を見て、初めて奈美が入学した学校の名前を知ったぐらいだから)

「ところで勉強、あまりよくないんだって。お母さんから聞いたぞ。テストなんかあるんだろ」「あ、テストならポケットの中にある。見せてあげようか」(なんだ。俺には見せるのか)「はい、これ」(真っ白だ。何も書いてない)「どうして何も書かないんだ。奈美」「ねえパパ。今度いつ会えるの」「奈美、俺の言うことにちゃんと答えなさい」「今度会う時は豊島園に連れてって」

「奈美、お前はいつからそんなふうになったんだ。豊島園なんか連れていかない。俺と一緒に豊島園に行きたかったら、百点取ってみろ」「うるさいなあ」(しまった。興奮して変なことを言ってしまった)「ママ。もう帰ろう」「じゃあ、あなた、私たち、これで帰るわね」(また、ひとりぼっちになってしまった)

電話に出る島。「島さん、わかる?あたし」「な、なんだよ、典子。会社に電話なんかして」「だって、島さん、あれから全然うちの店に来てくれないんだもの」「質草取られたところに行っても意味ないじゃないか」「私はあなたともう一度したいの。あなたのこと思いながら、オナニー50回くらいやっちゃった」「おい、何て事言うんだ。ここは職場だぞ」「会ってくれると言わなきゃ、毎日電話しちゃうから」「わかった。今度必ずお店に行くからさ」

(おい、どうなるんだ。あいつは大泉社長のお手付き女だぞ。こんなことをやっているのがバレたら、俺は一体どうなるんだ。待てよ。しかし、宇佐美陣営の側からみると。俺は相手の懐に飛び込んだことになる。考えようによると、こりゃ面白くなるぞ)

誰もいない家に戻る島。(あれ?奈美からだ)100点満点の算数のテストと一緒に入っている手紙を読む島。<このまえはごめんなさい。こんど、としまえんにつれていってくださいね。おとうさんへ。奈美より>(奈美)

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