小野路城跡周辺・・・・2

小野路城跡
小野路城は城山(標高142.2メートル)の山頂付近にあり、又の名を結道城といいます。承安元年(1171)に秩父平氏の畠山有重が秩父より小山田に別当として着任し牧場の管理を務めていて、小山田別当有重と名乗ったと伝えられ、現在の下小山田の大泉寺のそばに居城をかまえていたといいます。

小山田城を築いた小山田有重は勢力を広げ、現在の町田市域の多くと川崎市と横浜市の一部を加えた広大な小山田荘の荘園領主となります。小山田有重には6人の男子がいて、長男は幼年の頃に亡くなり、二郎重義はこの小野路の副城(小野路城)に入り小山田城主の後継者の役割を担ったといいます。小野路城の築城は承安年間(1171〜1174)といわれ、山城で天然の要塞に造られた砦で、都内の古城跡の中でも最も古い一つであるといわれます。

現在残っている遺構は本丸を含めた二つの郭とそれを囲む土塁、下小山田方面には空濠の跡もあるそうです。しかし現在の城跡の遺構をそのまま承安年間のものと考えてよいのか、或いは戦国時代の頃に手が加えられているのか、その判断は難しいようです。

本丸跡は城山の山頂の平場になっていて、杉やコナラの立木の中に左の写真一番上の天王様と呼ばれる小さな神社が東を向いて建っています。御獄神社、八雲神社、牛頭天王(祇園精舎の守護神)を祀るものだそうです。

この神社にまつわる話があります。城跡には二つの祠があったのを一カ所に寄せて祀ったところ、いろいろな返事が起こったり、また疫病も流行ったといいます。そこで易を調べたところ、もともと牛頭天王は須佐之男命で蛇を退治した神様で、またもう一つの祠は蛇の神様だったそうです。これを一緒にしてしまったので難を招いたとされ、その後は別々にして祀ったそうです。現在神社の右手の土塁跡の上に小さな石の祠がありますが、これが蛇の神様だそうです。

小山田有重の三男、三郎重成は都築郡十六郷の領主として稲毛の桝形城に入り稲毛と名乗りました。重成は源頼朝の妻、政子の妹を妻としますが、頼朝亡き後に元久2年(1205)「畠山重忠に謀反の疑いあり」の北条時政の讒言を真に受け、幕府の命で従兄弟の畠山重忠を討ち取ってしまいます。その後直ぐに時政は小山田氏にもあらぬ嫌疑をかけて、重成をはじめとした小山田氏の一族郎党が幕府軍によって誅殺されてしまいます。

畠山重忠の最後は『吾妻鏡』などに書かれていて有名な話ですが、従兄弟同志でこの事件に関わり、畠山・小山田両氏は滅ぼされてしまいました。武蔵の国を支配していた秩父平氏の無き後の武蔵国及び小山田荘は北条氏の支配下になったのです。

小町井戸
小野路城跡の本丸北側土塁下の道端に小町井戸の説明版が立っています。そのすぐ下の窪地に小町井戸があります。井戸というほどの水場でもありませんが、絶えず湧き水が流れているのを確認できます。

昔ここに寺があり仙人が住んでいて、その仙人が出した井戸水なので「仙水」と呼ばれどんな干ばつにも水は涸れることはなく、またこの水は万病に効くと伝えられています。

小野小町が悪病にかかり、ここに千日籠もり療養したところ病が治ったということから小町井戸と呼ばれるようになったと伝えています。ただ小野小町はその人が伝説的な人で、この地に来たのかは疑問です。小町井戸は小野路と小野小町を結び付けた名称なのかも知れません。

この井戸のあるところは小野路城本丸跡の直下です。山の頂に近い部分であるにもかかわらず、このような高所にも水脈はあるのだと感心致しました。ここから東南へ百メートルほどの崖下には「滝つぼ」と呼ばれる湧き水もあり、小町井戸と共に小野路城の水源として利用されていたということです。

小野路城跡の本丸跡にある神社
本丸跡の東面の段丘
小町井戸の湧き水
本丸跡の平場の北面にある土塁

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