日 常 の 拡 大


 今回の旅は、特別に目的のある旅であったわけでもなく、同行の2名もまたそんな感じであった。少々カッコをつけていうならば、「制作のための個人取材」とでもいいましょうか、ただ”砂漠”が見たかった、という思いだけで出かけていったそんな気がする。人はたいがいある目的のために行動を起こし、その結果を振り返り「意味のあることであった」とか「無意味なことだった」などと判断している。ましてや大枚をはたいて旅に出る時などは、余計にそのような思いは強いはずであり、それなりの目的を持つのが普通であるように思われる。そういった意味からすると今回の旅は、動機も不純、目的も明確でなく、言い換えると「日常の延長」にこの旅が存在していたように思われる。出発前日の徹夜からこの旅へとフェイドインしていったのである。

 成田空港で同行の知人と落ち合い、そのままAF275便パリ行に乗り込んだ。ユーラシア大陸をふ瞰しながら、気がつくとシャルル・ド・ゴールの滑走路の上に着陸していた。パリで一泊した後に我々はエチオピア・アジスアベバを目指した。カイロでトランジットのため6時間を過ごしたのだが、この6時間はかなり辛いものであった。というのも、物理的に6時間待つということに対する辛さではなく、精神的な不安に対するもので、何の覚悟もなかったために、その数時間は何ともいえないものだった。手荷物・現金以外はすべて一時的に没収され、我々はカイロ空港のトランジットゾーンの中で、ただひたすら待ち続けるという状況であった。当然のことながら、パスポート・航空券も没収されて、このような出来事で旅は始まったのである。「もし、このままパスポート・チケットが返って来なかったらどうなることだろう」と思いながら待ち続けた。「国籍を証明できるものは何か」「これから旅はどうなるのだろう」などと余計なことばかり考えていた。待つこと4時間、一人の空港係員が我々の名前を呼んだ。その手には3人分のパスポートと航空券が握られていた。一瞬のうちに今までの不安が解き放たれて、旅の続行が許可されたようにも思えたのであった。

 不安な一夜を過ごした後、我々は無事アジスアベバに到着した。ホテルに着きチェックインを済ませ、周辺の散歩とマラリアの薬を買うために街をぶらついた。土埃と人、車の雑踏の中、私はテープレコーダーをポケットに忍ばせ、ノイズの収集をして歩いた。自動車のクラクション、エンジン音の隙間に入り込む子供の声に、私は何とも言えない思いにかられた。石がゴロゴロした歩道らしき道を、後ろから前から「マネー」と声を発しながら必死に追いかけてくる。年のころ2歳になるかならないかの子供である。それらを振り切りながら歩き続けると、前方には路上に座り込み、おそらく病気で顔面が崩れかけた女性が、手を差し出だして物乞いをしている。その姿は、視覚的にも精神的にもかなりのダメージを私の中に残した。同行の氏によると、昨年よりは国内状況は改善されているとのことであるが、街を歩くたびに我々に浴びせられる「チャイナ」「ジャパン」という言葉は、「金持ちの東洋人」という代名詞となって私の脳裏に刻まれた。この旅のために新調した高性能のテープレコーダー(決して安くない)で初めて録音した音が「マネー」という言葉とは、先進国で生活している私にとって何とも皮肉な言葉の洗礼であった。

 水事情も悪いとのことを聞いてはいたが、上水下水ともにかなり整備されていない様子である。街のところどころで悪臭がしていたり、雨期などはかなりのものらしい。なにしろ、地下100メートルほどのところに厚い粘土層が存在しているために、その地点で大地に浸み込んでいった水が溜まってしまっているとのこと。大地全体をトイレとして代用している(当然トイレは存在するのだが)エチオピアでは、5千数百万人のろ過しきれない汚物の蓄積が存在しているということになる。このことは、少なからずとも上水にも影響があるものと考えるのが普通である。原因は明らかではないが、現地産のビールを2本(小ビン)飲んだ翌日は、必ずといっていいほど腹を下すのである。おまけに海抜2500メートルでのアルコールは、腹を下す以前に酸欠状態に陥るのである。ホテルまでの小坂を登り切ると、いつになく息切れが生じ、こめかみの辺りに痛みを感ずるのである。その土地の高度をすっかり忘れている我々に、アルコールを飲んでいなくても自然は、小走りするたびにその高度の体感を体に教え込むのであった。

 水一口飲むことの出来ない、あらゆるものに保護された日本人を実感させられた。路上の物乞いにせよ、「マネー」と叫ぶ子供にせよ、生きていく必然性において理解をするならば、彼らは当り前のことをしているだけなのである。そのことについて否定もせず肯定もせず、「このことはいったいどういうことなのだろうか」としばらく考えてみた。政府が改善を考える必要があることは理解できるのだが、それ以前に水だけでなくあらゆる病気との闘いに、生命をかけた自然淘汰が存在している。幼い子供が3人も4人もいる物乞いを見ていると、数年後の彼らの存在を思わず考えてしまった。

 歴史的に19世紀のヨーロッパ植民地主義の中、エチオピアは植民地を逃れた数少ない国のひとつであり、その恩恵として外的な文化に左右されず、独自の文化を色濃く残している民族性の強さを思い知らされたような気がした。それは、日本に生活するものから見れば明らかに望ましいものではないが、今回の旅で強く印象に残った漠然とした「本質」の強さでもあるような気がする。

 我々の生活の中で、何かにつけて本質を語ることの少なくなった現在、情報やメディアの一方的な押し付けから逃れることは難しく、摂取すればするほど本質を見失ってしまいがちである。本質を語ること自体無意味なのかもしれないが、細かい情報に必死になること自体も意味のないことであるように思われる。

 日常をいかにして拡げるか、それは実際に空間を移動することに答えがあるように思う、今回の旅であった。


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