経済理論や政策への、いくつかの疑問。というより、問題は何か、 と、それを解くということは何かということ。 虚風老 経済理論を理論と捉えるならば、グローバル化が進み、世界が完全 なワンワールド化するならば、すべての物価と、賃金は平準化=フ ラット化するであるはずじゃ。 つまりアメリカ人労働者も、西ヨーロッパの人も、日本人も中国や 東南アジア、インドや東欧と賃金が同じになる圧力がある。同様に 購買力平価(とくに基本的なエネルギー・食料という分野で)物価 も高水準の国は下がり、低水準の国は上がると見られる。 デフレ、インフレと好況不況という言葉が乖離してきていることは 後で述べよう。 物理学を援用する考え方ならば、「マクスウェルの悪魔」がいない 熱力学に相当するじゃろう。 しかし、社会には、「マクスウェルの悪魔」に相当するものがある。 関税とか、各国の法律(主権)とか、文化とかである。 金融のみは一部でワンワールドに近いシステムを導入したが、その 他の世界はそうはならないじゃろうし、金融にしても実は、そのボ ーダーの差というものを利用して儲けている。実際コンピユーター の中ではデータは{名}の区分だけを往復させることによって、そ れぞれのボーダーの差を利用している。 アメリカで、ニューエコノミーとはやしられたのも、好況=インフ レ(結果的に好況を自律的に押えるという経済理論)にならなかっ たことによるのじゃが、なんのことはない、商品が低賃金国から流 れ込んだのと、「過剰与信」を与えて、購買力(有効需要)を創出 していただけである。 「過剰与信」とはその人間が、生産のよって、生み出すことの価値 が、投入された資本より過小であるのにそれより多く与える 「信用=クレジット=ローン」のことである。 基本に戻れば、資本主義というのは、投入された「資本=資金」が 「投入量を越えて」、どれだけのリターンを生むかという経済シス テムである。 普通の産業ではこれを「利潤」と呼ぶ。 もちろんマルクスはこの利潤の淵源がすべて、労働によるものであ って、それを資本家が掠め取るのは搾取であるという定式を立てた。 しかし、わしは、そうはとらない。 また、昔の経済読本では、資金と土地と労働が三つの富を生み出す 源泉であるとしていた。 アメリカの高校の教科書ではこれにアントレプレナー(日本では起 業家と訳されることが多い)が加わっておる。 アントレプレナーについて様々な意見もあろうが、わしは、これを 「様々な要素を組織化し、最適な配分によって、生産(物的・サー ビス的に)」を行うことによって産業をしていく人とみている。 ものごとは、例えば、ここに時計の部品が全部揃っていたとしよう。 しかしそれを組み合わせるこてができなかれば、「時計」という機 能は発揮できない。というより、「時計」という「存在」そのもの か存在できない。 話しはずいぶんそれたが、(今日も酔っておるので、千鳥足じゃ(^^)) 金融緩和が実は(国内的にすぐに)好況を招かないという話しじゃ。 マネーの増大は、いろんな影響をもたらすじゃろううが、それが、 雇用にはすぐに結びつかないであろう。 まず、今の経済は昔の「国民経済」という枠組みがあった時代とは 違うということじゃ。 比喩的ながら、「国民経済」というものがあった時代ならば「蓋を した鍋」に喩えられる。 その時は、金融緩和や財政出動は(マネーの増大は火力の増大で、 消費の増大を促し、インフレ化し、国内の生産の増大とつながり、 国民経済を沸騰させる力になったかもしれない。 しかし、今は二つの方向にこの金は流れる。 資本主義が、「投入された資本のリターンの増大」というだけなら ば、別に実物の生産をする必要がない。そう、金融市場のほうが、 リターンが確実であるならば(あるいは、そのほうが大きなリター ンが見込めるならば)金融市場(虚構空間)に流れるだけである。 アメリカの場合はこれによる金融の仮バブルを作って、 (会計的=会社的にも個人的のもなクラッシュを免れようとしてい る)しかし、実体からやはりかけ離れておる。 誰かが、これから離脱するとそれはまた崩壊っする。(実体で、 生産=消費というサイクルの中で、利潤がなければなりたたない) 今はやはり、ドルの幻想の上になりたっておる。 まあ、人類社会そのものが幻想=虚構の上に成り立っておるのなら ば、それもありじゃろう。 まあ、生命現象や暴力は実体であるがね。最終的に暴力しか信じて いないのは、当のアメリカかもしれんがの。 もうひとつは生産物についても、「国内」のモノ(サービス)を買 う必要がない。 同じ使用価値ならば、安いほうをつかった方が、投下資本の効率が ええ。(百円ショップとか、ユニクロとか、使い出にも暖かさにも 変わりはないとすれば、投下資本(お金の割に安くで効用を得られ るのである。デパートは効用を売るのではなく表象をうっているの である。) だから、アメリカでも、日本でも「ジョブレス」の経済が生まれる。 好況を「市場=特に株式とかの金融市場を指している」のは不健全 でもある。 アメリカの場合は個人の金融資産そのものが、株式などにかたよっ ているので、それで左右されるのはわかる。 しかし、日本の個人資産は預貯金にかたよっておる。 同時に、金融機関(銀行や保険や年金機構も含む)はそれを運用す るのに「金融市場」によっておるから、金融市場の混乱は間接的に 大きな影響を持つ。(個人的に通帳の金額が増減するわけではない ので、銀行がデフォルトでもしない限りは実態が現れないじゃろう がの。まあ。管理通貨制度の下では、それは未来へ付け回されるだ けじゃろうけど。) しかし、未来というはなんなんじゃろう?(ちょっと哲学的に考え てみたくなってきた) また、とんでしもうたが許してたも。 つまり経済政策というのが、「国民経済」とか、金融の現況のよう なグローバル化、あるいは生産−消費(市場)なでのグローバル化 の世界では、まったく新しい発想をしなければならないということ じゃ。 経済「理論」ではもちろんそれらの国の差はない。ここでの需要の 増大はどこかの国の生産と雇用を生み出しているであろう。そして それは廻り回っって、我が国の生産と雇用の増大を生むかもしれな い。(例えば、日本が東南アジアや、中国や、インドを経済支援あ るいは産業資本を移したことが、これらを確かに市場(有効需要の 国)としてテイクオフさせてきた。) だが、今は直近(足元=身近な兄ちゃんネエチャンに)の雇用 (人々の生活と消費)という需要、それに対応する生産(価値の増 大)が「日本の経済政策」に必要である。 我々は、マクロで生きているわけではない。諸個人という「ミクロ の問題」に 対応するために、マクロ(制度的)政策を利用するので あるわけじゃ。 虚風老 インフレ・デフレ論はこの次じゃ、わしの酔いが覚めてきたからの。。。 ============================== もっとも大事なことは、<恐れない>ことである。 虚風老 利得を失うこと、評判や、優位性、あるいは他者からの強圧を巡っ て、人は迷うじゃろう。 もっとも、大切なことは、<恐れない>ことである。 人は恐怖によって、動かされ、自由を失う。そして後悔するのじゃ。 武の道や禅の重要な教えの一つは、何事も<恐れない>ことである。 恐れは、自分自身の怯えた影を増大させ、自分を縛る。 芯の<まこと>に戻って、快の誘惑や、恐怖を脱する。 ただ、自身の「中なる心」にしたがって、進み、その結果に右顧左 眄しないことである。「死をも恐れぬ」とか、「大死一番」とはそ ういうことである。 その果てに討ち破られようが、恐れさえ抱かねば、道は拓けるのじゃ。 真の誠とは、肚を据えるということの内にしか見つけることはでき ない。人をまことに自由にするのは、<恐れ>を克服した時である。 恐れは、自分自身の利得のためではなく、 自身を無心に置き、他者の苦を取り除こうと決意したときに、もっ とも良く退けることができる。 自分を自由にするのが、自己を忘れたときであるというのはそうい う意味じゃ。 行為というのはは、ただ「ある」だけである。 矛盾というのは、行為をいろんな角度や立場から観じ、評するとき にいう言語=論理=観念が生むのである。 自己の根底がしっかりしているモノは、ただ進む。(犀の角のよう に) 虚風老