引きこもりの子どもには社会力があるというパラドックス From得丸公明 PS 逆接的ですが、現代日本で、引きこもる子どもが多いというのは、これも彼らに 社会力があるからだと思います。 つまり、このしんどい、世知辛い世の中に出て行って、いじめられたり、利用さ れるのは大変につらいことですが、それ以上につらいのは、うまく立ち回って人 をいじめたり、搾取する道具として利用されることです。 社会力を発揮して、そんなことをするくらいなら、自宅でゲームでもしているほ うが、まだ心が休まる。 これからどうやって生きていくのかともっともらしいことを言う大人がいるけ ど、すでに人類の文明が終っているのなら、人類はこれから大絶叫マシーンの ジェットコースターのような時を迎えるのなら、せめてそれまでの時間、のんび りさせてくれというのは、社会適応力の表れでしょう。 厳しい時代だからみんなで助け合ってなどといえるのは、よほど強靭な神経と行 動力をもつごく一部の人間だけであり、その他の人間は、時代が厳しくなれば、 単純に阿鼻叫喚の中で罪を犯し、人を傷つけあるいは人に傷つけられ、ドタバタ するだけではないのか。 それなら静かに引きこもろうと思う若者が増えるのは、2手、3手先を読む先読 み力という社会力がある証拠ではないかと思うのです。 ============================== From: 木野 得丸さん、ありがとうございます。 ひきこもりと社会力は以下のように整理できると思います。 社会で上手く人とわたりあうことができる力が社会力なのでその うまくわたりあうために何が必要かにつき敏感になることはその 準備として必要なことです。力をつけるためにはその方法につき 確かな認識と準備が必要です。 ここでその方法の提示およびその導きがうまくされないと、とても 大変で気苦労の多い作業のように感じられひきこもったほうが気が 休まることになりがちです。 一方上手く(これが言うが安く行うが難し、ですが)導けば、ひき こもるより面白い世界があると感じて行動していきます。 したがって、ひきこもりとはここでは社会力があるからひきこもる のではなく、社会力をうるための道筋がうまくガイドされないため 必要以上に難しいものととらえてアクションを控えてしまう状態と 定義できると思います。 なにか結果をうるためにやらなければならない工程が見えた時それを おっくうと思って、やめてしまうか、とにかく一歩踏み出してしまうか は実はそれほど大きな違いはないのではないかと、つまり教育のちょっと した工夫で出来る(一歩踏み出す方に)ことではないかと、そんな思いが 門脇先生の本には含まれているように感じます ============================== From得丸公明 木野さん、 > なにか結果をうるためにやらなければならない工程が見えた時それを > おっくうと思って、やめてしまうか、とにかく一歩踏み出してしまうか なるほど、門脇先生はそういうお考えなのですね。 僕が引きこもりが社会力であるというように思うのは、自分が競争社会に出て頑 張ると、自分以外の誰かがゲームに負けて苦しい思いをするかもしれないという ゼロサムの発想が働いているのではと思うのです。 自分が頑張らなければ、誰かが頑張れるかもしれない。 そういうところは、社会性があると逆接的にいえないでしょうか。考えすぎで しょうか。 得丸 ============================== 得丸さん、ありがとうございます。 社会全体に有限なパイがあるという考え方の問題だと思います。 社会全体に100しか成功する可能性がない場合、それを150人が 早い者勝ちで奪い合うと自分がそれを勝ち取らなくてもだれかが手にする ことになります。逆に自分が頑張ってしまうと確実にパイは減ってしまいます。 ところが成功する可能性が1000あるのにそれにアクセスできる人が 150人しかいない場合、ことは純粋にその当人が踏み出すかどうかに集約 されます。たとえばおやじカフェのウェイターになるパイは有限かもしれませんが おやじカフェに行っておどっているおやじを見てお話までしてしまえる可能性 はその何倍もあって、まだまだ多くの人が参加できるといったイメージです。 誰かが100万円得したら誰かが100万円損する、といった金融取引にある ゼロサムの考えはいろんなアプローチがある社会力にはちょっときつい分析方法 ではないかと思います 木野 ============================== 無限と無限の比較をやってみましょう From得丸公明 木野さん おはようございます。 地球をゼロサムあるいは閉鎖系環境とみるか、非ゼロサムあるいは開放系とみる か、というのは重大な考え方の差ですね。 胴周り80cm、寿命80年の一人の人間にとっては、赤道周囲4万キロの地球 は、5×10の7乗の胴回りであり、45億年生きてきた年齢もまた5×10の7 乗です。 5×10の7乗といわれても、無限に感じられるでしょう。 一方、世界人口は、70億人です。これは7×10の9乗です。これも無限に感 じられます。 つまり地球の無限と人口の無限を比べてみると、地球の無限さよりも、人口の無 限さは、100倍以上もおおきいということです。 この比較がどこまで適切かわかりませんが、地球環境が世界人口を前にすると、 有限であるという印象をもたらしませんか。 得丸