無分別 ★★☆
(Indiscreet)

1958 UK/US
監督:スタンリー・ドーネン
出演:ケーリー・グラント、イングリッド・バーグマン、セシル・パーカー、フィリス・カルバート
左:ケーリー・グラント、右:イングリッド・バーグマン

先週イングリッド・バーグマンを取り上げましたので、今回は彼女の1950年代の出演作の1つ「無分別」を取り上げることにしました。それにあたって久々にこの作品を見ましたが、いかにも1950年代後半の作品というような色調が色濃く出ていることに改めて感心しました。恐らく、現代のアクション映画を見慣れている映画ファンが、この作品あたりを見たならば、多分10分も見ていられないであろうなと思ってしまいました。それくらい展開がスローであり、且つ瀟洒さが砂のように細かいレベルで機能しているので、この作品の良さが認められる前にグーグー鼾をかくという状態になりかねないのですね。室内シーンがほとんどで動きはほとんどなく、尚且つセリフを持つ登場人物は上掲の4人の役者にほぼ限定されます。また、そのような限定された舞台、限定された登場人物を擁する映画であっても、たとえばテネシー・ウィリアムズ、アーサー・ミラー、ユージン・オニールというような戯曲作家が原作の映画が、激烈なエモーションのほとばしりによって、人間ドラマとしての全体的な見取り図が極めて容易に把握可能であるのに対し、「無分別」は一種のベッドルームファースでありながらも、分かりやすいスラップスティック的な方向へとは全く向かわないので、微細なテイストを味わうための一種貴族的で高踏的な感覚が研ぎ澄まされていないと、だるいコメディであるという印象を受けざるを得ないのではないかとすら考えられます。このような傾向は、ドーネンの同時期の作品「芝生は緑」(1960)などにも同様に当て嵌まります。アマゾンの「芝生は緑」のユーザ評などを読むと、こんなに面白くないコメディなど初めて見たという酷評が見受けられますが、或る意味でそのような評価が生ずるのは故なしとはしないのですね。波長が合わなければ、全く面白くない作品に見えてしまうのは必至であり、そのようなコメントは「芝生は緑」以上に「無分別」にも当て嵌まると言えるでしょう。さて、その「無分別」では、ケーリー・グラント演ずる外交官のフィリップが、本当は独身であるにも関わらず所帯持ちだと偽って(彼は一種のモラトリアム人間なので、結婚しなければならなくなる事態に陥るのを避ける為にわざと既に結婚していると宣言して予防線を張っているのですね)、イングリッド・バーグマン演ずる舞台女優のアンナと付き合い、やがてそれがバレることから発生する男女の心理的機微が、面白可笑しく描かれています。ストーリーのミソは、フィリップが本当は独身であることを知らない間は、アンナはいわゆるひとつの不倫(これは勿論アンナにとってということであり、自分が独身であることを当然知っているフィリップにとっては不倫ではないということになります)を存分に享受しているにも関わらず、ひとたび彼が独身であると知るや否や、喜ぶどころか途端にへそを曲げて陳腐なトリック(かつての恋人を鉢合わせさせて彼を嫉妬させようとする)を繰り出そうとすることです。しかも彼女は、一方で結婚に憧れているオールドミスでもあるのです。ということからも分かるように、この作品のメインの焦点はケーリー・グラント演ずるフィリップにではなく、イングリッド・バーグマン演ずるアンナに置かれていると見なすことができます。先程は「男女の心理的機微」と書きましたが、むしろ専ら女性心理をネタにした艶笑コメディと考えた方が正しいかもしれません。従ってキャラクター的観点から見れば、ケーリー・グラントの役割は一種の触媒としてのそれであり、いかにもケーリー・グラントエスクなプレイボーイ風クリーシェが終始展開されているに過ぎず、或る意味でセルフパロディ的にすら見えるかもしれません。ここで正直に云えば、私めは♂なので、かくしてこの作品の興味の焦点であるイングリッド・バーグマンキャラクターの心理の流れや反応は、当を得ているのか、それともちょっとばかり変なのか、或いは全くのまとはずれなのかについてはよく分かりません。そもそも監督のスタンリー・ドーネンも、原作/脚本のノーマン・クラスナも同様に♂であり、その点についてはむしろ女性オーディエンスの見解が知りたいところです。しかしながら1つだけ言えることがあって、それはイングリッド・バーグマン演ずるアンナは舞台の大女優であるという設定があり、恐らくドーネンやクラスナは、プレイボーイのケーリー・グラントが繰り出すアクションに対する彼女の反応も、アクティングというフィルターを通して描かれているのではなかろうかと思われることです。つまり一言で云えば、「無分別」という作品は、アクティングに関するメタドラマとして捉えることができるのではないかということです。従って、彼女は、フィリップが実際には独身であることを知らない間は、あたかもチャタレー夫人かボヴァリー夫人かという体(但しアンナ自身は独身なので少々状況は違いますが)で不倫劇を演じていたのであり、彼が独身であることを知った後は、騙されて傷つけられた自尊心の復讐者という役を演じ始めるわけです。しかしながらそうしている間は、彼女と現実の間には常に齟齬が生じることになり、その齟齬が今度はそれに対する次の彼女のアクティングを生んでいくという悪循環を呼び込むわけです。要するに、場合によっては悲劇的な展開になっても不思議ではないような題材が扱われているにも関わらず、ドーネン+クラスナはそれを瀟洒なコメディに仕上げてしまうのです。前述の陳腐なトリックなど、まさにコメディであるが故に陳腐さが強調されてオーディエンスの笑いを誘っていますが(従って波長が合わないオーディエンスがこのシーンを見たならば必ずや何と下らないシーンかと思うに違いありません)、しかしこれが悲劇であれば運命の鉄槌がそれによって下されるなどという決定的な転回点になっていても何ら可笑しくはないのですね。コメディであるが故に当然最後は雨降って地固まる式にアンナとフィリップが結ばれることを暗示するシーンでジ・エンドになりますが、何故そうなるかというと最後の最後で彼女はアクティングを止めて悪循環を断ち切るからです。正直云えば、最後にケーリー・グラントキャラクターが何故プレイボーイとしてのモラトリアムステータスをいとも簡単に捨て去ることが出来るのかについてはイマイチ明瞭ではありませんが、前述したようにこの作品のメインの焦点は彼にあるわけではないのでそれは良しとしましょう。この作品は、バーグマンの映画なのです。そういえば、独身であるにも関わらず所帯持ちと偽って女性に取り入ろうとするキャラクターとしては、「サボテンの花」(1969)のウォルター・マッソーキャラクターを思い出しますが、この作品では、バーグマンは今度はマッソーキャラクターの片棒をかついでいました。多分、「無分別」で騙される役には懲りたのでしょう。ということで「無分別」はこれまで述べてきたことから分かるように誰にでも推薦できる作品ではありませんが、微妙なテイストの違いを味わいたいという向きには推薦できます。


2008/06/12 by Hiroshi Iruma
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