<連載>

東ティモールにおける日本軍性奴隷制(第10回)

古沢希代子

 東ティモールで仕事をするようになって3ヶ月、やはりというか、思いがけずというか、マラリアにかかってしまった。民間のクリニックでティモール人の医師に診察を受け、薬を飲み、仕方なくベッドに横たわっていると、外の世界では受容真実和解委員会(CAVR)の虐殺に関する公聴会が始まった。
 CAVRの活動によって、1974年以降の政治的対立で発生した現在の与党を含むすべての側の残虐行為が、粛々と掘り起こされれていく。しかし、気にかかるのは、誰の何が裁かれるべきかついての議論が巷で起こっていないことだ。今の政府は、人々に事実が知れ渡る前に、CAVRの報告書が出る前に、恩赦法などでカタをつける気ではないだろうか。
 ホルタ外相は、今秋外国で、「東ティモール政府は(1999年の人道に対する罪に関して)国際法廷は要求しない」と発言した。その前に、同外相は「大戦中の被害に関して日本には謝罪も補償も要求しない」(20023月)と言明した。その(ずっと)前に、ポルトガル政府は日本軍占領期の被害に関する対日賠償交渉を投げ出した。その前に・・・私は、熱でぼおっとする頭で、ラクルタで殺された人たちのこと(連載第9回参照)、そして戦後の戦犯裁判のことを考えていた。


カルバリョ知事の報告書

 当時ポルトガルの海外州のひとつだったティモールで日本軍占領期に知事を務めたマヌエル・デ・アブレウ・フェレイラ・デ・カルバリョの報告書、『ティモールにおける出来事の記録(1942-1945年)』(19476月)が、20034月にポルトガルで再版された。『Manuel de Abreu Ferreira de Carvalho, Relatorio dos Acontesimentos de Timor (1942-1945), Instituto da Defensa Nacional』。その最終章ではポルトガルに忠誠をつくして犠牲となった愛国的な人々を顕彰している。
 連載第2回でふれたが、台湾歩兵第一連隊の連隊史『軍旗はためくところ』で日本軍の協力者として描かれているボボナロ県マリアナのリウライは、リウライ・タロベレではありえない。なぜなら、リウライ・タロベレ(Talo-Bere)は、この「顕彰」の最初のページに登場する。「父は日本軍協力者などではありえない。なぜなら日本軍協力者に殺されたのだから」という息子のアルベルト・ベルディアスさんの抗議は正しかったようだ。リウライ・タロベレが殺害された後、リウライを継いだのはアルベルトさんの兄、マヌ・モロ・カイ・ラランで、彼は日本軍に協力したというから、連隊史に書かれているのはその兄のことかもしれない。それにしても、リウライ・タロベレの殺害がふせられ、土地のリウライが自発的に日本軍に協力したように描かれているのはフェアではない。

『記録』の中のラクルタの人々

 ところで、この「顕彰」には、「ルカの碑」や「ラクルタの碑」(連載第9回参照)に刻まれた犠牲者の多くが登場する。なぜ彼らが日本軍によって殺されたのか、今では遺族でも確かなことはわからなくなっていた。1947年に書かれた彼らに関する記述を紹介したい。

☆ルカの村長、ジェレミアス・ドス・レイス・アマラル あらゆる緊急事態において彼が示した並々ならぬ愛国心によって(顕彰する)。彼はルカ一帯のポルトガル人を保護することによって多くの人命を救い、自らを危険にさらすことになった。彼は捕らえられ、虐待され、拷問されたが、所持していた重要な文書を渡したり、ポルトガル人に関する情報を与えたりはしなかった。そしてその忠誠心により彼は犠牲者となった。(752)

☆シルクンスクリサオン*・マナトゥトのポスト**・ラクルタのウア・タロのリウライ、カシミロ・デ・カルバーリョ
 ポルトガル人の友人であり、不屈の援助者であったことにより、19458月にオッスで日本人によって殺害された。彼はポルトガル人に関するどんなささいな情報も与えはせず、彼らが獄につながれることを許すより自らが犠牲になることを望んだ。彼はポルトガルに対する忠誠のひとつの偉大なる例である。(752頁)
 [* シルクンスクリサオンはポルトガル語で「地区」という意味。「郡」という意味のコンセリョとともに「州」のひとつ下の行政単位をさす。どちらも東ティモールでは「県」に相当すると考えられる。ただしシルクンスクリサオンはコンセリョより格下。定訳がないので以下ではシルクンスクリサオンを「県」と訳す。
 ** ポストはコンセリョやシルクンスクリサオンの下の行政区。以下「郡」と訳す。]

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの村長、ルイス・ダ・フォンセカ・ソアレスと前村長の兄弟であるモイゼス
 クルタに身を隠したポルトガル人に対して示した忠誠によって。彼らはポルトガル人に食料を与え、住む家を建て、あらゆる方法で彼を助けた。例えば、クーリエのシステムを駆使して、彼らに日本人や反乱者が接近するのを警告し、彼らの安全を確保した。彼らは日本人に捕まり、彼らのポルトガルへの忠誠ゆえに、拷問にかけられた後殺害された。(752頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの現地人、ウィッタル・ノローニャ、マリオ・ミランダそしてジョゼ・リノ
 彼らはポルトガル人、パトリシオ・ルスの隠れている場所に関して照会される情報をたえず否定し、そのポルトガル人を助けることによって勇気と献身と忠誠を示した。彼らは19458月に捕らえられ、オッスで殺害された。(753頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ラリネの村長、エステバオン・デ・カルバーリョ、ラクル郡アヒクの村長、フランシスコ・ソアレス、ラクルタのラリネの首長、そしてアレクサンドル・デ・カルバーリョ
 ホルトガル人を救い、隠れ家を提供し、彼らにとって偉大な友人であり忠実な奉仕者であり続けた。彼ら3人は、19458月にパラシュートでルカの平原に上陸したふたりのオーストラリア人とひとりのティモール人をかくまったことで日本人に逮捕され、同月、その理由とパトリシオ・ルスを居場所を供述しようとしなかったことにより、オッスで殺害された。(753頁)

 碑には刻まれていないが、『記録』にはラクルタの関係者として次の人々も登場する。

☆ラクルタ郡アヒクのある部落の長であるイナシオ 彼はラクルタの郡長であるジョゼ・ティノコを決して見捨てず、ジョゼ・ティノコが現地人反逆者によって捕らえられて殺害されるまであらゆる面で彼を助けた。 (753頁)

☆マナトゥト県ラクルタ郡ディロールの村長、ドミンゴス・ソアレスとセント・ドミンゴス県ヴィケケ郡ルカの首長、ドミンゴス・アマラル 彼らは、彼らの地区を通過するポルトガル人につきそい、決して彼らを見捨てず、最適な方法で彼らに奉仕した。ピレス中尉の逮捕が起こった時、彼らはパトリシオ・ルスとともに逃れることができ、戦争が終結するまでパトリシオ・ルスを決して見捨てず、常に彼にとって良き奉仕者だった。(755頁)

☆ラクルタ郡ラリネの村長、アゴスティニョ・ゴンサルベス 彼はラクルタの郡長がいなくなった後、同郡を治め、ラクルタ周辺にいたすべてのポルトガル人に支援を提供した。彼がラクルタのポストを離れたのは、日本人がやってきてまだにその地域にいたポルトガル人を集合させた時だが、最後の人たちが出発するまで、彼はその人たちにつきそい支え続けた。その頃までには彼は息子たちのもとに戻っていたが、ついに日本人に逮捕された。日本人は彼を虐待したが、彼にポルトガル人に災いをもたらすことを言ったり行なわせたりすることはできなかった。その後、19458月、彼は再び捕らえられ、オッスで日本人に残忍な暴力を受けたが、殺すと脅されたにかかわず、絶対的忠誠の態度を変えることはなかった。(755頁)

〈ラクルタの碑文〉***
***碑の下には19人の遺体が埋葬されている。下線は『記録』で顕彰されている人物。

侵略者による死 1942-1945
ポルトガルは彼らを記憶し称える(仮訳)
1. ルイス・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
2. カシミロ・フェルナンデス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
3. エステバオン・デ・カルバーリョ(ラリネの村長)
4. アレサンドル・デ・カルバーリョ(ディロールの村長)
5. アフォンソ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの村長)
6. マテウス・デ・カルバーリョ(ウマ・トルの村長)
7. フランシスコ・ソアレス(アヒクの村長)
8. タイ・ベレ(ファトゥカドの長)
9. ジルベルト・ソアレス(ファヒ・ラインの長)
10. ミランダ・シメネス(ディロールの村長のアシスタント)
11. マリアノ・デ・カルバーリョ(伝道師)
12. ジョゼ・リノ・フェレイラ(伝道師)
13. フィタル・デ・ノローニャ(ディロールの助役)
14. フェリシアノ・ソアレス(農民)
15. フランシスコ・ソアレス(
16. トマス・ソアレス(農民)
17. カイ・モド(農民)
18. フノ・ウアイ(農民)
19. エスペランサ・フォンセカ・ソアレス(ディロールの助役)

BC級戦犯裁判の「謎」

 ピレス中尉もパトリシオ・ルスも、いわば、ポルトガルの「中立政策」を離脱して豪軍側についた人間である。日本軍が「敵性」とするポルトガル人を助けた(それが政治的理由であれ人道的理由であれ)たために多くのティモール人が犠牲になったのだとしたら、そしてその行為がこのように称賛されるのであれば、ポルトガルは彼らに対する日本軍の虐待行為や処刑を戦争犯罪として裁こうとしたのだろうか。
 オランダとオーストラリアが管轄するBC級裁判の中で、クーパン、ダーウィン、アンボンでの裁判の記録から判明することは、「ポルトガル領ティモールで発生した住民虐待」に関する起訴が一件もないことだ。起訴がないということは有罪はありえない。
一方、「オランダ領ティモール(西ティモール)で発生した住民虐待」に関してはクーパンの臨時軍事法廷で扱われ有罪が出ている。アンボンの臨時軍事法廷ではポルトガル領ティモールに駐留していた台湾歩兵第二連隊が「オランダ領セルマタ島」で行なった討伐にともなう住民虐殺に関して有罪が出ている。
 では、連合軍兵士の捕虜に関する虐待に関してはどうだろうか。捕虜虐待に関してはポートダーウィンの裁判でポルトガル領ティモールで発生した事案が一件扱われ、有罪も出ている。これはピレス中尉ら逮捕の件である。
 とにかくポルトガル領ティモールに関しては日本軍の占領で住民が受けた被害が一切扱われていないのだ。これはいったいどういうことなのだろう。東京裁判ハンドブック編集委員会編[編集委員/住谷雄幸、赤澤史朗、内海愛子、幼方直吉、小田部雄次]『東京裁判ハンドブック』(青木書店、1989年)では、第36頁で東京裁判の訴因53が紹介されており、戦争法規の違反行為が行われた対象者を米、英連邦、仏、蘭、比、中、ポルトガル及びソ連の軍隊・俘虜及び一般人としている。

戦犯裁判とポルトガル政府

 ジェフリー・ガン氏の著書『ティモール・ ロロサエ500年』(Geoffrey C.Gunn, Timor Loro Sae 500 Years, Livros do Oriente,1999 )の第12章「戦時のティモール(1942-1945年)」には戦争犯罪に関する項目があり、おおよそ以下のことが書かれている。
 終戦後、オーストラリアは日本軍の戦争犯罪に関してポルトガルと協議した。オーストラリアはポルトガルとの合同調査を申し入れたが、ポルトガルの知事はポルトガル人に対する犯罪はポルトガルが単独で調査すると譲らなかった。19466月に(極東国際軍事裁判所の)戦争犯罪委員会のキントン少佐がディリに到着すると、キントン少佐とボボナロの行政官であるルス・テイセイラとオランダ軍のポス大尉で「委員会」が組織された。この「委員会」は東京法廷の米国人検察官の下におかれた。オーストラリアは再度、戦争犯罪の合同調査を要請したが、受け入れられず、オーストラリアによる調査はオーストラリア人がらみの犯罪のみに封じ込められた。キントン少佐はポルトガルの頑迷さと日本軍協力者のリストさえ渡そうとしない非協力さに不平を述べている。
 以上から、ポルトガル領ティモールにおける戦争犯罪全般は裁判の枠組みから排除されているわけではないことがわかる。また、自国民がらみの犯罪とオーストラリア人がらみの犯罪がそれぞれポルトガルとオーストラリアによって別々に調査されようとしたこと、調査に関する両者の関係が悪かったことがうかがえる。そもそも両国の間には確執があった。オーストラリアには第二次大戦におけるポルトガルの中立政策が本質的にはナチス寄りだとして不信感が強い。一方、サラザール体制のポルトガルは民主主義を標榜する連合国の影響がティモールに及ぶのを警戒し、オーストラリアの動きを押さえこもうとしていた。
 では、ポルトガル政庁は、ポルトガル人(ティモール人を含む)に対する犯罪をどのように調査したのだろうか、結果として住民が受けた被害に関して起訴に持ち込めたものが一件もなかったのはなぜなのか。それともポルトガルは故意に持ち込もうとしなかったのか。これらの問いにはガン氏の本にも回答がない。明らかなことは、その後、日本軍の住民に対する犯罪は裁かれぬまま、日本軍に「協力した」ティモール人に対する著しく公正さを欠いた裁判や制裁が東ティモール内部で大規模に展開されたことだ。日本に対する賠償交渉は中途で絶ち切れた。
 あの戦争はティモール人が起こしたものではなかった。ティモール人にとっての正義はいったいどこで落っこちてしまったのだろう。(続)


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