著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 9, October 2002

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第7回)

古沢希代子


 日本と東ティモールとの外交関係樹立のための文書が独立の日に交わされた。そこには、(1) 5月20日をもって外交関係を樹立する、(2) 大使級の外交使節を交換する、としか書かれていない。実はこの時、日本側から「今後両国は戦後賠償問題には触れない」というような文言を入れる提案が出ていた。今回東ティモール政府はこの提案を蹴った。しかしこういった圧力は今後ずっと続くにちがいない。そして、そのうち、世界中で誰も日本という国には説明責任や正義を期待しないという日が来るかもしれない。


 日本軍は、ポルトガル領ティモールの支配に現地のリウライ(伝統的首長)や村長を利用した。マリアナのアルベルト・ベルディアスさんの例(第2回参照)を見ても、スアイのヴェロニカ・マイヤさんの例(第3回)を見ても、日本軍への「協力」をめぐってひとつの家の中で態度がわかれることがある。そして、それが強制によってであろうと、ひと度その任につけば、コミュニティーの人々に食糧や家畜や土地や労働力や女性の供出を強いることとなり、戦後復活したポルトガル行政の下で裁きの対象となった。
 
◆アレクサンドル・フレイタスさんのお話

 東ティモール東部の町、ルロで一番長生きなのは、アレクサンドル・フレイタスさんだ。彼は日本軍占領時代のことをよく憶えている。
 例えば、村長が日本軍の命令を受けてタニヤマという軍人に差しだしたある女性についてである。彼女の両親は娘がタニヤマの「妻」になることを承服しなかったが、あらがいようがなかった。タニヤマは乱暴者で、鶏や山羊など物資を集めさせるためによく村人を殴った。フレイタスさんは、当時日本軍のために警備や道案内をさせられていたため、そういった場面を目撃した。タニヤマが去るとその女性はヤマモトという別の軍人に引き継がれた。戦後彼女は死ぬまでひとり身だった。 戦後アタウロ島の監獄に送られた人はルロにもいる。フレイタスさんの父親もそのひとりだった。父親は、日本軍ととともに住民を殺したという嫌疑をかけられた、戦後ポルトガル軍に捕らえられた。裁判はディリではなくロスパロスでポルトガル人の県知事によって行なわれた。その結果、父親はアタウロ島の監獄に送られた。フレイタスさんによると、ルロでは住民の殺害はなかったが、ラウテン、ピサ、ブアワタ(バイララ)、ワイワイ・ルトゥロの日本軍司令部では住民の処刑があった。理由は、日本軍の命令に応じて人を集めないとか、呼びだしに応じないとかいうことだった。
 フレイタスさんは、ルロのラカワ村でリウライ及び村長をしていたドゥアルテの一家に起こったことも記憶している。ある時、ドゥアルテのふたりの妹、モル・ダイとエナ・カイが日本軍に連行された。ドゥアルテは妹たちを返してくれるよう司令部に談判に行ったが叶わず、その後日本軍から「追われる身」となり、首つり自殺した。ドゥアルテの死後、弟のジョゼ・ダ・コスタが村長の職を継いだ。その弟は日本軍「協力者」として戦後アタウロ島の監獄に送られた。彼はアタウロ島から生還し 1998年に亡くなった。


◆自殺した父親

 アンジェリーナ・ノローニャさんがその父、ドゥアルテの死について憶えているのは以下のことだ。
 「ある日、父の妹たちが日本軍に捕まってワイワイ・ルトゥロの司令部に連行された。父は自分の妹たちが身体を縛られて木に吊るされていると聞いて、彼女たちを返してもらうため司令部におもむいた。その後帰宅した父は「日本軍が追いかけてくるので逃げてきた」と語った。父はその夜の午前3時頃、田んぼの中のタマリンドの木で首をつって死んだ。発見したのは母だった。母はそれを見て自分のお腹を刺して死のうとしたが死ねなかった。朝、日本軍がやってきて父の死体を見つけた。その後、日本軍はエナ・カイという妹を釈放したが、もうひとりの妹がどうなったかは知らない。
 なぜ、父の妹たちが司令部に連行されたのか、なぜ父が死に追いやられたのか、それらについての正確な理由はわからない。ただ、父が家で語っていたことから推察するに、父は日本軍には協力的ではなかった。
 母はその後日本軍から何もされなかった。母の連行はなかった。
 自分が見たわけではないが、女の人たちが選ばれて連れて行かれるということはあったらしい。村の女性たちが選別されて連れていかれたラウテンのビサというところだ。この話は日本軍に協力した人たちから聞いた。」
 ドゥアルが女性の徴集を命じられていたかどうかは不明である。しかし、日本軍から何らかの命令を突きつけられていた可能性はある。ドゥアルテは妹たちの命とその命令の間で板挟みとなり自らの命を絶ったのかもしれない。
 アンジェリーナ・ノローニャさんは私たちに会って話をすることをすごくためらっていた。私たちの到着を知らされていながら、彼女はその時間、家にはおらず、畑に出ていた。しかし畑の近くで話をうかがっているうちにそのためらいの理由が少しずつわかってきた。私たちは彼女に「被害に関する話」をしてもらいたいと事前に伝えていたのだが、彼女の方は親族にアタウロ島に送られた者がいることで「日本軍協力者」として改めて追及されることを恐れていたのだ。日本軍による占領は、戦後50年を経てなお、東ティモール人の心にこんな重荷を背負わせたままである。その理由は明快だ。暴力の構造が明らかにされず、責任者が追及されず、問題が未解決のままだからである。

◆キラス(またはキクラス)の慰安所

 2000年12月の「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」に提出された東ティモール検事団からの起訴状にはサメ県の事例が含まれていた。起訴状には三人の目撃者と一人の被害者による供述が添付されている。
 これら三人の目撃者は何らかのかたちで日本軍に協力して仕事をした者たちだった。彼らによると、日本軍は1942年にサメ県のファトゥベルリウに侵入し、1945年の敗戦まで駐留した。
 日本軍はファトゥベルリウのキラス村に司令部を設置した。当時、多くの若者が日本軍のために警備を行なうポンベラとして日本軍に使われた。クレディク村の司令官はセルカと呼ばれていた。ポンベラの従軍地域はファトゥベルリウだけでなく、サメ、ビケケ、ウアトカラバウ、ベニラレ、バウカウ、ロスパロスと東ティモール南部と東部の全域を含んでいた。彼らは見回りや警備の任務の他、農場や畑で働かなければなかった。これらの労働に対して賃金は支払われなかった。
 キラスの軍人たちは、しばらくすると、リウライや村長に女性をつれてくるよう命令した。このような命令には従わなければならなかった。もしそむけば、拷問や暴行が待ち受けており、そして時には殺されることもあった。結局、集められた女性たちは全員、キラスの日本兵のいるところに連れて行かれた。彼女たちは、昼は畑仕事と洗濯や食事づくりをさせられ、夜は日本兵たちの性的要求に応じなければならなかった。
 被害者のひとりマルガリーダ・ホルナイは次のように語っている。
 「日本兵は私たちを動物のように扱った。私たちは彼らが要求することは何でも従わなければならなかった。時には順番に彼等の相手をしなければならなかった。彼らは私たちを自尊心のない動物とみなしていた。私たちは友人のルルマウクと一緒にある場所に入れられた。そこには他にも多くの女性がいた。数ヵ月の間、私はそこにいたが、日本兵の残酷な扱いに耐えられず、逃亡を決意した。」
 三人の目撃者のひとり、ジャヌアリオ・ファリアはこう語っている。
 「私は日本兵と一緒に生活をしていた。特に ナカヤという衛生兵とその助手を手伝っていた。慰安所はキラスだけでなくクレディクやアラスにもあった。村長たちによって連れてこられた若い女性たちはしばらく慰安所で使われた。それから日本兵のいるところに一時的な性の相手として連れて行かれ、その後、家に帰るように言い渡された。アラスの慰安所にはティモール人だけでなく、東ティモール以外から連行された女性も6人くらいいた。この女性たちは3つの家に入れられていた。この家には毎日多くの日本兵が来たが、特に木曜と日曜には他地域からも兵士がどっとやってきた。彼らは目的を果たすとそれぞれの駐屯地に戻った。 また、日本兵の女性に対する暴力行為は慰安所だけでなく、行軍中の休憩地でも行われた。それらの地の村長は伝統的な踊り(Tebe-Tebe)で兵士を楽しませるために若い女性を連れて来たが、彼女たちは兵士の性的要求にも応じなければならなかった。欲求が満たされないと彼らがどれほど残虐になるか私は目の当たりにした。
 エウジニアという女性は、その夫、クセアクを失った。クセアクは自分の妻が日本兵にレイプされるのを許さず抵抗したので日本兵に殺されたのだ。クセアクが殺害された後、エウジェニアは、敗戦で日本軍がファトゥベルリウを去るまで日本軍の慰安婦として使われた。彼女はこのことで心に深い傷を負い、死ぬまで再婚しなかった。
 コロハレ、カサマリ、マルタ、ビテのような被害者たちは、その後コミュニティーで村八分にされた。彼女たちも一生一人で暮らすことになった。」 今回、キラスの慰安所に関して新たな目撃証言者があらわれた。現在マウバラに住んでいるデビッド・ペレイラ・ジェロニモさんである。ジェロニモさんは戦後小学校の教師として生きてきた。彼はキラスの慰安所と日本軍の軍人について以下のように語っている。
 「キラスの軍隊慰安所を管理していたのはファトベリウ出身のアフォンソという東ティモール人だった。慰安所の下手には兵舎があり、女性たちはそこへも連れていかれていた。女性はリウライに命じて集めていた。宣撫班にコマキという副官がいたが、非常にどう猛な人物で、日本軍の兵士からも恐れられていた。
 クレディックには宣撫班にセリカワという軍人がいた。私はセリカワが1945年の 1月か2月、作業から逃げ出した東ティモール人を捕まえて、さかさ吊りにし、殺したのを見た。その後セリカワは〈お前達も逃げたら同じめにあうぞ〉と脅した。その日は市がたつ日だったから火曜日の出来事だったと思う。セリカワは流ちょうにテトゥン語を話した。私は1944年の11月からサゴ椰子の根をついて澱粉を取りだしカンに入れて日本軍に納めるという作業グループのリーダーをさせられていた。ひとつのグループは14名で全部で5つあった。その作業をしている最中の1945年の1、2月に事件は起きた。」
 「女性法廷」への証言者のいうクレディックの「セルカ」とジェロニモさんの語るクレディック「セリカワ」が同一人物である可能性は高い。もしこの「セリカワ」がクレディックの「司令官」で労働者の管理も握っていたのなら、彼が慰安所の運営に関与していた疑いは濃厚である。(続く)★


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