かたらんね、しゃべらんね☆外国籍住民との集い
 8人の外国籍住民によるスピーチの要旨


<スピーチ@>
 私は未婚の母ですが、子どもを育てていると、保育園の問題と仕事の問題の両方にぶつかります。休みやゴールデンウィークでもなかなか子どもとの時間をとることができないのです。いい仕事があったとしても、8時間労働が困難なことがあるため、私たちのような境遇であると、8時間労働を取るか子どもを取るかということになってくるのです。
 子どもが病気にかかったときも問題が生じます。具体的に話しますと、子どもがおたふく風邪にかかったときに、10日間仕事を休む必要がありました。子どもも保育園を休ませました。10日経って仕事に復帰しようとしたとき、病院で診断証明書が発行されていたにも関わらず、会社から「もう仕事に来なくていい」と言われました。それが現状です。

<スピーチA>
 日本に来てから今年で15年目になります。私は、運転免許の話をします。母国で国際免許を取ってきましたが、この免許は日本では有効期限が1年しかありません。免許の期限が切れたら、仕事に行くとき車を使えません。公共交通機関やバスを使わないといけません。それは辛いし面倒くさいです。日本の国の法律では、日本の免許への更新は、
 母国に3ヶ月以上滞在したうえで行うことという決まりになっています。それで去年やっと家族を連れて母国に帰り、免許を取って3ヶ月国に滞在して日本に戻ってきました。去年の9月に、母国の免許を日本の免許と切り換えることができました。道路工事とかいろいろな仕事をしていますから、今はショベルカーを運転する免許を取りました。
 外国人が日本で免許を取るために、大阪や東京では英語による筆記試験があります。でも、ペルーの言葉(スペイン語)による試験はないのですよ。英語以外の言葉でも筆記試験が受験できるように僕たちのこと考えてほしいですよ。そういうことです。

<スピーチB>
 私は、英語と日本語で話します。もし日本語がうまく伝わらなかったら、どなたか通訳をお願いします。私はフィリピンから来ました。「移住労働者と共に生きるネットワーク・九州」で、このような話をする機会を与えて下さってありがとうございます。本当にありがたいことです。どうしてかというと私たち外国人には悩みが一杯あります。私たちの問題を聞いて下さい。
 日本に来て10年くらいになります。その間いろいろ問題がありましたが、一番の問題は仕事をしたのにお給料をもらえなかったことです。私が働いていた所は、個人の英会話学校みたいなところだったんです。最初の約束では、仕事した日にその日の給料をもらえるということでした。1〜2ヶ月はOKだったんですが、一生懸命働いていたのに、だんだん給料が遅れるようになったのです。
 経営者側にも事情があったのはわかります。でもこちらも困ります。せっかく働いたのにどうして給料がもらえないのでしょう。
 給料の未払いという問題は、たぶん私だけの問題ではないと思うんですね。他の外国人の方も同じ目にあった方がいらっしゃると思います。
どうすればいいのでしょうか。仕事を始める前に、きちんと契約書をかわす方がいいと思います。日本人と日本人は、口約束だけの契約みたいな形をとることが多いのではないでしょうか?外国人と日本人は、きちんと契約書を書いて契約した方がいいと思います。そうでないと何の証拠も残らないですから。それ以来、仕事をするときには気をつけるようにしています。このことがわかったから、神様にありがとうと言いたいです。

<スピーチC>
 こんにちは。私はペルー人ですが日系人ではありません。母国に父親がいます。父は日系人ではないので、観光ビザでしか来日できません。父親が年を取ったら、私は日本で一緒に住みたいと思っています。父の面倒を見たいと思っています。でも、今の制度ではそれができません。父が日系人ではないため、定住者のビザが出ないからです。父がもし観光ビザから定住者のビザに変更できたら、ずっと私と一緒に日本で暮らせます。入国管理局に相談に行ったことがありますが、ダメって言われました。日本人と結婚してもダメと言われました。これは私だけの問題ではないです。
 同じような問題が他にもあります。母国にいる20歳以上の自分の子どもも、日本に定住するビザが取れません。アメリカでは、誰かが永住ビザを取ったら、その人の親、子ども、きょうだいも永住ビザを取ることができる制度があります。でも日本ではその制度はないので、定住者のビザや永住者のビザが取れないのです。両親は自分の国でどんどん年を取っていくので、とても心配です。
 それで私は、入国管理局にお願いしたいのです。高齢の親のために特別ビザを出してほしいと思います。その人たちは、日本で働くために来るのではなく、家族と一緒に住むためなのです。私は親の面倒を日本でみたいのです。入国管理局にお願いしたいことです。これはわたしだけの心配事ではないと思います。何人も同じ思いの人がいます。今日私はこの話のために来ました。

 (事務局注)
 日本の入管難民認定法では、日系人の方は三世までに定住者のビザが取れます。問題は、今定住者のビザを持っている人たちが自分の親を呼ぶことができないことです。これには例外があり、親が本国で誰も面倒を見る人がいない場合、あるいは日本で特別な治療がいる場合には認めています。それ以外は、90日の短期滞在ビザしか取れません。ペルーやブラジルなどの日系人の問題だけではなく、中国から来ている人たち、あるいは日本で仕事をして長年働いて親がそろそろ介護が必要になったため呼び寄せたいという人たちも同じ問題を抱えています。親のビザが取れないため、母国に帰らざるを得ないという実情があります。親の呼びよせを認めていくように運動したり要求したりしていく必要があると思います。
 一方、20歳未満の子どもに関しては、日本人と血がつながっている子どもは問題ありません。養子は6歳の時点で来日していないと定住できません。また、婚姻前に生まれて本国にいる子どもについては、20歳を過ぎてしまうと短期滞在のビザでしか来日できません。
 中国残留孤児の親族に関しては去年、日本人と血がつながってなくても養子や婚姻前の子どもについては、6歳の時に一緒に日本人と暮らしていた実績があれば定住者のビザを得て滞在できるようになりました。
 皆で声を上げて変えていくことで入管法も確実に変わってくる可能性があるので、取り組んでいければと思います。

<スピーチD>
 こんにちは。よろしくお願いします。外国人の中で一番の問題は仕事ですね。もう日本に来て13年くらいになります。今はちゃんと仕事があります。
 1999年12月24日ちょうどイヴの日に、私は会社をクビになりました。その会社にはそれまで下請けでアルバイト的に約2年間働いていました。会社はとても不景気だったのですが、その日はいつものとおり仕事をしたあと、課長から事務所に呼ばれ、「会社が不景気だから100人〜80人くらい従業員を減らします。その中であなたは選ばれました。」と言われました。事前に何も連絡なかったのでびっくりしました。急にクビになったら、誰でもびっくりすると思います。
 家に帰って奥さんに話したらびっくりしていました。何でこんなことになったのでしょうか。仕方がないから他の仕事を探そうと思いました。しかし、問題はそれだけではなかったのです。その時は、子どもがそろそろ生まれる時期でした。3ヵ月くらいずっと毎日仕事を探しましたが、外国人はだめと言われるばかりでした。ストレス、デプレッションばかり感じた日々でした。どうしよう、お金もなくなって。こんなことが起こったら、誰でも困ることでしょう?皆さん、どう思いますか?会社が不景気で人間を減らす、それは仕方がないと思うのですが、その後の仕事の面接では、差別というのでしょうか?「外国人はこの会社で働いてはだめ」と言って断られました。これは差別でしょう?
 お金がなくて、もう本当にどうしようと困っていると、「じゃあ泥棒しようか?」と頭の中にそんなことが浮かんできました。子どもがあと1ケ月で生まれるのですよ。テレビのニュースで、たまに外国人が悪いことをしたと報道されますが、その人は生活の中で何かとても困っていたのではないかと思います。もう少し外国人の事情を考えてほしいですね。
 子どもが生まれるちょっと前に、会社から連絡があって、「会社でまた仕事してほしい」と言われ、それから契約社員になりました。
 私だけじゃなくて、ほかの人もこんなことが全くないように願いたいです。外国人はこの国の力になっています。私はちゃんとこの国の法律を守っています。税金をちゃんと払っています。日本人も同じでしょう。朝から起きて顔を洗って、お金もらうために家から出て働いています。私たちもそうですよ。私には、子どもが1人おります。6歳です。子どものことをちゃんと考えています。そして、この国が大きくなるために、少しでも力になりたいと思っています。以上です。

<スピーチE>
 みなさんこんにちは。今日ここで今まで話をしてこられてきた人とは肌の色も言葉も違うと思います。私は別の観点からこの問題を取り上げてみたいと思います。私は日本に来て今年で22年です。私は、とても幸せないい状況で日本に来ました。日本の文部省の奨学金で九州大学に留学生として来て、その後も高校の教員としても働き、今は大学で教えています。
 私が言いたいのは、「外国人労働者は日本の国にとってプラスかマイナスか?」そのことを日本の国民の人たちにも広く理解してほしいということです。1950年の年齢別人口がピラミッド型とすると、2003年は釣鐘型、それも強震設計疑惑事件の容疑者が作ったマンションのように倒れるかもしれないほど不安定な形をしています。2003年の日本の人口の状況は、1950年の日本の人口の構成と比べると、少子化が進んでいることが一目瞭然です。今、日本の人口は1億3000万人くらいですね。あと100年後の2100年には日本の人口はちょうど半分になってしまいます。さらに今のまま続くと、これから2300年後には日本の人口は0になります。日本人はいなくなってしまうんですよ。
 私たちの老後の面倒を見る人は、まだ日本人で足りるかもしれませんけれど、私たちの子どもの老後を面倒見る人がいなくなるでしょう。では、それは誰がみるのでしょうか。日本は今、いろいろなもの、食べ物とか衣類とかを80〜90%は輸入していますね。これからは人を輸入しないとやっていけません。そういう状況です。そのために日本政府も頑張っています。研修生や日本語学校の留学生を増やしています。留学生や研修生は、これから日本で働く人たちですね。そういう人たちをどんどん日本の中に受け入れて働かせて、足りない労働力を補っています。統計を見ると1985年に15,600人だった留学生の数が今年12万超えています。一方、私のような日本政府がお金を出した恵まれた学生は、85年も今でも同じ数で1万人以下です。ということは、残りの11万人の学生は自分のお金で日本に来て、日本の経済をよくするために働いている人たちなのです。
 この問題を投げかけていいかどうか、日本の社会はどうなっているか、社会制度が整っているかを、私たちは見てみたいのです。ここに日本人の参加者の方結構いるのですが、彼らがこの問題を本当に自分たちの問題として取り組んでいるでしょうか?私の隣にいる彼が、私たちが彼の隣にいることを本音で求めているでしょうか?私の隣りに住んでいる人、隣に座っている人が、「どうぞ来てください」と口では言っても、心の中で来ないほうがいいと思っているかもしれません。
 私はできるだけ日本の社会の中に溶け込もうと思っています。そして自分が住んでいる地域でもいろいろな活動をしていますが、国民に問題を投げかけるだけでなく、自分の身の周りにいる人たちに問題を投げかけたいのです。私の住む団地には約600世帯が住んでいるのですが、私は今その団地の自治会長をしています。自分でなったというより、なり手が誰もいなかったんですよ。
 私が自治会長になったあと、団地の一部の人が「もうこの団地の中には、日本人はいないの?」と言って、どうやって自治会長を降ろすか策略しました。あるグループが会計の人に働きかけて、会長のいうことを聞かないように、会計のお金を出さないように策略したのです。また、会長の名前と中傷、悪口を書いた紙を全戸に配ったんです。私たちは、臨時総会を開いて、そのグループの人たちに自治会の役を辞めてもらいました。
 今年になって、自治会の総会が開かれたのですが、私は用事で欠席しました。私のいないときに、総会で、「自治会の会長、副会長、会計、書記の四役に外国人は立候補してはいけない」という規約に改正したんですよ。それを聞いて、私は来年また会長をやろうと思っているんです。
 国民に向けてのアピールですが、私たち外国人は犯罪人ではないです。統計を見ると、日本人による犯罪の上昇率と外国人による犯罪の上昇率とは違うんです。外国人のほうが逆に少ないんですよ。統計は政府も知っていますし、私たちももっとこのことを勉強すべきですよ。ここにいる外国人ももっと勉強してください。ここにいることをアピールしなくてはならないと思います。「私にこういう時間がありますよ」、「私の持っている力をこの国に利用してください」とアピールしなくてはならないと思います。これをアピールしないとこの問題は解決しないと思います。そう言いたいのです。長くなりましたが、これで私の話は終わりにします。

<スピーチF>
 私は「Before and After の私」というテーマで話します。このテーマを考えたのは、「このミーティングで、生活の困ったこととか仕事とか何でもいいから話しませんか」って頼まれたときです。
 日本の方たちから「日本とフィリピンどっちがいい?どっちが住みやすいとよく聞かれます。前の私はすぐ返事ができるんです。「フィリピン」って。最近はすぐ返事ができないですね。フィリピンが嫌いになったのではなく、日本が大好きになったのでもないです。これからその話をしたいと思います。
 ここで話をする前に、外国人の人権について学校、公民館でお話する機会が何回かありました。一番最近は去年公民館で話したときです。何を話すかその準備にものすごく時間がかかりました。なかなかまとめられなかったんです。話しているときにもうまくいえなくて、「私、いったいどうしたのかな」と自分でも思っていたんです。スピーチが終わった後に、1人の参加者から、「それはあなたの不満だ」って言われたんです。私は普通怒りっぽい性格ですぐ怒るのですが、その時は怒らなかったんです。逆に、その言葉をきっかけにいろいろなことを改めて考え始めました。
 私は日本に来て12年になります。私も今まで仕事探しで苦労し、家探しで苦労し、子どもか仕事かどっちとるかとか、免許をとることとか、ファミリーを呼ぶこととか、全部経験しています。ずっといろんな難しいことがあって、差別も受けたし、いじめも受けたし、離婚もしました。離婚した後にNGOと出会いました。その頃の私は、「外国人だから何もできない。日本人のだんなさんがいないから何もできない。フィリピンに帰るしかない」という気持ちでいました。でもNGOと出会ったときに、いろいろな情報をもらいました。いろいろな人と出会って、差別を受けていたのは私だけじゃないとわかったんです。外国人だからじゃなくて、日本の方々も、差別を受ける人もいます。外国人だからじゃなくて、とにかく、どこにいても差別する人は、差別します。いじめる人は、いじめます。どんな国でも、女性だとか男性だとか、とにかくみんな差別やいじめを経験しているとわかりました。
 NGOにあったいろいろな本、読み物、パンフレットなどが勉強になって、インフォメーションを得られたのです。そして、1人で考えるよりも、相談したほうがいいとわかったんです。それまでの7年間、1人でずーっと考えていました。しょんぼりしていて、自殺も考えたことがあるし、この国では私しかいない、他に行くところがないって思っていたのです。NGOは色々なことを教えてくれました。
 私が言いたいのは、私たち外国人にはたくさんの苦労があります。いじめがある、差別がある。しかし、ここには九州ネットワークなどNGOや団体、グループがたくさんあると思います。その団体があるということは、私たち外国人には声がある、権利があるっていうことなんです。私はもう絶対に希望を捨てることはありません。前に進むしかないと思っています。そう思えると、物事がスムーズに動く気がします。
 だから今は、「フィリピンがいい?日本がいい?」と聞かれたときに、たまに自分がどこにいるかわからなくなる時があります。日本にいてもフィリピンにいても、変わりがない。わたしの後ろにバックアップするグループがたくさんありますよね。だから何の問題があっても、私は大丈夫と思っている。本当に平和で、すごく幸せです。もちろん今でも、仕事、子どもの学校、市役所での手続きなどとても難しいことがありますけど、私1人ではないとわかっているだけで解決の道ができます。もう怖いものはないです。このことが、私が一番言いたいことです。ありがとうございました。

<スピーチG>
 私は11年前に結婚し、8月に12歳になる1人息子がいます。今日は皆様に、私がどのように日本でいろいろな困難を乗り越えてきたかをお話したいのです。文化、生活習慣、言葉の違う日本で出会う大変さは十分理解していました。それに加えて、クリスチャンではない夫と結婚生活を続けていくのも私たちにとって大変な戦いなのです。でも、私にキリストを信じる心があったから、また私の家族をとても愛していたから今の私が存在しているのです。もちろん、これからも乗り越える困難は次々出てくるでしょう。
 他の外国人の日本人妻同様、私が日本に来たのは経済的理由からです。最初の2、3年は私の人生の中で最も辛いものでした。よくホームシックにかかりました。精神的に落ち込みました。確かに日本で1日働くとフィリピンでの半月分のお金がもらえますが、ホステスやエンターテイナーとしての仕事は時には身を切られるほど辛いのです。お客さんに気に入られてまたお店に来てもらうのが私たちの仕事です。日本人と結婚するフィリピン女性は殆ど私と同じ仕事をしています。そしてお客さんと出会います。中にはとても優しくすばらしい人と結婚しますが、多くの場合破局を迎えます。家庭内暴力の犠牲になる女性もいるのです。
 私の夫は大変幸せなことに思いやりのある人ですが、育った国も環境も違うため、私たちはしばしば言い合いをしました。特にカトリックの洗礼を受けている息子の教育について言い争いをしました。息子を立派な信者に育てるのは私の責任です。そのためには教会に行く必要があるのです。日本では学校のカリキュラムに宗教はありません。洗礼を受けている息子が、他の秘蹟、特に最初の聖体拝領を受けるためには、日曜学校でキリスト教の教義の基礎を学ばなければなりません。私が毎日曜日に通う教会の日曜学校でそのことができると知り、息子をその日曜学校に入れました。言葉の壁があり、他の人の助けがなければ息子に私の信仰を十分に伝えることができないのです。私は夜の仕事でどんなに疲れていても、その日は早起きをして、息子を連れて行きました。とてもしんどいことでした。くじけそうになりました。私が日曜日に協会に行くとき、夫が、「息子を置いて一人で行けないのか」と聞いたりします。何度も止めようとしましたが、私はくじけませんでした。私のしていることは正しいという信念がありました。いつかは夫も理解してくれるよう祈りました。
 そして、とうとうその日がやってきました。夫は今では私たちが教会に遅れないように起こしてくれます。嬉しいことに息子は最初の聖体拝領を受けることができ、ミサの侍者を勤めます。神様の祝福を受けています。この話をする機会を与えてくださってありがとうございました。