故本田覚氏の葬儀が25日、26日行われました。喪主は芳子夫人でした。
葬儀に際しては、松本豊美さん、松下会長、百市副会長はじめたくさんのJVA会員の皆様の焼香、生花、香典、弔電、お悔やみのメールなどがありました。故人もさぞお喜びのことと拝察いたします。
さて、私なりに本田さんへの思いを述べてみたいと思います。
本田さんとの交流は7年前に遡ります。私が松本豊美さんのお誘いを受けてJVAに入会し、新郷ビデオサークルを結成したとき、JVAの会員名簿をたよりに呼びかけをしたのが始まりでした。新郷ビデオサークルは僅か6人でスタートしました。ところが、僅か2カ月ほどで彼は緊急入院しました。

彼は石川島播磨重工業に40年以上勤めていましたが、激務によって、大動脈瘤破裂寸前で順天堂大学病院にかつぎ込まれ、27時間の大手術に耐えて一命を取り留めたのです。その後、長いリハビリの末、どうにか立ち直りました。
その後、会社を退職し、第二の人生として今日まで精力的にビデオ活動をしていました。今回の松本豊美さんの慰労会にもどうしても出たいとおっしゃっていたのですが、その日の朝、(1月23日)順天堂大に救急入院し、手当の甲斐なく、大動脈瘤破裂によって他界されました。享年68才です。
これから共にビデオを楽しんでいこうとしていた矢先であり、残念でなりません。
私と本田さんとの親密なつきあいは、彼のリハビリ期間を終えての時期から始まりました。彼が会社から販売促進用ビデオの制作を頼まれていたとき、いろいろ知恵を貸したのが始まりです。その後、いろいろなイベントを協力して撮影したり、暇なときにおじゃましてビデオの話をしたり、その後、マックのパソコンを購入し操作を覚えたりと、私が困っているとき、彼が困っているとき、互いに「あうん」の呼吸で助け合える本当に信頼できる友人でありました。
そのつきあいは私の娘のコンサート撮影や、私の妻の入院などを契機に家族ぐるみにもなっていました。
彼のNHK埼玉ビデオクラブ、新郷ビデオサークル、JVA日本映像ネットワーク、菜の花ビデオ研究会での活躍は皆さんご存じの通りですので省略いたします。
彼は技術畑の人間ですから、人当たりが柔らかいわけではなく、ともすれば周りと衝突するようなところもありました。しかし、本当に誠実で面倒見のよい人柄が理解されたとき、たくさんの友人の輪が生まれていました。
昨日のお通夜と本日の告別式はいずれも大変な盛況で、松本豊美さんはじめ、愛知県、長野県、茨城県、神奈川県など遠方を省みず、ビデオ関連の弔問客だけで50名ほどになりました。九州の百市睦夫さん、日高義朗さん、群馬の青柳完治さんからは心にしみる弔電が届き、告別式で披露されました。
彼の事を想うと、心の中にぽっかり穴があいてしまったような気持ちになり、悲しみで一杯になります。
好きなビデオとパソコン(マック)に熱中するあまり、養生を忘れることもあって、それが彼の命を縮めたのかもしれません。だとすると、なぜもっと自愛するように働きかけなかったのかと自分を責めたくなります。
でも彼はその僅か7年足らずの密度濃いビデオ活動によって、全国にたくさんの仲間を作り、大勢の方に見守られ、惜しまれて昇天しました。二日間の参列者はのべ約200名。会社を離れてかなりの年数が過ぎているにもかかわらず、たくさんの参列者があったのは彼の人徳でしょう。そのうち50名以上がビデオ愛好者であったことは、この数年の彼の活動の広がりを見事に物語るものでした。この上ない幸せだったとも言えるでしょう。
新郷ビデオサークルの仲間は今回、全員が参列し、2日間、受付などの葬儀を手伝いました。一人一人が自分の意志で遺骨を本田さんの家に運んでくるまでつきあいました。それほど本田さんの存在は大きかったのです。
なお、本田さんはこれまで、奥様との二人暮らしでした。もちろん親族は近くに居住していますが、それでも残された奥様のこれからを思うと胸が痛みます。
本人の生前の意志と遺族の了解により、今回、告別式のビデオを撮影しました。
葬式のビデオというのは生まれて初めての経験で、勝手が掴めず緊張しましたが、ビデオが大好きだった故人への供養と、残された皆さんの思い出作りのためにも良かったのではないかと思っています。
本田 覚さんの戒名は「真宝覚映居士」です。この「映」はまさに日本映像ネットワークの「映」であり、ビデオを愛した本田さんを象徴するものです。人を愛し、ビデオを愛した故人のご冥福をお祈りします。
合掌。
本田さんの親友 田村 富雄