向ヶ丘遊園駅(原文のまま)

小田急線
北口
事件
reported by 午後の抹茶


 小田急線向ヶ丘遊園駅のトイレは,改札口を入ってすぐ,駅員室と線路との間の細い通路を,体を斜めにするようにして抜けたところにあります.左は駅員室の壁,右は線路脇のフェンスで,すぐ隣を電車が走ったりして怖かったりします.

 さて,事件の日,私は小用を催して,この細道の奥のトイレを訪ねました.そうすると,なにやらくさいのです.細道を進むに連れてくさくなってきます.かなりのにおいです.

たまたま,トイレで用を足してきたらしい若い男性とすれ違いましたが,彼もにおいに辟易しているらしく,妙な顔をしています.ところが,彼はそのにおいに辟易しながらもその場に立ち止まり,なにやら靴の裏を気にしています.そのときは,何か踏んだのかなあ,というくらいにしか思いませんでした.


 さて,細道を抜けると瀟洒なトイレがあります.そこに至る道のりの険しさに比べたら桃源郷のようなトイレであります.

そのトイレは周りより一段高くなっていて,高床式住居のような造りになっています.必然的に階段があります.階段がなければうんこパニックの時に大変困るのでありまして,この階段は大変重要なのであります.

ところが,この重要な階段に,点々とうんこが落ちています.強烈なにおいはどうやらここから発せられているようなのであります.「なぜ階段にうんこがまき散らされているのだろう」と疑問に思いつつ,マインスイーパーの爆弾さながらにうんこを避けながら階段を上っていきます.

階段を上ればにおいは弱まるだろうと思っていたのですが,案に相違してにおいは強まるばかりであります.もはや鼻が曲がりそうなにおいであります.


 くさいときに「鼻が曲がる」ということを言いますが,私はこれはいわゆる慣用句だろうと思っていました.しかし,このとき私は,本当に強烈なにおいを嗅いだときには鼻が曲がるような錯覚に陥るものであることを初めて知ったのであります.ちなみに,映画『スター・ウォーズ』でハリソン=フォードたちがゴミ溜の中に落ちるシーンでは字幕が「臭くて鼻がもげるぜ」となっていました.これもなかなか言い得て妙だと思います.

  それはさておき. 階段を上がりきると踊り場であります.本当に踊るわけではありませんが,踊り場であります.しかしこの時の私はほとんど踊らざるを得なかったのであります.

踊り場には階段以上にうんこ塊がまき散らされていて,「足の踏み場もない」という言葉がぴったりの状況だったのです.

「ツイスト」とかいうゲームがあります.「右手」とか「左足」とか書いてあるシートの上で無理な姿勢をとらせて喜ぶゲームであります.この踊り場はもううんこ塊のおかげで「ツイスト」状態だったのであります.うわっ右足が.あっ左足が.一歩ごとに容易ならざる姿勢となり,ややもすれば重心を崩して全身うんこまみれになりかねない,そんな恐怖の踊り場だったのであります.


今から思えば,何もこんなくさいところで小用を足すことに固執することもなかったなあということになりますが,よくよく考えてみれば,下手に後ずさりなどしようものなら踏んでしまいそうな数のうんこ塊だったのであります.

においはいや増しに強くなり,もはや鼻では息をできない状況であります.口で息をしていてすらにおいを感じます.

 小用を足したいのでありまして,とにかくにおいを我慢してトイレの中に入ったところ,私はにおいの元がトイレの中の個室のひとつに隠されていることに気づきました.

私は小用を忘れてその個室に近づいてみました.「くさいもの見たさ」というやつであります.その中に私が見たものはまだ新しいうんこがべったりとついたブリーフとももひき,それに靴下であります.

ももひきの白さと,裏返しにされた靴下のあの独特の文様,そしてそれらを一定の形に保っている粘土のような役割を果たしているうんこの色彩.さらにそのときに思わず嗅いでしまった,肺の底まで刺し貫くような糞臭を,4年ほど経った今でも鮮やかに覚えています.


 つまり,どうやら誰か不幸な男性が,この向ヶ丘遊園駅でうんこパニックになり,あの細道を駆け抜けようとして時間をとられ,ついに細道の途中で一線を越えてしまい,恐らくはズボンの裾からうんこ塊をぽたぽたと落としながら階段を駆け上がり,この個室に飛び込んで力尽き,愛用していたももひきに別れを告げることとなったのでしょう.

 

  うんこまみれとなり変わり果てた姿になったももひきや靴下をこの個室に残して行かねばならなかったこの男性の哀しみや想像するに余りあります.

 有吉佐和子の『恍惚の人』に,痴呆症になってしまった父親が深夜寝室の畳に自分の大便をべっとりと塗りつけていて,そのにおいで目が覚めるというくだりがあります.察するに,大便というのは丸い形にまとまっているからあれだけのにおいでおさまっているのでありまして,切り離したり,延ばしたりして表面積を増やしてやると,猛烈な悪臭を発する能力を潜在的に持っているもののようであります.


 私は糞臭に顔全体が曲がりそうになりながらも無事に小用を足し,来たときと同様踊りながら帰途についたのであります.

来るときに行き会ったあの若い男性はまだその細道にいて,フェンスの下のコンクリートの角で靴の裏をこすっていました.

よく見ると,細道の途中にもそこここにうんこが落ちていました.彼の真剣な,またいかにも不愉快そうな表情も,また忘れられません.


 ひとつ謎があります.この事件の主人公である不幸な男性は,おそらくももひきの裾を靴下の中に入れていたものと推察されます.

なぜならももひきと靴下とは一体として捨てられていたからであります.では,かれの臀部から漏れ出でたうんこは,いったいどのような経路で「ズボンの裾からぽたぽたと」落ちたのでしょうか.

うんこ圧でブリーフ共々ももひきも破れてしまったのでしょうか.
うんこがあまりに大量だったため靴下までいっぱいになってしまい,ももひきとの隙間から溢れてしまったのでしょうか.
あるいは,この男性は細道に飛び込む時点で既にズボンやももひきを半脱ぎにしていたのでしょうか.
はたまた,ももひきを捨て靴下も捨ててズボンと革靴だけで帰る途中に,下半身が冷えてしまって新たにうんこを漏らしてしまったのでしょうか.

いずれにせよ,一線を越えて,まとまった量のうんこをパンツの中に漏らしてしまった場合,行き場を失ったうんこがどんな恐ろしいことを引き起こすかを,如実に物語る事件であります.

 それは,寒い季節のことでありました.