引きこもりの先見性 コロボックル用原稿 きまぐれ演劇批評 TPS第七回公演「遊園地、遊園地。」(シアタ ートラム、2001年11月21日) *** 引きこもりの人間こそが正常なのかもしれない *** 21世紀に入るなり、こんなにも先行きの不透明な、重苦しい気分 になるなんて誰が予測しただろう。 不景気、失業、産業の空洞化、地域社会の崩壊、家族の崩壊、 学校教育の崩壊、さまざまな安全神話の崩壊、、、ありとあらゆる ものが崩壊の危機にさらされている。 地方都市に住んでみると、その崩壊が日常的で現実的なものとし て感じられる。何の希望もなく、目的も作り出せず、生きていくだ けで精一杯な毎日。人口が減少し急速に高齢化していては、どんな 商売をはじめても失敗するしかない。成功するのは、あやしげな金 だけ握り締めて孤独な毎日を送っている老人を狙った新興宗教くら いだ。 地方都市の夢のかけらもない精神的に荒廃した生活を日々味わっ ている僕としては、北海道・札幌市からTPSという劇団が、つぶれた 遊園地を舞台にした公演するという情報を新聞で得たとき、迷わず 行くことを決めた。その荒廃と直面すれば、きっとパワーのある芝 居が生まれるであろうと期待したのだ。 ・ つぶれた遊園地をねぐらにする若者たち 「遊園地、遊園地。」は、つぶれて解体された遊園地が舞台だ。 遊園地の技術者だったシュンイチは、なぜかそこに流れ着いた3人 の若者たちと遊園地ごっこをして毎日くらしている。この3人は、 まるで道化師のように陽気で、客のおらず遊具もないはずの遊園地 で「仕事」をしている。おもちゃのコインが彼らの「報酬」だ。 そこにかつての上司であったカズキが、ひと言も言葉を発しない 妹ナナコといっしょに現れる。カズキは、シュンイチよりもひと足 先に遊園地を離れているため、解体の現場には立ち会わなかった。 カズキは離職後離婚し、失業し、妹と二人で生活する。言葉をひと 言も発しない妹に導かれてかつての職場に現れた。 2時間の芝居は、彼らの意味があるのかないのかわからないやり とりを延々と演じ続ける。何ひとつ希望は見出せない。救いは、 そのようなときでも身を寄せ合って暖かさを作り出し共有しようと する人間たちの本能だけだ。だが、それすらもはかない夢のように 消えていく。 ・ 老人たちのための遊園地 シュンイチは、いろいろと悩んだ末に、老人のための遊園地を作 ることを考える。 それをきっかけに3人の若者たちはシュンイチのもとを去っていく 。3人の若者たちは、遊園地の守護霊だったのか。かつての上司も すでに妹と心中をとげていて、シュンイチの心が呼び込んできた霊 だけだったのか。 老人向けの遊園地という話はいい年して遊んでばかりいる日本の 老人たちへの批判かもしれない。遊園地は子供たちのものだ。老人 が遊んでどうする。そもそも老人たちが遊んでばかりいるから、 社会がおかしくなったのだ。 こうしてシュンイチがひとりで遊園地跡地に茫然と立ち尽くす場 面で芝居は終る。 どこにも救いのない、ひたすらさびしいだけの芝居だった。その さびしさが、劇中のものとして対象化されるものというよりも、 むしろ同時代を生きるものとして共有されるものとして感じられた 。これは作者や演出家や俳優さんたちの力量もあるのだろうか、 時代精神をそのまま表現できたことによるのかもしれない。 この芝居は、いいようのない閉塞感、特定の個人ではなく社会全 体を覆っている不透明感を一貫して感じさせてくれる。 ・ 身の置き所のなさ 今、社会で問題化している引きこもりの人たちは、このような社 会の風潮を無意識に感じている感受性の強い人たちなのではないだ ろうかと思った。 人と競争してどうするのだ。社会全体が没落していくときに、外 に出てから元気を出しても、虚しいだけではないか。いっそ家の中 で誰にも迷惑をかけずにひっそりと生きていくほうが望ましいので はないか。 社会のどこにも身の置き所のなさを感じさせる作品だった。むし ろ引きこもるほうが正常であり、「頑張っている」連中こそが時代 を見誤っていて、時代の流れの変化に鈍感なのではないか。そんな ことを考えさせてくれた。 得丸久文(2001.11.21)