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俳優・三船敏郎(追悼文) |
俳優、三船敏郎。1920年、中国の三東省青島に生まれる。大連へ移り住んだ後、写真業を営む父・徳造の手伝いを大連中学を卒業後にするようになる。1940年に満州陸軍航空隊に入隊し、写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて写真部へ配属となる。そしてこの時、東宝の撮影部の大山年治と知り合う。 終戦を熊本で迎えた三船は、軍隊で知り合った大山が「除隊後は俺の所へ訪ねてこい」と言った言葉通り、東宝撮影所へと赴き、履歴書を提出する。そしてこの履歴書が、どうしたわけか東宝の第1回ニューフェース募集の方へと回され、俳優として入社することになるのである。 この時の面接は既に伝説化している。なにより、ニューフェースに申し込んだのは三船自身の意志ではないということ。そして、当落すれすれの三船を救ったのが黒澤明監督だということである。
黒澤監督はこの時、「専門家(監督)の1票は素人の3票、5票にも値する」と投票のやり直しを進言。これを受ける形で先ほどの山本監督の言葉もあり、三船の採用が決まったのである。つまり、この時の黒澤監督の一言がなければ俳優・三船敏郎は誕生していなかったもしれないのである。
一方で、あまり知られてはいないことだが、実はこの時黒澤監督以外にも、東宝の撮影部が俳優・三船の誕生に大きく寄与していたというのである。 それからまもなくして、三船敏郎が谷口千吉監督作品の『銀嶺の果て』で比較的早いデビューができたのも、ニューフェースに履歴書がまわり合格したのと同様に、それを偶然と呼んでいいものか、あるいは運命と呼ぶべきものだったのか。
そしてさらに運命的なことには、この作品の脚本と編集を担当していたのが誰あろう黒澤明監督であった。できあがったフィルムを編集しながらギラギラした若さむき出しの三船を大変気に入った黒澤監督は次回作『酔いどれ天使』で三船をヤクザ役に起用することにしたのである。
ここに世界映画史に燦然と輝く「黒澤・三船」の黄金コンビが誕生したのである。
「赤ひげ」の新出去定
ここからは少し個人的な話をさせていただくと、私がまだ小学生だった頃は三船敏郎といえばテレビのコマーシャルやドラマでのイメージで、いつもしかめつらして低い声でがなる怖くて男臭い役者さん、という印象しかなかったものである。
それがようやく変わり始めたのは、やはり、監督や役者の名前を意識して映画を見るようになった小学校の高学年から中学生の頃からであろうか。それでもその頃は空前のアニメブームで、ご多分に漏れず私もアニメと洋画ばかり見ており、日本映画は半ばアイドル映画であった角川映画を除いてはほとんど見ることはなかったのである。
そのイメージに対する本格的な変化は黒澤映画に出会ってからようやく訪れた。 『赤ひげ』には本当に打ちのめされた。強烈なヒューマニズムのメッセージがストレートにぶつかってきて、受け止め消化するのが大変なほどであった。そして、そこにいた三船敏郎はこれまで見た三船とは全く違っていた。単にこわもてというだけではなく、非常に繊細で優しい側面を持つ、もちろんそれは新出去定というキャラクターに与えられた性格によるものではあるわけなのだけれど、その画面の中のキャラクターと三船本人とがだぶり、これにより私の中の三船敏郎に対するイメージは激変したのである。 それから後の大学時代には名画座をまわり、なんとか黒澤監督の全作品を見ることができたわけだが、若い頃の三船を見るにつけ、三船敏郎という俳優に対する評価は揺るぎないものとなった。
「野良犬」の村上刑事
素顔の三船敏郎というのは、スクリーン上で見られる姿とはずいぶん違ったものだったらしい。とにかく男臭くて豪快な印象があり、私自身もそのように思っていたわけだが、実際には周りに大変気を使う繊細な面を多分に持ち合わせていたようである。
また三船は同じくスクリーンから受ける強い男の印象とは反対に決して威張り散らすようなこともなく、付き人は一切つけずに、常に一人で何でもこなしていた。撮影所には自らが車を運転して行ったり、撮影中には機材を運ぶのを手伝ったり、さらには三船プロの掃除を自ら行ったりもしたとのことである。 そんな三船は現場に台本を持ち込むことは一切なかった。不真面目なのではない、逆である。撮影に入る前には全ての台詞を句読点まで覚え、頭の中に入っていたために、持ち込む必要がなかったのである。
先程述べたように、これら全てのイメージは丸々『赤ひげ』の新出去定と重なる。素顔の三船敏郎のイメージも含めたあらゆる三船敏郎の集大成とも言えるものが『赤ひげ』なのだと私は思う。
以後、三船は本格的に黒澤映画の顔として主役を務め続け、ついに『赤ひげ』で加山雄三扮する未熟な若者を指導する本物の師として、その完成した姿を体現して、長く続いた黒澤監督作品への出演を終えてしまう。
「羅生門」の多襄丸
こうして三船敏郎と黒澤明のコンビは『酔いどれ天使』に始まり、唯一『生きる』を除いて『赤ひげ』まで続き、以後はパッタリ途絶えてしまったわけだが、このことを、黒澤監督と三船との確執という人がいるが果たしてそうだろうか。 当時はよく知られた話ではあったようだが、『赤ひげ』の後、黒澤監督は『暴走機関車』の企画中断と『トラ!トラ!トラ!』解任事件とが続き、苦難の時期を過ごしていたのであるが、三船は「黒澤明よ映画を作れの会」に出席したりもしていた。
『赤ひげ』撮影中の対立の噂や、夜な夜な三船が酒に酔って「黒澤のバカヤロー」と叫んで歩いていた(これはどうも事実らしいが、親しい周りの人たちの証言によれば、それだけ撮影中はお互い真剣に取り組んでいた証拠であり、三船にしても決して本気で叫んでいたわけではなく、その撮影中のストレスの発散だったのではないかというのが大方の見方である)、あるいは今述べたような『トラ!トラ!トラ!』での役者起用問題などで、本当に両者の間で確執があったのなら、『デルス・ウザーラ』で、主人公のデルス役に三船を起用しようと考えるだろうか? そして、三船もそのオファーに応えてスケジュール調整をしたりするであろうか? 結果的には三船のその奔走にも関わらずデルス役として出演することはかなわなかった。当時、三船プロダクションの社長として社員を食べさせていかなければならない立場の三船にとって、シベリアでの長期間の撮影に体を預けることは到底できなかったのである。周りに気を使う三船ならではの、そして苦渋に満ちた決断であったろう。
「用心棒」の桑畑三十郎
三船敏郎は、黒澤監督以外にも、多くの監督の作品に出演している。なかでも目立っているのは、稲垣浩監督、岡本喜八監督、熊井啓監督であろう。 その意味においては本当に黒澤監督は三船の俳優としての素養の全てを要求し、そして引き出し、三船もそれに十二分に答えて現場にぶつかっていったのだということがわかる。 最近の三船の出演作品の中で、私が大変気に入っている作品は熊井監督の『千利休−本覺坊遺文』である。ここでは奇しくも三船は黒澤作品同様に師としての役を演じている。 秀吉から死を賜った利休は、本覺坊の夢の中で賽の河原ともとれる場所を歩いて行ってしまう。三船もまた、同じ道を今歩いているのかもしれない。
「七人の侍」の菊千代
最後に、 三船君の訃報を聞いて驚いています。まさか、僕より先に亡くなるなんて、思いもしなかった。最近、なぜか三船君のことが気に掛かり、いつか会いたいと思っていた。会って、“三船君、本当によくやったなあ”と、褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません。
(本文中敬称略させていただきました。)
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