社会問題

元ファリンティル兵士と政治的不安定
国連は彼らを統合することに失敗したのではないか
ON LINE Opinion, 2 September 2003
元UNTAET政務官 エドワード・リース(注1)

翻訳 松野明久

元ファリンティル兵士の社会復帰は、紛争後の東ティモールの大きな課題だ。今日の政治的不安の原因のひとつは元ファリンティル兵士たちの不満にある。UNTAETで政治のモニタリングをしていたエドワード・リースの次の投稿は、国連の失敗を厳しく指摘していて興味深い。若干解説が必要と思い、[  ]に説明を補った。また、原文がこなれていない文体なので、部分的に意訳をしている。 

東ティモールは、生まれてまもない民主主義の基礎がためを行うという大きな課題に直面している。 問題は、抵抗運動のベテランたち[元ファリンティル兵士と地下活動家の両方を含む]のあいだの亀裂が、新しい国家の治安機構の設立とからんで表面化してしまっているということだ。実際、ベテランたちは、村から首都にいたる政治のあらゆるレベルにおいて、強い支配力を行使している。
 この24年間のインドネシアに対する抵抗運動(ゲリラと都市活動家の両方を含む)をプロフェッショナルな軍と警察に転換させる役割をになったのは国連と国際社会であったが、そのことの裏返しとして、東ティモール自身はこの問題にきちんと対応する能力を自ら育成することができなかった。
 1999年11月から2002年5月まで東ティモールを暫定統治したのは UNTAETだ。ベテランの問題はそれがスタートした当初から、さまざまな困難があった。UNTAETは、ファリンティルゲリラの動員解除(復員)、地下組織との関係、東ティモール国防軍と警察の設立に関する決定において、すでに初期の段階からいくつもの過ちをおかしたといえる。
 国際的には成功と称賛されているものの、UNTAETは実際には負の遺産を残している。それが今、東ティモールの生まれてまもない民主主義を揺るがしており、中期的には民主主義が失敗に終わる可能性すら生みだしている。
 UNTAETの直面した問題のひとつは、ファリンティルの地位だった。24年間インドネシアに対して闘ってきた、明白に正統性をもったこの軍隊を、多国籍軍(Interfet)は武装解除を試みるといった過ちをおかした。一方、UNTAETはこの問題を避けようとし、また援助国はこの軍隊を「正統性がない」として援助しようとしなかった。その結果、ファリンティルは徐々に周縁においやられ、軍内部の規律もゆらいで、治安の脅威となりはじめた。2000年6月23日、シャナナ・グスマォンは、軍が「ほとんど反乱をおこす一歩手前」にあると述べた。かくて、ファリンティルを、あまりきちんとしていないゲリラ運動から正統性をもったプロフェッショナルな軍隊へと再建するプロセスがはじまったのだ。

■治安安定の転換点

 2001年2月1日、ファリンティルは解散し、「ファリンティル・東ティモール国防軍」(F-FDTL)が正式に設立された。650人の元ファリンティル兵士が国防軍の最初の大隊に吸収され、それによって同時に1300人以上の元ゲリラがそこから排除された。これは、ファリンティルメンバーはみな国防軍に入れると単純に考えていた者たちにショックを与えた。この、誰が国防軍の最初の大隊に入れるのか、そして誰がIOM(国際移住機構)、USAID、世銀が実施する「ファリンティル再投入プログラム」(FRAP)のもとで動員解除されるのかが決まっていったUNTAET主導のプロセスこそ、東ティモールの治安状況の鍵となる転換点だった。そしてまさしく、それは鍵となる過ちでもあったのだ。
 2000年後半、UNTAETとファリンティル司令部は、国防軍への選抜プロセスをファリンティルの内部事項とすることで一致した。つまり、この時点で、UNTAETは選抜が閉じられた主観的な性質をもつことになったことに暗黙裏にしたがったことになる。UNTAETは、東ティモール社会との橋渡しとして、現在のシャナナ大統領(元ファリンティル司令官)にあまりにも依存していたため、それに抵抗できなかった。そして重要なことに、UNTAETは抵抗もしなければ、フレテリン指導部に相談もしなかった。今、憲法と国防軍の方針についてのもっとも声の大きい批判が聞こえてくるのは、ほかならぬ政権与党のフレテリン内部の派閥からなのだ。

■ファリンティル内部の対立

 結果的に、誰が国防軍に入れるのかの決定は、ファリンティルの内部の対立を反映したものとなった。それらの対立は、個人的ないさかいやイデオロギーについての古い議論、その他のいろいろな関係にもとづいていた。ファリンティルの司令官たちとその支持者は、国防軍がシャナナに忠誠を誓う者たちの集団となったことを認めている。国防軍から排斥された者たちは、少数派とはいえそれなりに大きいもので、シャナナおよびファリンティル司令部とはぎくしゃくした関係をもってきた者たちで、そういう関係は古くは1981年までさかのぼる。これには「聖家族」(Sagrada Familia)を率いるエリ・フォホ・ライ・ボート[本名コルネリウス・ガマ、通称L-7]も含まれる。2001年[制憲議会選挙の年]、フレテリンはこうした者たちにアプローチし、彼らは内務大臣ロジェリオ・ロバトにその庇護を見いだした。ロジェリオ・ロバトは、シャナナに忠誠を誓う防衛長官[ロケ・ロドリゲス]と対抗関係にある。
 [1981年にさかのぼる対立とは、抵抗運動の推進主体をフレテリンからCRRN(民族抵抗革命評議会)という新しくつくった大同組織に移行させたところで、あくまでフレテリン(左翼革命路線)主導で独立運動を進めたいグループとシャナナを中心とした広範な戦線でいきたい民族統一派の対立が表面化したことをさしている。その後、1984年にこの対立は決定的になり、フレテリン主導派は、シャナナによってレジスタンス内の地位を降格され、それに対する不満から、L-7の弟パウリノ・ガマなど一部がインドネシア軍に投降した。]
 国防軍の設立に対抗するかのように、東ティモール各地に準軍組織が誕生し、実際に活動を行い始めた。これは元ファリンティル兵士や地下活動家の不満分子がつくったもので、これらのグループはロジェリオ・ロバト内相が会長をつとめる「1975年元戦士協会」(AC75: Association of Ex-Combatants 1975)の傘下でゆるやかな関係を維持している。その中には、L-7率いる聖家族(Sagrada Familia)、80年代地下活動家のリーダーであるアントニオ・アイタハン・マタクが率いるCPD-RDTL(東ティモール民主共和国民衆防衛委員会)などがある。いくつかのグループは政治的な主張を掲げているが、中には犯罪組織風なものもある。フレテリン中央委員会の重鎮であり2001年から2002年5月まで防衛長官をつとめたロジェリオ・ロバト現内相の庇護のもとにあって、これらのグループは国防軍の正統性に異議を唱えている。2002年5月20日にロジェリ オ・ロバトが警察を管轄する内務大臣ポストに抜擢され、国中で元兵士たちのデモ行進が行われたあたりが、その表現のピークだった。
 [ロジェリオ・ロバトは、伝説的フレテリン指導者ニコラウ・ロバトの弟。ロバト一家は多くが殺害され、2001年の制憲議会選挙ではロジェリオ・ロバトの演説がフレテリンへの同情票をあつめたと言われる。自身はファリンティル初代の司令官だが、インドネシア軍侵攻前に海外に送り出され、モザンビークに亡命していた。]

■UNTAETの犯した二番目の過ち

 東ティモールの元兵士たちと治安部門に関係するUNTAETの二番目の過ちが明るみに出たのは、2002年5月20日を過ぎてまもなくのころだ。
 シャナナの支持者たちが防衛部門のポジションをがっちりと確保したため、周縁化されたベテランたちは警察にその関心を向けた。2000年始め、UNTAETは、このときもまたシャナナ率いるCNRTとの協議で、新しい警察組織を旧インドネシア警察(Polri)からのリクルートで結成することを決めた。これは便利なやり方だったかも知れないが、欠陥のある政策だった。そしてまた、この決定は狭い東ティモールの政治サークルとの協議だけで決められ、フレテリンは排除されていた。
 2002年5月から11月にかけて、周縁化された元ファリンティル兵士・フレテリン活動家たちは、警察組織、とりわけ警察長官自身を含む警察の上級ポジションの多くを占拠した350人強の元インドネシア警察官に向けて、住民の反感をあおり立てるような扇動を行った。国防軍に関して言えば、その主要な批判者は内務大臣彼自身と、彼が後ろ盾となっている国防軍の権威を失墜させたいと思っている周縁化されたベテランたちだった。その第一の目的は、将来のリクルートはベテランたちに有利になるようなものにする、ということだ。それは当然、彼らの政治的指向にあった者たちを集めることになり、したがってそれは国防軍がシャナナの支持者たちによって政治化されたと同じように、警察組織を政治化することになる。こういう状況の中で、国連警察の長官は内務大臣と公にぶつかる結果となったのだ。元兵士たちに警察官ポストを「卸売り」することは、すでに危うい彼らのプロフェッショナリズムの質を低下させることになり、国連警察長官はそれを恐れた。
[警察長官のパウロ・マルティンスは、1975年10月のインドネシア軍の国境侵犯作戦に参加した統合派の民兵の一人で、インドネシア時代は警察につとめていた。こういう経歴の人物が、自分たちをさしおいて、新生東ティモールの警察長官になったということが、抵抗運動のベテランたちには理解できないことだった。]
 2002年8月20日のファリンティル創設記念日と11月28日の独立宣言記念日には、反政府デモが呼びかけられ、かなりな群衆が集まった。一方、政府が呼びかけた式典はそれとは対照的に小さかった。2002年の5月から12月にかけて、警察は周縁化されたベテランたちと一連の衝突を経験した。そしてすくなくとも一度は、国防軍とも衝突した。その結果、死者、負傷者、逮捕者が出た。これらの衝突は、警察組織の弱さを露呈することになり、またUNTAET時代の不正義だと彼らが見ているところのものを、彼らがどれくらい修正しようとしているかということを垣間見せてくれた。
 2002年11月28日、シャナナ大統領は独立記念日に、そうとう戦闘的といってもいいような演説を行った。大統領は、ベテランたちが人びとを扇動して警察と対峙させようとしているとして、内相の解任を呼びかけた。そしてその数日後の12月4日、ディリの騒乱は発生した。ベテランたちの警察へのリクルート問題はたちぎえとなり、内相は内閣にとどまり、フレテリン中央委員会からも追放されていない。

■国防軍が抱える問題と国連の怠慢

 2003年1月6日、エルメラ件アツサベ村で、武装した集団が数人の村人を殺害するという事件が発生した。最初は民兵の侵入事件とされたが、今ではならず者集団が中央政府の力をためそうとしておこしたもので、略奪か(と)報復をねらったものだという可能性が高い。注目すべきは大統領にもっとも忠誠を誓うグループ、すなわち国防軍の反応である。1999年以来、軍人たちはカントンメント(宿営地)に入れられ、国防軍になってからは訓練施設に閉じこめられ、活動できたとしてもせいぜいロスパロス方面に限られていた。一方、国防軍は周縁化されたベテランたちの行動には不満である。これらベテランたちの指導者は、現在の国防軍の指導層とは長いぎくしゃくした関係をもっている。
 さらに、国防軍は、国連がこうした集団とその政治的パトロンたちをコントロールできないでいることに不満を募らせていた。ディリ騒乱の後、国防軍は彼らが治安をちゃんと管理できる能力があることを国民に対して示そうとした。2003年1月と2月、国防軍がエルメラに展開したは、国民に対して、とくには国防軍の批判者に対して向けたメッセージだったのだ。しかしながら、この国防軍の行動は、40人以上を恣意的に逮捕し一時拘束したとして、内外の人権団体の批判をあびることになった。
 このように、国防軍と警察のリクルート問題は東ティモール社会の悩みとなった。ベテランたちは、独立の配当金を奪われたと感じているし、この問題はさらにひ弱な経済と高い失業率によって増幅されている。東ティモールの民主主義と開発が開花するのは、法律と秩序、安定の基礎の上においてだ。しかし、国防と治安をあずかるべき組織がおかしくなっており、常軌を逸した行動をとっている。こうした状況を背景に、国連は東ティモールから撤退しようとしているのだ。国防と治安の責任はすでに東ティモール警察と東ティモール国防軍にそれぞれ移譲された。2003年の11月には、すべての警察管轄権が東ティモール警察に移譲され、国連平和維持軍は2004年6月までにすべての管轄権を国防軍に移譲する予定だ。
[この季刊が出版される2004年2月の時点では、警察管轄権はすべて移譲されている。国防に関しては、国連はPKFを中心にした任務を2005年まで延長する予定のようであり、完全な管轄権委譲はまだ先のことになりそうだ。]
 東ティモールの文民政府は、警察と国防軍に必要な支援を与えていないし、またそれを管理するメカニズムももっていない。制服組を管理するのはたったの2人の文民、つまり国防長官と内務大臣だ。これらのふたつの組織が相互に、また東ティモール社会の各部分と持つ危うい関係からして、いわば爆弾をかかえているようなものだ。
 UNTAET(と国際社会)は、国防軍と警察のリクルートプロセスを管理してきたということからして、相応の責任を有するといわなければならない。また、それは国防軍と警察に対する官僚機構的支えを提供せず、文民管理のメカニズムも提供してこなかった。治安部門に対する管理責任を有する東ティモール政府の機関はまだない。議会は弱く、メディアも市民社会もまたそうだ。

■将来の禍根となるか

 ファリンティルを解体し、新たに国防軍と警察を創設するという決定がなされたのは、長期的な展望をもってしてのことではなくて、むしろ政治的、現実的な便宜を優先させる考え方からだった。そしてそのプロセスを進めたのは、ごく少数の国連スタッフであり、彼らは東ティモール人指導者の中のごく狭いサークルとの連携でこれを行った。これは結局、多くの東ティモール人から正統性をもたないと考えられるような機構の設立に帰結した。インドネシアへの抵抗運動にあった古い対立が、大統領派は国防軍に、非主流派(不満派)は内相の庇護のもとに警察と地方行政のある部分にその拠点を見いだすという形で、制度的に固定化しつつある。これは危険な状態だ。
 政治的な違いが軍と警察に固定化されると、ほぼまちがいなく、東ティモールの民主主義はアジア的なものにならざるを得なくなり、最悪のモデル、つまりインドネシアの歩んだ道を追うことになる。軍と警察の経済的な利害が芽ばえつつあることを考えると、政治的な違いがさらに増幅されるだろう。これではますますもってインドネシアだ。
 ある著名な学者が最近こう言った。東ティモールの文民機構が失敗に終わり、国防軍が登場するというシナリオを想像するのは、難しいことではない。国防軍はファリンティルとしての伝統をもち、オーストラリア軍による訓練で、今では国を管理できる唯一の凝集性の高い勢力だからだ。効率的で凝集性の高い軍隊をつくることの代償に、国家そのものが失敗に終わり、その結果、その軍隊の国家への介入が不可避になるというのは、なんとも皮肉なシナリオだ。
 国連行政が何年も続き、何十億ドルものお金が国の建設や平和関連の事業に使われた。しかし、それでもなお、抵抗運動時代の分裂や対立が異なる国家機構の支をえて国を解体に導いていくという可能性は無いとは言えない。

(注1)エドワード・リースは2000年4月から2001年7月までオイクシ県の政務官をつとめ、その後、UNTAETの国家安全保障アドバイザーをつとめた。


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