武田四郎さんのシベリア抑留回想録

武田四郎さんによる「第二次大戦従軍と、シベリア抑留体験」についての留萌ライオンズクラブにおける講演記録です。
1995年、ペレスラブリ大学児童サマーキャンプで、課外教材に取り上げられた時に現地で作成された、
英語版ロシア語版もあります。そちらには、ご本人と現地の児童とのメールによる交流、回想記をテーマにした
児童による絵画も掲載されていますが、サーバー休止中?かも。

私がたどつた10年間の行動記録は、皆様のお手元にコピーで地図が配布されていると思いますが、此の地図の中に書かれている実線が、私の歩いてきた箇所で、10年間の私の足跡と称すべき物です。我ながら自分の足跡の大きさに驚かされて居りますが、又此の苦労も筆舌に尽くしがたい思いが残されております。戦争に参加した我々も、大変な思いを致したのでありますが、国策として満州に行かれた開拓団の人々の苦しみなど、私達の苦しみの比でないことを感じております。又、国内の人々の戦時中の苦労は私共の伺い知ることの出来ないところでありますし、原爆が投下された、広島、長崎等のことを考えますと、前線も、銃後と称されていた国内の人達も日本国民総ての人達が悲惨な戦争の経験をを致したことになります。特に我々が戦場とした中国の人達の辛酸は言い尽くせぬ思いをさせたものと、深く慚愧に耐えぬ思いを致しており、しみじみと戦争に対する罪悪感や、悲惨さの深さをを、思い知らされております。

大正12年関東震災の折り、世界中の国から、多くの援助を頂いた資料を拝見した中に、『支那全土の白熱的同情』と言う見出しで、中国が財政窮乏のドン底にありながら、隣国日本に援助の手をさしのべようとしていた事を始めて知りました。日中戦争は恩を仇で返した様なもので、悔やまれるというお話しを読んだ記憶があります。

私と同じ日に留萌支官庁から、北支那派遺軍の独立混成7旅団通信隊に入隊した仲間は3人でした。戦争を終わって生き残っていたのは、私一人と言うことで、元気だった仲間は、南方戦線で死亡し、再び相目見えることが出来ませんでした。私の10年間の戦争体験は、戦争の悲惨さのほんの一部の体験でしかありませんので、私の体験だけで戦争の総てである、とすることは出来ませんし、もっともっと悲惨な、人間としての極限の苦しみを負われた方々が数多く居られる事で有りますので、今日の私の話は、戦争の悲惨さ、愚かしさのごく一部分であることのご理解を頂きたいものと存じます。

私は、昭和15年12月5日、御用船『いりえ丸』(5千トン級)に乗船、函館幸桟橋を出航、日本海、玄界灘を越えて、12月13日天津市塘沽港に上陸致しました。入隊致しましたところは山東省、恵民と言うところで、通信部隊のなかの無線中隊でした。私達初年兵は、無線学校卒業者も、本職の無線通信手も、我々のような全く素人も、ごちゃごちゃにされての6ヵ月の無線通信教育が行われ、早速無線手として、前線に配置されて行きました。

初めはゲリラ部隊との戦闘が、主として行われており、山東半島をいろいろと歩き回されておりました。昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦のニュースは、部隊の所在地恵民で、中隊全員が整列、此のニュースに胸を躍らせながら、聞いていたものでありました。それからの中国戦線は、どんどん兵力が南方に移され、中国軍特に中共軍の抵抗が熾烈になり、中国における制空権は全くなくなりました。中国本土からの、B29による日本本土の空爆が頻繁に行われるようになり、我々の頭上を、B29の大編隊が銀翼を連ねて、堂々九州地区の爆撃に向かうようになっておりました。我々の占領していた、河南省開封市にも直接、B25の爆撃が連日行われ、焼夷弾の雨を降らせる様になってまいりました。我々と行動を共に致しておりました戦車隊も、ロクヒードP38と言うアメリカ軍の戦闘機の格好な獲物となり初め、日中は動くこともできず、専ら夜間の行動のみとなり、私達も不眠不休の行軍が続きました。空襲下の泥濘の道や、黄塵が吹き荒れる中を、日に何十キロもの強行軍が続き、戦闘も熾烈を極め、戦死者も続出するような状態が続くようになりました。太平洋戦争の戦況も、大本営の戦況発表の勝った!勝った!との報道に反して、サイパン陥落後アメリカ、中国等の放送が出力を増大し、我々の耳にも容易に入るようになり、戦局が容易ならざる状態にある事が判り始める様になつて参りました。こんな中で、我々の師団は突然ソ満国境警備を命ぜられ、移動を開始したのが終戦の年、20年の7月でした。移駐地は、ノモンハンに近い、現在の吉林省で、内蒙古自治共和国との境にある街、白城子と言う処でした。久しぶりの、平和で静かな満州での生活は、私達の荒んだ生活を洗い流してくれる思いを与えてくれたのでしたが、これもつかの間の平和、8月9日のソ連軍の爆撃に始まる、攻撃により吹っ飛んでしまい、此処での平穏な生活は、1カ月とありませんでした。

ソ連参戦と同時に、私の無線分隊は前線部隊に配属されましたが、前線の装備の不足に驚かされ、ソ連軍戦車の怒涛の進撃の情報を聞きながら、コウリャン畑に壕を掘る作業を続けておりました。いよいよ年貢の納め時、だとの想いを強く致しまして、観念の臍を固めた次第でした。最後の行動について、分隊員の皆と話し合いをしながら、どんな死に方が出来るのか、私自身も深刻に考へて、時を過ごしたことを思い出します。どうも我々の時代の教育は、人間の尊重とか人間愛とかヒューマニズムだとかと言う教育は無かったようで、君に忠、一筋で勿論民主主義等という言葉すらも聞いたことがなかったように記憶を致しております。

わが国は神国、絶対負けることが無く、奇跡が起きて神風が吹くと教えられ、又信じて参りました。実は私も広島の原子爆弾のニュースを満州でいち早く聞いたのですが、今に神風が吹いて必ず、アメリカ軍をやっつけてくれるだろうと、暢気なことを考えていた一人でもありました。『忠即尽命』、かつてはこんな言葉が良く使われておりました。漢和辞典によれば『忠』とは君主(国家)に対して本文を全うすることと有り、『尽』は無くす、虚しくすると言う意味があると書かれております。この『忠即尽命』は要約いたしますと、命を無くすことが、祖国に対する最上の忠誠心の現われ、であるという事になる訳で、死は最も美しく、崇高なものと教え込まれて参りました。こんな思想のもとでは生きる事は罪悪、『悠久の大義に死す』この事を最高の死生観とし、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すこと無かれ』等と死への賛美の考え方が徹底して教え込まれておりましたし、祖国を守るためには、ひたすら死ぬことによってのみ達成出来るのだ、と考えるような気になっておりました。今では『一人の死は地球より重し』と言う言葉が、言われる様になりましたが、あの当時は、兵隊一人は1銭5厘と言われたものでした。当時はがきは1枚1銭5厘だったので、召集令状1枚で兵隊がつくられる、つまり私達の命が1銭5厘と言う事になるわけで、『身は鴻毛の軽きに比し』と言う死への賛美思想が大きく影響していた時代でもありました。戦争は英雄を作り出す!と言われます。平時では、1人の人を殺すと大罪人となるが、戦場では100人の人を殺すと英雄である。現在はこんな事を言われる時代になりましたが、戦争は理性を麻痺させられ、目の前の相手を殺すことのみが、自分を生かす最善の途であり、祖国防衛の最高の方法であるかのように、考えさせられていたのが、戦争の理論で有った様に思います。

『湾岸戦争』の折りTV画像に映し出されたあの映像を皆様はよくご存知の事と思いますが、戦争とは、格好の良い血沸き肉踊る勇ましい、映画の様にお感じになった方も多くあるような気がいたします。どうぞ考えてみて頂きたいと思います。あのすさまじい砲弾の下、そこには多くの人達が生活をしていることを。なんの武器を持たない、女性や子供達が住んでいることを。又、立場を変えて考えて頂きたいと思います。かつて、太平洋戦争時代の日本のこんな有様であつたと、お考えを頂いた方が、良くご理解が頂けるものと思います。原爆が落とされた町々、B29猛爆撃や銃撃の中を、逃げまどう人達の群!ついこの間、50年前、沢山の日本人が此の悲惨な状態であった事を、忘れてはならない事だと想います。この事は日本軍も同じように、中国、及び南方諸国の人達にも苦難を与えてきた事も事実でもあります。これが戦争というものの宿命だとするならば、なんと悲しいことなのでしょう。「東洋平和」「八絃一宇」「五族協和」「王道楽土」かってはこんな耳障りの良い言葉が使われていましたが、中国の人々はどんな気持ちで、此の言葉を聞いていた事でしょう。

ソ連開戦と同時に日本軍は作戦行動と称し、在満日本人を置き去りにし、撤退を始めました。無防備の開拓団は、中国人や、韓国人(朝鮮人)の迫害、ソ連兵の略奪、暴行におびえながら、命からがらの撤退が始まり、この中で幼い子供達を、手放さなければならない悲劇が生まれ、未だにこの残留孤児問題として、数多くの未解決な問題を残して五十年近くに至って居りますが、この事は、皆様もよくご存知のことと存じます。こんな有り様の同胞の姿を見ながらも、私達は何の打つ術もなく、ただ見守るだけ、自分たちの不甲斐なさに、悔し涙を流したものでしたが、戦争の悲惨さ、残酷さ、醜さをいやというほど見せつけられた思いが致しました。

やがて、8月15日。新京(現在の長春)と白城子の中間の大安で私達は終戦の放送を聞きました。総ての受信機を動員、ボリュームを一杯に上げて全員が聞いたのですが、あまりよく聞き取れなかったのですが、どうやら戦争に負けた様だということが理解され、騒然とした有様になりました。まだ戦うのだ!と言う者、家族持ちの召集兵達は、一様に家族達との再開を夢見たことでしょうが、私は戦争に負けたと言うショックで、大きな打撃をうけておりまして、複雑な想いが胸中を去来致しておりました。

武装解除。自分の命より大切なものと言われてきた、菊の紋章入りの天皇からの拝領と称される小銃を、各自めいめいが、定められた草原に投げ捨てるように置いて参りました。『国破れて、山河も無し』こんな思いで一杯、とても私にとっては無事に日本に帰れることなど考えられず、どんなにして虜囚の辱めを受けずに、死ぬことが出来るか、真剣に考えて始めてさえおりました。我々の部隊は『公主嶺』へ集結、日本へ帰国と言うことで、準備を進めておりました。毎日平穏な集団生活の中で、何時しか私達は、死への執念を捨て去り、何とか生きて祖国へ、との望みを湧かせるようになっておりました。

このころ、スターリンがシベリア開発の労働力として、日本人捕虜を使用しようとしている悪企みなどは知る由もなく、ひたすら祖国日本への帰国ばかりを考えておりました。やがて我々は『東京ダモイ』と言う甘い言葉にだまされ、貨物列車に乗せられ一路北上、ハルビンをへて国境の街『黒河』へ着いたのが11月の半ば、シベリア鉄道でウラジヲストックから日本へ帰らせてくれるのだと、日本兵達は勝手に想像、関東軍の将軍達も大半はそんな考え方のようでした。アムール河(黒竜江)の結氷を待って、手製の橇を作りこれに荷物を乗せ、ソ連兵に銃剣を突きつけられながら、「ダワイ」「ダワイ」の怒声を浴び、ソ連兵の発砲に脅かされながら、シベリア颪に身を凍らせて対岸のブラゴベシチェンスクへ、たどり着きました。この間ソ連兵の不法な身体検査にあい、金目の腕時計や万年筆等悉く略奪されるなど、いやと言うほど敗残の思いを味あわされましたが、此の情景は、今でも脳裏に焼き付いております。それから、貨車がどの方向へ走るのか、皆の最大関心事となりました。西へ向けば、絶望的捕虜生活、東へ走れば、ウラジオ経由日本へ帰れる希望が残る。こんな皆の望みも虚しく、貨物列車は西へ向って走り出しておりました。満足な食料も与えられず、厳寒のシベリアを家畜並の貨車での生活が何日も続きました。途中海が見えると言う声があがり、一斉に歓声を上げたのでしたが、そこは海のような広さをもつ、バイカル湖のほとりで、我々はシベリアの中心部奥深く運ばれてきたことを、否応なしに知らされた次第です。もう絶望です!かちんかちんに凍った黒パンの味が、この時ほど絶望感を味あわせて呉れたことはありません。

貨車は永いシベリアの旅を終え、小駅に止まりました。奇しくもこの日は、私の軍隊生活満5年目の日にあたる、昭和二十年十二月一日でして、私は一面の白雪に覆われた、極寒の地、シベリアの大地に立っておりました。正確に申し上げれば、北緯53度09分、東経103度05分、に位置する、イルクーツク州、チェレンホーボ市、グリシャの丘の上に立たされていたのでした。粗末なテントで作られた宿舎、我々は此処で極寒のシベリアでの、生活を強いられる事になったのです。

幕舎は2段に区切られ、ストーブが燃やされてはいましたが収容人員は2倍にも膨れ上がり、ギュウギュウ詰めで足をのばして寝ることもできない有り様で、お互いの体温で寒さをしのぎ相い、眠れぬ夜を過ごしておりました。馴れぬ寒さと、食料不足は極端な飢餓状態を呈し始め、馴れぬ重労働と相まって人間としての極限状態を現出にいたり、栄養失調者の続出、死亡者の大半が此の時期(入ソ一年以内)に発生したように思われます。

極寒、零下30度前後の寒さの中での労働、とても口や筆で表現することの難しさを、ご想像頂きたいと存じます。土を掘る、此のシベリアの土は、コンクリートよりも堅い様にさえ思われる程でした。薪を集めて、焚き火をし、凍土を溶かしてと思うのですが、これでもわずかに土くれが起きる程度、焚き火をする木切れさえ見つけるのが困難という状態です。それにソ連特有のノルマ、100%の達成が無ければ、食料が減量というおふれが出るなど、大変なことでした。ノルマはロシア人向けに作ったもの、腕力の強いロシア人向けに出来ているわけで、まして戦争に負けた日本人達は働く意欲など有ろう筈もなく、ひたすらダモイ(国へ帰る事)の事のみ考えているわけですので、能率など上がろう筈も有りません。歩く事でさえ、満足な歩幅を取ることが出来ず、いつのまにかだらだらだらと永い隊列となってしまっておりました。当時ロシアの将校達は、これが我々が恐れていた関東軍の実体なのかと、あきれていたと言う話も聞いたことがありましたが、私達は「生きる」と言うことの大切さを十分に味あわされ、何としても生き抜いて祖国へ帰りたい、との想いが一杯、命の大切さをしみじみ感じさせられた次第です。我々の作業は雑多なものでしたが、特に大きな作業所としては「炭鉱開発」が主で、此の作業所は当収容所のなかで最悪の労働条件の処で、零下30度を超えても作業は休みになりません。

その他、「鉄道建設」「露天建設」「水道工事」「煉瓦工場」「建築工事」「石切工事」「第4工事」色々な仕事がありましたが、いずれにしても馴れぬ私達に取っては、大変な重労働でした。

<捕虜の1日の食料>
・黒パン  350グラム   ・雑穀  450グラム
・野菜   800グラム   ・魚   100グラム
・肉     25グラム   ・油    10グラム
・塩     25グラム   ・砂糖   18グラム
・茶     0.5グラム   ・タバコ  18グラム

カロリー計算では1日2000〜2800カロリーを支給していたことになっていたのだそうですが、実体は惨憺たるものでした。定められた食料は、当初いろいろな中間搾取?(日本軍の特権階級、ロシア人のピンハネ等々)が有り、想像を絶する食料事情であった事は確かでした。口に入るもの、日本人が食べるもは皆主食とし、配給された。殻付きのままの稗、昆布、これは雑穀並で主食扱い、大豆、こんな物を米の代わりに配給するのですから、大変です。当時はソ連自体が食料難で大変であったことは判るのですが、こんな事で栄養失調が続出、極寒、重労働が加わり、沢山の死亡者の出る原因となった様です。米の代わりに、昆布や、大豆、どんなに煮ても、昆布は飯の代わりにはならず、大豆が10粒程度入ったスープでは、腹の足しにはなりません、殻付きのヒエ等は腹が一杯になっても消化されず、糞詰まり全員が風呂場に集められて、大騒ぎをする騒動、受け入れ側のソ連も日本人の食生活に対する無理解や言葉が通じぬ為色々な障害の発生が、捕虜生活を最悪の状態に追い込んで行きました。

春になって、野草が芽を出す頃になると、捕虜達にはビタミン源の野草が手に入り、大変助かりましたが、私はアカザには大分お世話になり、空腹感を癒すことが出来ました。野生の人参には、毒性のものがあり食あたりをしたものも多く有り、我々はこれを「きちがい人参」と称して居りましたが、こんな危険を冒しても人参探しはやめることが無いほど、万年空腹の、飢餓状況が続いておりました。私はシベリアで食べたアカザのことが忘れられず、今でも、毎年8月15日には、アカザを取ってきて、馬鈴薯を茹で、往事を偲び、戦友の冥福を祈りながら、自分の戒めの日とも致しております。公式発表されている様な、捕虜への食料支給であれば、あんなに沢山の栄養失調が原因での死亡者が出なかった事でしょう。帰国してから、色々戦時中のことを読んだり聞いたりしたのですが、日本における、中国人捕虜の待遇はこの比ではなかったようで、シベリアの事ばかり声高に言えない様な想いを致しております。やはり戦争という異常な環境下では、どの民族も常軌を逸した事が、平気で行われるもので、これが戦争の恐ろしさであると、しみじみ感じさせられた次第です。やがて、悪夢のような厳寒の冬が過ぎる頃は、厳しい労働にも、粗食にも慣れ、あきらめの気持ちも起き始め、収容所は一応の平静さを保ちつつも、旧日本軍の組織は徐々に新しい組織に変貌を遂げつつありました。

あまりの死亡者や病人の続出に驚いたものか、2年目を過ぎた頃から、食料事情も、労働事情も改善され始めましたが、我々の収容所(1500〜2000人)にも民主運動の風が吹き荒れて参りました。民主主義にあらざれば人にあらず、と言うことですが、どうしたら早く自分が帰国出来るかという思いが先で、人をけ落としても自分が民主運動の先頭に立ってと、醜い収容所内の争いが始まり、誹謗、中傷、人間不信、猜疑心、エゴイズムの魂が渦を巻いておりました。昨日のリーダーは、今日のつるしあげの対象となり、私達のような理論の良く判らない者まで、日和見主義者と言うレッテルが張られ、批判をされるにいたり、収容所内では、滅多なことを言うことも出来なくなりました。「民主化運動」「反動」「つるしあげ」「自己批判」こんな渦の中で、中傷、誹謗がまかり通っておりました。辛い捕虜集団生活の中で、助け合う事などが無く、お互いの足を引っ張ると言う醜い争いが起きたわけで、悲しい日本民族の特性のようなものが、極端な表現となって吹き出していったものなのだろうかと、悲しい思いをさせられました。

「黒パン」「アカザ」「シラミ」「南京虫」「凍傷」等など、極寒と空腹なかの重労働、この苦しい思い出は忘れることは出来ません。

1949年(昭和24年)8月、私達のグリシャ第6収容所は閉鎖され、帰国をすることになりました。あまり思い出したくない、ナホトカでの民主運動の思い出、我々の中から、中国での戦犯要員として、出発ゲートの直前で残された者達がいました。中国、シベリアと苦楽を共にした隊長達が残されたのでした。彼等はそれから6年間中国に戦犯として収容され、帰国したのは、昭和30年になっております。輸送船のタラップを一段一段昇りながら、いつ呼び戻されるのではないかと恐怖心に襲われながら、夢のような気持ちで駆け上がったことを思い出します。

8月29日ナホトカ港出発、輸送船は山澄丸4000トンに乗って舞鶴へ。8月31日船は舞鶴湾に入り、大小の島々を縫って静かに接岸致しました。幾たびか夢に見た祖国の山河、小雨に煙る、緑豊かな故国の山々を見た時の感動は、言葉に言い表せぬものがありました。ようやく10年目にして、夢に見た祖国への第一歩を印したわけであります。

昨年6月、43年振りで、念願のシベリア墓参の旅をすることが出来ました。生きている内に、なんとしても、もう一度シベリアの地を踏んで、亡き戦友達の霊を弔おうとの願いが叶い、イルクーツク州チェレンホーボ市を訪れ、グリシャの丘に眠る、戦友達の霊前で、墓参をすることが出来ました。40数年の歳月の流れは、グリシャの丘は昔の面影を止めず変貌を遂げ、521名の霊は、白樺林が大きく根をはった草むらの中に、僅かに盛り上がった土の、その一つ一つの凍土の下に、深い眠りについておりました。墓標とて無く、勿論一人一人の名前などは判ろう筈がありません。40数年間誰が訪れることもなく、花を供える人とてなく、凍土の下寂しい眠りの中で、故国を思い望郷の思いに駆られていたいたであろう事を思うとき、涙滂沱たるものがあり、胸が張り裂ける思いに駆られながら、無き戦友の名を呼びかけることで、精一杯でした。墓前に留萌から持っていった水、酒、タバコ、お米等を供え、ローソク、線香を灯し瞑想の後、全員が般若心経を読経、ご冥福をお祈りいたして参りました。

これで私の戦後が終わったような気がいたしておりましたが、あの墓地の状況や、死亡者名簿の未確定、埋葬地の確認等、残された事が、あまりにも多い事を思い、私は死ぬまで此の戦争の傷跡を負って行かなければならない事を、改めて思い知らされた次第です。今あの日中戦争を振り返りながら、私達がなぜあの中国の奥深く攻め入っていかなければならなかったのか?それが止むにやまれぬ正義の闘いであったのか、未だに私は理解が出来ずにおります。戦争の大義名分は、そんなにアヤフヤなものであったとは思いたくないのですが、あの大義名分と、実際の戦闘行動との隔たりは、一人の人間としての立場から、どの様に考えたらよいものなのか、未だに理解が出来ぬ事を残念に思っています。沢山の亡くなった戦友達の死は何であったのだろうと、考えさせられます。今、太平洋戦争が終わって50年になろうとしていますが、私は今でも戦争の続きが行われ続けて居るように思えてなりません。2大国間の冷戦構造が、解消されたと言われながらも、民族間、宗教間の闘いが絶え間なく続けられ、国境紛争は跡を絶たず、何やら人間の知恵の限界を感じさせられる思いでもありますが、今一度、一人一人が自分の事として、戦争という問題を採り上げ、2度と再び戦争の愚行を繰り返す事の無いよう致したい、との思いを深く致して居るところで御座います。

皆様が、ご健勝で、平和な世界に生きて頂けますことを御祈念申し上げ、お話を終わらせていただきます。どうも有り難う御座いました。


[英語版] [ロシア語版KOI8]

英語、ロシア語ファイルは、ペレスラブリ大学のサーバーにあるため、
見るのには多少時間がかかる点ご留意ください。あるいは休止中の場合も。