■□■□■《倭》と《大和》の語源(オロモルフ)■□■□■


◆◆◆ 1.「倭」と「和」の問題 ◆◆◆

『魏志倭人伝』は正式には『三国志』のなかの東夷伝のなかの倭人の条というのだが、いずれにせよ倭人という言葉がでてくるし、さらに倭や倭国という言葉がでてくる。
 つまり当時のシナ王朝では、現在の日本列島および朝鮮半島南端部のことを《倭国》と記し、そこに住んでいる日本人のことを倭人と呼んでいたのだ。
 なぜそう呼んでいたのだろうか?
 これについては、いくつかの説があるが、大きく分けて、

[ア] 漢や魏の役人が勝手に作ったという説。
[イ] 日本人が質問されてそう答えたという説。

 ――の二つになる。

 前者の[ア]は、「倭」という漢字の意味が低いとか曲がっているとか遠いとかいうものなので、遠路はるばる日本を訪れた使者が日本人の醜い姿を見て、そう名づけたのだろう――というものである。
 しかしそれはあまり説得力がない。
 なぜなら、『魏志倭人伝』のなかの多くの国名は、みな日本での呼び方を漢字に当てはめて、日本人の発音に似た呼称で呼んでいるからである。
 ただそのとき当てはめる漢字に、蔑称的なものが多いということなのだ。

 一方後者の[イ]は、質問された日本人が「ワ」と答えたので、それに差別的な「倭」という漢字をあてはめたのだろう――というものである。
 これは前者よりずっと得心がゆく。
 この後者の説にもいろいろあるわけだが、著者が読んだ説を二つほど挙げておく。

 そのひとつは、
「日本人が昔のシナ人と話をはじめた時代に、日本人は自分たちのことを《われわれ》または《われ》または簡単に《わ》といい、自分たちの国のことを、《われわれのくに》または《われのくに》または《わのくに》などといったので、シナ人は日本を「ワ」と呼ぶようになり、それを漢字で書きあらわすときに、差別意識によって低い姿勢とか従うとかいう意味を持つ「倭」を当てはめ、日本のことを《倭国》、日本人のことを「倭人」と記すようになった」
 ――という説である。
 南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房の『神皇正統記(1339)』にも似た意見が紹介されているが、その前の『釋日本紀(1300ごろ)』にも同じ意見が書かれており、とても古くからの説である。

 ちなみに後漢から金印を贈られたとされる倭奴国や伊都国の次ぎの奴国の奴とは、召使いとか虜とかいう意味で、これまた倭に負けずに下品な漢字である。

[イ]にはもうひとつ、円形を意味する「ワ」から来たのだろうという説がある。
 それは、
「日本の集落や都市は昔から環濠と呼ばれる堀を周囲に円周的にめぐらした中にあった。だからシナ人からお前の国は何と呼ぶのか、と聞かれたとき、円形や環形を意味する日本語の「ワ」を使って「わのなかにある」あるいは「わのなかのくに」または「わのなか」といった答をしただろう。そこでシナ人は日本のことを「ワ」と呼ぶようになり、それを差別的な「倭」という漢字で表した」
 ――というものである。

 おそらくこの後者の[イ]の二つ、またはそれに近いことがあって、かなり昔――たぶん西暦前――の前漢の時代からシナでは日本のことを《倭国》と呼んでいたのだろう。
 そしてそれを知った古代の日本の知識層が、
「なるほど自分たちの国はシナ人によって倭と呼ばれているのか、それなら我々もこの文字を使って「倭」と記すようにしよう」
 ――と考えたのであろう。

 ところで、古い文書を読むと、日本人は自分の国のことを「倭」とも記しているが、それが次第に「大和」に変化してきている。
 なぜなのだろうか?
 それは、日本人が次第に漢字の意味を勉強するようになり、「倭」は差別的な意味を持っていることがわかってきたからだろう――といわれている。
 古代の日本人はいろいろ考えた末、シナでの発音が似ていて、かつとても穏やかで良い意味を持つ「和」を採用して「倭」のかわりに使おうではないか――ということになったのであろう。

「和」はやわらぐ、なごむ、友好的、楽しむ・・・といった日本人好みの意味を持つ漢字である。
 この「和」を「ワ」と読むのはシナの音であるが、日本古来の発音である「ワ」は、円、環、輪、回・・・といった意味を持ち、落ち着きのある語感の言葉である。
 だから、「和」という漢字は、当時の日本人にとって、元々の漢字の意味も、読みから来る日本語としての語感も、ともにとても感じの良いものだったのだ。
 この「和」の前に「大」をつけて「大和」という単語をつくったのは、大和朝廷やその都がとても強く大きくて立派だ――という自負心からだろうが、ひょっとすると『魏志倭人伝』に記されていてる「大倭」にヒントを得たのかもしれない。


◆◆◆ 2.なぜ「ヤマト」と読むのか? ◆◆◆

 ここまではなるほど――と思われるのだが、つぎに疑問がうかぶのは、「ヤマト」という読みである。
『記紀』を読むと、「大和」だけではなく「倭」も「ヤマト」と読むことが多かったらしいとわかる。
 そしてその「ヤマト」という読みは、《邪馬台》の読みとじつによく似ている。

《邪馬台》が三世紀のシナの都でどう発音されていたかについては、定説はないらしく、「ヤマタイ」「ヤマダイ」「ヤマト」「ヤマド」「ヤマトイ」など多くの説があるが、どれをとっても日本語の「ヤマト」に似ている。
 ずばり「ヤマト」と読むべきだという学者も多い。

 だから、「ヤマト」なる読みの詮索は、日本国の語源論だけではなく《邪馬台国》探しの面でもきわめて重要になってくる。
「大和」を単純に音で読めば「タイ・ワ」だし、訓で読めば「オオ(オホ)・ヤワラグ」などであり、どう工夫しても「ヤマト」なる読みは出てこない。
 したがって「大和」と書いて「ヤマト」と読ませるのは、完全な当て字(当て読み)である。
 では、どこからその当て読みが出てきたのだろうか?

 もっともなっとくしやすい意見は、日本列島の盟主になった大和朝廷の先祖が住みついていた土地の名前が、漢字を知らなかったころからの純日本語で「ヤマト」と呼ばれていたからだろう――というものである。
 またそれを自分たち一族の名前にもしていたのであろう――というものである。
 そこで、大和朝廷の先祖がいた土地に、「ヤマト」なる地名が残っているかどうかを調べる段取りになるが、それには、その土地がどこだったかを求めなければならない。

《邪馬台国》に「九州説」と「大和説」があるように、大和朝廷の先祖の土地についても、最初から現在の奈良県の《大和》だったという説と、『記紀』に記されているように九州だったという説がある。
 奈良県の場合には《大和》そのものなので、問題はその地名の意味やいつごろからそう呼ばれていたか――ということだけであるが、九州については「ヤマト」なる地名をもつ場所を探さなければならない。
 それは、『記紀』にある高千穂の峰の近くや日向の地には見つからないが、中北部には現存している。
 福岡県の山門郡(ここに大和という町もある)とその近くの熊本県の山門である。
(これらはヤマトと読む)

 神武東征説では、この地点が大和朝廷の先祖に関係するとする考え方があるし、「《邪馬台国》九州説」では、この二箇所のどちらかが《邪馬台国》だったとする意見が昔からある。
 江戸時代の新井白石も福岡県の山門説を唱えていた。
 地名は変化するので、九州の一部に「山門」なる地名が現存しているということは、昔は他の地域にも同様な地名があった確率が高いということであり、高千穂のあたりや現在の日向のあたりにも「山門」があった可能性がある。
 また奈良県の《大和》も、本来は「山門」または「山処」といった漢字を当てはめるべき意味の「ヤマト」という地名だったのだろう――という説が多くの学者によって唱えられている。

 というわけで、「大和」とは本来の漢字の意味からすれば「山門」と書くべき言葉で、山の門つまり山への入口といった意味を持っており、これが、畏敬すべき山地の近くに住んでいた大和朝廷の先祖がその土地につけた名であり同時に氏族名でもあり、それをあらわす漢字として「倭」を改善した「大和」を採用することにしたので、「大和」と書いて「ヤマト」と読む一見奇妙な読みができたのであろう――ということになる。
 これはなっとくしやすい推量であり、肯定する学者も多いらしい。


◆◆◆ 3.甲類・乙類の諸問題 ◆◆◆

 ただしちょっと問題もある。
 それは、万葉仮名の研究などによって、古代の日本語には同じ「ト」にも二種類あることがわかっており、その違いを検討すると、「大和」の「ト」と「山門」の「ト」は発音が異なっているので、語源が「山門」という説は成立しない――との意見があることである。
 この発音の問題を《邪馬台》にあてはめると、それは「大和」には似ているが「山門」とは違うとされ、「《邪馬台国》九州説」への反論にもなっている。

 古代の発音における甲類・乙類の問題は専門書を見ていただくことにして、「山門」と「大和」にこれをあてはめてみると、

「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類

 ――となるので、この二つの地名(氏族名)は古代の発音が異なっていたことがわかる。

 そしてこれが、「大和」の語源は「山門」ではないし、また九州の「山門」は大和朝廷の出発点ではない――との説に結びつくのである。
 しかし、音韻がしだいに変化する例はたくさんあるので、これは一つの意見にすぎず、「大和」と「山門」は同源であるとする著名な学者も多い。
 もうひとつ、「山門」に近い言葉に「山処」がある。
 文字どおり山のある処という意味だが、こちらのほうは「大和」と同じ乙類であり、したがって「山処」が「大和」の語源だという説もある。

(前記の『神皇正統記』で北畠親房は「山迹」説をとり、異説として「山止」説を紹介している。前者は山を歩いた足跡、後者は山への居住という意味だが、七百年も前の学説なので、ここでは参考にとどめる)

 さて次に、この甲類・乙類の区別を、《邪馬台国》がどこにあったかの問題にむすびつけてみよう。
 台は「ト」とも読めるが、このように読んだとき、

「邪馬台」の「ト」は乙類

 で、「大和」の発音に等しい。
 したがって、甲類・乙類を峻別する意見では、
「《邪馬台国》大和説」
 ――となるし、また音韻変化を認める意見では、「山門」なる地名が九州にあるので、
「《邪馬台国》九州説」
 ――を否定すべきではない、となる。

 ちなみに、『古事記』に記された万葉仮名の「ヤマト」は「夜麻登」で統一されているが、『日本書紀』のそれは十通りもあるという。
「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」の十種である。
 また『万葉集』にも多くの万葉仮名がある。
(『万葉集』の仮名以外では「日本」や「倭」のほかに「山跡」が多い)

 シナ史書では、七世紀前半の『隋書倭国伝』に、
「邪摩堆に都する、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬臺」
 ――とあるので、「邪馬台」は昔のシナでは「ヤマト」にとても近い発音だったとの印象をうける。


◆◆◆ 4.むすび ◆◆◆

 以上を総括してみよう。
 甲類・乙類という古代の発音の違いは別問題として、「ヤマト」の語源としては「やまのあるところ」あるいは「やまへの入口」という意味からきたという説が有力で、漢字で書けば「山門」あるいは「山処」などが語源であろう――いう説が一般的である。
 だから「ヤマト」は最初は山に近い場所、つまり神聖な山の麓の呼称であって、日本全体の名ではなかった。
 日本のあちこちに「ヤマト」という地名があり、また氏族名があり、そういう氏族の代表が大和朝廷の先祖だったのであろう。
 そして、奈良県の《大和》に本拠をおく大和朝廷が日本を統一したために、シナ式表記の「倭」のかわりに美しく「大和」と書いて「ヤマト」と当て読みする単語が、日本列島全体の代名詞になっていったのである。

 和は倭の代わりなので、和のみで「ヤマト」と読むのが本来である。
 したがって、大和を「オオヤマト」と読むことも多い。戦艦大和に祀られていたことで知られる《大和神社》がその例である。

《邪馬台国》との関係については、「邪馬台」も「大和」も末尾をトと読んだときの古代の発音は乙類で同じと想像されるので、《邪馬台国》が大和朝廷かその先祖の地《大和》であった可能性はきわめて高い。
 しかし、それだけで奈良県の《大和》が《邪馬台国》であると決めつけることもできない。
 私は「《邪馬台国》大和説」が有力と考えてはいるが、九州の《山門》の音韻が変化して《邪馬台国》になった可能性も否定できないからである。

 なお、発音の面から《邪馬台国》と《大和》を厳密に比較することは、三世紀の発音を推理しなければならないので、困難であろう。
 三世紀の日本人が「ヤマト」をどう発音していたのかを厳密に知ることは難しい。現在でも地方によって方言があることから、当時に日本で近畿と九州とで「ヤマト」が同じ発音だったとも考えにくい。少なくともイントネーションは相当違っていたであろう。
 また、日本人のその発音が、シナの使者や役人の耳にどう響いたかも分からない。
 さらに、それを「邪馬台」と表記したとしても、その三世紀の発音がどうだったかを厳密に知ることはできない。
 したがって、《邪馬台国》と《大和》の発音の面からの比較は、「だいたい合っているようだ」という程度の推理しか出来ないと思う。


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