卵売りの少年


 アフリカは民族の宝庫であり、少数民族から多数民族までがあらゆる形で共存していて、19世紀にヨーロッパ諸国によって国境が引かれるまでは、民族単位ですべてのものが統制されていた。つまり、強制的な“押し付け”というものは、その国の国王によってのみ行われ、それなりの秩序を保ちながら形成されてきた。民族を象徴するものとして、衣装や食事というものがあるが、これらの文化は植民地政策時にヨーロッパ諸国によって歪められ、現在ではさまざまな多様性を見せている。他民族国家では「共用語」という形で言語を統一している国もありますが、衣・食に比べて“言語”における民族性というものは常に守られつつある。

 1914年の時点でアフリカはエチオピア、リベリア以外すべての国がヨーロッパの植民地となり、文化の融合を余儀なくされたのであった。エチオピアには現在83民族、83言語が存在しており、共用語としてアムハラ族の言語である“アムハラ語”が使用されている。アムハラ語では、“家”のことを“ベット”という。家と言っても正しくは建物をさし、例えば家畜の小屋であれば「牛の家」や「山羊の家」という日本語にあたる言葉になる。人間の住む建物は“セウベット”(人間=セウ、家=ベット)ということになり、つまりは建物がすべて家なのか、“家”“小屋”などを使い分けるという概念がないのか、理解に苦しむところである。

 我々は、首都アジスアベバを離れてから街道沿いのホテルを、ほとんど毎日移動しながら宿をとっていった。現地ではホテルはとりあえず“ホテル”と呼ばれているが、アムハラ語では“ブンナベット”という。エチオピアでは、“ブンナ”と呼ばれるコーヒーをよく飲むのだが、このブンナを飲むにあたっては儀式として捉える側面が強く、特に接客の時には非常に時間をかける。コーヒー一杯飲むのに30分から1時間はかかるのだ。特別な意味合いもあるのだろうが詳しくはあとで述べることにして、儀式としての様子が伺える、そういうブンナを飲ませる家がブンナベット=ホテルである。

 エチオピアでの後半は、ハラルという街に10日間ほど滞在していた。部分的には崩壊しているものの街は四方を城壁で囲まれていて、歴史の余韻を感じさせる街並みである。街のほぼ中央にはファラスマガラ広場と呼ばれる広場があり、それに隣接する形で“アカデミー”というホテルがある。我々が宿をとっていたのは別のホテルだったが、ハラル滞在中は1日に1回は必ずこのホテルに立ち寄っていた。日中、各自取材の途中や終わった後にブンナを飲んだり軽い食事をとったりしていた。いわば、我々の集合場所であった。そのホテルで働いている一人の少年がなかなかユニークなやつで、我々が行く度に給仕をしてくれた。名前は“アジス”といって日本語では「美しい」という意味である。首都“アジスアベバ”は「美しい(アジス)・花(アベバ)」という意味で、おそらくそれに由来するものであろう。

 店で会う時はいつも陽気に声をかけてくる。その陽気さは夜には最高調に達し、毎晩のように我々を笑わせてくれた。そんな彼も午前中は笑顔の一つも見せない。ただ眠いだけなのかよくわからないが、おそらく12時間以上はその店で働いているのだろう。我々はいつも午後10時にはホテルに引き上げることにしていたので、それ以降のことは定かではないが、一日の大半をそのホテルで過ごすということになる。朝も早くそれが毎日なので、午前中笑いがでないのも無理もない話であろう。仕事があるだけでも非常に恵まれた環境なのである。

 ある夜、我々はいつものようにアカデミーでビールを飲んでいた。ホテルの前には車が数台止められるスペースがあるのだが、その日もタクシーが2台ほど駐車されていた。その傍らに一人の老人が立っている。どう見てもあまりきれいな格好には見えないし、物乞いのようにも見える。一本の杖を携えていっこうに動かない様子である。それもそのはず、老人はそこに止めてあるタクシーの見張りの仕事をしているのだった。しかも夜通しでそれらの車の横にずっと立っているのだ。微々たる報酬で一晩中働くのである。

 おそらくアジス少年も微々たる報酬に違いなく、あの陽気さはその反動からくるものではないだろうか。彼はホテルに行くと必ずといっていいほど、暗い隅のテーブルに我々を案内した。その理由には2つあり、1つは自分がサボるためであり、もう1つはその影で我々に飲み物をねだるためである。店の主人の眼を気にしながらも、影でコソコソとコーラを飲むのである。彼は我々に英語を教えてくれといつもいうので、簡単な言葉を二つ三つ教えるとそれを何度も繰り返し発音する。我々3人をニックネームのように呼ぶ三つの言葉があった。“smoking”“drinking”“eating”である。彼はことあるごとに、この三つの言葉を我々にかけ、最後に“dagerous!”と付け加えるのだ。「アジス、おまえの方がよっぽど危ないよ。」と私は言いたいくらい、夜は陽気なのである。ちなみに私は“eating”と呼ばれていた。なぜなら、その店で私はよくゆで卵を食べていたからである。

 ゆで卵がたくさん入ったザルを担いで、我々のテーブルにやってくる一人の子供がいた。年の頃五歳にも満たないほどの小さな子供が、夜10時近くになっても、うろうろと卵を売り歩いているのだ。無言で我々のテーブルにその大きなザルをのせるので、思わず私は一つ買うことにした。代金を支払おうとお金を出すと、その子供は頭を垂れ立ったまま、膝をガクガクさせながら必死に睡魔と闘っていた。何がその子供をそうさせてしまっているのか、複雑な気持ちで眺めながらも、眼を開けては代金を受け取る仕草も見せず、ただただ我々をボーッと見ているだけなのである。ほとんど意識がはっきりしていないのだ。その子供の売る卵の収入だけが、家計を支えているとは当然思えないが、少なくとも貧しい生活の中、一日のノルマを果たせずに夜中まで酒場をうろつく卵売りの姿は、ハラルの夜の象徴として私の脳裏に刻まれた。

 アジス少年にせよ、タクシーの見張りにせよ、卵売りの子供にせよ、過酷かつ孤独な労働であり、私にはそのような状況全体が、酷薄なものとして眼に焼き付いたのであった。


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