著作権・大阪東ティモール協会

<連載>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第2回)

古沢希代子


 東ティモールで調査チームのメンバーと聞き取りをしていると、彼女たちに近しい人物の知られざる事実が突然顔を出すことがある。日本軍は東ティモール全土に展開し、それはほんの半世紀前のことなのだ。現地を訪れる日本人が出会った東ティモール人から彼らが受けた戦争被害を訴えられることがなかったとしても、また、その時代の体験がない外交官志望の若者が「日本軍は稲作を教えてくれたと祖父は言っています」と言ってくれたとしても、私たちの思考はそこで停止してしまってよいのだろうか。



 日本軍協力者として台湾歩兵第一連隊史に登場するリウライ(伝統的首長)タロベレの息子さんの家はマリアナにある。話を聞かせてもらってると国連PKFの戦車がすぐ近くを何度も通っていく。インドネシアとの国境は目と鼻の先だ。アボ・マルタやアボ・エスメラルダが日本軍に性的奉仕を強要されたマリアナやボボナロは、日本軍の戦略上どのような意味をもつ地域だったのか。(アボはテトゥン語でおばあさん・おじいさん)

◆日本軍版コモド作戦−特務機関による「不安定化工作」

 平松鷹史著『郷土部隊奮戦史』(大分合同新聞社)等によると、日本軍は1942年 2月にポルトガル領ティモールに上陸した後、オランダ領ティモールとの国境に近い、エルメラ、アイリウ、ボボナロなどの険しい山岳地帯に潜んで抵抗線をはる豪蘭軍にかなり手を焼いていた。「ポルトガル領チモールは英国と同盟関係にあり、日本軍の情報を絶えずポートダーウィンに連絡、連合軍爆撃隊はこの情報によって三時間後には日本軍上空に現れるといった状況であった。また、チモール奥地に蟠踞する豪蘭軍ゲリラは、しばしばデリー周辺に出没、日本軍の警備線をおびやかした」(同書 708頁)。同年9月5日、大分で編成された歩兵第四十七連隊の第二大隊はディリに上陸し、第三十八師団の土居部隊と交代した。同連隊を指揮する柳勇大佐は9月中旬までに情勢分析を行ない、当面の警備・討伐戦略を策定した。
 柳の戦略は、部隊による武力討伐と特務機関による「住民工作」を組みあわせて日本軍の勢力範囲を北から南へ徐々に拡大し、敗走する豪蘭軍を南海岸から押し出すとともに、南海岸を確保して敵の侵入と補給を絶つこと、そして中立国ポルトガルから統治の実権を奪うことだった。
 当時、国境地帯の住民工作に従事したのは「鳳機関」という海軍系の特務機関である。ポルトガル領ティモールに駐留した部隊の記録に散見するこの鳳機関とは何か。前掲書によると鳳機関は「満州からシナにかけて、特殊工作に敏腕をふるった満州浪人を首領と仰ぐ二十余人の熱血漢(いずれも民間人)で組織された」(716頁)とある。ティモールにおける鳳機関の任務は、現地住民にポルトガル政庁への反乱を起こさせて政庁から日本軍に保護要請を出させること、また、住民と豪蘭軍を対立させることであった。
 「・・この現地民軍の反乱は決して突然起こったものではない。背後で鳳機関の活発な特殊工作が行われたのである。柳は地形、民情とも皆目不明のポ領チモールにおいて、ポルトガル官憲を押さえ、かつ山岳地帯に侵入した豪蘭軍を追い払うためには、現地民軍の手を借りることが最も効果的であると判断した。鳳機関はこの意を体し、ひそかに住民の中に潜入した。ポルトガル語、オランダ語、現地語などを自由に操る鳳機関員は顔にヤシ油を塗り、住民にふんしてチモールの奥地深く入り、現地民指導者を宣撫しつつ、反乱軍を組織、指導していたわけである。
 現地民反乱軍にひそかに武器や弾薬が供与され、鳳機関の指導を受けた現地民軍は組織的戦闘をやりながら逐次、豪蘭軍やポルトガル人を山岳地帯から平地に追い出してきたのである。そこに待ちかまえた柳の討伐隊が豪蘭軍は徹底的にこれを攻撃、ポルトガル人はこれを保護し、敵撃滅とポルトガル領チモールの確保という両面作戦をみごと成功させたものであった」(前掲書714頁)。その結果、「十月中旬、ポルトガル領チモールの中央山岳地帯に不思議な現象が起こった。ポルトガル軍の討伐にあい、中央山岳地帯に潜入した住民軍がにわかに勢力をもり返し、その数数千数百人に達した。彼らは手に手に小銃を持ち、トキの声をあげてポルトガル人の屯所を襲撃、その首をはねた」(同書711頁)[下線部は古沢]。
  長崎大学のジェフリー・ガン教授の著書、Timor Loro Sae 500 Years, Livro Do Orienteによると、鳳機関の工作は柳の連隊が上陸する前に開始されていたと思われる。1942年8月31日、ディリ南方のアイリウで「住民反乱」が発生し、5人のポルトガル人兵士と多数の行政官と聖職者が殺害された。日本側はその事件を「オランダ領ティモールの住民集団がポルトガル人から受けた虐待への遺恨をはらすために日本軍への協力を志願した行為」として正当化した(米軍が入手した日本の極秘外交通信文を要約した「マジック文書」から)。しかし事実は違い、Timor: A People Betrayedの著者であるジェームス・ダンによると、その事件を引き起こしたのは悪名高い「ブラックコラム(黒隊)」という西ティモール人の集団で、彼らは日本人に雇われ、武器を供給されていた。
 このような西ティモール人の利用とは別に、東ティモールには日本軍に利用されやすいさまざまな対立が存在していた。1942年の8月にはマウビセでもポルトガル人への反乱が発生していた。なぜこの反乱は起きたのか。まず、カトリック教徒のアイナロやサメの人々と非カトリックのマウビセの人々との争いに起因しているという説がある。マウビセでポルトガル人が襲われたのは、ポルトガルがアイナロやサメの人々を結集しマウビセの人々の独立を粉砕しようとしたのが原因だとする。また、このマウビセでの反乱は仇敵であるスロ(アイレウ)のリウライ(伝統的首長)への報復だったする説もある。スロのリウライ、ドン・アレイシオ・コルテ・レアルは、1912年にサメ(マヌファヒ)で発生したリウライ、ドン・ボアベントゥーラの反乱で、ポルトガル政庁側についた「裏切り者」のリウライ、ナイ・カウの甥であった。ドン・アレイシオとその息子と従者たちは、「ポルトガルへの忠誠を貫いた」ということで死後ポルトガルの国家栄誉賞を授与されるが、彼らは1943年5月までティモールの山中で「日本人に指揮された部隊」と死闘を展開することになった。(Timor Loro Sae 500 Years, pp.225)
 結局、1942年11月中旬、ポルトガル総督は柳に会見を申し込み、ティモール島のポルトガル人を「現地民軍」の攻撃から保護してほしいとの要請を行なった。日本軍は、その条件として、日本軍に関する情報を豪蘭軍に提供しないこと、ポルトガル人は日本軍の指示する土地で集団居住すること、一切の武器を日本軍に引き渡すこと等を提示し、ポルトガルは最終的にはこれらの条件をのまざるをえなかった。
 なぜ日本軍はポルトガルを武力で制圧しなかったのか。それには明確な理由がある。ポルトガルは当時中立国であり、ポルトガルの首都リスボンで日本は連合国側の情報収集を行なっていた。また同盟国ドイツもポルトガルを通じて食糧その他の必要物資を入手していた。ポルトガルの扱いには細心の注意が必要だったのである(平松鷹史、前掲書、713頁)。

◆リウライ・タロベレの息子、アルベルト・ベルディアスさんの話

 台湾歩兵第一連隊の連隊史『軍旗はためくところ』にはこんな記述がある。
 「ボボナロ地区は、ここを中心に15地区に分かれ、各地区毎に小さいクチルラジャ(小土侯)が存在し、それらを統括するのがブッサルラジャ(大土侯)で名をタロロエ(アボ・マルタや息子さんによるとタロベレが正しい)といった。この人物は体全体が赤黒く、眼がギョロリと光っている堂々たる体格。少々の問題には動じない。
 ある日、道路作業員を差し出すように伝えると、十数キロの遠隔地から15地区の小土侯達が、翌朝大土侯の指示を受けるため集合した。大土侯の命に服従せぬ者は、即刻打ち首の刑というほど命令は絶対的なものである。・・・椰子の樹と茅葺きの兵舎で、軍事訓練、警備、自給自足のための食糧増産、道路作業、作戦訓練等、毎日が多忙の最前線生活であった。・・・
 昭和20年6月12日、この土地とも別れることになった。親しくなった大土侯タロロエをはじめ、小土侯カメラオ、その他沢山の小土侯や住民、大土侯の娘カイブチン、カパラカンポン(村長)のマデイカ等の見送りを受け、ボボナロを出発、現住民の目には涙さえ光り、我々も目頭が熱くなる思いがした」(同書472-473頁)。
 もしタロベレがそれほど日本軍と近かったのなら、軍隊慰安所設置にも関与している可能性があるかもしれない。息子さんが何か知っているかもしれないと思い、その家を訪ねた。しかし、息子のベルディアスさんから語られたのは別の事実だった。
 「確かに父はこの地方のリウライだった。しかしリウライ・タロベレが日本軍に協力したということはありえない。なぜなら、リウライ・タロベレは日本軍に追われて山に逃げ、アイナロの山中でボンベラ(東ティモール人の日本軍協力者)に殺されたからだ。1943年のことだ。当時、18歳だった自分も父といっしょに山に逃げたのでよく憶えている。父の死後、自分は村へ戻り、日本軍の監視の下、きつい労役に従事した。慰安所の存在は知っていたが協力はさせられなかった。ある時ひとりのボンベラから日本軍が自分のことも殺そうとしていると告げられたので、村を離れ、マウバラまで逃げた。戦後、私は父を殺害したマウ・アティとバウ・マキンをディリの裁判所に訴えた。彼らは有罪となり、アタウロ島に送られ、そこで死んだ。日本軍の協力者として連隊史に書かれている人物は、兄/弟である可能性がある。彼は確かに日本軍に協力した。彼の名前は、マヌ・モロ・カイ・ラランだ。彼は亡くなっているが息子は生きている。妹のカイブチンはすでに亡くなっている」。(2001年1月7日談)
 この話の真偽は、ポルトガル政庁の裁判記録を見れば決着がつくだろうが、もし真実ならば、日本軍に協力的ではないリウライが消された事例のひとつになるだろう。余談になるが、日本軍に協力したマヌ・モロ・カイ・ラランの息子は、調査チームのマリア・ナテルシアがマリアナで中学・高校に通っていた時の同級生だった。1999年に反独立派の民兵組織に参加し今は西ティモールにいるそうだ。日本軍協力者の息子がインドネシア軍の協力者になったのか、戦争は人を引き裂く、戦争は本当にいやだと私たちは思った。日本軍の慰安婦にされたアボ・マルタは手厳しい。「連隊史に書かれているその人たちが日本軍が退去する時涙を流して見送ったのは、日本軍がいなくなると彼を恨む村人に報復されるかもしれないので怖かったからではないか」とピシャっと言い切った。

◆カルリーリヨ・シャビエルさんの話

 カルリーリヨ・シャビエル(72歳)さんはボボナロ、マリ・ライ村の出身だ。 祖父(ジョアン・ビラ・モレラ)はリウライ、父(アルベルテ・ビンセント)は村長だった。以下はシャビエルさんの姉が日本の軍人の現地妻にされた経緯である。
 姉の名前はソイ・マオという。ある日、銃を持った日本兵とポンベラふたりが父の家に来て、姉を差出せといった。ポンベラは村の者で、名前は、それぞれアサベレとマウレスという。姉は日本兵たちが来る前に屋根裏に隠れて一日中出ようとしなかったが、日本兵たちは姉が現れるなで去ろうとしなかった。結局、空腹に耐えられず、姉は下りてきた。その間父親はリウライである祖父に相談にいったが、祖父の答えは「しかたない」だった。帰ってきた父親は娘を差出すぐらいなら死んだ方がましだと言った。するとふたりのポンベラは父親の腕をしめあげながら「どっちにしても死ぬんだぞ」と脅した。姉は東ティモールの文化にはこんなやり方はないといって非常に怒った。しかし、行くしかなかった。
 姉が仕えさせられたのは、ゴメス・マスミダール(マシンミダール:砂糖という意味のテトゥン語)と呼ばれていた軍人で制服にはふたつ星がついていた。私は時々姉の「家」に行った。ある時、ゴメスに「お前ももう大きいのだから日本軍のために働け」といわれ、TBO(軍人の小間使い)をやるようになった。木を切ったり(薪をつくったり)、便所そうじや村々への伝令などといった仕事をさせられた。マロボ川に橋をかけたりする仕事もさせられた。こういった仕事の間、お金も食事も出なかった。
 日本の軍人とリウライたちの食事会が催されたことがあった。軍人たちは「日本軍のために働いた者には後で金を払う」と言った。
 日本人がティモール人を殺す場面も何度か見た。しかし、他人の話はしたくない。自分が責任を持って言えることだけをしゃべりたい。自分の親戚には女性を集めにいかされた者もいる。(2001年3月25日談)

◆マリア・ロサ・フェルナンダ・ノロニャさんの話

 マリア・ロサ・フェルナンダ・ノロニャさんは、ボボナロ県出身で現在70才ぐらいの女性である。豊かな髪をふっくらと結い上げるとインドネシア人のように見える。
 「私が12才くらいのときに日本が東ティモールを占領した。その時、たくさんの女性が日本兵に仕えるために捕らえられた。日本軍はリウライや村長を脅して女性たちを集めるように命じた。村長はもし私が行かなければ日本兵は両親を殺すだろうと言い、両親も私が行くことに同意せざるを得なかった。私は彼等がたくさんの人間を犬のように殺したのをいまだに覚えている。男たちは白人のスパイだといわれて殺された。
 私たちは日本兵の相手をさせられる前に性病検査を受けさせられた。ある者は病気だったため帰されましたが、異状のない者は留め置かれた。私は器量が良いと思われたらしく、司令官のため特別に残された。私は彼らが家族を殺すかもしれないと思い、とても怖った。私はOHARAとTANIYAMAという名前のふたりの司令官の相手をすることになった。当時私の胸はまだ小さく、生理もなかった。
 最初、私たちはボボナロの町で中国人が経営していた「ノ・アイレウ」という店の前の家に居た。そこにOHARAともうひとりの将校が住んでいた。その将校にはカイラコ出身の女性が仕えさせられていた。その女性はその将校の子どもを身ごもった。ふたりの司令官は私たちを「ノナ・マニス」(Nona Manis:マレー語で「かわいいお嬢さん」の意味)とか「ハニー」( Honey)と呼んだ。私は3ヵ月間何の報酬もなく仕えさせられた。OHARAがボボナロを離れたので自分の家に戻ると、今度はTANIYAMAがやってきて、両親を脅し住みついてしまった。私は自分の家でTANIYAMAに妻のように扱われたが、両親はどうすることもできなかった。TANIYAMA の制服の肩には星がふたつついていた。
 日本軍は、ボボナロのトゥドゥイル地区に、細長い家を作り、女性たちをその家に移した。ボボナロには将校用と兵士用のふたつの慰安所があった。女性たちはスアイ、ズマライ、ファトメアンからも集められ、三ヶ月毎に入れかえがあった。」
 この聞き取りはFOKUPERS(東ティモール女性連絡協議会)の事務所で行われ、そこにはFOKUPERSのボランティアスタッフで調査チームのナタリアが同席していた。ナタリアもボボナロ出身である。この時、アボ・マリアはナタリアに向かって重大な事実を打ち明けた。アボ・マリアとナタリアの母親は親戚だ。アボ・マリアは現在ポルトガルにいるナタリアの母親も日本軍の「慰安婦」にされたのだと告げたのだ。ナタリアの祖父(母親の父親)は村長だった。彼は日本軍に脅されて女性を集めなければならなかった。祖父の家にはSAKAIという将校が来て住みついた。ナタリアの母親が SAKAIの相手をさせられた。ナタリアの姉の父親はそのSAKAIだった。ナタリアはそれらの事実を知らなかった。彼女の表情は凍りつき目には涙があふれた。
 アボ・マリアは、自分の人生で一番つらかったことは、まだ子どもだった頃に強姦されたこと、連れて行かれるのが嫌で木にのぼって逃げようとしたのに連れ戻されるてしまったことだと語った。数年前、インドネシア兵補協会の東ティモール支部の人たちに同じ話をしたが、その後何も起こってない、被害者に返されるものは何もないと、私を見据え、吐き捨てるように言った。★

(次号に続く)


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