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戦国土塁

江戸崎城周辺の戦国土塁


 10月20日(2000年)の茨城城郭会でのチャットの折、「街道閉塞用の土塁群」を話題にした所、土塁は茨城の他地域にも点在してはいるものの、江戸崎、阿見、美浦地域のように数百メートル間隔で存在するようなところはないようだということを知りました。わが『美浦村お散歩団』としてはこの地域に集中する「街道閉塞用の土塁群」についての話題を提供しようとここにまとめてみました。とは言うものの文献で調べようと思ってもこれら土塁に関する記述は残念ながら多くはなく、と言うかまとまった形では「阿見町史」以外には知りません(誰か知ってる方がいたらお知らせ下さい)。そこで、次の情報が手に入るまではこれに沿った形でまとめておきます。[その後、西ケ谷恭弘著『日本史小百科城郭』P16に割目・雀久保・飯倉大堀・飯倉二重堀の長塁がわずかに紹介されていることを知りました]
 土塁跡は城館跡ほどのインパクトがないので開発などの外力によってあっけなく消え去ってしまいます(とくに堀は)。「阿見町史」では残存とされている土塁もバブル後の現在では湮滅したものがかなりあります。なるべく早いうちにとりあえず全ての現況を調べておきたいと思っています。(2000年11月20日)

  [湮滅]と書いたものの中にいくつか残っているものを見つけましたので[湮滅]のラベルをはずしました。また、仮称としてあった土塁のいくつかの名称もわかったので更新してあります。地図はまだ更新していませんが土塁の各ページは更新してあります。(2001年3月20,25日)

[土塁リスト]         地図上では三本の主要古道、土塁名が赤字のものは湮滅を表す。
江戸崎町 山後土塁(村田大堀)
     小角土塁
     田宿空堀
     沼里土塁
     花指土塁
     犬塚土塁
阿見町  雀久保土塁
     大形東田土塁
     畑中土塁[湮滅]
     大形割目土塁
     飯倉大堀土塁
     吉原二重堀土塁
     神田土塁
     吉原新堀南土塁
     吉原新堀北土塁
     福田二重堀[湮滅]
     堀留土塁
     下宿土塁
     長堀[湮滅]
     内堀土塁[湮滅]
     大木戸土塁
     嶋津二重堀[湮滅]
美浦村  美浦境土塁
     光仏土塁
     椎池土塁
     神田土塁
     摩迦陀土塁
     興津土塁[湮滅]
     美駒南土塁
牛久市  奥原土塁
     遠山土塁
     東城台土塁(向台土塁から名称変更)
     桜塚土塁
つくば市 細川さんの外堀(谷田部大堀)

 これまでのところ茨城県南に点在する、主に街道の閉塞・監視を目的として戦国時代に構築された土塁について報告された文献は『阿見町史』掲載の大竹房雄氏執筆「戦国土塁」以外には見当たりませんので、以下に紹介します。

戦国土塁  (『阿見町史』より転載)

[1]江戸崎城に関連する主要古道について
 江戸崎の市街地から西へ向う主要古道(馬の背道)が3本ある。第一の道は、小角(おずみ)・犬塚・花指を経て大形・飯倉を通る旧江戸崎本道。第二の道は沼田・時崎・蒲ケ山(かまがやま)・月出里(すだち)の裏手にある台地を抜けて、大形割目土塁の手前で江戸崎本道と合流する。これを仮に江戸崎第二道とする。江戸崎第三道とでも呼ぶべき道は小野川沿いの台地を、村田、羽賀、君山を過ぎ、井ノ岡・桂を経て飯倉大堀土塁の直前で、第二の道と同じように江戸崎本道に合流し、三本の道は一本になって湿地帯をさけながら阿見地内を西に向って通り抜けさらに西へと続く。
 なお、それぞれの古道、及び江戸崎本道が阿見地域に入った旧君原地内と、別街道ではあるが吉原地内に、街道を塞ぐ土塁群が堀を伴って、1キロ以内位のほとんど等間隔で、往時を物語るかのごとくさまざまな形で遺存している。
 三本の古道のうち江戸崎地内に見られる土塁の数は(湮滅も含む)、第一の道の江戸崎本道が圧倒的に多く、第二、第三の道は江戸崎城に対し遠廻りであることと、防禦的な地形をなしていたと見られることもあって非常に少ない。

[2]戦国土塁
 これらの土塁群は、山ノ内上杉家の家臣で、信太の惣政所として赴任した、江戸崎土岐氏が戦国時代に(天文末〜天正期)構築した可能性がすこぶる強い。
 現在阿見町内に遺存する土塁群は、前記の街道閉塞用のほか、城砦集落を守ったものもかなり見られ、これらの遺構の中には、近世において猪狩りに利用したものもある。土塁の構築されている地形は、海抜25メートル以上の台地で、双方の谷津頭の入り込んだ、狭小部に多く構築されている。なお、このような土塁群は、他地区にはほとんど類例がないため、この地方の中世史解明上、最も貴重な存在と言える。
 さらに、この土塁群を詳しく観察すると、当時と変わらないかと思われるほど良い姿のものと、大部分が湮滅しているものや、全く消え失せて地名だけを留めているものとがある。
 街道閉塞用に構築された土塁は、形が大きくそして深い堀で固められている。さらに二重構造や畝堀を施したものまで確認され、同一形態のものは少なく、それぞれが特異の性格を強調している。
 これらの土塁群は、すべてが同一時期に構築・完工したとは考えられず、切り取り進出のつど築造したことが窺われる。しかしそれも江戸崎より西に向って、内側より順序よく構築したとは考えられず、ある地点を急造で凌ぎ、要所は手間暇かけて、強固な砦様式に仕上げたことも思考される。
 以上の土塁群の中には、北条流兵法と思われる土塁がかなり見られ、戦国末期における土岐氏と北条氏との係わりの深さを物語っている。

[3]土岐氏の戦術
 土岐氏は土塁を他の地区には築かず、江戸崎地内の西側と阿見地域に、それも城を構築せず集中して築いているが、これは何を意味したものか。
 この土塁網のある地域は、既に述べたとおり稲敷台地上の丘陵続きの部分であって、江戸崎城はこの外端になっている。このため、西及び北方向より江戸崎攻めをする騎馬軍団は、必ずこの地域を通過したことが考えられ、それがゆえにかような土塁網を布設したことが判断される。
 しかし、ひとたび敵軍の侵攻があれば、幾つかに分かれた点による防禦法ではなく、地域一帯の面による守備及び攻撃態勢で立ち向かえることが理解でき、この地形に対応した土岐独特の戦術であったことがうなずける。

[4]木原城を守る土塁群
 以上の土塁のほか、阿見町周辺には木原城を守った土塁が、数百メートルの等間隔で、木原、龍ヶ崎県道を跨いで四本残っており、城への迂回路と考えられる分かれ道に一本見られ、計五本が確認されている。なお、ここに見られる土塁の大きさは前記の江戸崎関係のものより、いずれも劣るものである。[以上、『阿見町史』より]

[参考書]
(1)阿見町史
(2)阿見町史研究第三号
(3)阿見町史研究第六号

[註1]岡見氏領域の土塁
 最近、友人たちの協力を得て牛久市遠山周辺(遠山土塁、東城台土塁、桜塚土塁)およびつくば市谷田部周辺(細川さんの外堀)にもいくつかの土塁を確認できました。これらは牛久城と牛久城の出城と考えられる遠山城および谷田部城との関わりを感じさせる遺構です。岡見氏の領域を防御する一連の土塁群かもしれません。注意深く探せばまだまだ見つかりそうな気がしています。[2002/3/17]

[註2] 文献上湮滅とされているものの他、何度か足を運んでも確認できなかったものは[湮滅]としてあります。存在を確認したら[湮滅]のラベルをはずします。