週報バックナンバー


週報(2001年12月30日)

  二〇〇一年をふりかえって
                                             朝位真士
 「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩編一三六編一節)
 今年も今日の礼拝を最後に二日後から新年に入る。静かにふりかえってみて、今年の聖句「イエスはまことの
ぷどうの木」と題して、ヨハネ一五章一〜一〇節を通して三つの事を語った。まず第一に、ぷどうの木であるイ
エス・キリストに結びつく事。第二に、神は農夫である。第三に、つながっている時に実を結ぷ。目標、救われ
る人が三名与えられるように祈る。桜ヶ丘教会の三つの目標、一、個人信仰の確立(聖書を読み、祈り、集会に励
む)、二、全家族の救い、三、個人伝道による教勢倍加(礼拝平均五〇名)などのことを祈りつつ語った。
 まだ二〇〇一年度末(三月三一日)には三ヶ月あるが、七五%も過ぎようとしているので、少し一年間(特に二〇
〇一年)を省みるとき、教会員の方々の中に、礼拝に出席することのできない方(病気、勤務都合、世俗優先)が増
加した。けれども・教会学校は微少ながら増加した。皆様方のお祈りを感謝する。もう一つ感謝の事は、召天者
がいなかった(一二月二五日現在)事である。残念な事は、受洗者が与えられなかった(信仰講座受講者二名)。感
謝な事は、教会が経済的に困難な状況にありながら・毎月の会堂返済(二八万円余)が与えられた事。経常会計も
ギリギリではあるが、献金の増額をして下さった方々もいる(ある方は、質素倹約につとめて)。新しく転入会さ
れた方々が教会になじんで、旧会員の方々と共に、積極的に教会形成に参画して下さった。個人的には、教区、
ホ群の御用をさせて頂き、その欠けを会員の方々がカバーして下さった。目立たない奉仕者の方々に心より感謝
申し上げます。

週報(2001年12月23日)

  イエス・キリストの誕生
                                             朝位真士
 序に於いて、アドヴェント第三聖日を感謝する。
 本論に於いてて、マタ一章一八〜二五節を通して、イエス・キリストの誕生の次第を学ぶ。このところより三
つの事を学ぶ。
 @主は聖霊によって宿った(一八〜二〇)。この箇所には二回「聖霊によって」と語られている。聖霊は、私共
に生命を与え、信仰を与え、希望と愛を与える神の力である。この「聖霊によって」誕生されたイエス様である
ことの確認と自覚をもちましよう。
 Aその子を「イエス」と名付けなさい(二一)。自分の民を罪から救うからである。「救い主」であるイエス・
キリストは、私共の罪を救うために、十字架にかかって死なれ、三日目に復活した「救い主」である。
 Bその名は「インマヌエル」。この名は「神は我々と共におられる」(二三)。イザヤ七章一四節後半「見よ、
おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」これは、預言者イザヤが救主イエスにつ
いて七〇〇年前に預言された事の成就である。
 最後に一つの詩を引用しよう。
  「母が共に」
  我ひとり悩むのではなく 母が共に/ 我ひとり聞くのではなく 母が共に/ 我ひとり信じるのではなく
  母が共に/ 我ひとり祈るのではなく 母が共に/ 我ひとり喜ぶのではなく 母が共に/ 我ひとり待つ
  のではなく 母が共に
 この詩の「母が共に」を「神が共に」と入れかえて読むと、イエス・キリストの誕生の意味がよく理解できる
と思う。クリスマスはまさに愛なる神が共にいる時となった、救い主の誕生である。二〇〇一年も神が共にいる
事を感謝しよう。

週報(2001年12月16日)

  牧会者として黙想    
                                             朝位真士
 私は伝道者になって約二七年目を迎えます。最近「生きている」教会とはどういう教会なんだろうということ
を考えています。
 ある教会の「教会生活の手引き」の第三節「生きている教会」の問二七では、教会を「いのちの交わり」に生
きる共同体だとしています。教会にとって大切なことは、この「生きている」ということを知りました。では、
教会が「生きている」というのは、具体的にどのようなことを言うのでしようか。
 「答。教会が生きているということは大切なことです。教会は生きている共同体、つまり有機体のようなもの
です。聖書は、教会を(からだ〉と呼ぶことも多いのです。この教会の生気とは何かということです。いつも盛
んなプログラムを作って活発に活動しているかどうか。礼拝その他の集会に活気が漲っているかどうか。そのよ
うなところで私どもがすぐに感じ取れると思い、それだけで判断してよいことなのかどうか、それは疑問でしょ
う。」この文章を読んだ時、私は頭をガーンとなぐられたような気持ちが致しました。
 クリスヤスシーズンに私共の教会も様々なクリスマスのイベント・集会をやっています。チャペルコンサート、
こどもクリスマス会、桜上水駅での讃美、クリスマスイブの集会、クリスマス礼拝等。しかし私は、ハタと気が
つきました。確かに、様々な活動をやっているが、私達は、いや私は、その行事に追われているのではないか。
ルカ二章七節後半には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあります。私共はこのクリスマ
スシーズンに、大切な救い主を「心の中に」お迎えする準備ができているのか、大切な幼子イエス様を抜きにし
てのクリスマスの祝いではないだろうかと、今書斎で深く神に悔い改めをうながされています。救い主を心の中
にお迎えしましよう。

週報(2001年12月9日)

   クリスマス・チャペルコンサート
                                             朝位真士
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ一・九)
 今年もクリスマス・チャペルコンサート礼拝を迎えることが出来て感謝申し上げます。今年のメッセージは、
「驚くばかりの恵み」という題で、ペアンテ・ボーマン先生(東京交響楽団首席チェロ奏者、神学博士、牧師)が
取り次いで下さいます。先生は一九五一年スウェーデンで誕生され、一二歳からチェロを始められ、王立音楽大
学卒業後、西ドイツのフォルクバンク音楽大学院、ヘルシンキ市のシベリウス・アカデミー大学院で学ばれ、一
九八〇年に首席チェロ奏者として東京交響楽団に入団されました。フィンランドで聖書を学び、神学校にて旧約
釈義を教えておられる神学博士でもあります。ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツの国立フ
ォルクバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれた、明るくて気さくで大変活動的な方
でいらっしやいます。ボーマン先生ご夫妻が私共の教会に来られたのは三回目ですが、回を重ねる毎に、人々が
増加しています。私共の教会は馬小屋をイメージした会堂です。この会堂に、クリスマスの音楽とメツセージを
携えて来られました。超多忙なお二人で、日本全国、時間があれば喜んで行かれます。私共の教会は特に音響に
力を注いだ会堂であり、何とかしてこの会堂から福音の響きと音楽の響きを地域の方々へお届けしたいと、教会
員一同願っていました。その祈りが今日ここに実現しました。きつと今日のクリスマス・チャペルコンサートは、
皆様方の心の中に忘れ得ぬ良き想い出として、いつまでもいつまでも響きわたることでしょう。
 本当のクリスマスの意味を今日、先生方を通して知らせて頂きましょう。
 主イエス・キリストに栄光あれ!!

週報(2001年12月2日)

  弟子の覚悟
                                              朝位真士
序に於いて、西東京教区伝道協議会の講師、大沢秀夫先生(日キ教団松本教会牧師)のメッセージ「招かれ、遣
わされているわたしたち」−福音の響きに耳をすます−というテーマで、四つのポイントを紹介する。@白分の
救いのために祈る。私たちは、まず自分自身の救いのために真剣に祈る必要がある。A神の「声」に耳をすます。
谷川俊太郎「耳をすます」を引用。モーセの経験、エリヤの経験。Bひとびとの「声」に耳をすます。モーセの
召命(出一〜三章)を声の視点から読み直すと、神の声に聞くことを通して届いてくる人々の声。C響き合う。全
地に響きわたる福音に、私もまた響き合うこと。詩一九編。福音を歌い、語り、望み続けること。
 本論として、ルカ九章五七〜六二節を通して「弟子の覚悟」というテーマで語る。この所では、三種類の人々
の質問に対して、イエス様は、三人三様の態度を例としてあげられて、この世のことに愛着をもってイエス様と
共にただひたすら前進する覚悟をなしえない者に弟子となる資格はないと、イエス・キリストの弟子となる者の
資格について教えられた。イエスに従っていくには、将来の可能性や今までの快適な生活をなげうってもかまわ
ないという覚悟が必要だからである。バークレーは次の様に語っている。@イエスははじめの人に、「わたしに
従う前に、それに伴う犠牲を考えなさい。」A何事にも決定的な瞬間があるということ。B耕す人は、後ろを見
ていてはまっすぐに耕すことはできない。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指して走る
ことです。

週報(2001年11月25日)

  やめさせてはならない
                                             朝位真士
 序において、教会には多様な性質の方々がおられることを語る。エクレシアなる共同体である教会であるが、
神を礼拝する目的のために集まっている。多種多様な方々に対して、寛容な気持ちをもちなさいと語っている箇
所がルカ九章四九〜五〇節で、「やめさせてはならない。」と語っている。
 本論。四九節に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに
従わないので、やめさせようとしました。」とある中で、ヨハネの狭量、党派心、競争心に対して、イエス・キ
リストは、群れは違っていてもイエス・キリストの名によるわざをなす人々を見方と考えるべきだと言われた。
一つの事柄を実行する場合に、神にはたくさんの方法がある。神は、人によって多くの方法でご自分の目的を果
たされる。いかなる人間、またいかなる教会にも神の真理を独占する権利はない。またわれわれの寛容は、無関
心にではなく愛に基づくものでなければならない。寛容は三重の理由から出てくる。第一に「あなたがたに反対
しない」ので邪魔にも妨害にもならない。第二にそのわざは「悪霊を追い出す」愛の奉仕である。弟子さえもで
きなかったわざである。第三に「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で・・・
わたしの味方なのである。」(マルコ九・三九〜四○) 要するに「わたしたちの仲間である」か否かより、「イ
エスの名を唱える」か否かの方が大事なのである。
 これらの寛容の教訓は、何が一番偉大かという中心問題を考えさせる。主が最も重要視されるのは「心の中」
であり、それも愛の奉仕という心である。

週報(2001年11月18日)

   一番偉い者
                                            朝位真士
 序に於いて、並行記事のマタイ一八・一〜五、マルコ九・三三〜三七を引用する。
 本論に於いて、ルカ九・四六〜四八を引用する。この短い箇所で、主イエス様の弟子たちは、彼らのうちで誰
が一番使いだろうかということで議論をしている。主イエスのことを思わず、弟子達の心には自己中心な名誉欲
が渦を巻いている。御自身の考えを示すため、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、「わたしの名
のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。あなた方皆の中で最も小さい者こそ、最も
偉い者である。」と語られた。
 バークレーは、奉仕の中には多くの不純な動機が含まれているとしている。@威信に対する欲望、A地位に対
する欲望、B名声に対する欲望、等である。
 イギリスの大政治家ウイリアム・グラッドストン(一八〇九〜九八)は、四回も首相になったが、最後に任じら
れたのは八〇歳をこえてからであった。その頃、彼のメイドが息子の非行のため日夜心を痛めていた。彼女は思
いあまってグラッドストンに訓戒してほしいと頼んだところ、彼は快く承諾してくれた。彼女の息子は、おそる
おそるグラッドストンの部屋を訪れた。彼は普通の閣僚と話すのと同じように、「さあ、おかけなさい。少し話
しましよう。」と大変親切に優しく忠告を試みた。最後にグラッドストンは、彼と共にひざまずいて神に祈った。
その柔和な温かい態度と熱心な祈りに青年は感激して、その後は、うって変わったように真面目な者になった。
私は、この例話を通して「一番偉い者」は謙遜であり、従順な心をもっている人ではないだろうかと想う。フ
ィリピ二・一〜一一節を読みたいものである。

週報(2001年11月11日)

  召天者記念に想う
                                             朝位真士
 序に於いて、日本キリスト教団の式文の「記念式」、黙示録七章九〜一七節、テサロニケT四章一三〜一八節
を引用した。
 本論は、ヨハネ黙示一四章一〜一三節よりメッセージを取り次いだ。一四章一三節には「また、わたしは天か
らこう告げる声を開いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」″霊″も言う。
「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」とあり、コリントT一五
章一八節には「主において死ぬ人々は幸いである。」とある。「主において」とはすなわち、主との一致を守り
ながら」ということである。これから死ぬ人々のための至福が宣言されている。第一には迫害の時に殉教者とし
て死ぬキリスト者をさしているが、主において眠る人々のすべてに応用できる。それらの人々が死んでから神の
みもとにおいて、地上での苦しみと労苦(ヘブライ四・三)から解放される。そして、神に対する従順と誠実、苦
しみとしいたげの時の忍耐と根気は過ぎ去るものではなく、神の玉座までその人についていき、そこでふさわし
い報いを受ける。あるラビの格言はこの箇所(黙示一四・一三)の説明としても引用できる。「人が死ぬ時は、金
銀あるいは宝石・真珠ではなく、トーラ(律法)と遵守と善業とがついていく。」
 ジョン・ウエスレーは一八世妃のイギリスで大きな精神的働きをなし、その影響は全世界に広まっていった。
そして一七九一年三月二日に、なすべき業をすべて終えて八八歳で天へと帰っていった。臨終の床でウエスレー
は、「あらゆることのなかで最も素晴らしいことは、神がわれわれと共にいますということだ。」と述べ、「讃
美しよう。さようなら。」と言って息をひきとった。信仰一筋に生き抜いた聖者の荘厳な死であった。

週報(2001年11月4日)

死と復活の予告
                                            朝位真士
 序に於いて、宗教改革記念日のことについて、一つは聖書のみ、二つは信仰のみ、三つは万人祭司というプロ
テスタントの三つの原理を語った。
 本論に於いて、ルカ九・二一〜二七を通して「死と復活の予告」について語る。
 まず、マルコ八・三一〜九・一とマタイ一六・二一〜二八の並行記事を引用しながら、話を進めていく。ルカ
伝の本文より、イエス様の十字架の死と復活の予告を語る。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(二二節)イエスが語られた最初の
死と復活の予告である。またイエスは、まことの弟子は「自分を捨て(自己否定すること)」、「日々自分の十字
架を負い(病気や様々な不幸のことではなく、信仰のゆえに受ける辱めを忍び)」、「私について来なさい」と言
われている。また、いのちを得るためには、その前にまずいのちを捨てなければならない。御自分がそうした道
を進まれるように、弟子たちも栄光を受ける前に苦難を通らなければならない。しかしその後で受けるいのちの
栄光は、全世界を手に入れるよりはもっと価値がある。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、
損じたら何の得がありましよう。」(二五節)
 ウイリアム・パークレーはこの箇所を「奉仕の条件」と定義して、自己否定し、十字架を負い、人生を活用し、
イエスに忠実である者は、そのむくいを得、不忠実な者は罰を受ける、と語っている。
 最後に「神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」(二七節)「この世代が過ぎゆく前に、あなたがたは、
神の国が実現しつつあるというしるしを見るであろう。」と語っている。

週報(2001年10月28日)

   ペトロの信仰告白
                                             朝位真士
 序に於いて、去る九月二日に世界貿易センタービル八一階から脱出したクリスチャンのスタンレイ・プレイ
ムネス氏の証し文を紹介した。「私は思うのです。神の力強い御手が、私の立っていた場所から飛行機の破片を
はずして下さったと。なぜなら飛行機がぶつかったのは、私のいた場所からほんの六メートルの所でした。人が
どう思おうと気にしません。主イエスは世界貿易センタービルより大きく、神は指先で飛行機を脇に押すことが
おできになるのです。」
 本論に於いて、ルカ九章一八〜二〇節を通して「ペトロの信仰告白」について語った。マタイ一六章一三〜一
九節、マルコ八章二七〜二九節も並行引用した。
 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何
者だと言っているか。」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「洗礼者ヨハネ」とか、「エリヤだ。」とか、
「昔の預言者が生き返った。」等と言った。ペトロは「神からのメシアです。」(ルカ九・二〇)、「あなたはメ
シア、生ける神の子です。」(マタイ一六・一六)、「あなたは、メシアです。」(マルコ八・二九)等と答えた。
今日の私共もまた、イエスをただ大いなる教師、また高尚な模範として尊ぶだけでなく、神のキリストとして信
仰告白しなくてはならない。
 あるときデンマークのコペンハーゲンに、イエスの肖像を作った人があった。傑作の誉れが高いゆえ、ある人
がこれを参観し、縦から横からながめたが、どうもその姿勢にふに落ちないところがある。ついにその前にひざ
まずいて、下からこれを見上げるにおよび、初めて彼の柔和で慈悲深い御姿が生きているように拝せられたとい
う。私共もイエスの御前にひざをかがめ、彼をキリストとして告白し、礼拝し、信仰しよう。

来週(11月4日)召天者記念礼拝

週報(2001年10月21日)

   五つのパンと二匹の魚
                                             朝位真士
 序に於いて、サウジ王子がニューヨークのテロ犠牲者の為に一千万ドル(約一二億円)の小切手をジユリアーニ
・ニューヨーク市長に渡したが、直後に王子が報道陣に「米政策がテロを招いた。」と語った為に、市長が小切
手を返した話をした。
 本領に於いて、ルカ九章一〇〜一七節を通して、「五つのパンと二匹の魚」について学んだ。特に、マタイ一
四章一三〜二一節、マルコ八章三〇〜四四節、ヨハネ六章一〜一四節の並行妃事を引用しながら、信仰と常識の
事について問題提起をした。
 少年の持ち物である、五つのパンと二匹の魚の出来事について、少年の素直で純粋な信仰と、常識的な弟子達
との対比が面白い。勿論、私達は常識(健全な社会人が共通に持つふつうの観念)を働かせる時も必要であり大切
であるが、この時は信仰が優先である。大人(弟子達)の常識的判断と無名の少年の信仰的判断のどちらが奇跡を
生んだのかという事は、私達の信仰を考える良き材料である。
 ところで、新約学者パークレーはこの所を三つの観点から語っている。@イエスは人々が空腹であることを心
配していた。Aイエスの与える援護は豊かである。彼らは満腹し、なお有り余った。愛にはどちらが多いとか少
ないとかいう気むずかしい計算はない。神はそのようなお方である。Bイエスにあってはあらゆる人間の必要が
満たされる。
 最後に、フィリピ四章一九節で「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あ
なたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」とパウロが語っている如く、神は、いつも私共の必要
を知っておられ、祈る時に、神はイエス・キリストによって、与えて下さる。

週報(2001年10月14日)

  主イエスの派遣
                                             朝位真士
 序に於いて、「世界宣教の日」の聖日として、世界の教会、宣教師と家族を、また遠く母国を離れて日本に来
て下さっている宣教師を覚え、祈り、支えることをアピールする。
 本論に於いて、ルカ九章一〜九節を通して「主イエスの派遣」について学ぶ。イエスによって選び出された一
二人の弟子達は、その主イエスの福音を宣べ伝えることによって、イエスのわざを継承していく。
 「イエスは一二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、
神の国を喜べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、」(一〜二)。ここで、「神の国を宣べ伝える」ことと
「病気をいやす」ことの関係である。前者は、神の国の訪れを告げる伝道の働きであり、後者は、神の国が到来
したことのしるしとしてなされる行為である。伝道のわざは人間を通しての聖霊のわざである。
 一二弟子は、伝道のために三つの命令を受けて遣わされた(三〜五節)。第一に、「何も持っていってはならな
い。」第二に、「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」第三に、迎える家も
ない町には「足についた埃を払い落としなさい。」と命じられた。この伝道の結果、民衆はイエスをヨハネ、エ
リヤ、預言者の再来(マルコ六・一五)と認めて、革新的時代のしるしを見たのである。
 私は昨日で五八歳になった。一八歳の時、主イエスを信じてバプテスマを受け、信仰生活四〇年を迎えること
が出来た。伝道者になって二六年が過ぎた。本当にクリスチャンになって、伝道者になって、感謝している。も
し私が救われてなかったら、地獄の滅亡の生活であったと思う。神に大いに感謝申し上げたい。

週報(2001年10月7日)

  『健康な教会へのかぎ』−リツク・ウォレン著
                                              朝位真士
 私は最近『健康な教会へのかぎ』という本を通して大変教えられたので、皆様方へ紹介したいと思う。
 教会が健康で縦続的に成長することには、いろいろな面がある。真正な教会成長を次の五つの要素によって定
義している。@教会は、交わりを通して「暖かさ」に成長する必要がある。A教会は、弟子訓練を通して「深
さ」に成長する必要がある。B教会は、礼拝を通して「強さ」に成長する必要がある。C教会は、奉仕を通して
「広さ」に成長する必要がある.D教会は、伝道を通して「大きさ」に成長する必要がある。
 使徒二・四二〜四七に初代エルサレム教会において、この五つの側面が描かれている。初代クリスチャンたち
は、交わり、互いの徳を養い、礼拝し、奉仕し、伝道した。結果として二章四七節「こうして、主は救われる人
々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とある。二つの点に目を留めてほしい。第一、教会がなすべきこ
とをなしたとき(五つの目的を果たしたとき)、神は成長(神のなさること)を与えて下さったこと。第二、この健
康な教会の成長は日ごとに起こったこと。
 体質改善に四〜五年かかるかもしれない。四つの重要な段階を通る必要がある。@教会の目的を明確にする。
A教会員にくり返し伝えること。Bその目的を中心に教会を組織化する。C教会の目的を活動のあらゆる面に適
用しなければならない。
 桜ヶ丘教会が「健康な教会として成長する」ことを神に祈りたい。

週報(2001年9月30日)

   死の克服
                                             朝位真士
 序に於いて、アメリカで発生した同時多発テロの続報について所見を語る。
 本論に於いて、ルカ八・四〇〜五八を通して語る。この箇所には二つの記事が挿入されている。一つは会堂司
ヤイロの娘が死を克服した記事(八・四〇〜四二、四九〜五六)。二つは長血を患った女の記事(八・四三〜四八)。
特に始めのヤイロの娘が癒された記事について学んで行くと、この少女の死がもつ悲劇性には胸をしめつけるよ
うな要素が三つあることに気がつく。@その少女はひとり娘であった。両親のたったひとつの灯が消えてしまっ
たのだ。Aその少女はおよそ一ニ歳になっていた。東方では、西方よりも子供の成長が早いからである。彼女は
その歳で、すでに結婚のことを考えていたかも知れないのだ。生命に満ちた朝が一変して夜になるとは、一体何
ということだろう。Bヤイロは神殿の司であった。つまり彼は同僚の目から見れば、すでに人生の最高の地位に
到達していた。しかしヤイロは、自分の誇りを押さえることができる男であった。また彼は、しぶとい信仰の持
ち主であった。この絶望と不信の中に信仰を求められる。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、
娘は救われる。」(五〇節)
 死が万事の終わりではないのである(五〇〜五九節)。死のかなたに何かが起こる。「娘よ、起きなさい。」(五
四節)には、死を「恐れるな」と言っているイエスがおられる。眠りから覚めたとき、私たちには新しい、もっと
活気に満ちた主が待っておられる。肉体を離れて、主とともに住むことができる。栄光のからだを与えられ、御
国を継ぎ、主の再臨に同行し、遺族と再会できる。死は決して恐怖でもなく、主イエスとともに克服することが
できるのである。

週報(2001年9月23日)

   敬老の日に想う
                                             朝位真士
 序に於いて、先週の台風一五号の被害の事や、九月一一日のアメリカ、ニューヨークで起こった同時多発テロ
事件について語る。
 本論に於いて、一七名の七五歳以上の方々の名前を挙げて祝福の祈りをさせて頂き、記念品を贈呈する。
 聖書は、Tテモ五・一〜三節を通して、使徒パウロが牧会者、若きテモテに書き送った書簡を通して、「老人
を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。」(五・一)を中心に語る。
 教会はいろいろな年齢や立場、境遇の人たちの集まりである。人が集まるところではどこでも、必然的に生じ
る問題がある。それは年齢の相違から生じる問題であり、男女の性差から生じる問題である。そのような違いの
理解と取り扱いがうまくいかない時、しばしば教会の中に問題が起きるのである。特に今日は、敬老の日に焦点
を当てるために、年配者に関して考えてみたいと思う。一つは、男性女性いずれにも共通して「叱ってはいけな
い」ということであり、年とった男の人に対しては「父親に対するように」、また同じく女の人に対しては「母
親に対するように」勧めなさいという三点である。第一に「叱ってはいけない」である。人間は年をとると若い
時のように活発かつ敏速に事にあたることが出来なくなる。そのため若者たちは年寄りを邪魔者扱いしたり、自
分では気付かなくてもつらくあたったりしてしまうことがある。「叱ってはいけない」とは、そのように厳しく
つらくあたることのないようにという戒めである。
 最後に「老い」の生活の中心は、キリストである。このキリストに従い、キリストを見上げて生きるというこ
とが「老い」を支えていくのである。敬老を迎えられた方々がキリストの証人となることを祈ります。

週報(2001年9月16日)

  悪魔に取りつかれた人
                                              朝位真士
 序に於いて、最近の新聞のニュースを紹介する。
 本論に於いて、ルカ八・二六〜三九を中心に、マタイ八・二八〜三四、マルコ五・一〜二〇も並行記事として
引用する。
 神が理性を持つ被造物として創造されたのは、人間と御使いだけである。人間は地上において見える世界に住
み、御使いは霊的な世界に住む。また、御使いの中には神に仕える者と神に敵対している者とがあるが、後者は
悪魔と呼ばれている。その悪魔どもを司るかしらがサタンである。悪魔は人間に取りつき、人間を繰って本来あ
るべきでない状態に陥れる力を持っている。ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方にいた男は、イエスによ
って悪霊を追い出していただいた後、着物を着て正気に返って座っていた。その有様を見て、人々は恐ろしくな
った。自分たちの飼っていた豚がいきなり湖に飛び込んで集団自殺をするという、すさまじい事件があったばか
りである。正気に返った男は、イエスのお供をしたいとしきりに頼ったが、イエスは、「自分の家に帰りなさい。
そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」(三九)と語られた。彼は、その地方に
おいては唯一の証人となり、自分に起こったことを町中に言い広めて歩いた。
 私共もかつてはこの悪霊に取りつかれた男のように悪霊に支配されて、自分では理解できない行動を起こし、
罪を犯していた。その時、主イエス・キリストの十字架の血潮によつて罪赦されて、正気にもどされた証人であ
る。この恵みを、店、会社、学校、工場、その他のわれわれが生活し働いている場所で、証人として語り続けな
くてはならない使命を主から与えられている。

週報(2001年9月9日)

   突風を静める
                                            朝位真士
 序に於いて、一日夜中に起きた新宿歌舞伎町ビル火災で四四名が死亡した出来事について述べ、「私共にも突
風が起こってくる」という事を述べた。
 本論に於いて、ルカ八・二二〜二五を中心に「突風を静める」というテーマで語った。並行記事、マタイ八・
二三〜二七とマルコ四・三五〜四一を引用しながら、おもに三つの点から語った。
 (一)イエスが到来するとき、彼は誘惑の嵐を静める。私達の人生に於いて、誘惑の息はいつでもつきまとう。
例えば金銭の済惑・これは、クリスチャン以外にもそうであるが、特にクリスチャンがこの嵐に遭うと、大変大
きな戦いとなる。また、異性の嵐。私共はいつもこの誘惑の嵐にさいなまれる。しかし、キリストが共にいるな
ら、そこに凪が訪れ、その凪の中で誘惑はその生成を失っていくだろう。
 (二)イエスが到来するとき、彼は激情の嵐を静める。激しやすい心と短気な気位をもった人間にとっては、生
きることは二重に困難だ。しかし、イエスが共におられると、勝利の静けさが与えられる。
 (三)イエスが到来するとき、彼は悲しみの嵐を静める。人生にはいつの日か必ず悲しみの嵐が襲いかかる。し
かしそのような日にも、イエスの臨在の内にあれば涙はぬぐい去られ、傷ついた心は慰められる。
 結論として、イエスと弟子達が乗り込んだ小舟は、新しい神の民である教会を象徴しているようである。この
主イエスが頭である教会にも、時として嵐が起こる。キリスト者の信仰生活にも嵐がある。しかし、キリストに
結び付いている者には、同時に勝利も備えられている。それは、イエス・キリストが与えて下さる勝利である。
この時かぎとなるのは、キリストに対する信頼、信仰である。

週報(2001年9月2日)

   イエスの母、兄弟
                                              朝位真士
 序論で、主にある兄弟姉妹を訪問した事を語った。
 本論で、ルカ八章一九〜二一節を中心に、並行記事マタイ一二章四六〜五〇節、マルコ三章三一〜三五節を引
用しながら、話を進めていく。まず、短いので本文を引用する。
「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、
『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます。』との知らせがあった。するとイエスは、『わ
たしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。』とお答えになった。」(ルカ八章・
一九〜二一節)
 さてここでイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは」と云っておられる。それは、「神の言葉を聞いて行
う人たちのことである。」(二一節)と云っておられる。マルコでは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉
妹、また母なのだ。」(マルコ三章三五節)「神の御心」とは何か。それは、Tテサロニケ四章三節、「神の御心
は、あなたがたが聖なる者となることです。」と語られている通りである。「神がわたしたちを招かれたのは、
汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」(四章七節)
 結論を申せば、信仰によるイエス様の母、兄弟姉妹とは、「神の言葉を開いて行う人」であり、「神の御心を
行う人」すなわち「聖なる生活をしている人」である。言葉をかえて申し上げれば、イエス・キリストの十字架
の血潮によって罪赦された神の子たちである、主にある皆様方である。今週も、イエス様の母、兄弟姉妹として
の自覚をもって、胸を張って、生活致しましよう。

週報(2001年8月26日)

  ともし火のたとえ
                                              朝位真士
 序に於いて、先週(八月一二日)のメッセージを引用する。
 本論、ルカ八章一六〜一八節より語る。
 イエス・キリストはあかりの譬えで教えられた。あかり火は人間の生活には欠くことのできないものである。
バークレーは、ここには三つの格言があり、それぞれが生活に欠くことのできない警告となつているとしている。
@「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入ってくる人に光が
見えるように、燭台の上に置く」(一六)。これはキリスト者生活の本随を強調している。キリスト教は本来的に
見られるものである。我々は、自分が誰のものであり、誰に仕えているかを明示しなければならない。A「隠れ
ているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず公にならないものはない」(一
七)。いかなるものも秘密のままではあり得ないことを強調している。B「だから、どう聞くべきかに注意しなさ
い。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでや取り上げられる」(一八)。
普遍的法則といえよう。持っている者はさらに多く持ち、持たない者は持っているものまで失ってしまう。
 エフェソ五章八〜一〇節、「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光
の子として歩みなさい。−光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。−何が主に喜ばれるかを吟味
しなさい。」とある。
 私たちは、「世の光」である。イエス・キリストの子供として、また証し人として、この暗い世に、非のうち
どころのない神の子として、星のように輝きましょう。

週報(2001年8月19日)

   種まきのたとえ
                                              朝位真士
 序に於いて、種まきのたとえの並行記事を引用。マタイ一三章一〜九節、マコ四章一〜九節。
 本論に於いて、ルカ八章四〜一五節を引用する。まず四種類の土地について。@道端に落ちた種。八章五節と
一二節を引用。人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。御言葉を聞くが、信じて救われることのないよう
に、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。A石地に落ちた種。八章六節と一三節。芽
は出たが、水気がないので枯れてしまった。御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信
じて、も試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。B茨の中に落ちた種。七節と一四節。茨も一緒に
伸びて、押しかぶさってしまった。御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が
熟するまでに至らない人たちである。C良い土地に落ちた種。八節と一五節。良い土地に落ち、生え出て、百倍
の実を結んだ。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちであ
る。
 以上の四種類の土地に落ちた種のそれぞれの行末を見る事ができた。私共の心の在り方は、信仰の状態によっ
て四種類の内のいずれかになるのである。
 私共は、できることであれば良い土地に落ちた程のように、百借の実を結びたいものである。最も素晴らしい
実は、聖霊の実である。ガラテヤ五章二二〜二三節にあるように、「愛、喜び、平和、寛容、善意、誠実、柔和、
節制」等の結実したいものである。種まきのたとえで大事なことは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(八節)で
ある。聖霊の耳を開こう。

週報(2001年8月12日)

  婦人たち奉仕する
                                              朝位真士
 序に於いて、ルカ七章三六〜五〇節の「罪深い女の赦し」の記事の読み直しをする。
 本論に於いて、ルカ八章一〜四節の「婦人たち、奉仕する」の記事に入る。
「イエスは神の国を宜べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒
だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してい
ただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クサの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人
たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ八章一〜三節)
 今日の女性、特に主婦が、余暇を得て手芸やパートタイムに手を出す現実を考えると、この奉仕は、もう一度
真剣に取り上げられねばならないと思う。第一に、語れない、また語らない信者の奉仕は第一に、「自分の持ち
物を出し合って」(三節)とある。他人のもつ才能をうらやみ、自分のもたぬものを卑下するのではなく、自分た
ちのタラントをささげるべきである。第二に、主に救われた経験に基づく感謝から仕えるべきである。奉仕して
いる婦人たちは、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(二節)。このように、共通
の思い出をもっていた。霊的恵みを財をもって恩返しするのは、聖書のすすめる原理である(ローマ一五・二七、
ガラ六・六〜七〉。最後に、婦人たちの奉仕する記事が、「罪深い女」の記事(七・三六以下)の続きであることに
注意しよう。彼女が赦されたのは信仰によったように(七・五〇)、婦人たちの奉仕は、結局は信仰によってなさ
れた。
 「キリスト・イエスに結ばれていれば、・・・愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラ五・六)
 私達の奉仕は如何だろうか。

週報(2001年8月5日)

  罪深い女を赦す
                                              朝位真士
 序に於いて、香油をイエス様に注がれた並行記事、マタイ二六章六〜一三節、マルコ一四章三〜九節、ヨハネ
一二章一〜八節を引用する。
 本論に於いて、ルカ七章三六〜五〇節を中心に語る。
 あるファリサイ派の人が一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
その処に一人の罪深い女が入ってきて、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った(三六〜三九)。
この女は、自分の罪の赦しの大きさがどれほどであるかを真の意味で知っていたので、イエスに対する感謝の愛
もそれだけ大きいものとなって表された。信仰者は礼拝において福音を聞くたびに、自己の罪を赦していただい
たその赦しの大きさを思うのである。そしてその喜びは、キリストに対する愛の大きさとなって現れていく。イ
エスはルカ七章四七〜五〇節で、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した
愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして女に、「あなたの罪は赦され
た。」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた。
 人間の側のすべての思いは神の計画の前には全く無力である。人々の心の思いの如何に関わらず、イエス・キ
リストは宣言する。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」そしてイエス・キリストにより
その罪をぬぐわれ、新しく生まれかわりを得たひとりの恵みの子の生活が始まったのである。

週報(2001年7月29日)

   洗礼者ヨハネとイエス
                                             朝位真士
 序に於いて、最近一過間のニュースを話題に取り上げる。スポーツでの素晴らしい活躍、明石市での花火行事
に於ける惨事を取り上げる。
 本鶴に於いて、ルカ七章一九〜三五節を引用して、洗礼者ヨハネとイエスとの対比を取り上げる。獄中にいる
洗礼者ヨハネは弟子二人をイエスのもとにつかわして、イエスに質問している。「来たるべき方は、あなたでし
ょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と訪ねると、イエスはこうお答えになった。「行
って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。日の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患って
いる人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わた
しにつまずかない人は幸いである。」(七章二一〜二三節)
 次にイエス様は、洗礼者ヨハネに「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させ
よう。」(マラキ三章)と一節を引用して、彼を旧約の預言者の最後の人であることを語っており、最大の讃辞を
述べている。「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者
でも、彼よりは偉大である。」(二八節)
 確かに洗礼者ヨハネは歴史上の人物の中で偉大な人物といえよう。しかし、イエス・キリストこそは、最も偉
大な人物である。我等の罪の為に十字架上で死に、三日目に復活され、今も目には見えないが、信ずる私共と一
緒にいて下さり、私共の悩みや重荷、凡てを背負って下さり、共に歩んで下さる方である。その方こそ、私等の
救い主であることを再確認して、今週も主と共に歩んで行こう。ハレルヤ!

週報(2001年7月22日)

  息子を生き返らせる
                                              朝位真士
 序に於いて、旧約の列王上一七章一七節〜二四節の預言者エリヤがシドンのザレパテの女主人の息子を生き返
らせた記事と、列王下四章のエリシヤがシュネムの女の息子を生き返らせた記事を引用した。
 本論に於いて、ルカ七章一一節〜一七節を学んだ。ルカは先の百人隊長のしもべのいやしに次いで、死人が生
き返った事件を記して、神の国の福音は病気だけでなく死の領域にまで救いをもたらすことを明らかにした。こ
の世界では、どんな知恵も富も権力も死という壁に直面するとたちまち力を失っていく。しかしキリストの力は
死を越えて働く。その力は見える世界で働くだけでなく、見えない世界にも及んでいる。
 さて、ルカ七章一一節〜一七節を見てみると、ナインの町にやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されると
ころでイエス様と出会い、イエス様が棺に手を置いて、死人を生き返らせたという出来事である。ここでいくつ
かの事を学ぶことができる。@人のいのちの悲哀を語っている(一二節)。Aこの人生の悲哀にキリストの同情を
付け加えている(一三節)。Bイエスはこの同情にイエスの権能を付け加えている(一四節)。
 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始
めた。イエスは息子をその母線にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間
に現れた。」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった。」と言った。(一四節〜一六節)
 私共も罪の中に死んでいたものを、キリストの十字架と復活の力によって生き返らされた者である。大いに主
を讃美していこう。

週報(2001年7月15日)

   百人隊長の僕をいやす
                                              朝位真士
 序に於いて、マタイ八章五〜一三節と、使徒一〇章一〜七節の百卒長コルネリウスの記事を引用する。
 本論に於いて、ルカ七章一〜一〇節の「百人隊長の僕をいやす」記事を学ぶ。
 この物語の主人公はローマの百人隊長である。この百人隊長の立場からいって、ローマ軍の主力を担う存在で
あった。その彼が、自分の僕に対して尋常ならざる態度をとった。彼はこの僕を愛し、彼を救うためにはどんな
苦労もいとわなかった。彼は僕に対して、一人の人間として大事に扱った。この百人隊長はきわめて宗教的な人
間であった。会堂を建てたり、又、主イエスに対して謙虚な人であった。又、彼は信仰の友であった。そして彼
の信仰は健全な論理に基づいていた。それは、自分の経験から出発して、稗に至る議論である。彼は完璧な信頼
をイエスに寄せ、その信頼が「主よ、御足労にはおよびません。・・・ひと言おっしやつてください。・・・わ
たしの僕をいやしてください。」(七章六〜七節)という形で現れる。百人隊長のイエスに対する信仰と謙遜な態
度を見ることができる。
 信仰とは自分について何の頼むところもないとの謙虚な心、キリストについては無条件的な信頼であることを
この事実を通して示す。神の愛について語り、その愛を受けた者の歩むべき道について話されたイエスは、すぐ
いくつかの奇蹟をなされた。イエスにとって病のいやしは、神の愛の具体的な現れである。この異邦人百人隊長
の信仰を民族の根本の建前とするイスラエルにはるかにまさると言われた。「言っておくが、イスラエルの中で
さえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(七章九節)
 これこそ信仰の模範と云えるのではないだろうか。

週報(2001年7月8日)

   実によって木を知る
                                          朝 位 真 士
 序に於いて、マタイ七章一五〜二九節を参考に引用する。ここでは、イエス様の山上の説教の結論であるとい
うことを語る。
 本論に於いて、ルカ六章四三〜四九節から話を進める。特に信仰という良い木でなければ、愛のわざという良
い実をならせることはできない。木はそのならせる実によって、善し悪しがわかる。良い心の倉からでなければ、
良い物を取り出すことはできない。信仰のない人から、よいわざを期待できないのは当然である。口だけではも
っともらしくイエス・キリストの名をとなえていても、わざのともなわない人はほんとうの信仰を持つ者ではな
い。
 次に六章四六〜四九節を引用して、家を建てる二種類の土台について学んだ。@岩の上に家を建てた人。イエ
ス・キリストのもとにきて、その教えを受け、新しい生まれかわりを得、生活においてもイエス・キリストの教
えを実践する人は、家を建てるのに「地面を深く掘り下げ、岩の上に確かな土台をすえる人」であり、どのよう
な試練にも耐えることができる。A土台なしで地面に家を建てた人。イエス・キリストの教えを聞いても行わな
い人は、土台のない家が洪水の時には直ぐ倒れるように、試練には耐えられないのである。バークレーは、一体
何がわざわいして、そのような愚かな建て方をさせたのかを考察した。@愚かな建て方をした人ほ労力を借しん
だ。彼は安易な道を望んだ。イエスの道を取ることはきびしいかも知れない。だがそれはあとあとまで安全に通
じている道なのである。A愚かな建て方をした人には先見の明がなかった。われわれは自らの生活をイエスの教
えの上に築くべきである。そうすれば、いかなる嵐もそれを揺り動かし得ないだろう。

週報(2001年7月1日)

   人を裁くな
                                              朝位真士
 序に於いて、キリスト教の基本を語り、本論に於いて、ルカ六章三七〜四二節を通して「人を裁くな」という
テーマで語る。
 まず、並行記事のマタイ七章一〜六節を引用。ルカ六章三七節「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁か
れることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさ
い。そうすれば、あなたがたも赦される。」三八節「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押
し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤
で量り返されるからである。」この箇所で「人を裁くな」「罪に定めるな」という二つの禁止と「赦せ」「与え
よ」という二つの命令との四つのシリーズが続く(三七〜三八)。そして四番目の「与えよ」がクライマックスを
なす。私たちが、他人に対する量りと、神が私に対する量りとが比例関係にある。ここの主旨は、他人に対する
量り方より、自分が「裁き」と「罪」から「赦され」ねばならない自分があり、神のみを裁き主として、自他と
もに神から「裁かれず」「罪に定められない」で「赦され」「与えられる」必要があることを認めることである。
 そこで三つの「たとえ」が加えられる(三九〜四二)。第一、「盲人の手引き」の話は、「手引き(指導者)と被
指導者が運命共同体であることを教える。第二、「弟子と師」の話は、師が弟子を「十分訓練」しても「師ぐら
い」にするのが関の山で「師以上」にはできないこと。第三、「おが屑と丸太」は、我々には他人に対して何ら
批判したり裁いたりする権利はなく、裁く方は唯一人、主イエス・キリストの父なる神のみである。

週報(2001年6月24日)

    敵を愛しなさい
                                              朝位真士
 序に於いて、最近の出来事を語り、本論に於いて、ルカ六章二七〜三六節を朗読しながら、並行記事のマタイ
五章三八〜四八節を引用する。
 ルカ六章二七節以下には「敵を愛しなさい」というテーマで語られているが、実際間題として「敵を愛する」
事は大変難しい事であり、人間の力では不可能である。しかし「敵を愛する」事を実行された方がおられる。そ
の方はイエス・キリスト御自身であるという結論をまず語り、文節に入っていく。まず、キリスト教は愛の宗教
であるという事から話を切り出して、「敵に対する」四つの事を語った。第一、「敵を愛する」。まず、「愛す
る」事である。神の愛を持って対応する。第二、「敵のために祈る」事である。イエス・キリストは十字架上の
七言の中で、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ二三・三四)と祈ら
れた。第三、「敵に対して拒んではならない」。これも難しい事である。しかし、主の模範を見るとそれがなさ
れている。第四、「与える事」。主イエス・キリストは、罪人である私達、神との敵対関係にあった私達のため
に、命を与えて下さった。                  1
 最後の結論は、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。
そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情
け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ六・
三五〜三六〉「敵を愛する」事は、自分の力ではなく、主の力によって可能となる。フィリピ四・一三。
アーメン

週報(2001年6月17日)

   信仰によって
                                             朝位真士
 序に於いて、最近のニュース、小学生殺傷事件について語る。
 本論に於いて、ヘブライ一一章一〜一六節のテキストを通して「信仰」について語った。最初に信仰の定義、
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という言葉を引用した。次に、
「信仰」という言葉が一一章に二十数回出ている事を確認した。続いて、旧約に出てくる人物、アベルとカイン、
エノク、アブラハムについて学ぶ。その後、神に喜ばれる条件について学ぶ。それは「信仰がなければならな
い」という事である。
 途中でマザー・テレサの言葉を通して、信仰の具体性について学ぶ。断片であるが、以下に記す。
「最大の不幸というのは、病気がある、飢餓状態にある、食べ物がない、障害を持っている、年をとってくる、
いろいろあるが、そんな事は最大の不幸ではない。最大の不幸というのは、それらによって自分は誰からも必要
とされていないと感じること、見捨てられてしまうという状態、それが最大の不幸なのだ。」
「家庭の崩壊 − それは日本だけではない。・・・家庭が崩壊に向かっています。なぜならみんな祈ることを忘
れているからです。祈らない家庭は崩壊します。」
「もっともっと祈りましよう。祈ると清らかな心が戻ってきます。清らかな心には愛が芽生えます。愛には一致
と奉仕が伴うものなのです。だから私たちはもっともっと祈りましよう。祈っていますか。」
 「信仰によって」というテーマを学びながら、信仰と祈りは車の両輪の如くで、ヘブライ一一章全体は、信仰
と祈りの秘訣について語っている様に思われた。

週報(2001年6月10日)

  聖霊降臨日
                                              朝位真士
 序に於いて、桜ヶ丘教会の創立が一九二三年六月一日であること、板井康裕先生の働きや現在までの歴史につ
いて語る。
 本論に於いて、使徒二章一〜一三節を中心に、特にペンテコステ(聖霊降臨日)について語った。歴史的には、
ユダヤ教の三大祭(過越祭、七週祭、仮庵祭)の一つである過越祭から五〇日日に行われる収穫の祝い、五旬節(
ペンテコステ)の日である。キリスト教的に語れば、主イエス・キリストは十字架上で死に、三日目に復活し、地
上で四〇日間生活を弟子達となし、天にあげられた。その一〇日後に、集まって祈っていた人々の上に聖霊が降
った。イエスの約束に基づくすべての時が充満して、ついに聖霊の時、伝道と教会の時が来た。聖霊は炎のよう
に、風のように、舌のように、息のように人々の上に降り、聖霊降臨によって教会が誕生した。ペンテコステは
その記念日である。
 教会に聖霊が降ることによって、一人一人の交わりが回復されて、宣教が活発になされていった。教会の特質
は三つある。@生命共同体。イエス・キリストの命が脈打っている。A生活共同体。人間をその交わりにおいて
訓練する。B産業共同体(伝道事業団)。神の産業(伝道、教育、奉仕)を行う。
 最後に、ペンテコステの出来事は「神の偉大な業」である。私共のクリスチャン生活も、「神の偉大な業」を
語りつげる事であり、証し続けることである。七八年の歴史をもつ桜ヶ丘教会が次世代へ語り続けるべき事は、
「神の偉大な業」である。この使命が与えられている事を神に感謝しよう。

週報(2001年6月3日)

   幸福と不幸
                                             朝位真士
 序に於いて、最近の新聞、テレビのニュースを取り上げる。
 本論に於いて、ルカ六・二〇〜二六節を通して語る。並行記事、マタイ五・一〜一二節も参考にしながら語る。
ルカ六・二〇〜二六節の中で、幸福と不幸を明確に分離している。二〇〜二二節には四つの幸福があり、二三〜
二六節には四つの不幸が記されている。よくみると、「貧しい人々」「飢えている人々」「泣いている人々」
「憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる人々」は「幸い」であり、「富んでいる人々」「満腹している人々」
「笑っている人々」「ほめられる人々」は「不幸」であると語っている。ここでは、この世での価値観の転換が
見られる。ここでの鍵語は二四節、「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを
受けている。」イエスがここで用いている「受けている」という言葉は、「支払いをそっくり受け取る」という
意味である。ここで私達に、安易な道、一時的な快楽や利益を与えてくれる道を尊ぶか、それとも当座は苦労も
多く、時には苦しみを受け取るような厳しい道をとるか、選択を追っている。世の報いに心を注ぐか、それとも
キリストに心を注ぐかである。
 F・R・モールトヴィは、イエスは弟子たちに三つのことを約束したという。@完全に恐れのない状態。A真
の幸福。B絶えざる困難。パウロは「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠
の栄光をもたらしてくれます。」(Uコリ四・一七)と語っている。
 私達は、この世の幸福を顧ぅか、それとも神の国のためにこの世の不幸を願うか。あなたがたの考え方次第で
ある。

週報(2001年5月27日)

  病人をいやす
                                             朝位真士
 序に於いて、最近の知人牧師の病気の事について語り、健康とは「単に病気や疾病のない状態を言うのではな
く、肉体的、精神的および社会的に良好な状態のことをいう」と紹介した。
 本論に於いて、ルカ六・一七〜一九を引用して学ぶ。並行記事のマタイ四・二三〜二五も引用した。マタイに
よると、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆ
る病気や患いをいやされた。」(四・二三) イエス様の働きは、ここでは、三つに要約されている。「教え」、
「福音を宣べ伝える」、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と語られている。ルカ六・一七〜一九を見
ると、イエスの教えを聞くため、病気をいやしていただくために集まり、また汚れた霊に悩まされていた人々も
いやしていただいた。「イエスの力によって、すべての病気をいやしていたからである。」と語られている。
 最近のキリスト教の特色ある集会を見ると、病気がいやされるために多くの方々が集まって、実際いやされて
いる。キリスト教の集会の本質は、病気がいやされる事が主ではなく、キリストの十字架と復活の力によって、
罪を赦されて、天国に行ける事が、大事な要素である。勿論、病気がいやされる事も大きな恵みであるが、Uコ
リント一二・七〜一〇にあるように、いやされなくても、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中
でこそ十分に発揮されるのだ。」(九節)
 イエス・キリストの御心を求め、神の栄光がその事を通してあらわれる事が大切である。病気がいやされる事
も恵みであるが、罪を赦されて、魂が救われる事の方が、もっと大きな恵みであり、祝福である。

週報(2001年5月20日)

   一二人を選ぶ
                                             朝位真士
 序に於いて、並行記事のマタイ一〇・一〜四とマルコ三・一三〜一九を引用する。
 本論に於いて、ルカ六・一二〜一六を引用する。ガリラヤ伝道を開始されたイエス・キリストは、諸会堂で教
え、病人をいやし、多くの人々の友となり、彼の評判はその地方のいたる所に広まっていった。一方、パリサイ
人や律法学者たちの律法主義・形式主義・偽善とたたかった。イエスは、神の国の福音を地の果てまで伝道する
ために、祈りのうちに神の導きを得、一二人を選び、ご自分の仕事の助けをさせるため彼らを訓練した。祈りは
信仰者の霊的な呼吸である。祈りにおいて神との交わりを得る。祈りの模範をイエス・キリストに見いだす。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その
中から一二人を選んで、使徒と名付けられた(ルカ六・一二〜一三)。マルコ三・一四〜一五をみると、選んだ理
由が記されている。@自分のそばに置くため。A派遣して宣教させ、B悪霊を追い出す権能を持たせる。
 次にこの一二人について、パークレーは二つの事を記している。@彼らはごく普通の人間であった。A奇妙な
寄せ集めであった。ほんもののキリスト者の集まり、全く異なった性格やタイプの人間が共存しうる場である。
教会の中でもそうである。全く性格の違ったごく普通の人達の集まりである。ただ、この世の集団と違うのは、
問題解決できる唯一の解決策が、イエス・キリストによることである。唯尊ばれるのはイエス・キリストのみで
ある。他のなにものでもない救主である。

週報(2001年5月13日)

  岸義紘先生プロフィール
                                         前田好和・朝位真士
 今回お迎えする岸先生は、一九四一年東京で誕生され、岡山で育てられる。
 トランペット、トロンボーンに行き詰まり、二〇歳の時からアルトサックスを手にする。四〇代後半、サム・
テーラーのCDと、キム・ヨンイルのテープとの衝撃的な出会いを得、山中良之氏に師事。現代奏法とジャズの
基本を学び、三種類のサックスを基本からやり直す。サクソフォン・ソロCD『ああ、主のひとみ、まなざし
よ』『この素晴らしき世界』『マイハート・ウィルゴーオン』『二〇〇一−一〇〇一東京記念コンサート』『ア
メイジング・グレイス』(ホザナミュージック社)がある。だれでも、いつでも、どこでも、ビデオテープで聖書
を学ぶことができるJTJ宣教神学校学長、ミッション二〇〇一巡回伝道者、国体水泳の部、元神奈川県代表選
手、ムラサキスポーツ競泳チーム所属選手、二〇〇メートル自由形リレー日本記録保持者、等、多くの賜物を主
の為に、すべてをささげて御用されている先生である。
 三五歳から巡回伝道一筋。一般向けサックスCD二枚、賛美CD一枚をリリース。
 地方教会を会場に伝道コンサートを展開中。二〇〇一年末まで、一〇〇一コンサートを目標にしておられる。
 また先生は、小さな集会(数名)でも大きな集会(千名以上)でも、きさくに御用されている。大変霊的にエネル
ギッシュな先生と思われる。だれにでも気楽に話しかけ、交わり、主イエス・キリストの福音をストレートに語
り、音楽(サックス演奏)とメッセージを携えて、全国を巡回されている。反面、神学校学長として、学究的な面
もおもちである。私共の教会は初めてであるが、これを機会に良きお交わりができればと祈っている。今回のチ
ャペルコンサートに神の栄光と祝福があることを切に祈るものである。

週報(2001年5月6日)

   手を伸ばしなさい
                                             朝位真士
 序に於いて、ルカ六・一〜五の記事を引用して、安息日の事について、特に安息日の意味について語った。安
息日は旧約では土曜日であったが、今日、新約聖書には何故日曜日が安息日、聖日となったか記されている。一
言でいうと、主イエス・キリストは、私達の罪の為に金曜日に十字架上で死に、三日目に復活された。その日が、
今日でいう日曜日である。生ける主を礼拝する日、安息日は、主イエス・キリストの礼拝から始まる。
 本論に於いて、ルカ六・一〜一一節を学ぶ事であるが、一〜五節迄に於いてダビデがとった行動の根拠として、
サムエル記上二一章一〜六節の記事を引用した。ルカ六・一〜五に於けるイエス様の行動に対して批判したファ
リサイ派の人々は、二つの真意を見失った。一つは、開かれた心で、聖書に近づくことをしなかった。二つは、
欠乏感をもって、聖書に近づかなかった.
 次に、六〜一一節のところで、イエス様が片手の萎えた人をいやす記事を学ぶ。イエス様は、安息日にこの事
をやった為、批判の対象になった。片手の萎えた人は働くことを求めた人であった。そして彼は不可能なことに
挑む気力をもった人であった。イエス様は、ファリサイ派の人々の反対にもかかわらず、「手を伸ばしなさい」
と言っていやされた。私共も萎えた手、つまり、神から与えられた才能、賜物を思い切って主の為、人の為、社
会の為に使うことが大切である。手を伸ばすとは、今迄やったことのない事をやってみる、経験する事である。
その時に、主イエス様は私達に大きな力を与えて下さる。
 五月一三日(日)岸先生のチャペルコンサートに、一人でも多くの方々を案内させて頂きましょう。「手を伸ば
して」主の働きに参画致しましょう。

週報(2001年4月29日)

   弟子たちを派遣する
                            朝位真士
 序に於いて、復活の出来事に言及した。
 本論に於いて、マタイ二八章一一〜二〇節を通して語った。まず一一
〜一五では、墓の番人のうちの数人が祭司長のところに行って、墓が空
になったことを話したとき、ユダヤの指導者はあわて、彼らの計画がこ
とごとく失敗するなどということがあるだろうかと思い、番人に金を与
えて、彼らが眠っている間にイエスの弟子たちが死体を盗んだと言わせ
た。しかし彼らは失敗したのである。
 次に一六〜二〇節で、三つのことをイエスは弟子たちにされた。@イ
エスの力を保証された(一八節)。一度死に、そして死を克服されたイエ
スの力は、すべてのものの上にある。弟子たちが主として仕える方は、
天においても地においても、絶対の権威をもっておられたのである。
A命を与えられた(一九節)。イエスは、すべての国民を弟子とするため
に、彼らを遣わされた。バプテスマを施せとの命令は、すべての人をイ
エスに導けとの命令である。B主の臨在を約束された(二〇節)。一一人
の名もないガリラヤ人が、世界の宣教に遣わされる。彼らは世界で最も
重要な使命を帯びて、世に遣わされた。そして、彼らは世界で最も偉大
な方が共におられるとの約束を受けた。このことは現在の我々にもあて
はまる事実である。

週報(2001年4月22日)

   イースターの喜び
                            朝位真士
 序に於いて、使徒信条に基づいた教理的説教を引用する。
 本論に於いて、マタイ二八章一〜一〇節を引用する。この復活の朝の
出来事で特に注目すべき点は、空の墓に行ったのは、弟子達ではなく、
無名の婦人達、マグダラのマリヤとほかのマリヤであったという事が記
されている。ここで考えることは、信仰の基準というのは、外見や、人
間的な価値ではない。主の見られる視点は違うという事である。次に、
「恐れることはない」と何度も語られているが、私たちは、さまざまな
事に恐れを抱くものである。例えば、自分の現在抱えている課題、また
は、将来の事に対して、また、罪に対して、その他さまざまな事柄に対
して恐れを持っているが、それに対して、「恐れるな」と主は語ってお
られる。恐れの反対は「喜び」である。キリストが、私たちの罪のため
十字架上で死に、三日目に復活された事によって、恐れが喜びに変えら
れるのである。
 次に、バークレーは、この復活の主イエスに出会った事によって、三
つの命令を語っている。第一、信じなさい。第二、宣べ伝えなさい。第
三、喜びなさい。
 私はイースターの礼拝には、いつもこの三つの命令を心に明記したい
ものである。

週報(2001年4月15日)

   イースター(復活祭)を迎えて
                            朝位真士
 今年もイースターを迎えることができて感謝です。このイースターの
起源について記すと次のようになります。
 イエス・キリストの十字架の死後三日目、週の初めの日、主がよみが
えられた日、日曜日です。この日は、キリストの復活を記念する日であ
り、三二五年のニカヤ会議にて、春分の後の第一の満月後の日曜日と定
められました。
 キリストの復活によって、罪の結果であり、人間の最大の敵である死
に勝利をもたらしたこの日を記念し、教会では特別礼拝、墓前礼拝、聖
餐式などを行うところもあります。
 さて、私はこのイースターに何を決意したかを述べてみたいと思いま
す。
 第一に、復活信仰を新しく持つ。桜ヶ丘教会新会堂ができて四年目に
入り、旧来のやり方にいつまでもしがみついているのではなく、伝道牧
会のために、キリストと共に新しい命に生きて、今年は三名の新しい魂
のために全力を注ぎたい。
 第二に、愛の信仰を持つ。キリストは、裏切って捨てていったペトロ
をはじめ弟子達に現れて、彼らにもう一度勇気と力を与えられました。
これは、神の愛の現れです。私も、キリストの愛に燃やされて生きる者
となりたい。皆様方のご協力を切に祈っています。

週報(2001年4月8日)

   新しいぶどう酒
                            朝位真士
 序に、於いて二〇〇一年度の目標を語り、本論に於いて、ルカ五・三
三〜三九節を語った。
 三つの点を重点的に語る。
 第一、断食について。ユダヤ人の三大善行に、施し、断食、祈祷があ
る。ヨハネの弟子達や、ファリサイ派の人々は特にこの三つの業を重要
視した」しかし、イエス様は、それも大事だが、「花婿(イエス・キリス
ト)が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにでき
ようか。」(三四)と語り、彼らを批判した。
 第二、新しい服について。これも、イエス・キリストを指している。
 第三、新しいぶどう酒について語った。
 以上三つの点について、ウイリアム・パークレー(新約聖書学者)は、
次のように述べている。
 @われわれは冒険的思想を恐れるべきではない。聖霊なる人格が存在
するのであれば、神はわれわれを新しい真理へと導かずにはおくまい。
われわれが新しい考えを不快に思うようだったら、要注意。それは、わ
れわれの精神が老化し、弾力性に欠けていることを示している。
 A新しい方法を恐れるべきではない。新しいぶどう酒(キリストの教
え) は新しい皮袋に入れねばならない。

週報(2001年4月1日)

   レビを弟子にする
                            朝位真士
 ルカ五・二七〜三二を通して語った。イエス・キリストは、引き続い
て、レビという名の徴税人と会食をした。レビは、マタイ九・九ではマ
タイとも呼ばれている。ユダヤでは取税人は支配者であるローマ帝国の
下請の仕事をしており、ローマの権威をかりて、私腹を肥やす悪らつな
ことをする者として、人々から嫌われる罪人とみなされていた。そのレ
ビにイエス様は声をかけて「わたしに従いなさい。」(ルカ五・二七)と
言われ、彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。自分の財産
と大きな収入を得る仕事を捨て、それと同時に彼は自分の罪のわざ、罪
の重荷を捨てることが出来、自分の得た喜びと感謝のゆえに、イエス・
キリストをもてなす。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に
席に着いていた。ファリサイ人や律法学者たちはつぶやいて、イエスの
弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に
飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要
とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい
人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
私はこの箇所を読んで、自分の献身した一九七一年の時を思い出した。
早や三〇年の年月が経過しているが、今も、主に召された確信が与えら
れている事を心から感謝している。

週報(2001年3月25日)

  西東京教区全体研修会に出席して
                                             朝位真士
 三月二〇日、阿佐ヶ谷教会にて、「二一世紀のメッセージ」という主題で、講師の深町正信先生(青山学院院
長)の礼拝メッセージがあった。「信仰のバトンタッチ」というテーマで、使徒八章二六〜四〇節と、三章一〜
一〇節を通して語られた。詳細は後日西東京教区だよりに記されると思ぅが、私の感想と心に残った事を語って
みたいと思う。
 まず、序論に於いて、日本のキリスト教人口を約一一〇万人と述べ、総人口の○・八七%という数字をあげら
れた。そして、信仰の縦承の事について語られた。これは、一つの教会だけではなく、日本の教会全体の課題で、
真剣に取り組むべき課題であると言われた。具体的な現代の社会の分析をされて、教会の受入れ側にも問題があ
ると指摘、話が熱を帯びてきた時に、具体的に、聖書を通して、信仰継承の事例を挙げられた。家族での信仰継
承のテキストは、宗教改革者ルターの「小教理問答」等や、カルヴァンの家庭における信仰教育などを語られた。
ジョン・ウェスレーの母スザンナが子供一六人に一人一人信仰教育をした事などを語った。そして、信仰継承は、
日本の教会の緊急課題であるという事も語られた。次に、現代の教育のキーワードは、心の教育、生きものすべ
てに思いやり、やさしい心を育てる。特に若者たちの心の不安の解消は、信仰が大切である。メッセージを聞い
て考えさせられたのは、信仰継承こそ、明日の日本を左右する大切な課題であるということである。
 分団に於いて、「伝道」「連帯」「奉仕」と分かれたが、私達は「伝道」の分団に行き、現代の教会の現状、
家族伝道、地域伝道の難しさを感じた。しかし、私は、やはり聖霊様が働かれる事、凡ての難しい間題、課題は
解決されるという確信が与えられ、私自身、聖霊の働きやすい教会形成をしなくてはという思いが強く与えられ
た。

週報(2001年3月18日)

   赦しといやし
                                             朝位真士
 序において、ルカ伝五・一七〜二六節のポイントを話す。第一、「主の力が働いて、イエスは病気をいやして
おられた。」(一七節)第二、「イエスはその人たちの信仰をみて、」(二〇節)第三、「あなたの罪は赦され
た」(二〇節) 第四、「その人は…寝ていた台を取り上げ」(二五節)第五、「神を賛美しながら」(二五節)
第六、「今日、驚くべきことを見た」(二六節)序論を語り、並行記事、マタイ九・一〜八、マルコ二・一〜一二
を参照。
 本論において、序において語った事の一つ一つを説明した。第一、「主の力が働いて」。私たちには、主イエ
ス・キリスト、三位一体の神(父、御子、御霊)の力がいつでもどこでも働く。歴史の中に、世界の中に、日本の
中に、教会の中に、個々人の生活の中に、主の全能の力が働いている。言葉を変えて語るならば、神の御支配の
中に全てがある。第二、「イエスはその人たちの信仰を見て」。私たちが今日まで救われ守られているのは他者
の信仰と祈りによるのである。第三、「罪は赦された」。罪を赦す事の権威者は、ただ一人というか、全能の神
のみである。第四、「寝ていた台を取り上げ」。信仰生活とは、今までの生活から違った視点をもった、前向き
な生き方をする事である。第五、「神を賛美しながら」。私たちは絶えず神を賛美し、神の栄光のために生きる
生活をする事が大事である。第六、「今日、驚くべきことを見た」。私たちの信仰生活は、毎日毎日奇蹟の連続
である。驚くべき事ばかりである。私たちの信仰生活にはマンネリ化はありえない。聖書を読み、祈り、集会に
励むという基本的な事柄を積み重ねていく事に、私たちが経験しなかった、驚くべきことを見るのである。
 信仰生活により、生き生きとした生活ができるのである。「中風の人のいやし」は、私たちのいやしでもある。

週報(2001年3月11日)

   主よみ心ならば
                                            朝位真士
 序に於いて「み心ならば」という言葉について、ルカ二二章三九〜四八節の「オリーブ山で祈る」イエス様の
御姿を引用。又、ヤコブ四章一三〜一七節「誇り高ぶるな」で、私達の態度を学ぶ。
 本論では、ルカ五章一二〜一六節を通して、「らい病人のいやし」の記事を通して学ぶ。ユダヤに於いてはラ
イ病は、神に打たれた者の病であり、罪と汚れのしるしであった。旧約レビ記一四章「清めの儀式」規定を参照。
自分のらい病であることを恥じ、悲しみつつも、イエス・キリストに対する願いと信頼をもって、「主よ、御心
ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(一二節)病人に対する深い愛と、その信頼にこたえて、
「よろしい。清くなれ。」ということばをもって、イエス・キリストは、らい病人を治してあげた。この出来事
は、キリストの善意と恵みの奇蹟として、意味がある。次に、「きよさ」という事について考えたみたい。第一
に、神やイエス・キリストとの関係に於いての「きよさ」である。真のきよさは、神と交わるキリストが手を伸
ばしてさわってくださるものである。第二に、この「きよさ」はモーセの命じたおきてや、教会訓練と矛盾せず、
むしろ現実の教会の指導によって与えられるものである。次に、最も大切な真理は、きよさはキリストが「望
む」ところである。キリストは、「わたしの心だ、きよくなれ」と言われた。
 最後にキリストは、病気をいやす、大きな働きの後に、人里離れた所に退いて祈っておられた。私共も、事が
始まる前と、終わった後に、神様と交わることを忘れないようにしなくてはならない。その為、聖目礼拝の重要
さを再認識する。

週報(2001年3月4日)

   二〇〇〇年度総会を終えて
                                              朝位真土
 二月二五日礼拝後、桜ヶ丘教会の総会が開催され、朝位牧師が議長席に着き、総会書記榊原姉が書記席に着き、
現住陪餐会員五二名中三〇名出席、委任状一三名で、総会成立宣言。まず、議長より議題説明をして祈祷で始ま
り、第一号議案、二〇〇一年度宣教方針について説明した。聖書ヨハネ一五章一〜一〇節を引用して、信仰生活
と信仰の成長を目指す。「基本に帰れ、原点に帰れ」。@教会に根を下ろした信仰生活をする。A実を豊かに結
ぶために一人一人は試みの中でイエス・キリストにつながって励む。B悔い改めの実や、聖書の実を結ばせて頂
く。二〇〇一年度具体的目標。三名の受洗者が与えられること。桜ヶ丘教会の祈祷目標を達成していくこと(個
人信仰の確立、全家族の救い、個人伝道による教勢倍加)。五月第二聖日に岸先生を迎え、メッセージと演奏
(サクソフォン)。一一月か一二月には、ベアンテ夫妻による集会。第二号議案、二〇〇一年度一般会計収支予
算案と、第三号議案、二〇〇一年度会堂会計収支予算案の説明を松下慶夫会計役員にして項く。第四号議案、役
員改選があり、投票結果は順不同であるが、横田正作兄二一票、松下慶夫兄二五票、横田たみ子姉二五票、杉浦
洋子姉二〇票、中本達之助兄一四票、榊原紀恵子姉二三票、安東努兄一七票、次点竹下大平兄一三票という開票
結果であった。
 私がこの総会の議事を進めてきた一人として感じたのは、まず宣教方針の内容を実践に移すことを祈りたい。
又、厳しい教会会計、会堂会計の収支予算を松下会計から聞きながら、皆でこの為に祈って、この二〇〇一年度
を乗り越えて行きたいと思った。又、新役員を含めての役員メンバーをみて、霊的な事柄と実務的な事柄のバラ
ンスがとれていると思う。皆様の祈りの御支援に期待します。

週報(2001年2月25日)

   多くの病人をいやす
                            朝位真士
 序に於いて、今日のルカ四・三八〜四四にある二つのテーマ「多くの
病人をいやす」と「巡回して宣教する」の題を知らせる。
 本論に於いて、三六〜四一節を通して、イエス様がペトロの姑をいや
す記事を語った。特にここで「人々はイエスに頼んだ。」という聖句に
強調点を置き、信仰の原点はイエスを信頼する事であるという事を強調
した。教会の主は「イエス・キリスト」である。私達クリスチャンは、
主の為に奉仕するごとが大切である。どんな人でも教会にとって不必要
な方はいない。凡てが主イエスにとって必要な方々であり、神様がそれ
ぞれに与えられた使命、奉仕を果たしたい。医者であり、ルカ福音書の
筆者ルカの、病人に対する細かい描写を見る事ができる。悪霊の存在も
私違は見逃してはならない。
 次に四二〜四四節を通して、イエス様が「神の国の福音」について宣
教された事を語った。「神の国」はイエスのメッセージの要点であり、
神の国はイエスにとって同時に三つの事を意味した。@それは過去であ
つた。アブラハム、イサク、ヤコプは神の国にいたのである。Aそれは
現在であった。「神の国はあなたがたの中に、またあなたがたの間にあ
る。」(ルカ一七・二一)Bそれは未来であった。神がこれから与える
ものであり、人々が願い求めるべきであった。それは「主の祈り」の中
に述べられている。

週報(2001年2月18日)

  汚れた男のいやし
                            朝位真士
 序に於いて、最近のニュースのことについて語る。
 本論に於いて、ルカ四・三一〜三七を通して「汚れた男のいやし」を
語りだす。この記事の並行記事はマルコ一・二一〜二八である。このル
カの記事で特徴ある言葉、「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉
には権威があったからである。」(三二節)と語っている。主イエスのこ
とばには、権威があった。そのことばは決して空しく消えてしまうこと
がなく、それによって、必ず何かが生起するということである。この点
で、イエスのことばは、昔も今も変わりなく権威をもって私たちに臨ん
でくる。この所に出てくる汚れた男のいやしの記事で、現代も昔も変わ
らない常識的、理性的、良心的に考えられないサタンの霊、汚れた霊に
つかれたとしかいいようのない、人々の行動が目につく、その中で、イ
エスの権威に満ちた御言葉は、人の肉体をいやし、汚れた悪霊につかれ
た男を悪霊から解放した。現代の世の中に起こっているさまざまな事件
も、イエスの御言葉によつて、必ず解決すると信じたい。「この言葉は
いったい何だろう。権成と力とをもって汚れた霊に命じると、出ていく
とは。」(ルカ四・三六) 私共も、神の御言葉、聖書の御言葉を信じ
て、不安な現代の中にあって、主と共に信仰をもって進んでまいりまし
ょう。

来週(25日)礼拝後教会総会

週報(2001年2月11日)

   今日実現した
                            朝位真士
 序に於いて、先週の「イエスの誘惑」について語る。
 本論に於いて、ルカ四・一四〜三〇を通して「今日実現する」という
テーマを語った。
 まず第一に、イエス様が聖霊に満たされてガリラヤに帰り、ナザレの
会堂で礼拝をされて、説教を語った。
 第二に、その内容は、イザヤ六一・一〜二と五八・六を引用された。
会堂は彼における宗教生活の中心であった。現代的に言えば、教会であ
る。信仰生活の基本は、まず、教会生活である。健康を害したり仕事や
都合以外で教会の礼拝に出席しないというのは信仰が弱くなり、悪魔の
誘惑に負けやすくなる。私共は極力教会生活を重視しなくてはならな
い。さて、当時の礼拝の要素は、一、祈り、二、聖書朗読、三、聖書の
解明、である。このパターンは現代も受け縦がれている。イエスが、聖
書の解き明かしを終えた時、会堂にいるすべての人の目がイエスに注が
れ、「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語った。人々
の反応はいろいろであった。次に、旧約のエリヤの時代(列王上一七章)
とエリシャの時代(列王下五章)の事について語り、今も信じる者の上に
神の言葉が「今日、実現する」のである。
 私共も、今週この御言葉を信じて、毎日毎日神の言葉が実現する様に
祈りましょう。

週報(2001年2月4日)

   イエス誘惑を受ける
                          朝位真士
 序に於いて、イエス様が誘惑を受けられたことについて、並行記事(
マタイ四・一〜一一、マルコ一・一二〜一三) の比較をする。
 本論に於いて、ルカ四・一〜一三の記事を中心にイエスの荒野に於け
る三つの誘惑について語る。
 第一の誘惑では三〜四節を通して「神の子なら」という自覚をゆすぶ
ろうとすると同時に、神の子の日覚をくすぐって、悪魔のわなにかけよ
うとしている。具体的には「石をパンに変えよ」という誘惑、経済的な
誘惑、私共もよく、収入十分一献金のことで誘惑に会う。そんなに献金
してもよいかと、悪魔はささやく。金銭の誘惑は、牧師も信徒の方々も
心しなくてはならない。
 第二の誘惑は五〜八節で、この世の権力と繁栄を約束する政治的誘惑
である。地上的な力と所有により、救い主の使命を果たしたらどうかと
誘惑する。
 第三の誘惑は九〜一一節。 神の子イエスへの神の奇跡的行為を要求す
る。奇跡による神および神の子の真正性の証明である。イエスは神の言
葉(申命六・一六)をもってこれを拒否する。
 私はこの三つの誘惑を通して、悪魔は誘惑をいつも私共にもけしかけ
てくるが、イエス様が御言葉と信仰によって勝利したように、私共もイ
エス様がなさった方法で、悪魔の誘惑に対して勝利したいものだと感じ
た。

週報(2001年1月28日)

    イエスの受洗
                           朝位真士
 ルカ三・二一〜二二を通して、「イエスの受洗」について語った。
 序に於いて、イエス様の受洗の並行記事を引用した。
 本論に於いて、何故イエス様がバプテスマのヨハネから受洗されたか
について語った。第一に、イエスのバプテスマは御自分をその民の罪の
償いのための供え物とすることを意味していた。第二に、イエスのバプ
テスマはイエスが大祭司として民の救いのためのとりなしを公に開始す
ることのしるしであった。この二つの意味のゆえに次の二つのことが起
こった。聖霊がイエスの上に降り、天から神の声が聞こえたのである。
「イエスも洗礼を受けて祈っておられろと、天が開け、聖霊が鳩のよう
に目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたし
の愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
(ルカ三・二一〜二二)一つは、イエスが救い主としてその仕務を果た
すために、彼の人間としての性質の上に聖霊による力が与えられる必要
があった。二つは、イエスの使命が公に彼に与えられたことを明らかに
し、父なる神が愛と承認とを御子に与えられたことを物語っている。
 最後のこととして、イエスの洗礼は、民の罪を負う人間の身代わりと
して、その立場に立たれたことである。

週報(2001年1月21日)

  洗礼者ヨハネの宣教
                                             朝位真士
 序に於いてルカ一・五七〜六六を通して、洗礼者ヨハネの誕生を語った。
 本論に於いてルカ三・一〜二〇を通して、洗礼者ヨハネの宣教を語った。まず、洗礼者ヨハネの宣教の時代的
背景を語り、三節にて「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗
礼を宣べ伝えた。」という記事を中心に、ルカ伝の特長は、「罪の赦し」であるという事を強調した。
 次に四〜六節を通し、旧約イザヤ四〇章三〜五節を引用しながら説明した。預言者イザヤ書の中に、洗礼者ヨ
ハネの使命が宣べられている。ルカ三・七〜一四を通し、ヨハネのメッセージの内容が語られている。特に八節
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」とヨハネは強くアピールしている。宣教に対する群衆、取税人、丘士の三
種頴の人々の反応は共通で、「わたしたちはどうすればよいのですか。」と、ヨハネに問うている。ヨハネは、
彼らに、悔い改めと、愛と正義、誠実と知足を説く。次にヨハネは、自分の投割について認識している。ヨハネ
の説教を聞いた民衆は、かねてから救い主を待ち望んでいたので、もしかするとこのヨハネがキリストなのでは
ないかと考えるようになった。しかし、そうした民衆の思いを知ったヨハネは、自分は救い主ではないと宣言し、
民衆の目をやがて来られる救い主イエスに向けさせようとした。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火で
あなたたちに洗礼をお授けになる。」(一六節)
 洗礼者ヨハネは、救主イエスの先駆者、道備えであって、決して主投ではない。ここに私たちクリスチャンの
生さ方の模範を見ることで、主役はあくまで主イエス様である。

週報(2001年1月14日)

  神殿でのイエス
                                             朝位真士
 先週はルカ二・三九〜五二を通して「神殿でのイエス」について語った。
 序に於いて、出エジプト二〇・三〜一七のモーセの十戒について学び、新約に於いては、マタイ二二・三四〜
四〇を通して、主の律法は一語で表現すると「愛」であることを学んだ。
 本論に於いて、ルカ二・三九〜五二を中心に学ぶ。特に、イエス様の少年時代の家庭教育、特に宗教教育の重
要さについて語った。ルカ二・四〇と五二に「知恵に満ち」「知恵が増し」とあるが、この「知恵」は、箴言一
・七に「主を恐れることは知恵の初め」とあるように、神を信じる、神を畏れる事によって与えられる「知恵」
である。
 次に、ヨセフとマリヤの家庭に於ける宗教教育の重点を教えられ、現代社会に於ける子供の宗教教育の貧困さ
を指摘し、神に対しての善悪、罪に対する認識度が、現代社会に於ける青少年並びに大人の犯罪につながるので
あるという事を語った。
 次に「神殿での少年イエス」の姿にふれ、彼の両親ヨセフとマリヤの宗教教育の徹底さと、彼自身の神の子と
しての自覚の明確さを、神殿の中でのイエスの姿に見る事が出来る。私共も、宗教教育と人格教育を再認識すべ
きであるという事をアピールした。
 次に、イエスは公生涯に入るまでの三〇年間の普通の生活も大事にされた。罪は犯されなかったが、私共と同
じ試練にお会いになり、苦しみ、悩まれた姿を見る事が出来る。良く家庭に仕えた姿も見る事が出来る。未信者
の家庭に於けるクリスト者の証しの生活に対して、一つのサンプルを見る事が出来る。
 最後に、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(四〇節)「イエスは知恵が増
し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(五二節)、この御言葉の意味をじっくり考えてみたいと思う。

週報(2001年1月7日)

  二〇〇一年の目標
                                              朝位真士
 一月一日の元旦礼拝で、「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」というヨハネ一五章一〜一
〇節を通して、二〇〇一年の目標「信仰生活と信仰成長」が与えられた。まず、序論に於いて、次期国立大学学
長の某教授の「バック・トウー・ベーシック(基本に返れ)」という言葉を引用し、D・カーネギー『道は開け
る』という書物の中より、ウイリアム・オスラー博士が、若い頃トマス・カーニフィルの「われわれにとって大切
なことは、遠くにぼんやりと存在するものに目をやることではなく、手近にはっきりと存在することを実行する
ことだ。」という言葉を引用し、「『今日、一日の区切り』で生きる習慣を身につけるように心がけるべきでし
ょう。」と語ったことを話した。
 本論では、ヨハネ一五章一〜一〇節の「イエスはまことのぶどうの木」であるというメッセージを語った。ま
ず第一に、ぶどうの木であるイエス・キリストに結びつく事。これは、教会にしっかりと根を下ろした信仰生活
をする事。第二、神は農夫である。私たちを手入れして下さる。ムダ枝を切り取る。農夫は父なる神である。木
はイエスであり、枝は弟子である私たち一人一人である。第三に、つながっている時に実を結ぶ。その実は、A
悔い改めの実、B聖霊の実(ガラテヤ五・二二〜二三の「愛、喜び、平和、克容、親切、善意、誠実、柔和、節
制」等の実を結ぶ。)
 最後に、今年は、救われる人が三名与えられる様に祈り、桜ヶ丘教会の三つの目標、一、個人信仰の確立(聖書
を読み、祈り、集会に励む)、二、全家族の救い(救われていない家族の為に真剣に祈る)、三、個人伝道による教
勢倍加(礼拝平均五〇名突破)の為に皆様の祈りとして、桜ヶ丘教会が二一世紀に勝利を持って前進させて頂きた
いと思う。神の栄光を現す教会として成長して行きたい。

讃美歌7番「主の御稜威と御栄えとを」
( Worship the Lord in the beauty of holiness )

1.主の御稜威(みいつ)と/御栄(みさか)えとを/声の限り/讃(たた)えて/全(また)き愛と/低き心/御座(みざ)に供(そな)え/ひれふす。
2.ゆだねまつる/我が重荷(おもに)を/主はかわりて/負(お)いたもぅ/悩み多き/世の旅路も/主のいませば/やすけし。
3.喜びもて/御前(みまえ)にいでん/貧しき身の/捧(ささ)ぐる/愛とまこと/主は嘉(よ)みして/御蔵(みくら)近く/召したもぅ。
4.闇(やみ)をかえて/光となす/慰(なぐさ)め主(ぬし)/とうとし/望みは湧(わ)き/恐れは消え/み民の幸(さち)/尽(つ)きせじ。
(御稜威(みいつ)・・・神の御威勢、御威光)

1. Wor-ship the Lord in the / beau-ty of ho-li-ness! / Bow down be-fore Him, His / glo-ry pro-claim. (With) / gold of o-be-dience and / in-cence of low-li-ness, / Kneel and a-dore Him the / Lord is His name!
2. Fear not to en-ter His / pres-ence in pov-er-ty, / Bear-ing no gifts to pre-/sent as your own. (Bring) / truth in its beau-ty and / love in its pu-ri-ty / These are the of-f'rings to / lay at His throne.
( off'rings = offerings )

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