鎌倉七口-名越切通・・・・その3

まんだら堂やぐら群と大小多くの五輪塔

まんだら堂やぐら群
名越切通は三浦へ抜ける街道が通るところであると同時に、そこに設けられた防衛の施設跡と更に葬送遺構が残っています。その葬送遺構にあたるのがまんだら堂やぐら群なのです。「やぐら」は岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓です。やぐらは鎌倉を中心とした周辺特有のものと見られますが、近年では全国の北条氏などと関連の強い地域などにも確認されているそうです。やぐらが造られた時代は鎌倉時代後期から室町時代の始め頃と考えられいます。

鎌倉には廃寺が沢山あります。この地にまんだら堂という地名が残ることから、かってここにも寺院が存在し曼陀羅堂などのお堂があったのかも知れないのです。しかし、そのような寺院があったという具体的資料は何も無いようです。以前に試掘調査が行われているそうですが、建物跡の存在は確認されていないようです。このまんだら堂は日蓮行者が整備され、あじさい園として公開されていましたが、平成12年度以降閉鎖されていて入ることができません。写真は特別に用意したものです。逗子市では、今後まんだら堂周辺の文化財調査を行い、史跡整備を実施した以後に公開を計画しているといいます。

まんだら堂やぐら群を訪れた人は、2段・3段、と重なるやぐら群と、おびただしい数の石塔に圧倒されることでしょう。曼陀羅とは仏教の悟りの世界を仏や菩薩の像の配置で表現したものですが、この名越切通にあるやぐら群を見ていると、その不思議な世界へと引きずり込まれて行く錯覚を覚えます。

現在見られるまんだら堂やぐら群は、日蓮行者が長年掛かって土に埋もれていたものを掘り起こしたものであるといいます。しかし、今だに土に埋もれたものもあるといい、分布状況やその数は未詳だそうです。

更に不思議なのは、このまんだら堂のやぐらの全部が隠匿(いんとく)やぐらだというのです。良く見る一般的なやぐらは、全面を開放して内部には装飾を施し五輪塔などの供養塔を安置するものですが、隠匿やぐらというのは、やぐら内に五輪塔を積み上げ石で扉を閉ざして隠されていたものであるというのです。そして掘り出された五輪塔には梵字が刻まれ、そこに金箔が貼られていたそうです。

写真の五輪塔は苔に覆われ、金箔の梵字など見る影もありませんが、かえってそれが仏教の無情感を漂わせているかのようです。ここのやぐらの造られた時期は鎌倉時代後期から室町時代始め頃のものと考えられていて、どのよな人々を埋葬したのかいっさいは謎のままですが、一般にやぐらに埋葬された人々は上層階級の武士や僧侶などといわれていますので、ここに葬られていたのは或いは鎌倉武士であったのかも知れません。ここは正に兵物の夢のあと地であるかのようです。

大空洞・小空洞
先に『新編鎌倉誌』の名越切通の部を引用しましたが、そこに「大空洞・小空洞」(おおほうとう・こほうとう)というのが出ていました。それではその大空洞と小空洞とは今も名越切通の内に有るのでしょうか、有るとすればそれはどこにあたる部分なのか、名越切通に興味を持たれた方はみな考えます。調べて行くとどうやら右写真の両側崖が深く狭まった部分が大空洞と呼ばれていることがわかりました。(別説には大空洞や小空洞はここよりも逗子側にあって、現在では亀ヶ岡団地の造成でなくなってしまったとも言われています。)

ここは名越切通の逗子市側の最後の切通し道部にあたり、これこそが鎌倉切通の代表的な姿であると写真などで良く紹介されているところです。写真右側から傾いて突き出ている大きな岩は、切通しが防御遺構である証しのように威圧的に見えます。確かに通行を容易にはさせないぞと人為的に削られたもののように感じられます。現在この部分は崩落の危険があるので通行禁止となっていて、迂回路が設けられいます。

迂回路を上り始めると切通し側の地面に縦に大きな亀裂が見られ崖の崩落を予感させますが、その崩落の張本人は写真の突き出た岩であることが窺われるのです。

何ということか、容易な通行を妨げている防御遺構と思われていた岩は実は逗子市の「国指定史跡名越切通整備基礎調査」で説明されている崩落の危険がある岩だったのです。崩落部分では風化による岩盤のゆるみや崩落が見受けられ、地震や大雨の際に更なる崩落を発生させる危険があるといいます。

どうやらこの突き出た岩は長い年月により崩落を繰り返し現在のような姿となった可能性も考えられそうなのです。そうすると切通しが開かれた当初は道幅はもっと広く両脇の崖の幅も一定であったのかも知れないのです。切通しの通行をしずらくするために削られたと思われた岩は人為的なものではなく、自然災害の繰り返しによるもで、それを防御遺構と勘違いしたとするならば何とも皮肉な話です。

切通し中心部の発掘調査
近年この大空洞内の道路面の発掘調査が行われています。大空洞の切通しは大きく直角に近い角度で折れ曲がっています。折れ曲がる逗子側の手前をトレンチ設定したところ4期の道路面が確認されたそうです。道路面は切通し崖面から崩落した泥岩塊を踏み固めたものであるようです。一番上の道路面は現在の道路面の15〜20センチ下にあり両側には排水溝を伴っていたそうで、この時の道路幅は3.4メートル、南側排水溝幅は80センチと報告書にあります。

排水溝は3時期目以降に掘られたものだそうです。4時期目の最下の道路面は岩盤を直接堀窪めたもので、この時の道路幅は2メート、道路中央での切通しの高さは8.2メートル前後と推定したと報告されています。出土遺物は瀬戸折れ縁鉢の口縁部小片(13世紀後半)と肥前産と思われる染め付け碗の破片(18世紀後半)などから、最下の道路面は近世にも使われていたことがわかったとあります。

右の写真は迂回路上から撮影したものですが、撮影した位置は崩壊のおそれがある場所ですので、ここから写真を撮られたりする方はご注意ください。

狭いと思われていた切通し部も上から眺めてみると思った以上に広いことがわかります。切通し崖面も人為的に削られたものであることが窺われます。

以上報告書の内容から大空洞と思われるこの切通しは中世から近世、そして現代に至るまで道として機能していたことがわかりました。右の写真は切通し部を下りて来たところで、迂回路はここで元の道と合流しています。ところで大空洞はこことして、小空洞はどこになるのか?それがどうもハッキリしません。置石のあるところからここまでの間、切通しは数ヶ所みられますが、さてどこなのか?

今は幻の新箸の宮
大空洞を下ってしばらく山道を進むと、やがて左手に配水池タンクが見えてきます。そして左写真の住宅が建ち並ぶところに出ます。昔のままの名越切通道もどうやらここまでのようです。この住宅地は亀ヶ岡団地といい写真のとおりのどこにでもある住宅地の風景です。ただ、この住宅地内には宅地化される以前に「新箸の宮」と呼ばれる、頼朝と山の娘の広尾との出合いの伝説地があったといわれています。

頼朝が伊豆の流人時代に鎌倉の八幡宮に詣でたあと家臣二人と三浦へ向かう途中で道に迷い、名越の山中の一家で足を休めていました。そこの少女(広尾)が粟飯を炊き、茅の新箸を作って頼朝達をもてなしたそうです。頼朝はたいそう喜こんだといい、三浦地方ではその日にあたる七月二十六日を新箸の節句として祝うようになったそうです。その後里人がこの一家の地に一堂を建て新箸の宮と云うようになったと伝えています。また『吾妻鏡』に名がある久野谷弥次郎はこの時の家臣の柳川弥次郎で、頼朝が鎌倉入りした後に広尾とめあわせたのだといういい伝えがあるようです。

今は新箸の宮跡も定かではなく、開発の波に呑まれてしまった亀ヶ岡団地があるのみです。住宅地内の道を左へと坂を下って行くとやがて県道鎌倉・葉山線に出る少し手前に庚申塔と数基の石塔があるのが見られ、名越切通からの街道であったことを物語るのみです。

鎌倉七口-名越切通   次へ  1. 2. 3. 4.