(2017年10月23日)
■17年衆院選結果について 社会変革の主体=働く人々・市民としっかり結びつこう

2017年衆院選挙結果は、自公で3分の2以上獲得。野党では立憲民主が善戦、希望は失速、共産と社民は振るわずの結果となりました。とりわけ、我が社民党は、選挙前の2議席を辛うじて維持したものの、国政レベルでは党存亡の危機が続いています。

希望の党の失速は、既に多くの人が論じているとおり、小池や細野や前原が目指した保守2党制が現実性を欠いていることを改めて示しました。「さらさら」「排除」発言は、小池新党のこの本質に多くの人々が気づくきっかけを提供したに過ぎません。

立憲民主の善戦は、行き場を失った安倍批判票の受け皿となり得たこと。加えて共産党などによる「野党共闘」「市民連合」の呼号、いわゆる「野党共闘」政治が、その政治レベルに最も適合した勢力として「立憲民主」を押し上げたことに助けられました。「野党共闘」を叫べば叫ぶほど、そのアピール効果は、共産党でもなく社民党でもなく、それに最も見合った勢力として立憲民主を押し上げたのです。これは、他党の躍進を喜ぶ「共闘」に誠実な党という美談にすり替えて良い話しでなく、大衆に直接責任を負う政党として深刻な問題を露呈したと言わなければなりません。

安倍自民党に体現される、外交軍事タカ派路線、憲法改悪推進勢力の伸張と拡大、その背景にあるものは何でしょう。その最大のものはアジア太平洋の、そして東アジアの地政学、つまり米国の後退、中国の歴史的台頭、米国を先頭とし中核とする核5大国の核独占体制とそれによる世界恫喝体制への北朝鮮などによる反発と挑戦。日本における軍事外交タカ派路線と改憲勢力の伸張は、この状況へのリアクションです。

そしてこのリアクションは、実は、安倍自民や公明や維新やこころや希望の党だけが体現しているのではありません。それは、もっと広く、深く、我が国の政治意識に浸透し、それを蝕みつつあります。それは、共産党の伝統的な愛国主義や民族主義を飲み込み、社会民主主義やリベラルの勢力をも腰砕けにさせました。大きく変化しつつあるアジアの地政学に対し、革新勢力はほぼ思考停止に陥っており、現実的にしてかつラジカルな対抗策を打ち出し得ていません。国民は、その事を感じ、見て取っているから、いわゆる護憲勢力にいまいちシンパシーを感じにくいのです。立憲民主の議員達は、この点では、すでに民進内にいたときから、「現実主義」を口実にして、「祖国防衛」主義に移行しています。例えば辺野古基地問題について枝野氏は「ゼロベースで見直し」と言うものの、立憲民主が反対姿勢を打ち出すことは極めて困難と見た方がよいでしょう。

そういう捉え方で、タカ派伸張、改憲問題を見ていく必要があります。既成政党の中、その外の市民勢力を問わず、軍縮、反戦、憲法改悪反対の勢力と広く手を結ぶことの重要性とともに、反改憲の勢力の中身も実は極めて危ういのだと見定めて、それらの全体を押し返していく新たな闘いが求められていると思います。

ラジカルにして現実的な主張というのは、例えば北朝鮮問題について言えばどういうことか。ここでも、護憲派の主張は極めておざなりです。革新勢力は、対話重視、外交重視を唱え、共産党に至っては、経済制裁の必要も強調しました。しかし、制裁も対話も、成果をあげることは出来ませんでした。何故か、それは、米国を頂点とする核5大国の核兵器独占、それを用いた非核保有国や中小国への恫喝体制、それを抑制、後退させることが北朝鮮の核開発を押し留めるためにも決定的に重要だ、との主張と結びつけられていないからです。

いやいや、国連での核兵器禁止条約の意義を強調してきたのだと言うのであれば、いま現実に起きている北朝鮮問題と結びつけて、5大国に核の削減と放棄を強く迫り、この課題が前進を見せない限り北朝鮮の核とミサイルの開発も押しとどめることは不可能だという事実と真実を強調すべきでした。が、そうした主張は展開されず、共産党に至っては、自治体議会の中でですが、自民提案の北朝鮮批判決議に諸手を挙げて賛成し、また自ら朝鮮半島危機の「根本」は北朝鮮の側にあるなどというフィクションを決議案として提案して、むしろブルジョア世論に迎合する機会を得たとばかりに喜々としている始末です。

同じことは、アベノミクス批判、格差と貧困生み出す政策への批判と対案においても言えます。再分配政策を通した消費拡大、経済回復などは、完全にリアリズムを欠いた、ズレた主張です。「過少消費」が不況や恐慌を生み出すのではなく、資本主義的「過剰生産」(投資・生産を増やしてもより大なる利潤が得られなくなった状態)こそが危機の原因だということは、理論的にとっくに解決済みの問題であるはずです。

再分配強化は、働く人々の本来の賃金部分の取り戻しとして、また多くの国民がとりあえず一息つくための条件形成として極めて重要であり切実です。しかしそれ以上に重要なことは、第1次分配における働く人々の闘いを勇気づけ、支援し、組織するための闘いです。それと結びつけて、現状の社会システムの全体が、働く人々と国民を窮状に追いやっていくためにいかに有機的に、巧妙に組み立てられ、機能しているかを分かりやすく暴露する活動が重要です。その事を通して、現状の富の生産とその分配のシステムの歴史的限界を指摘し、その全体を変革し、進化させるための主体形成の道筋を明快に打ち出していくことこそが求められているのです。「永田町の数あわせ」でなく「市民とともにある政治」というのなら、働く人々と市民こそを変革の主体としてキチンと位置づけて、その主体形成をともに進める勢力として自らの役割を定めるべきなのです。

本当のリアリズムに基づく、そんな闘いを、私自身は強化していきたいと思います。

(2017年10月13日)
■既存勢力の数あわせや組み合わせで大きな力が生まれることはあり得ない 

マスコミ報道では、自民と公明で300議席以上確保、自民単独でも安定多数の244議席を超えるというのが序盤の選挙情勢だそうだ。小池百合子氏の希望の党の登場で膨らんだ期待が急速にしぼみ、保守層の自公への回帰が生じているとも言われる。

護憲三派と言われる立憲、社民、共産はどうか。民進多数派の希望への合流で仕切り直しを余儀なくされた「野党共闘」は、希望に行けなかった議員の立憲への結集でなんとか縮小再生産。三党派の間では、希望の党の保守性と強権が露わになったことと、「野党共闘」の呼号が、立憲民主への期待を高める結果となり、立憲民主を相対的に押し上げている。

報道では、いわゆる護憲三派を全部合わせても、このままでは改憲派の議席3分の2以上の獲得を阻止することは難しいと言われている。しかし、選挙戦はまだ始まったばかりだ。護憲三派云々、その躍進どうのこうのというよりも、改憲派による国会席巻と改憲発議を許さない闘いが求められている。

もちろん、闘いの前進の度合いを測る指標は、「野党共闘」の成否、護憲三派の議席の数だけで示されるものではない。そもそも、いま政治闘争の表面に現れている、リベラル、社会民主主義、革新の勢力がそのまま日本社会の右傾化反対、社会変革志向の勢力なのではない。これら護憲三派は、社会変革を望み、期待している民衆の極々一部を捉えているに過ぎない。多少とも根本的な社会変革を求めている民衆は、日本社会の中にもっともっと裾野広く、分厚く、存在しているはずなのだ。

だから、重要なことは、今回の選挙の最中とその後とを問わず、こうした広範な民衆の要求を掘り起こし、その思いを結集し、力強い闘いへと組織していく粘り強い、系統的な活動だ。いま既に形を見せている、既存の政治勢力の組み合わせ、つなぎ合わせによって、何か新たな大きな力が生じるというのは幻想でしかない。自らの足元を掘り進め、必要なら身を切る自己変革にも果敢に挑み、自分自身を一回りも二回りも大きな存在へと再組織していく努力を抜きに、改憲派、資本の御用勢力の伸張と跋扈をう打ち破っていくことは出来ない。

情勢を呪詛したり、己の非力を嘆いたりしている暇はない。躊躇したり、逡巡したりと、余裕をかましているときではない。老いも若きも、自らの出来ることを、悔いなく力を出し切って、やり抜こう!

(2017年10月8日)
■前原氏の希望への合流は「裏切り」ではなく必然 私たちは最も困難な立場におかれた人々とともにあるべき 

民進党の大部分が希望の党になだれ込んだことを、「野党と市民の共闘への裏切り」という議論がありますが、私はまったくそうは思いません。希望に行った人たちは、元々が「共闘」など信じていない人たち、仮にそのフリをしていても、選挙が終われば本性を発揮して右へ走る人たちだったのです。希望への移動で初めて裏切ったのではなく、それ以前から、日々、国民の利益を裏切り続けてきた人たちです。

その事は、彼らの普段の言動から容易に見て取れることだったのであり、それが出来なかったのだとすれば、それこそが問題です。だから、民進の大部分を交えての「共闘」があり得るかの幻想を振りまいてきた人こそ、むしろ深刻な問題を抱えているというべきです。

今の政党分布の状態は、それ以前よりもむしろすっきりしています。希望の党が自民や公明と政治内容において異なっているフリをしていることは、民進の多くの議員がそう振る舞ってきたことと比べれば、まだましです。市民の目には、希望の党は間違ってもリベラルとも革新とも映ってはおらず、安倍自民が口先で掲げたことを本気でやってくれる新しい保守として認識されているはずです。そしてそれを歓迎する人はそうしているのです。

民進について言えることは、より小規模ではあれ、立憲民主についても言えるはずです。希望に行かなかった人たちだけでなく、行けなかった人も含めての、にわか作りの、寄り合い所帯で、必ずしもしっかりとした綱領的政策的一致があるわけではありません。

いま現在、自・公、希望・維新、リベラル・革新の三つ巴の政治配置と言われています。その前の、自・公、民進、革新の3潮流論よりは、分かりやすくなりました。しかし、これも相対的なもの、かりそめの状態。現代社会の限界や矛盾がより激しく噴き出す時がやってくれば、その坩堝の中で新たな溶解や蒸発や結晶化が起きてこざるを得ないでしょう。

ですから、私たちの依って立つ場所は、この社会の矛盾のために経済的にも社会的にも人権状況的にも最も厳しい境遇に置かれている人々と同じ位置。そこに立てば、中間層と言われる人々の困難の位置や意味や救済の方法もより明快に見えてくる。1%の特権者や富裕者との闘いの意義やそのやり方も明らかになってくる。おそらく避けられないであろう、社会矛盾の噴出の時、その坩堝の中でも、しっかりと必要な役割を貫いていくことが出来るだろうと思います。

(2017年9月17日)
■小池新党の結成と野党共闘路線の限界 民衆とともに確たる新たな勢力を生み出そう 

小池百合子氏の「希望の党」の旗揚げで、民進党がメロメロ、ボロボロになりつつある。小池氏の新党の政治性格は、本質的に安倍晋三氏が導いてきた自民党と同じものである。新自由主義的経済政策、軍事外交でのタカ派路線、国民・市民の権利の徹底的軽視等々、何も違いは見られない。違いがあるとすれば、安倍自民党は森友・加計疑惑に見られるように手垢がつきすぎて、国民の信頼を大きく失いつつあるが、小池氏はまだボロを出していない、そのぶん国民を騙せるのりしろが大きいという点だけである。

国民を騙す手管という点では、「原発ゼロ」という、小池氏自身が信念もやる気も持っていないスローガンを平気で掲げていることが象徴をしている。また、安倍自民党は民進党を敵に回して野党に追いやってきたが、小池新党は民進党をも大きく取り込もうとしている。日本の支配層である資本の勢力は、安倍晋三が使い物にならなくなったのならば、安倍がやろうとしたことを本当に実現してくれるかもしれぬ新しい勢力は大歓迎ということであろう。

「野党共闘」を切り札とし、呼号してきた勢力は、その不明を恥じなければならない。不明というのは、何よりも信頼し、依拠し、働きかけ、ともに資本の勢力と闘わなければならない労働者・民衆にしっかりと顔を向けてこなかったこと。暮らしと労働の現場で困難を抱え苦しんでいる人々に対して、言葉ではなく実践で寄り添い、支援し、ともに抵抗の闘いを創り出していくことを軽視してきたこと。徹底的に重視され、最も力を入れなければならなかったそういう活動に代えて、既成政治勢力の数あわせにうつつを抜かし、そんなやり方で自民や資本の勢力と闘えるという幻想を振りまいてきたこと。

「野党共闘」が仲間に引き込もうとした民進党とは、そもそもどの様な政党なのか。この政党はどういう階級階層に依拠し、そのどの様な要求を代弁して政治活動をしてきたのか。こういう、政治のイロハを等閑視し、民進党も含めた野党共闘、候補者一本化なるものを、事実上闘いの全て、切り札としてきたのがこの1年数ヶ月の野党の姿だったのではなかったか。

私は、与党議員を落とせる可能性のある選挙区での野党の共同を否定するものではないと言ってきた。そうした選挙区では、口先ではなく本気で、積極的に推進すべきであると言ってきた。しかし、いわゆる「野党共闘」主義者が強調してきたのは、全ての選挙区で、いつでもどこでも野党共闘、これに反対する者は市民の味方に非ずというが如き主張であった。まったくもって非現実的で、何のための野党の共同かも見失った、「野党共闘」の念仏踊りに過ぎなかった。

民進党のボロボロ、メロメロぶりは、「野党共闘」を金科玉条としてきた勢力をもメロメロにさせずにはおかない。表面上は平静を装ったり、自己弁護にふけったり、裏切りを糾弾したりは出来ても、その身に負った実際のダメージを免れることは出来ない。

「急がば回れ」「ローマは1日にしてならず」。目の前のひとつひとつの選挙に、細心の注意を払い、様々な工夫をしながら、勝つために最大限の力を発揮して闘うことの重要性は言うまでもない。しかしそれと同時に重要なことは、厳しい階級政治の現実から決して目を背けることなく、資本による搾取と抑圧に呻吟する働く人々・民衆の中に入っていき、そこに根を下ろし、彼らとともに誰もないがしろに出来ない確たる力をつくりだしていく活動であるはずだ。

(2017年9月15日)
■米国の軍産複合体、北朝鮮の先軍政治、両者の危険な動きを世界の民衆の運動で抑えよう

米国は長年にわたって、時に軍事的恫喝、時に経済制裁を繰り返してきましたが、北朝鮮の核・ミサイルの開発をやめさせることは出来ませんでした。軍事制裁、経済制裁だけでなく、政治の力、外交によって解決すべきだという議論もありましたが、決定打にはなり得ていない現実があります。

問題の核心は、米国を頂点とする5大国による核独占の体制にあります。米国などが、何千何万発の核・ミサイル始めとする強大な軍事力にものを言わせて、中小国に対して自らのエゴを押しつけ、時には北朝鮮に対してのように核先制攻撃をちらつかせて恫喝を行ってきた体制こそ問題です。

この体制に対する実践的な批判、つまり米国などが核の削減と撤廃に取り組むこと、中小国への横暴な振る舞いや恫喝をやめること、そのことを米国の支配層などに強制する世界の大衆運動の発展こそが求められています。その点で、日本の民衆の役割と責任は重大です。その認識とそれに基づく本気の行動を抜きにした、話し合い、外交の重要性についてのおしゃべりは、無力です。

もちろん、北朝鮮が核とミサイルの開発に突き進む背景にあるのは、米国からの核恫喝への恐怖だけではありません。北朝鮮自身の内部矛盾、その極端な開発独裁体制、極めて強権的な国家資本主義の体制自身に内在する矛盾が生じさせた事態でもあります。

米国など大国の軍産複合体、北朝鮮の強権的な国家資本主義体制、この両者の民衆の命やくらしを徹底的に軽視した危険な本性をしっかりと見据えながら、軍拡と軍事力行使を抑え、その力を削ぎ、緊張緩和を強制するような、民衆の運動こそが求められています。

(2017年9月1日)
■民進党主選で前原氏選出 「野党共闘・市民連合」路線の小手先細工は破綻

民進党の党首選挙で前原氏が勝利。前回は蓮舫氏(野田派)、今回はより右寄りの前原氏。枝野氏の善戦で民進リベラルも一定の存在感を示したとは言え、その要素も含めたとしても、民進全体としての、あるいは民進の本質としての、第2保守党・体制補完勢力という性格が改めて確認された党首選であった。

私たちにとっての最大、最重要の課題は、第1保守(自民・公明)と第2保守(民進や都民ファーストなど)を演者とする二大政党制づくりに対して、はっきりと働く者・市民の立場に立った第3極をつくり出す立場に立つこと。労働者・市民の毎日の暮らしと労働の中に生じてくるまっとうな諸要求を政策化し、それを叶える新たな政権や社会の構想を明確に打ち出していくこと。その課題を担い得る者へと自らを変革していくこと。

そのために必要なことは、既存の政党の組み合わせ、再編などの小手先細工や、それへの幻想をたくましくすることではなく、何よりも、労働者・市民の暮らしと労働の中に入っていって、埋もれている諸要求を掘り起こし、顕在化させ、闘いを組織すること。その中で、民衆自身の社会認識の力、判断力、組織力、資本とその政府との闘争能力を高めていくこと。諸々の大衆運動の高揚をつくり出していくこと。歴史の主役は、あくまでも、そして依然として、働く者・民衆。財界+米国の力とがっぷり四つに組み、それを押し返していける力はそこにのみあるのだから。

この任務をスルーした形での既存の「非自民の野党」の接着の試みは無力。せめて野党にカツを入れ、筋を通させていく強力な働きかけが不可欠。この課題を忘れて既存野党の応援団に甘んじる「市民運動」は「野党」と同じく歴史の任に堪えず。

もちろん、「野党共闘」と「市民連合」で与党から議席を奪える可能性の高いところでは、それを本気で追求するべき。しかし「いつでもどこでも市民連合・野党共闘」、それで「受け皿」を提示するという議論は、リアリズムを欠いた観念的お遊び。一種の風頼み、振り子の揺れ戻し論への傾斜。むしろ私たちの求められているのは、「いつでもどこでも」、とりわけ「野党共闘」成立の条件の薄いところではエネルギーの無駄遣いを避けて、私たちの本来の第一義的仕事に、全精力を注ぐこと。

体制の歴史的な意味での行き詰まりに直面して、敵は必死だ。労働者への徹底した搾取強化、庶民からの厳しい収奪、社会保障や福祉への攻撃、対外ナショナリズムや国家主義の扇動、メディアへの管理統制の強化等々、それ以外に生き残る道はないと覚悟して、反動と強権の政治を強めている。それと闘い、それを打ち破る必要があるというのに、私たちが甘い幻想やボンヤリとした期待に浸っているのでは、およそ勝負にならない。

私たちが拠り所にすべきは、自民・公明の自爆や民進リベラルの善意等々への期待ではなく、私たちが自らの活動を通して見いだし、掘り起こし、顕在化させた、民衆自身による闘いと世論のみ。そんな仕事はしんどすぎる、今さらね、という者たちは、せめて甘やかな幻想を人々にまき散らすことはやめて、分相応に静かにしているべき。米国のサンダースに出来たことが、私たちに出来ないはずがない。政治の真のリアリズムは、国会の議員先生たちの政治術策の中にあるのではなく、何百何千万の民衆の暮らしと労働の中にこそあるのだから。私たちは、そこにこそ注目し、自らの力の源泉をそこに置く。

(2017年8月21日)
■先ず米国が、北朝鮮への恫喝と挑発をやめるべき

今日21日から始まる米韓合同軍事演習、これに対する北朝鮮の米国領グアム近海へのICBM発射計画の誇示と、米国と北朝鮮の双方による軍事挑発合戦が激化している。米韓合同軍事演習はただの軍事演習ではない。米軍1.7万人、韓国軍5万人が参加、B1戦略爆撃機や原子力空母も動員、何よりも2015年以来3度目になる北朝鮮への先制攻撃のための訓練(作戦計画5015)だ。これに対して、北朝鮮は、B1爆撃機を北朝鮮のレーダー探知範囲内で飛ばすな、米国がそれを強行するなら米軍拠点であるグアム近海へミサイル撃ち込むぞとやり返している。北朝鮮は、特に、軍事演習が突然に本当の先制攻撃に転化することを恐れて過激な反応をしていると言われる。

私は、まずは米国が北朝鮮への無法な恫喝と挑発を中止すべきだと考える。そうすれば、北朝鮮もミサイル発射の口実を失う。日本は、米国の尻馬に乗って集団的自衛権行使だのイージス・アショアの配備などの火遊びに興じるのではなく、米国による北朝鮮への軍事恫喝から厳しく一線を画するべきだ。それと同時に、世界の世論に訴えて、米国と北朝鮮双方の軍事挑発合戦を強く牽制していかなければならない。

米国と北朝鮮との対立の背景には、朝鮮戦争が未だ終結に至っていない現実がある。また、米国を始めとする核5大国の何千、何万発の核兵器とミサイルによる武装、それによる他の国、小国に対する核恫喝の体制がある。朝鮮戦争の終結や平和協定の締結を拒絶し続け、また大国の核独占体制をそのままにして、北朝鮮にお前の核は世界の脅威だ、放棄せよと迫っても、まったく説得力が無い。

もちろん、どちらが先に恫喝を開始したかという観点ばかりでなく、北朝鮮の体制と米国の体制のどちらが世界の民衆にとってより我慢出来る体制かという観点も存在する。しかし、その観点に立っても、米国の体制がよりましなどとはとても言えはしない。米国の体制は、多国籍資本が自由に振る舞える市場を攪乱する一切の要素を許容せず、それを排除するためなら核兵器によって小国を人民ごと世界地図上から抹殺することさえ躊躇しない体制だ。北朝鮮の体制は、金一族の独裁体制の維持と国家資本の強蓄積のためなら人民に過酷な労働と極度の無権利と、しばしば飢餓さえ強いてさえ平気な体制だ。

私たちは、米国と北朝鮮のそれぞれの国内におけるこうした体制の変革を求める人々の闘いへの支援に、世界の民衆と連帯して取り組んでいく。もちろんそれは、日本の民衆が自国の体制を変革していく闘いと一体だ。北朝鮮には、内部から社会変革を試みる条件など備わっていないと誰か言うだろうか。確かに条件は極めて不利、絶望的にさえ見えるが、変革の芽は皆無なのではない。また国内的には条件が極めて不利だからこそ、世界の民衆による人民抑圧の厳しい監視、その中でも試みられる民衆の行動への連帯と支援が強く求められている。

私たちは、全世界の民衆とともに、北朝鮮はもちろん、とりわけ米ソや中国の核、核5大国の核、そしてイスラエルやインドやパキスタンに対して核の放棄に向けた行動を取るよう改めて強く要求する。そして何よりも、自国の支配層の軍拡や戦争準備の動きを許さない活動を重視する。

(2017年7月4日)
■都民ファーストは第2自民ではなく、自民の強化版バージョンアップ 

自民から都民ファーストへの流れを見ても明らかなように、保守・右翼勢力は次々とトランスフォームを遂げ、言葉巧みに大衆を欺くテクニックを高度化しています。まるで、抗生剤の裏をかく耐性菌のように。その意味では、都民ファーストは単なる第2自民ではなく、そのバージョンアップ、強化版でしょう。

これに打ち勝つために私たちに求められているのは、原則的な闘いを更に深く掘り下げ、広げていく努力です。次善の策としての数あわせに依存しすぎたり、それを本来のあるべき闘い方のように持ち上げたりしているようでは、保守・右翼との闘いに勝つことは出来ないでしょう。

「共同候補」の試みは、民意を歪める小選挙区制や対外危機アジリが功を奏するなどして野党が全体として劣勢に立たされた中での、あくまでも次善の策。それが原則とかあるべき姿とかではまったくありません。そもそも、未来ある新たな少数勢力による挑戦の機会を奪ってしまいます。

保守と反動、強欲資本主義に対してどう闘うべきか、それぞれの勢力が自ら真剣に考え抜き、内部の軋轢を恐れず自らを変え、その方針と政策を磨き上げ、力を強め高めていく中で、おのずから生ずる共同でないと、本当の力にはなりません。

反ファシズム統一戦線がナイーブに賞賛される風潮は情けない。歴史をひもとけば明らかです。反ファシズム統一戦線は、結局はファシストとの闘いに敗北しているのです。何故敗北したのかについての、キチンと遂行されれば貴重な教訓が引き出されるはずの総括も、ろくになされておりません。歴史の教訓をないがしろにしてはいけません。

闘う相手は、資本の利益の絶対擁護の立場に、揺るぎなく、強固に、一貫して立つ、その意味で極めて志操堅固(利害ゴリゴリ)な保守・反動の勢力です。

先ずは、死に物狂いで自らを変革することで自力をつけよ。その前提がなければ共同は効果を生まず、敵を打ち倒すことなど出来ない。