<連載>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制〈第3回〉

古沢希代子


 これから学校で使う歴史教科書をどのように編纂したらよいのか。東ティモール大学の学長が頭を抱えている。歴史の節目で外国勢力の干渉を受け、引き裂かれ対立させられてきた東ティモール人。今後国づくりの中枢を担っていく政治指導者たちは、過去におけるそれぞれの過ちを認め和解する勇気はあるだろうか。また、彼らは日本の自衛隊を東ティモールに招き入れた後、かつての日本軍が犯した犯罪に〈正義〉を求める年老いた被害者たちの声にどう応えるのだろうか。21世紀に独立する東ティモールに期待するのは、これまでとは違う〈歴史〉の書かれ方、これまでとは違う〈正義〉のあり方だ。「政治的に正しい〈歴史〉」や「政治的に正しい〈正義〉」は権力者の論理でしかない。


日本軍によるポルトガル領ティモール占領が住民にもたらした惨禍として忘れてはならないことはまだある。ティモール島から日本軍が撤退しポルトガル行政が復帰すると、かつての日本軍協力者が制裁・報復の対象となったことである。そのことを改めて思いださせてくれたのはヴェロニカ・マイヤさんだ。

◆ヴェロニカ・マイヤさんの話

 ヴェロニカ・マイヤさんは、1995年8月、夫のアントニオ・マイヤさんとともに来日し、東京で開催された「戦後補償国際フォーラム'95」において日本軍の占領実態に関する証言を行なった。ふたりの証言はすでに同フォーラムの資料集や呉YWCA発行の『東ティモール通信』第37号に収録されている。ご夫妻は当時オーストラリアのダーウィンに住んでいた。マイヤ夫妻が来日した時、私は持病の血管炎・下腿潰瘍が悪化して入院中だった。大戦中主計将校としてポルトガル領ティモールにいた貴島正道氏によると、私の病気の症状はティモール島で多くの日本軍兵士を苦しめた熱帯性潰瘍そっくりだと言う。マイヤ夫妻は会場での証言をおえると私を見舞ってくれた。ヴェロニカさんは「東ティモールにはその病気に効く伝統的な塗り薬がある。東ティモールに帰れさえすれば」と言った。本当に残念そうだった。
 それから6年たった今年の8月、私はディリでヴェロニカさんに再会した。ヴェロニカさんはもともとタイスという東ティモールの伝統的織物の第一級の織リ手である。現在彼女はティモール・エイドというNGOでタイスの製作と織り手の女性たちの指導に励んでいる。私たちはヴェロニカさんから改めて50年前の話を聞くことができた。 
 「私が初めて斬首を見たのは、ポスト・コバリマ(コバリマ県のポルトガル行政事務所所在地)に近いファトゥルリクでだった。日本軍に首をはねられたのはポルトガル人の役人だった。彼らははねた首を棒にさして掲げた。そしてその役人の妻と娘たちを裸にしてフォホレン村へ連れて行った。彼女たちは軍のバラックに連れていかれた。
彼女たちはそこでレイプされたのではないか。
 日本軍は若い娘たちを集め、軍の駐屯地に連れて行った。毎晩どの娘も連れて行かれた。そのために精神や身体を病んで死んだ娘もいる。将校クラスになると自分だけの女性を囲うこともあった。ズマライやさらにはインドネシアまで連れて行かれた女性たちもいた。その結果、多くの女性が日本人の子供を身ごもり、私の村では父親が日本人の子どもが3、4人は生まれた。」
 ヴェロニカさんの村に日本軍がやってくると、フォホレン村の彼女の家には日本の軍人たちが住むようになった。
それは3年間続いた。ヴェロニカさんの叔父のひとりは日本軍に命じられて女性を差し出し、そのことで戦後アタウロ島(監獄島)に送られた(しかし別の叔父は日本軍の軍人に殺された)。また、リウライ(伝統的首長)だったヴェロニカさんの祖父もアタウロ島に送られ、そこで亡くなっている。彼女の祖父は「日本軍占領によって財産を失った」ポルトガルの軍人に訴えられた。なぜ祖父の責任が問われたのか経緯は不明だが、祖父はその軍人の損失を弁償させられた上に監獄に送られた。ヴェロニカさんによると、彼女の祖父はすすんで日本軍におもねる人物ではなく、3人のオーストラリア人兵士をかくまったこともあったという。その祖父の兄弟の一人も日本軍に協力させられ、戦後裁判で終身刑を言い渡されて同じようにアタウロ島で服役した。1975年にインドネシア軍が侵攻すると彼は釈放された。当時のアタウロ島の状況は劣悪で恣意的懲罰も横行していた。
 日本軍はリウライ/ラジャ(注:どちらも伝統的首長の呼称。地域によって使われ方が異なる)や村長を通じて人々に作業をさせた。リウライ/ラジャや村長に命じて女性を集めさせた。もし彼らが日本軍の命令にそむいたならば・・・。 
 以下は、ヴェロニカさんに会った後にコバリマ県のスアイを訪れたジーン・イングリスのレポートである。

◆マリアノ・アマラルさんの話

 マリアノ・アマラルさんは、18歳の時、ラバライ(Labalai)の日本人に二人の女性を渡すように村長から命令された(そのひとりの女性はまだ生きている)。ラバライには小さな部屋に仕切られた一軒の家があり、そこには多くの女性がいた。そのような家はデボス(Debos)にもあった。彼は、ある日女性たちが村長の前で整列させられ、ある女性たちがある場所へ行くように命じられたことを記憶している。
 マリアノ・アマラルさんによると女性たちを守ろうとしたラジャがふたりいた。ひとりはスアイ・ロロのラジャ・マルセロで、もうひとりはラジャ・ヘルモスである。ふたりとも縛られてボボナロに連行され、そこで彼らは殺害された。ラジャ・ヘルモスは4発も銃弾をくらった。
 人々は道路建設のために労働を提供することを強いられた。ある日、アマラルさんを含めて大勢の人が集められた。日本軍は道を切り開くために人々にいっせいに草をふみつけるよう命じた。日本軍は人々を殴ることで言うことをきかせた。ボボナロまで道を通すというのに人々が持っていた道具は棒だけだった。その棒で山の岩も砕かなければならなかった。
 「日本軍は懲罰のために死ぬまで殴った。文書の配達を命令されたある男がその文書を紛失した時、彼は殴られた。まず気を失うまで殴り、気を失うと水をかけ、彼の手足がピクッと動いたらまた殴る。そして彼は火にかけられた。火の中で彼の手足が少しでも動くと、すでに炎につつまれている彼をまた殴った。」日本軍の進撃によってオーストラリア兵が飛行機で避難する時、何人か取り残された者が出た。アマラルさんは彼らをティモールの伝統的な小舟に乗せ、水を食糧を与えた。しかし波が高かったため三日後に彼らは戻ってきてしまった。兵士たちはその後どこかへ逃走した。日本軍はアマラルさんがオーストラリア兵を助けたことを気がつかなかった。 
 戦後ポルトガル人が戻ってくると、村長たちは日本軍に対する協力をめぐって互いに非難しあった。(2001年9月6日談)
 さて、「日本軍性奴隷制を裁く〈女性国際戦犯法廷〉」の最終判決は再度延期され、現在のところ12月3日に予定されている。昨年12月の法廷では日本の国家としての責任や天皇の責任については判断が示されたが、訴追された個々の軍人に対する判決は出されていない。この最終判決に東ティモール人の被害者がひとりと「検事」がひとり招待されることになった。ハーグでも各国検事団はプレゼンテーションを行なう。ビデオによるプレゼンテーションも求められている。調査チームは9月にディリでミーティングを持ち、ハーグに向けた準備を開始した。

◆アボたちとの現場検証(その1)

 実証すべきポイントは山ほどある。しかし時間は限られている。しかも東ティモールのチームメンバーはそれぞれの日常業務で超多忙だ。何に優先順位を置くべきか。調査の基本で何か忘れていることはないか。そうだ現場だ。現場に行ってない。例えば東京で証言を行なったアボたちの話を犯行現場で聞いてみたら、状況はよりクリアになるかもしれない。法廷に提出した「証拠」の精度をあげよう。両国の調査チームのメンバーがアボたちといっしょに現場検証を行なうこと。これは、昨秋、日本と東ティモールで離ればなれの私たちが電話で連絡を取りあいながら調査を開始した頃には考えもしなかったことだ。しかしアボたちにはつらい作業になるかもしれない。どうしよう。とにかくまずアボたちと会って、きちんと説明して、その上で判断を仰ごう。いままでだってひとつひとつも話しあってやってきたのだ。というわけで、私たちはアボ・マルタとアボ・エスメラルダと会うために東ティモールの西の端に向かった。
 マリアナの町につくと私たちはまずアボ・マルタを訪ねた。私たちが到着した時アボは畑にいた。私たちに気がつくとアボはゆっくり近づいてきて、顔をあわせるといつものように一人ずつをしっかり抱擁した。アボは昨晩足がかゆくて眠れなかったと言った。足がかゆいということは誰か客が来るということだ。こんなにかゆいんだから普通じゃない。いったい誰が訪ねて来るんだろうと思ったそうだ。まいったアボ、大正解です。それに私たちが持ってきた相談事は「ハーグ」なのだ。
 アボ・マルタは私たちと現場検証するという提案に即OKを出した。アボが支度をする間、私たちは庭につくられた台所スペースに腰を下ろした。そこには洗ったお皿をたてて置いておけるようにできた竹製の簡素な食器棚があった。清潔な台所だった。鶏もたくさんいた。驚いたことにここの鶏は人なつこい。「人なつこい鶏」と言われても想像がつかないだろうが、ようするにここの鶏は私たちの身体に飛び乗ってくるのである。私は思わず悲鳴をあげたが「その時マリア少しも騒がず(注:「法廷」で検事役をつとめた東ティモール法律家協会のマリア・ナテルシアさん)」で、彼女はとびついてきた鶏をそっと手の甲にのせると、静かに放してやった。まるで手乗り文鳥を扱うみたいだった。
 アボの身支度が終わり、私たちはアボが連れていかれたマロボの慰安所跡に向かうことになった。アボは、マロボはとても遠いのでいっしょに暮らしている息子さんにことわってから行きたい、できればつきそってもらいたいと言った。そこで私たちはマリアナの町を離れて山へ向かう登り勾配の道の途中で車を止め、そのあたりの斜面で仕事をしている息子さんをさがした。道案内の娘さんが名前を呼ぶと、まず子どもがあらわれ、その子が父親、つまりアボの息子を呼びにいった。まもなく遠くに息子さんの姿が見え、しばらくすると彼が息を切らしてあがってきた。仕事の手を止めてしまったこをを詫びながら、同行をお願いすると、快諾してくれた。
 マロボへの車中、ディリから持ってきたお弁当のパンとチーズを皆で食べながら、息子さんも交えていろいろな話をした。「アボはハーグに行けないか」と聞くと「ハーグってどんなところだ」と質問される。オランダの食べ物の話になったところで、マロボの慰安所では食べ物はどうしていたのかとアボに尋ねた。アボは東京で繰り返し「食べ物も与えられなかった。食べ物は家族が運んでくれるものだけだった」と語っていたからだ。こうやって実際にたどってみるとアボの村からマロボまではかなり距離がある。し
かもかなり険しい山道だ。いちいち食事を運べるのだろうか。アボの答えは明快だった。家族が運んでくれたのは芋類やトウモロコシで女性たちはそれを自分で調理して食べていたそうだ。なるほど。しかし、関心している場合ではない。昼は外で働かされ、夜は性的サービスを強要されたアボたちに食糧も与えないとはあまりにひどい仕打ちである(連載第1回を参照)。
 さて、アボ・マルタが東京で話してくれたように、慰安所の近くには確かに温泉があった。軍関係の文書には、日本軍の将校たちがマロボを温泉と会議の場所として重用していたことが書かれている。書かれていないのは、温泉と会議の他に性的「慰安」が存在したこと、そしてその慰安は東ティモール人女性の人権蹂躙の上に成立していたことである。
 マロボの温泉はポルトガル人がつくった施設で大きなプールのようだった。清掃されていないので青藻が繁殖していたが、湯量も充分だった。そしてそこから道なりに少し上がったところにアボたちが収容された慰安所の跡があった。アボが東京で話してくれたとおり、すでに屋根は落ちていたが、ポルトガル時代につくられた石造りの建物の基礎と外壁は残っていた。アボ・マルタはその建物の前で、そしてアボも含めて4名の女性が入れられていた小部屋に立って私たちに話をしてくれた。その内容は次号で。12月のハーグにはアボ・マルタが行くことになった。★


カンパのお願い


 東ティモール・日本合同調査チームは9月にディリのFOKUPERS(東ティモール女性連絡協議会)事務所で会合を持ち、ハーグ(「女性法廷」最終判決)に向けての戦略を検討しました。その結果、サバイバー代表としてアボ・マルタを、また「検事」としてマリア・ナテルシアをハーグに派遣することを決定しました。しかし、ハーグでマリアは関係者との打ちあわせに忙殺されるでしょうから、アボ・マルタのつきそいが必要です。私たちはFOKUPERSのナタリアがアボ・マルタのつきそいに適任だと思い、ナタリアの同意を得て彼女をハーグに派遣したいと考えています。
 しかし問題はナタリアを派遣することにかかる諸経費(約30万円)です。このようなご時世に誠に恐縮なのですが、もし私たちのプロジェクトにご賛同いただけるようでしたら、以下の口座にカンパをお送りいただけるとありがたいです。

郵便振替口座:大阪東ティモール協会

00940-6-307692

「ハーグ支援」と明記してください。



 これまでいただいたカンパはチームの追加調査に使わせていただいております。ありがとうございます。ハーグで上映する VTRプログラムは東京法廷に引き続き日本チームが製作します。ハーグのための追加調査はすでに私たちが「法廷」に提出した「証拠」の精度を上げることを目標に行なわれています。
 男たちはどこでも正義を後まわしにするようです。東ティモールのラモス・ホルタ暫定外務大臣は「50年前のファイルをふたたび開ける気はない」と繰り返し、日本政府は大戦中に日本軍が与えた被害に一切言及しないまま東ティモールに自衛隊を派遣しようとしています。
 皆さんのご支援をどうかよろしくお願いします。


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