著作権・大阪東ティモール協会
East Timor Quarterly No. 8, July 2002

「東ティモールにおける日本軍性奴隷制」(第6回)

古沢希代子 

 5月20日、杉浦外務副大臣は、ラモス・ホルタ新政府外相に対し、日本が同日付で東ティモールの国家承認をする旨伝えるとともに、同外相との間で外交関係開設のための外務大臣書簡の交換を行った。 ディリで見た衛星放送のNHKニュースは、東ティモールの国造りへの支援を約束し、未来志向の友好関係を発展させていきたいという川口順子外務大臣の談話を報じた。しかし川口大臣もNHKも両国の間で「過去」に何があったか一言も触れなかった。現地では年老いた戦争被害者たちが日本政府の誠実な対応を待ち望んでいる。独立東ティモールの最初の朝にやりきれない想いを抱えた。


 日本政府は国際刑事裁判所の条約を批准しない。過去の戦時性暴力の被害者に人道的対応を行なわない。外務省は政治家との癒着やケチな汚職に満ちているし、自国の領事館に駆け込んできた難民を当該国の官憲に引き渡してしまったりもしている。これだけそろうと日本人としてかなり肩身が狭い。ただあまりに不祥事が重なっているので東ティモールへの対応にも少しは配慮が見られるかと期待されたが、外務省の「失態」は東ティモールでも起きていた。
 
小泉総理の東ティモール訪問
 
 小泉総理は4月29日に数時間東ティモールを訪問した。
 現地では「日本軍占領による犠牲者のための正義に関する作業グループ」を構成する20の団体が小泉総理あての書簡を作成し、代表が日本政府連絡事務所に持参した。その書簡には、大戦中の日本軍占領が住民にもたらした被害に対し、重ねて謝罪と補償を求めること、日本は東ティモールにとって最大援助国になったが、日本軍が住民に対して行なった非人道的行為は援助で相殺されるものではないこと、来るべき独立の日に東ティモール政府と日本政府とが外交関係を樹立する際、「犠牲者のための正義」に言及することなどが書かれている。現地紙、「東ティモールの声」はこの「作業グループ」の書簡と日本の市民団体の要請(「季刊東ティモール第7号」23頁参照)を取り上げた。小泉訪問に関する同紙の報道は、福島大使の「東チモール便り〜国造りの現場から」第三話:国を担う礎(いしずえ) でも紹介されているが、両国の市民団体の要請が同じ紙面で取り上げられていることはふれていない。
 一方、アジアのメディア、例えば香港の衛星放送でアジア地域にカバーするスターTVは、日本の東ティモールに対する戦争責任に関して小泉総理が現地で何を言うか注目していた。なぜなら、今回の訪問は日本の総理大臣として初めての訪問であり、日本の総理が韓国や中国を訪問する際はその度に改めて戦争責任に関する発言が行なわれてきたからだ。同TVのディレクターは「東ティモールにおける戦争責任について小泉首相が何を言うかはアジア共通の関心だと思う」と語った。
 しかし、小泉首相は日本の戦争責任については一言も触れなかった。その代わり、PKOに派遣されている自衛隊の女性隊員と写真を取ったり、「いやー暑いね。こんなところで仕事ができるのは自衛隊の諸君しかいないな」などと語ったりして自衛隊派遣を正当化するためのパフォーマンスが目立った。

服部報道官の発言

 同日、現地では記者会見があった。そこで共同通信の東ティモール人記者が日本占領期の戦争被害者への補償について質問した。この質問に対して、服部報道官は「すでにアジア女性基金による事業がインドネシアに対して実施された。当時、東ティモールは、そのインドネシアの一部であった」と回答している。
 この発言には深刻な事実誤認がある。
 ひとつは東ティモールの帰属に関する日本政府の認識についてだが、このポイントは1980.年代から国会での質疑によって何度も確認されてきた。日本政府の基本的立場は「日本は帰属を判断する立場にない。帰属については国連事務総長が仲介するインドネシアとポルトガルの交渉で議論されており、日本はその交渉を見守る」というものだった。村山政権時に「東ティモール問題を考える議員懇談会」等の要請で日本が国連の「全東ティモール人包括対話(ポルトガル・インドネシア二国間交渉に接続された東ティモール人全党派会議)」に資金提供を開始すると、最後の部分は「・・・日本はその交渉を支援する」に変化した。外務省が編集している「世界の国々」という小冊子ではティモール島の西と東の境には「未画定・紛争地域国界」をあらわす点線が引かれてきた。ちなみにこの点線はモロッコとその占領下にある西サハラとの間にも引かれている。一方国連はインドネシアによる東ティモール併合を承認しておらず、国際司法裁判所は(ティモール・ギャップの豪イ共同開発条約に対するポルトガルの提訴の裁定において)東ティモールを「自決権の行使がはたされていない非自治地域」と規定した。
 もうひとつは日本の国家賠償とアジア女性基金についてである。戦後、日本がインドネシア(大戦中は連合国オランダの植民地)に対して同国が独立前に日本軍から受けた戦争被害に関して国家賠償を行なった際、東ティモールはポルトガルの海外州だった。日本とポルトガルの間の賠償交渉は中途で裁ち切れになっており、ポルトガル領ティモールに対する国家賠償はまだ行なわれていない。大戦中ポルトガルは中立国であったためサンフランシスコ講和条約の枠組みに入っておらず、東ティモールは日本の戦後賠償において未解決の事案になっている。またアジア女性基金についてはインドネシア支配下の東ティモールでは被害者との協議さえ開始されておらず、基金で建てられた「養老院」もない。上述したように、この間日本政府は「少なくとも法的には」インドネシアによる東ティモール併合を認めていなかったため、東ティモールにおける「基金」の運用に関してインドネシア政府は協議の対象となる「当事国」にはなりえなかったのである。
 報道官としては勉強不足もはなはだしいし、また、東ティモール人に向かって「当時、東ティモールは、そのインドネシアの一部であった」などと言ってしまえる無神経さも信じられない。その背後には、東ティモール併合を「事実上」容認し、インドネシア占領下の人権弾圧を黙殺してきた日本外交の基本姿勢、(「本音」)が潜んでいる。最大の援助を供与するのだからありがたく思えという傲慢さも見え隠れする。だが小国に対して大国の「本音」がたれ流しされる外交は稚拙で下品だ。日本政府が1975年以来の対東ティモール政策を見直さない限り、このような言説は今後とも再生産されるだろう。そして日本人の肩身はますます狭くなる。 [参考:古沢希代子「東ティモール見る外務官僚の横暴」『日本への心配と疑問』日本ジャーナリスト会議編、高文研、1995年]

江田五月議員の東ティモール訪問
5・18 戦争被害者たちとの会合

 独立式典をま近にひかえた5月18日、ディリ市内で、「東ティモール議員連盟」会長の江田五月参議院議員と日本の戦争被害者及びとその家族等関係者たちとの会合が行なわれた。江田議員は1986年に「東ティモール問題を考える議員懇談会」を立ち上げ、以後その議員活動を通じ一貫して東ティモール人の自決権を支援してきた。会合では、「作業グループ」に参加している人権団体「ヤヤサン・ハク」のジョゼ・ルイス・オリベイラさんが司会をつとめ、「女性戦犯法廷」調査チームのロザ・デ・ソウザさん(女性団体FOKUPERSスタッフ)も同席した。この会合の概要を江田議員のホームページ(http://www.eda-jp.com/)にアップされた同議員による報告から紹介したい。

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 15時から、大戦中にここを占領していた日本軍によって性的被害を受けたみなさんの話を聞かせていただきました。みなさん、お年寄りばかりで、ことばは現地のテトゥン語など。間にインドネシア語を挟み、2回通訳しながら話すので、なかなか大変です。

エレーナ・グテレスさん――「日本軍に力づくで連行され、『ミチコ』と呼ばれて将校の『妻』にさせられました。3人子どもが生まれ、2人が死にました。戦後、将校は帰国し、私は何の補償もなく、子どもと残されました。以来私は結婚していません。」

サラ・ダ・シルバさん――「19歳の頃でした。ディリから何人かと一緒にラウテンまで連行され、海岸の小さな部屋がたくさんある建物で、兵士の相手をさせられました。私もその後結婚していません。」

クリスティナ・ダ・コスタさん――「13歳の頃でした。脅迫されて将校の『妻』にさせられました。小さかったからか、子どもはできませんでした。結婚したことはありません。」

リム・ファ・インさん――「14歳の頃でした。アイレウのホテルで働いていたとき、『慰安婦は1年で交代すべし』との軍医の意見で、無理やり慰安婦の交代要員にさせられ、『ハナコ』と呼ばれて1年間働かされました。食べさせてはくれましたが、お金はくれません。その後結婚しましたが、1年で別れました。」

ミレーナ・チャンさん――「私の母は、日本軍にバザルテテから連行され、ディリの最高司令官の『妻』にさせられました。娘を差し出すことを拒んで、殺された人もいるそうです。父の名前は『アベ』というそうです。母は99年に亡くなりました。」

私が、お礼とお詫びを言い、帰ろうとすると、それまで黙っていた人が次々と、堰を切ったように話し始めました。皆、母や姉妹が、慰安婦や将校の女性にされたという話です。

「私のおばさんが12歳。私が9歳。二人で田植えをしていたとき、日本軍がおばさんを連行しました。何をされたかは、幼い私にもわかりました。おばさんは2ヶ月で帰されましたが、汚された尊厳はまだ回復されていません。」

クレメンティノ・ゴンサカさん――「『サンペイ』と呼ばれ、宣撫班で働かされ、命ぜられるつど、4人の女性を将校たちの兵舎に連行し、そこで別の者に引き渡しました。私と同じように女性の連行を命ぜられ、連れてくるのが遅いといって殺された者もいます。」 セバスティアナ・グスマンさん――「母は『ササキ』という将校の『妻』にさせられ、私はその子どもです。母はインドネシア軍の侵攻のとき死にました。」

スハルト時代に、インドネシア人の弁護士が補償金が取れるからと言って、登録料を持ち逃げした事件もあったそうです。傷つけられた人間の尊厳は、簡単に回復できません。個別の被害の証明は難しくても、この人たちが訴えているような事態があったことは、疑う余地がありません。日本がこれに目をつぶって恩着せがましく援助をしても、日本が尊敬されることにはなりません。日本は、重い課題を背負っています。誠実な対応が何より大切です。

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 サラ・ダ・シルバさんが連れていかれたラウテンは東部における日本軍の拠点だった。ラウテンに慰安所が開設されたことは台湾歩兵第二連隊第十中隊の『栄光の十中隊』に記述されている。   ミレーナ・チャンさんはその司令官が東ティモールを離れてから生まれました。彼女の母はその父親から「薬を飲んで堕してしまえ」と言われたそうだ。
 おばが日本軍に連行されたという女性は次のように語った。「・・日本軍に陵辱された女性は汚れた布のようなものです。洗う必要があります。東ティモールの伝統では、人が死ぬ時その人の名誉は保たれなければならない。東ティモールでは、もし人の物を盗んだらそれは返されなければならない。私はこれだけは、東ティモール人の尊厳についてだけは、お話したかった。」
 クレメンティーナ・ゴンサカさんによると、女性を連れてこいと命令した上官は「オオタ」という。女性を連れてくるのが遅いといわれて殺された人の名前は「アフォンソ」だ。アフォンソと他のふたりは命令を受けて女性を村から山の中の司令部に女性を連れていったが、途中で女性たちが疲れたというので少し休ませたそうだ。そして彼らが司令部に到着したら司令官に「もう遅い」といわれ、アフォンソは撃たれた。
 江田議員の報告には出てこないが、ある女性は、「母は日本軍にレイプされ、熱が出て、病気になり、死んでいったのに、その後、まわりの人たちからお前たちは日本軍の手先だったと蔑まれた。日本政府はこういったことを理解していない。自分たちは失われた尊厳を取り戻したいのだ」と訴えた。  
 江田議員が所属する民主党をはじめ野党三党は今国会に「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を共同提出し、7月23日の参議院内閣委員会で主旨説明と質疑が行なわれた。しかし現状では継続審議の可能性は低く、廃案となる見込みが濃厚である。★


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