小野路宿と大山街道・・・・2

小野神社の時の鐘
小野神社と小野路宿について語るときに欠かせない話があります。それは神奈川県逗子市沼間の海宝院という寺に有る梵鐘に刻まれた銘文です。そこには応永10年(1403)の冬に小野路郷の正珎(しょうほう)という僧が交通の安全を祈願し寄進を募って費用を集め、十郎四郎なる者に梵鐘を鋳造させたといいます。そして自快道人という人に依頼してこの銘文を作り、小野路郷の小野神社に奉納したというのがこの梵鐘です。

梵鐘の銘文中に「朝夕扣撃し、夫の往来の人をして暁宿早発に其の時を知らしむ」、「民夢を驚き覚まし、群声を開き発す」、「宿客に暁を報じ、路人時を知る」とあり、朝夕に別当寺の清浄院の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたといわれ、この梵鐘から小野路の地が宿場であったことがうかがい知れるのです。ところでこの梵鐘が何故逗子市の寺にあるのかは、文明年間に扇谷・山内両上杉氏の争いに際して山内上杉方の兵により陣鐘として持ち去られ、その後海宝院に寄進されたと伝えられているそうです。

一般に梵鐘というと寺院にあるものというイメージがありますが、鎌倉街道上道を旅していて横浜の瀬谷や飯田辺りの神社の境内にはよく鐘楼を見かけます。梵鐘は仏教のものと思いますが、日本の長い歴史の中で神仏習合などで仏教と神道が一体的なものになり、そういった背景からの名残かと思われます。

明治になってから、王政復古の名の下に神仏分離令なるものが発せられ神道国家体制のもと仏教界は一時権力により打撃を受けたことはご存じの方もいるのではないでしょうか。実はこのときの廃仏毀釈で鎌倉の鶴岡八幡宮では鐘楼を含めた仏教施設が撤去されていたのでした。鶴岡八幡宮は以前には鶴岡八幡宮寺いう寺院であって多くの貴重な文化財が失われていたのです。

 

小野路一里塚跡
野津田公園西口の手前を南北に交差する道があります。そこに小野路一里塚跡があり現在では復元された塚と説明版なども立っています。江戸時代の初めの元和3年(1617)に駿河の久能山に埋葬されていた徳川家康の遺骨を日光東照宮に移す際にここを通ったと伝えられていて、その時に街道の整備とともに造られたのがこの一里塚であるそうです。

また家康の遺骨を載せた御尊櫃が小野路まで来たときに壊れてしまい、それを土地の鍛冶屋が修理しその功により助郷を免除されたことが記録に残っているそうです。これらのことから小野路を通り、武蔵府中をぬけ、川越方面に向かった街道は、江戸五街道が整備される以前には盛んに利用されていたことがうかがわれます。

ここを通る街道は東海道平塚宿と甲州街道府中宿を結ぶ脇往還で、江戸中期には大山詣でで賑わった大山街道でもあります。そして小野路宿から図師町と山崎町の境を通り忠生から木曽町へと続いていた鎌倉街道の裏街道であったともいわれているようです。この一里塚から小野神社前までの間には石仏などが見られ近世の街道であったことを偲ばせてくれています。

小野神社南から坂を上る大山街道
大山街道にある一里塚跡
一里塚跡から南に向かう大山街道

小野路宿と大山街道---12