詩・小品・小説
1.1966年2月 「心の歌」
さんさんと輝く真夏の太陽の下で、少女は静かな空に漂う銀色の
雲を一心にみつめていました。雲がちょっとした風で流れる度に、
目を輝かせ、ありとあらゆる姿を、夢と喜びの中で確認することが
できました。少女は言葉をわざわざくろう必要はありまぜんでし
たので、ニッコリと清らかな瞳で語りかければ、自由で幸福な気持
を味わう事ができました。あたりは澄みきった空気に包まれていま
した。
太陽が少しばかり少女にいたづらしてまぶしがらせると、少女は
「本当にいたずらっ子ね」と言いながら、柔らかい頬に手をあてて
顔を横にふりました。するとそれに合唱するように野原一面の菜の
花が動きだしました。蝶達も少女の心の歌に合わせて飛びかいまし
た。少女はまるで森の精のように、自然と一つになっていました。
少女は、今度はすっかり上機嫌になって自分が野原を飛び回りました。
きっと遊び疲れたのでしょうか。ぐっすりとクローバーのベッ
ドの上で、時を忘れて眠りこんでしまいました。再び目を覚ますと
今度は、クローバーの花で自分の好きなだけの世界をつくりまし
た。白と桃色の組合せによって、お菓子や、首飾りや、腕輪をつく
りました。それを見たことのない人は、その美しさと肌ざわりの良さ
を想像することができないかもしれまぜん。
夜になると空に大きな星がまばたき始め、次に天の川が実に鮮や
かに輝き始めました。その時ばかりは、少女のために小川も森も
野原も沈黙しました。少女はいつも一人でした。それでもさびしく
ありませんでしたし、とりたてて少女を脅やかす人も存在しません
でした。
しかし、そんな平和な時代が誰にでも続くわけがありません。
少女が大きくなるに従って、少女に語りかけるものは自然以外にも
あることに気付くようになりました。野原の菜の花が急に色あせて
見える時もありましたが、何よりも少女を悲しませたのは、無残に
も千切られてしまった時でした。天の川を見ている時、フクロウが一.
気味の悪い声で泣く時はぞっとしました。
それ以来少女は次第に野原に出ることが少なくなりました。その一
原因はどうやら菜の花が色あせたり、フクロウの声ばかりのせいで
はないようですが、よくわかりませんでした。
それでも少女の胸の中には、黄色の菜の花も小川のせせらぎも、
天の川も消えずに残っていました。少女自身いつでも自分の好きな
時に太陽の下の野原へ飛び出せると信じていました。家の中で今ま
でと違った世界に出会いました。「駄目よ!そんなことはしては」
という母親の声を聞く機会が多くなりました。少女が母を愛すれば
愛するほど、その声がかえって大きく響くような気がしました。そし
て森も空も野原も他人のものになっていくような気がしてなりませ
んでした。だが、まだ無力な少女にはどうすることもできませんの
で、大きな力にまかせることもありました。その度に一つの世界がで
きることによって無限の世界が消えて行くように思えてなりませんで
した。いつも心の底に冷たい水が音をたてて砕けて行くのを避ける
ことができませんでした。それでも追えば追うほど池の端から真中
へ逃げてゆくトンボを見送るように、世界を大目に見まわしてきま
した。
少女が世界を見まわすことはあっても一体世界が少女を見まわす
ことがあり得ようか。少女は段々目に涙をたたえるようになり、苦
しみと疑問にとりまかれるようになりました。同じ太陽の下でどう
して世界は違ってしまったのでしょうか。どうして甘いものが辛く
なり、自由が不自由になり、生々とした色彩が色あせたものになっ
たのでしょうか。涙はいつまでも留めておくわけにはいきませ
ん。無窮の空と、身近な赤と、鐘のなる教会を見出さなければ安住
できません。
・・・・・・・・
それから数年後、もう少女と呼ぶべき時期が終ろうとしている頃
彼女は力強く生きることを決意しました。この世界に永遠の火をと
もそうと心に誓っていました。どんなに大地が寒々として"暖かい
希望によって打ち勝つことができると信じました。寒々とした大地
に湖水があり、白鳥には欠くべからざるものでありました。いつ
でも飛びたつことができるし、大切な餌もあり、貧しいながらも巣
をつくるのはこの大地なのです。不思議なことに彼女が大地に足を
ふまえている時には、この世界が巣にもならなければ、愛という営
みがないように思えることでありました。そんなことはないはずな
のに、湖水の上を飛んでいる時の方が、彼女にとって世界が美しく
見える時が多かったのです。特に湖上にいる時は、彼女は決して怒
りを忘れることがありませんでした。林々のお祭に疑問を持たぬ人
々に対して怒りの叫び声をあげることもできました。十年間何百回
となく彼女は大地と湖上を往復しました。その度に怒りの声は小さ
くなり最後には空しく自分だけにはね返って来ました。悲しい孤独
が彼女をおそいました。
ある時彼女は、自分が多くの白鳥のうちの一羽にすぎないことに
気付いて以来、すっかり陽気な娘になりました。確か気が楽になっ
たと言ったほうがいいのでしょうか。
心の歌が響かなくなり、蝶は彼女のまわりを飛びかうことがなく
なりました。彼女の心の歌にかわって、自分のもう一つの姿をあや
つる方が容易だったのです。かつて生きていた花の精は彼女のもの
ではなくなりました。『私はとても幸福です』と彼女は無表情に言
いました。『輝く太陽を必要としないのは私だけではありません』
とつけ加えました。別離がいつどこからやってきたのか気がつき
ません。あの夜の天の川との別離が始まったことを考えることは彼
女にとってつらいことなのです。なぜならもう彼女はたった一人で
天の川を眺めることができなかったからです。時が流れたのでしょう
か。彼女が変わったのでしょうか。私は彼女がどうして『心の歌』を
失なったかを知りません。
21972年8月 「探求としての読書」
皆さんの読書の目的や動機はなんなのだろうとよく思うときがあります。あるひとは自習時間の暇つぶしに雑誌や週間誌などを手あたり次第に読むこともあるでしよう。あるひとは自分が読みたくないのだけれど、仕方なしにレポート提出とか宿題のため読まざるをえないひともいるのでしよう。あるひとは今テレビや映画で話題になっているものを、今度は本で読んでいるひともいるでしょう。ある人は友人が読んで、自分が読まないのを恥かしいと思って読む人も多いことでしょう。
現代では気晴らしに、暇つぶしになんとなく無目的に読むという傾向が深まってきています。以上のような読書も決して無駄ではありません。たしかに個人的な気晴しができたり、自己の感傷癖に一時的にひたることができたり、便宜的に必要事に間に合わせることができたり、断片的主知識を身につけたりすることができる。でもそれはそれだけのことでしかありません。みなさんの高校生活は、人生のなかで最も体力的にも、時間的にもめぐまれた時期なのですから、受身的な、思いつき的読書から自覚的、意識的読書へと移行してもらいたいものです。ここではそれを、「捜し求める」読書とでも言っておさましよう。海を航海する操従士が海図を読みつつ舵をとり、舵をとりつつ海図を読む作業を思い出してください。操従士にとって航海の目的はあらかじめ目的地が定まっていますが、人生航路の操縦士である人間には、自分でそのつど目的を定めなければならないところが違うわけです。海図を読むということは航海のコースを定めるためとそのつど目的を定めるという二重の意味を持っているわけです。
1.自分以外の世界(存在するもの)を知るためにあらゆる好奇心と疑問を持ちながら読書をすること
自分が住んでいる社会とは何だろう。社会はどのようにして成り立っているのか。社会について説明する社会科学にはどんなものがあるのだろうか。(歴史学・政治学・法律学・社会学など)。
自然とは何だろう。住む環境としての自然とは何だろう。美の対象としての自然とは何だろう。自然を対象とする目然科学にはどんなのがあるか(物理学・生物学・化学・地理学・地質学・天文学・分子生物学など…)。
人間とは何だろう。生物としてみた人間と社会的存在としての人間とはどう違うのだろう。人間の心理や精神の働きはどうなっているのか。人間はどのように生きてきたのか。以上のような無数の疑問と好奇心を抱きながら少しでも、そうした疑問に答えてくれる書物を求め続けることです。自分自身の力で書物を発見し一読み、少しでも自分をとりまく社会現象や自然現象や文化現象を理解するように努力することでな。自分のことを自分が一番知っているというのは現代人の幻想です。自分が自分を知るためには自分以外の世界を知るに応じてしか知りえないのです。
以上のことが操縦士にとって必要な海洋にかんする知識にあたります。ではただでさえ忙しく、しかも生命を維持するためにだけでも、人生は終ってしまうのに何のために自分以外の世界について知るのでしようか。しかも自分とは一見何の関係もないと思われることまで知らなければならないのでしようか。
2.人生航路に必要な海図を読むこととしての読書
こんどはどことなくせわしく、食べて、生きていくために為すべきことの多い生活そのものに注目してみましょう。何とわかりきったことのようで、わからないことが多いことでしょう。なんと多くの解決や処理をしなければならないことが多いことでしょう。現代人は、当然、問題になったり疑問にしなければならないことを、あえて問題にしなければ、疑問も生じまいという努力すらしているのです。
ところで、どう生きたらいいのか。どんな職業についたらいいのか。女としてどう生きるか。母であり、妻であり、職業婦人であることは生きることのなかで両立するのか。自分は何に重点を置くのか他人に対してどのように振舞うべきか。家では。学校では。友人に対しては。そもそも食べていけるだけでいいのではないか。それだけでなぜ空虚なのか。人間は何を求めて生きていくのか。なるようにしかならないのではないか。今ある自分に満足できないとすれば、人生航路の目的と舵をとる操縦と海図を読むことをあきらめてはならないはずです。私たちは、家庭や、社会のなかで自分自身の経験と他人の経験をたよりに操縦術を身につけてきています。だが、大切なことは、操縦術だけがいくら上手でも、何のためにどこへどう行くのかがあいまいでは、生きることはひとつの惰性的な動きにすぎなくなります。
そうかといって人生において絶対的目的など存在しないのです。「何のために」は生命を維持するために生きることが根本だとすれば、その生きることを「よりよく生きる」という相対的目的でしかないのです。しかも目的を変更したり、変更せざるを得ないときもあるのです。それにもかかわらず、この目的に応じて海図としての書物を読みながら、操縦に役立てるほかないのです。海図があるからといって人生航路の途上で濃霧や嵐がなくなるわけではありません。それが現実というものです。
私たちは外の世界としての海洋の知識について書物を通して学ばねばならぬと同時に、自分自身の操縦の経験を通して、そこからそのつど目標を定め、海図としての人生の書を読み、次の経験に役立て、航海のコースを定めなければならないのです。自分がどのように生きるのか(このようにしか生きられないという必然性も含めて)という課題を探究する読書と自分が生きる場としての世界はどのようにして成り立ち、どのようであるかを知るための読書とは切り離すことができません。
そして、こうした読書は自覚的に、意識的に行なわなければなりません。しかも若さと時間的余裕のあるときにこそ開始すべきなのです。「もとめよ、そうすれば与えられるだろう。捜せ、そうすれば見出たすだろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」ということを信じられる者のみに読書は喜びの源泉なのです。