視座と枠組みと。。。 虚風老 クルーグマンについては、いろいろコラムも読むが、あまり異論 はないの。 彼は、経済と貨殖とを区別しておるし、(普通、経済学というと混 同されておる場合があるからの) 自由貿易の益と、投機の害についてだって、、トービンを支持して おる。(わしもじゃ) ただ、グローバリズムと文化の関係については、彼は楽観しすぎて おると思うがの。 それは、アメリカ文明の中枢におう人間とわしのような、世界文化 からいえば辺地におる人間の感覚の違いじゃとおもうがね。 人間は、ただの物的存在なのではなく、風土や歴史(言語とかね) といった時空関係性によって、できているのだと思うからじゃ。 流動性のワナについても、分かるが、それは、どちらかといえば、 会計不況(会計上、資産=土地・株式などのストックの下落にとも ない、債務超過を避けるために、流動性に回るべきエネルギーが、 ストックの評価替えという穴にすいこまれる)にとって、生じてい たといえるじゃろう。だから、その時点で、日銀がじゃぶじゃぶ金 を出すことには支持をした。 また、護送船団方式や、日本の土地担保主義の金融慣行などが、冷 戦後の世界経済環境で、世界を相手にする場合、問題があるであろ うことは、あきらかであった。 だから、金融の思考の抜本的な変革は必要じゃったんじゃ。 (といって、投機偏重まで認めるつもりはないがの。まあ、そのへ んの投資と投機が、ボーダレスになるのは、アメリカという中心が 、それで回っているからで、日本にそれを改めさせる力はないしの。 それならそれで、対応しなければならん。) 調整インフレについては、確かに、これによって、国家財政の悪化 は改善されるじゃろう。 しかし、それの原資は、「移転」じゃということじゃ。 銀行という金融機関の破綻をさけるために、国民全体で、広く薄く 負担をお移転させたみたいなものじゃ。 わしゃ、国の金融システムが破綻しないことは重要であると考える から、この移転については、しかたがないと思ったがね。 しかし、もともとインフレターゲット論は、高インフレ状態の時に 、どこまで、許容できるかという低下させるための政策であった。 現在、金融機関をはじめ、損切りなり、会計処理がすすんだ段階で は、インフレターゲットは、移転の安易な方法でしかない。(つま り、税方式ならある方から取れ、とか心理的に好況感を演出(株価 で目に見える=故に未来に希望をもって、設備投資や消費の増大に つながる)できるとかを期待してのことじゃろう。 いわば、心理経済学とでもいうべき状況が、好転の材料にはなる。 だが、問題は、企業業績の回復が、アメリカでもジョブレス(国内 労働セクターへの利益の分配移転がない)な好況といわれたとうり の状況を生み出しつつあるのもご存知のとうりじゃ。 それは、経済学上は、モデルとして<労働>も抽象化された数字に 他ならないので、企業にとっては、コストという数字の一部分でし かなく、中国であろうと、東南アジアであろうと、代替が利けば、 どこでもいいわけじゃ。 故に企業はボーダレス化する。 ところで、我々が、国家戦略と言った場合は、国民の生の「生活」 を扱っておる。 また、国際戦略の場合でも、それらの関係がもたらす、経済以外の 問題を勘案しなければならぬ。 たとえば、何処そこにいけば、環境基準が緩いから対環境費用が少 なくてすむというのは、ミクロでの企業経営には利点(利潤の増大 )かもしれないが、全体(地球環境と不可分のわれらを含み)にと っては、罪悪になる。 つまり、わしとしては、あくまで国民の大多数を占める層の生活が どうなるか、という視点と利益から、手放しのインフレは警戒心を もってしか、是認できない。 (本当に、それほど、大量消費をする必要があるのじゃろうか?) 経済学史の傍流に、昔医者上がりの経済学者というのがいた。 彼等は、経済を社会という生体の一システムとして思考した。また 、やはりもうひとつの経済学の流れというのなら、ホアン・マルチ ネス=アリエなどが、「エコロジー経済学」として紹介している種 々の人々がおる。 論理やそれによって構築されたモデルというのが明らかにするのは 、措定された前提によるある特定間のハタラキについて述べること ができる。また、それらのハタラキ同士が、別の関係性について、 影響を与えるかについて推論することもある。 「政策は状況とセットである」というのが、わしの持論じゃ。 虚風老 ============================== Re:視座と枠組みと。。。 猿マシーン スティグリッツとかクルーグマンの話をしているとすっかり経済ネ タになってしまったよ。 大量消費というけれど、消費する喜びは中々に捨て難いものがある と思うんですよね。 政策と状況はセットというのは正にその通りなんですが、政策を打 ち出す元は大衆の欲求なわけで・・・。 私の持論は「政策と状況は大衆が作る」といったところでしょうか。