何が道徳の基本になるべきか。 虚風老 教育再生会議などで、「道徳」論議などがされておる。 しかし、価値の多元化がすすんだ今、何かの教え(例えば儒教)の みに従って道徳を語るのは難しいじゃろうと思う。 何が「道徳」の基本か?というとじゃな、 <利己主義>の制御にあるといえるじゃろう。 それは、 「自分がされたくないことを他人にはしない」と、 「自分ひして欲しいことを他者に してあげる」という単純なやり 方でできるんじゃが、 「悪をナサズ、善をナセ」という三才の童子に分かる理屈を、本当 に実践することはなかなか難しいように、なかなか実行されない。 実際、利己主義さえ克服されれば、どんな体制(社会システム)で あろうと、かなりうまく機能するじゃろう。しかし<利己心>は人 間の本源的なこころに、欲として巣食っておる。 良性な社会を形成するということは、それをどこまで制御できるか にあるじゃろうな。 また、過剰な利己主義は、最終的に自分をも害してしまうんじゃ。 人は関係性の中に生きているから、それを傷つければ、それが自分 に跳ね返ってくるわけじゃね。 ルールに則った競争や、高みを目指そうとする意欲は認められなけ ればならないし、また個人個人の欲が、生きる力を求めさせるので あろうし、それにまた実生活上、我々は、大方他者に迷惑をかけな いでいるということはできないが、 他者に<損―害―不快―危険>を与え、尚且つそれを知りながらあ えてすることを<利己主義>というんじゃ。 実は、利己主義という、この原点的な病から、「貪瞋痴」も生まれ るとるんじゃがね。 自分の中心軸を持つということと、自己中心的という言葉のニュア ンスはかなり違うんじゃ。 自分の中心軸を持つというのは、自立・自律を確固として持ち、毀 誉褒貶に惑わされず、どっしりと迷いのない生き様をすることを言 うんじゃ。 自己中心的というのは、自分以外の人の迷惑や、人と人の間のあり よう、社会の公益を省みないような人をいう。 そして、その意味では、「個人主義」とも違うんじゃな。 「個人主義」というのは、個人個人が自立してそれぞれの価値観と 自由を大切にし、他者に過剰に干渉しないことをいうもんなんじゃ ろう。 故に価値は多元化するが、自分の自由を守るが故に、他人の自由も 尊重するし、社会の健全なありようも求める。(いわば、リベラル) 確かに、右の国家主義や、左の全体主義からは遠いが、 その為に、個人が、<人と人との間=社会>から、逃走していいと いうわけではないんじゃね。 このサイトを「企業の戦略」から「個人の戦略」としたことは、 その方がええとは思うが(企業では個々の特殊性が大きすぎるから の)ここに「個人」という言葉が出てくるのは、おそらくこの意味 なんじゃろうと思っておる。 道元が、「仏道をならうというのは、自己をならう也」っという言 葉があるが、ワシはあらゆる生の営みは、実は<自己の探求>なの ではないかと思うておる。 「個人の戦略」というのが、<自己の探求>であり、<社会のあり ようと自身>を考えること>であって欲しいと願っておる。そのため には、やはり、自己を形成している世界も深く知らんとの。 虚風老(^^) ============================== ひさしぶりに罪悪感について トリニティ お久しぶりです。トリニティです。今回は巷にあふれている心理的 テクニックを取り上げてみたいと思います。ずばり、国家単位の人の 心を動かす代表的な手段は何か?・・・って、前にもやったネタです が、今回はもうちょっと掘り下げてみます。まずは罪悪感から。 罪悪感→罪悪感をおしつける側をピッチャー、おしつけられる側を キャッチャーと呼ぶことにします。ピッチャーの戦争・外交・情報 戦その他諸々の工作によってキャッチャーへの罪悪感のおしつけが 成功した場合、キャッチャーはピッチャーに対する謝罪と補償と禁 欲的態度を義務付けられます。このおしつけが成立した後になって キャッチャーが罪悪感を否定したりすると、皆(ピッチャー連合) から頭がピーであるかのように扱われたり、また悪いことをするん じゃないかとあらぬ疑いをかけられたりします。キャッチャーに対 する抑圧は倫理面にとどまらず、強力な抑止力を保有することも自 立戦略をとることも難しくなります(ピッチャーへの挑戦にならな いレベルなら許されます)。ピッチャーとキャッチャーの関係は明 白に非対称であり、現にピッチャーの方がけっこう悪いことをして いたとしてもキャッチャーはあまり強いことを言えないし、言った としても聞いてもらえません。また、ピッチャーはピッチャー連合 をつくりますが、キャッチャーがキャッチャー連合をつくることは 許されません。ピッチャーはこういった優位性を固定化するために 、キャッチャーの過去の悪事を象徴化したり、その悪事を他の象徴 的な悪事とリンケージさせたりします。 罪悪感の成功例:「南京大虐殺」 →事実かフィクションかはともかく、日本人は罪のない中国人を一 方的に大量虐殺したということになっています。これが大々的に宣 伝されることで、やっぱり日本人は潜在的に危ない、右傾化したら また同じことを繰り返すかもしれない、皆(ピッチャー連合)で警 戒して封じ込めておくべし、といった認識が一般化します。ナチス の「ユダヤ人大量虐殺」とリンケージさせることで象徴効果はさら に倍増。敵国条項も原爆投下も根拠が与えられてしまいます。キャ ッチャーである日本の戦後の平和的な歩みをもってしても、ピッチ ャーの基盤を陳腐化させることはできないようです。 罪悪感の反転例:北朝鮮と日本との関係(北朝鮮は孤立した小国で あったため、これは例外的なケース) →最近までは北朝鮮は日本の朝鮮支配を口実にピッチャーの位置に 立っていましたが、将軍様が拉致を認めたために関係が逆転してし まいました。ピッチャーの立場でないと北朝鮮は国体を維持できま せんから、北朝鮮に対してピッチャー化した日本のことは無視し続 けています。 罪悪感の中立例:アメリカの戦時における日系人の収容に対する補償 →アメリカは行為を正当化しつつスマートに負債を処理しています。 勝者の余裕というやつですね。 罪悪感が機能しない例:欧米の中国に対する人権批判 →そもそもピッチャー側に罪悪感をおしつける強制力がないし、中 国自身キャッチャーをやるつもりがまったくないので、実質的には 儀礼的な次元の問題になっています。 日本人やドイツ人は先の戦争に対する罪悪感を持っていましたが、 イラク人はイラク戦争に関してまったく罪悪感を持っていません。 むしろアメリカの方が悪者にされている始末です。罪悪感のおしつ けは人間集団を円滑に支配するための重要な技術の一つといえます が、成功例は数少ない。また、あまりにもキャッチャーを追い詰め すぎてしまうと、反動の可能性も出てきます。 まとめ ・罪悪感をおしつける側(=ピッチャー)はおしつけられる側(= キャッチャー)に謝罪と補償と禁欲的態度を強いることができる。 ・キャッチャーが罪悪感を否定すると、ピッチャーから危険視され 攻撃される。 ・キャッチャーが強力な抑止力を保有したり自立戦略をとったりす ることは困難になる。 ・ピッチャーは他のピッチャーと連携し、ピッチャー連合をつくる。 これに対し、キャッチャーがキャッチャー連合をつくることは許 されない。 ・ピッチャーは優位性を固定化するためにキャッチャーの過去の悪 事を象徴化したり、その悪事を他の象徴的な悪事とリンケージさ せたりする。