2000年東ティモールスピーキング・ツアー

マリア・バレトさん(メリーさん)のスピーチ概要


●あいさつ
 このたびは私の体験談を聞くために時間をさいてこの集会に来てくださり、ありがとうございます。

●フォクペルスの説明
 今日は8月30日の住民投票あたりから話を始めたいのですが、それに先だって、フォクペルス、東ティモール女性連絡協議会の活動についてまず説明したいと思います。
 住民投票の前、フォクペルスはすでに活動をしていました。まず、インドネシア軍の暴力の犠牲者となった女性たちに「付き添い」というかたちでケアーを行うこと。次に、教育活動(啓蒙活動)として、女性のリーダー・トレーニングを行ったり、ババドックというニュースレターを出したりしていました。ババドックというのは東ティモールの伝統的な楽器の名前です。
 住民投票後、ちりじりになったフォクペルスのメンバーたちは、消息を確かめあいました。フォクペルスは人権団体として知られていたし、住民投票のプロセスにも参加していたので、結果発表後の混乱の中で、民兵らのターゲットにされ事務所や備品はことごとく破壊されてしまいました。
 事務所は焼かれてしまっても、私たちにはスピリットが残っていました。それで集まった仲間たちは、インドネシア軍・民兵の犠牲者となった女性たちのために、3つの活動を始めました。まずはカウンセリングです。カウンセリングといっても女性たちと一緒に集まって、紛争のときに苦労をあれこれと話し合い、自ら自分の体験を表現してもらって、日常の困難がある場合はそれをどうやって解決していいか、みんなで話し合うということです。
 また経済的なエンパワーメントも行っています。それはそれぞれの能力におうじた小さなビジネスをするのに、資金を提供するということです。これはただであげるのではなくて、クレジットというかたちで貸しています。それは返してもらわないといけません。インドネシア時代、人々は上から与えられることに依存するようにし向けられていました。しかし今は、たとえ犠牲者であっても、自立するための事業をやるということが必要です。
 次に教育(啓蒙)活動ですが、ジェンダー、女性の人権、健康とリプロダクティブライツについての情報を提供しています。
 さらにアドボカシーをやっています。それは公的な領域で女性の意見がもっと聞かれるようにと、今ですと国連の暫定行政機構などに対して、ロビーを行ったり、キャンペーンを行ったりするのです。


●住民投票
 さて、住民投票のころの話に入ります。
 私がディリにいて見ていた限り、投票そのものは平穏に、無事行われました。もちろんインドネシア軍や民兵の脅迫はありましたが、それでも人々は勇気を出して、住民投票を成功させようという意欲にもえていたのです。
 しかしその他の12の県では、必ずしも平和的に行われたわけではありません。あるところでは、民兵が投票箱を管理している国連の東ティモール人スタッフを10メートル先に追いやり、自分が投票箱のとなりにいて、自治案に賛成票を投じるよう住民に強制していました。そしてそれに従わない住民は、そこから連れだしてどこかへ連れていき、殺したと聞いています。
 しかし住民投票全体としてはうまくいき、成功したと言えます。そして9月4日、結果が発表された直後から状況は戦争のようになってしまいました。インドネシア軍が独立派がかったという結果に怒ってしまったからです。
 4日朝、投票結果が発表されたのは朝9時ですが、それより前、ディリの住民は家から出て、森へ逃げたり、教会関係の施設(修道院や司祭館)に逃げたり、またインドネシア軍司令部や警察署に保護をもとめて逃げました。結果発表前は、まだ治安が悪いということはなく、インドネシア軍もおそらくまだ統合派(自治賛成)が勝つだろうなどと思っていたのでしょう。私と友人は、その日の朝、ディリ市内の状況をモニターしてまわったりしました。町は死んだように静まり返っていました。
 独立派勝利の結果が発表されると、ディリ市内のサンタクルス地区にあるコストラッド(陸軍戦略予備軍)の兵士の駐留ポストで、兵士たちがそこにあったマンゴーの木に向かって発砲を始めました。マンゴーが悪いわけではないにもかかわらずです。その後、人に向かって発砲をしました。
 この発砲に呼応して、ディリ市内の他のインドネシア軍兵士たちも発砲を始め、ディリは鉄砲の音、手榴弾の音などで騒然となりました。
 翌5日、ディリでは独立派の指導者たちの家が襲撃されたりするようになりました。逃げる勇気のなかった人たちは家にいましたが、そこに民兵たちがやってきて、もうすぐインドネシア軍の大々的な作戦が始まる、その前に家を出て行けと命令しました。
 しかし人々は出て行けと言われてもどこへ逃げればいいのかわからず、インドネシア軍が用意したトラックに乗せられました。そして港や空港、インドネシア軍の司令部などに連れて行かれたのです。
 独立派住民を震え上がらせるために、民兵たちは教会を襲いました。
 6日には、ベロ司教邸と赤十字国際委員会の事務所を襲いました。
 そんな中でも、私はまだなんとかもちこたえて家に残るつもりでいました。すると突然、ベロ司教邸から逃げてきた若者たちがいて、鉄砲でうたれた傷やなたで切られた傷をおっていたので、家に呼んで傷の手当をしてあげました。家の前におちた彼らの血を水で洗い流しました。ここに負傷者がいて傷の手当をしていると民兵に知られないようにです。そして彼らを「ねずみの穴」の奥が広くなっているところがあったので、そこに隠しました。
 7日、隣人の民兵が私に、家に残っていてはいけない、そのうち紅白鉄隊(BMP: Besi Merah Putih)やインドネシア軍がやってきて、男は見つけたら殺し、女はレイプすると言いました。そのころには私も怖くなっていたし、最初は強気だったのがだんだん弱気になっていたので、家を出ることにしました。
 若者たちを連れて、煙が立ちこめる市街地をくぐりぬけるように逃げました。しかし逃げるといっても、どこに逃げていいかわかりませんでした。森へ逃げようにも、主だった道路は封鎖されていました。
 道中、銃弾で傷ついたり、山刀で切り傷をおった人のまだ新しい血のあとがみえました。灌漑用水路には死体もころがっていましたが、近づいて身元を調べるというような状況ではありませんでした。
 結局、私たちが行きついた先は、KOREM(インドネシア軍東ティモール司令部)でした。そこには民兵集団であるアイタラク(棘)のメンバーと話をすることができました。私が、ディリがこんなになってしまって悲しいというと、その民兵も、自分だって悲しいのだ、しかしこれはインドネシア軍と警察があらかじめ計画したこと、自分たち民兵はそれを実行するしかない、どうしようもないのだと答えました。次に私は、こんなことしてどういう保証(報酬)があるのと聞きました。彼は、自分たちのリーダーはインドネシア軍の制服を与えられている、自分たちはこれから東ティモールで戦争をして、その後、家、金、土地などをもらい、最後にはインドネシア軍に入隊させてもらえるのだと言いました。私は、いったい誰と戦争するのかと聞きました。彼は、インドネシア軍によれば、ファリンティル(東ティモール民族解放軍)、独立派の連中と戦争するんだ、と言いました。
 その夜、私がかくまっていた青年たちが独立派だとわかり、身の危険を感じたので、翌日8日朝、車を借りて西ティモールに逃げることにしました。トラックの真ん中に彼らをおいて、周りを荷物でかこみ、そして周囲に女性が座って彼らをかくまいました。出るとき、インドネシア軍兵士から、紅白旗と、「われわれは自治を受け入れる」と書かれた青い色の横断幕をわたされました。紅白旗を頭にはちまきのようにまきました。
 西ティモールのアタンブアに着いたときは、夜中の1時でした。これからどこへ逃げていいかもわからず途方に暮れていたところ、現地の住民が一晩だけとめてやるということで、家を提供してくれました。
 翌朝、民兵がやってきて、独立派の連中だろうといって脅しました。家のご主人が、撃ってはいけない、この子たちは自分の弟妹たちで、ディリから逃げてきたところなんだとかばってくれました。それでなんとか命びろいをしました。
 そして私たちはなけなしの金をはたいて、トラックを借り、クパンまで行くことにしました。
 クパンでは人に頼んで男の子たちをジャカルタに逃がしました。私は家族の消息がわからなくなっていたので、家族をさがすためクパンに残りました。
 しかし、クパンの町自体がインドネシア軍と民兵によって支配されており、日が暮れて晩御飯を食べに出る以外、家から出ることはできませんでした。また彼らは、学生、とりわけ東ティモール大学の学生、NGOのスタッフ、CNRTの活動家、UNAMETに協力した東ティモール人などをさがしていましたので、私はいるあいだに5回も場所をかわりました。
 そうしてディリに戻ることができたのですが、ディリに帰り着いたとき、やけ焦がれた町を見て、涙がでました。

●西ティモールの難民の状況
 まず難民の健康状態がよくなく、病気が蔓延し、死亡率も高くなっています。
 次に民兵がキャンプを支配していて、治安はよくありません。クパンのUNHCRが東ティモールに帰還した人の映像を見せたりしていますが、最近、ある民兵は難民に向かって、東に帰ると国連軍がインドネシアから運んだものをすべて奪い、おまえたちは殺される、だからわざわざ東に殺されに帰るくらいなら、ここでおれがおまえたちを殺してやると言ったそうです。彼らは戦略として、こうしたウソの情報をばらまいているのです。また、今や東ティモールは白人に支配されている、ひどい飢餓が発生している、民兵を訓練してもう一度東ティモールを奪還するなどとも言っています。
 難民はこんな話は心の底から信じているわけではないのですが、やはり怖いので、帰ることができないのです。
 さらに、難民は国境近くのローカル・トランスマイグレーションといって、一種の移住政策の枠組みにのった開拓地に移住させられるのを恐れています。 民兵の背後には、KOSTRAD(陸軍戦略予備軍)やKOPASSUS(特殊部隊)がいて、彼らが訓練しているのです。
 独立派活動家の女性や夫や子どもが独立派活動家であったような女性が、「現地妻」のようにさせられています。

●住民投票後の女性に対する暴力
 女性に対する暴力はさまざまなかたちをとります。
 まずレイプ。活動家の女性や夫が政治指導者であるような女性に対してなされます。 9月10日、ある独立派の政治指導者の妻が、民兵に取り囲まれ監視されました。森へ逃げようとしましたが、どうすることもできませんでした。彼女はボボナロのKORAMIL(郡レベルの司令部)の司令官に差し出され、3夜続けて彼にレイプされました。
 次に性的奴隷。カルメリタ・ソアレスという17才になる女性は、西ティモールで、兵士の現地妻にさせられてしまいました。もちろん彼女は最初拒否しましたが、両親が脅迫され、その両親が彼女を兵士に差し出したのです。彼女はそのことによって女の子を出産しましたが、その子は今フォクペルスが預かっています。
 次に、拷問、ないしは虐待。アビアという7才の少女は、昨年9月、家が民兵におそわれ、両親が銃でうたれて死亡しました。両親が銃で撃たれそうになったとき、少女は母親をかばおうとしました。そこで民兵が背後から彼女に斬りつけ、彼女の鼻を切ってしまいました。彼女は気絶しましたが、おばさんによって助けられました。彼女とおばさんは両親の遺体を埋葬しようと穴をほろうとしましたが、またインドネシア軍と民兵が襲撃してきたのでおばさんは彼女を連れて山に逃げました。そこで彼女は初めてゲリラによって木からつくった伝統的な薬をつけられました。しかし、その後傷は感染症のようなものにかかっていて、医者(整形外科)をフォクペルスはさがしています。
 少女は今でも両親の骨を拾い集めて、しかるべきやり方で葬らなければならないと言っています。
 次に殺害。アナというエルメラに住んでいた女性がいます。彼女の兄弟はファリンティルで、住民投票の前からインドネシア軍によって脅迫を受けていました。彼女は4人の子どもがいて、UNAMETのローカル・スタッフをしていました。彼女は住民投票後、ディリへ向かって逃げましたが、ディリでは治安がよくないと判断して、子どもを守るためにエルメラに戻り、そこで殺されました。子どもは助かりましたが。彼女の遺体は家族によってやっと4月1日になって見つけられました。
 さらにセクシュアル・ハラスメント。西ティモールでは女性たちが兵士のためにダンスを無理矢理踊らされています。そして兵士は体をさわったりします。また料理や洗濯も強制されています。

以上。

[これは名古屋での講演の概要をまとめたものです。]

プロフィール
マリア・バレトさん
Ms Maria Barreto

 1973年6月3日、東ティモールのマリアナ生まれ。
 1999年2月、東ティモール大学卒業(農学士)。1997年7月、東ティモール女性連絡協議会(Fokupers)の設立に参加し、現在、付き添いチーム・コーディネーター。インドネシア軍兵士による性的暴力の被害女性を支援し、「ババドック」(Babadok)というニュースレターを発行している。現在ディリ在住。
 昨年、住民投票の結果が発表された直後の9月7日、ディリの自宅にいたところを民兵に脅されて出た後、10月13日に世界食糧計画(WFP)の飛行機でディリに帰還するまで、西ティモールのクパンに潜伏していた。ディリでは家を出ていかないとインドネシア軍と警察が見回りに来て、家に残っているとレイプすると脅された。


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