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イギリスという国には中世から連綿と続く階級意識が根強く残っているようで、それがテーマとして扱われる、或いは少なくとも隠し味として加えられているイギリス産映画をしばしば見かけ、「召使」もそのような1本として数えられます。いかにもイギリスの有閑貴族という出で立ちの雇い主(ジェームズ・フォックス)と召使(ダーク・ボガード)の関係が徐々に入れ替わり、最後は立場が完全に逆転するというストーリー展開は、崩壊する貴族社会を描いた社会ドラマの一種のパロディであるかに見えるほどです。崩壊する貴族社会の末路をシリアスに描いた映画作品は数多くとは言わないまでも、日本未公開の「The Shooting party」(1984)を始めとしていくつか存在しますが、「召使」が興味深い点は、そのようなテーマが、本来の社会ドラマとしてではなく、心理ドラマとして展開されているところにあります。すなわち、テーマは極めて社会的であるにも関わらず、個人的な心理ドラマとしてそれが展開されているのです。その点がまた、「召使」が一種のパロディに見える要因の1つだと考えられます。すなわち、一種のキャラクター風刺劇のようにも見えるのです。パロディと言えば、この作品は資本家と労働者の関係が逆転することが歴史的必然であると捉える階級闘争的な世界観のパロディであるとも捉えられるかもしれません。勿論、貴族と奴隷の関係と、資本家と労働者のそれはイコールではありませんが、少なくともパラレルであると考えられるはずです。だとすれば、「召使」は現代社会の風刺としても捉えられるでしょう。現代社会においては、貴族と奴隷の関係は勿論のこと、「お金持ち」と「お金がない貧乏人」のような差別的な対立関係が本質的な面では存在しないとする外見を装っていますが、そのような外見自体が実は差別関係を継続させるダイナミズムの1つとして機能している側面があります。たとえば、なぜ現代社会では資本家と労働者の対立が、貴族と奴隷の対立ほど本質的ではないと見なされ得るかというと、それは論理的には誰にでも資本家になる為の機会が提供されているはずであるとする前提があるからであり、すなわち資本家たるある特定の大金持ちと労働者たるある特定の貧乏人の間の境遇に現時点で大きな格差があったとしても、それは単なる歴史的な偶然であって必然ではないという見かけを維持するメカニズムが作用しているからです。しかしながら、現実はそれほど単純でないことくらい誰でも知っているはずであり、サッカーくじで6億円を当てない限り、金持ちは益々金持ちになり、貧乏人はますます貧乏人になるのが動かし難い現実なのです。単純に云えば、生まれた時のスタート条件が異なれば、それ以後の競争が平等であり得るわけはないのです。それは単に、たとえば100パーセントの相続税を課せば解決され得るなどという種類の問題ではないのです。なぜなら、ピエール・ブルデューらが述べるように、社会的資産とは単なるおゼゼのみの問題ではなく、大は社会関係から小は身体的所作に至るまであらゆる生活資本に関係するからです。そのような現実が厳然として存在するにも関わらず、それを糊塗する一種の心理メカニズムが機能しているのであり、つまり階級格差が原則的には存在しないような見かけのもとで、堂々と且つ密やかにそれが維持されているのが現代社会の特徴なのです。「召使」が現代社会のパロディでもあると述べたのは、階級格差など今では存在しないだろうと見かけは思われている現代において、わざわざそれを1つのテーマとして取上げ、しかも階級闘争的な世界観のパロディのようなストーリーによってそれを描いているからです。その意味では、パロディというより風刺画的な警鐘であると見なせるかもしれません。このようなテーマを堂々と映画に仕立ててしまうあたりはいかにもイギリスのお国柄であり、イギリス映画に馴染めない向きには全くお薦めでないとはいえ、「召使」はイギリス的エスプリそのものの作品であると評価できます。