■□■□■ 第四代新羅王は日本人か(オロモルフ) ■□■□■


◆◆◆ 『三国史記』 ◆◆◆

 朝鮮最古の史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀には、第四代の王について、つぎのように書かれています。

「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」

「脱解尼師今が即位した〈吐解ともいう〉。王はこの時(A・D五七)、年が六十二歳で姓は昔氏、妃は阿孝夫人である。脱解王はもと多婆那国の出身で、その国は倭国の東北一千里のところにある。・・・(金思Y訳)」

(注1:このあと、朝鮮によくある伝説として、多婆那国の王の妃が卵を産んで海に流されて生まれ、海岸に漂着した――という話があります)

(注2:脱解尼師今は(トヘニサコム)で、尼師今(ニサコム)は王様といった意味だそうです。箱(船)から出てきたので脱解という名がついたという話も書かれています。多婆那国は(タバナ国)と読めます)


◆◆◆ 《籠神社》に残る伝説 ◆◆◆

 天橋立を参道にしている丹後の《籠神社》には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった――という伝説が残されているそうです。


◆◆◆ 『卑彌呼と日本書紀』と『卑弥呼一問一答』と『女性天皇の歴史』 ◆◆◆

 数年前に出しました上の三つの本(どれも栄光出版社刊行)でオロモルフは、この第四代の王が日本の丹後から渡った可能性が高い旨を記しました。
(つまり多婆那国とは日本の丹後地方の事であり、したがって第四代の新羅王は日本人だったのだろう――という推理です)

 しかし、ごく簡単に書いただけですので、ここで、もう少し考察してみます。


◆◆◆ 地理について ◆◆◆

『三国史記』には「倭国の東北千里」とあります。
 倭国とは日本のことですが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようです。
 それは、『三国志』の東夷伝を読めばわかります。
 だとしますと、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになります。

 北九州から東北へ進みますと、(日本海の孤島を別にしますと)人間の住んでいる場所で、王様のいそうな場所といいますと、日本列島の日本海側だけです。
 で、千里とはどのくらいかといいますと、仮に昔のシナの里を使っていたとしますと、魏の時代の里は、
「一里=435メートル」
 ――なので、
「千里=435キロメートル」
 ――となります。
 これを地図上で計りますと、鳥取から丹後のあたりになります。

 もちろん、単に遠方という意味で千里といった可能性もありますが、概略の距離を示しているとすれば、こうなるのです。


◆◆◆ 《丹後国》と《丹波国》 ◆◆◆

 丹後半島付け根の《籠神社》の伝説が、《多婆那国》=《丹後国》を暗示していて興味深いのですが、もともと丹後地方は、海洋族として知られた海部一族の勢力圏であり、大和朝廷も〈天照大神〉(伊勢神宮)の大和以外での最初の奉斎地に選んだほど重視していた所です。
 ですから、丹後の王権の王子の誰か(またはその一族)が、新羅に渡った可能性は大きいのですが、それはもちろん可能性の問題です。

 さてつぎに、「多婆那国とは現在の丹後ではないか」という推理の根拠を、読みで示しますが、その前に丹後と丹波の関係を記します。

 現在の丹後は、かつての《丹後国》ですが、さらに昔は《丹波国》の一部でした。
 西暦713年に《丹波国》の(都から見て)後ろの方が独立して《丹後国》になったので、新羅云々の時代には《丹波国》と呼ばれておりました。
 つまり、《籠神社》の一帯は、古代においては《丹波国》だったのです。


◆◆◆ 《丹波国》の語源 ◆◆◆

 現丹後の《丹波国》は、《伊勢神宮》の外宮の神〈豊受大神〉で知られますように、田畑に恵まれて食べ物の生産に適した地方でした。
 で、《丹波》の語源ですが、もともとは田畑の豊富な場所という意味の《田庭》だったらしいと言われています。

 国語辞書に書かれておりますが、昔の「庭」の発音は(には)ですが、それが省略されて「場(ば)」という言葉が出来ました。
 日本語における「にわ」や「ば」は、仕事をする場所や家の近くの場所を意味しますが、漢字の意味は祭祀の場所です。
 日本においても、神聖な場所、汚してはいけない場所を意味していたようです。
 だから、こういう漢字を当てはめたのでしょう。

 ところで、「には」から「ば」が出来てから、「庭」という漢字は「ば」とも読むようになりました。
 オロモルフの知人に「大庭」さんという人がいますが、これは「おおば」と読みます。
 ですから、田の庭(田庭)の意味の「たには」が省略されて「たば」になり、それが「たんば」と読まれて《丹波》という漢字で書かれるようになった可能性が高いのです。
 つまり、現《丹後国》の弥生時代の呼び名は、《田庭(たば)国》であった可能性がかなりあるのです。

(以上は、オロモルフが語呂合わせ的に考えた話ではありません。国語の専門家によって編纂された多くの辞書類に記されていることを、オロモルフが纏めたにすぎません。この先はすこし小生の推理が入りますが・・・)


◆◆◆ 《多婆那国》と《丹後国》 ◆◆◆

 以上から、
 現在の丹後地方は、もと《丹波国》であり、それはさらに前には《田庭国》と呼ばれていた可能性が高いわけです。
 さて、日本語では、多くの場合、《出雲国》は「いずもの国」、《尾張国》は「おわりの国」・・・というように、国の前に「の」をつけて発音するのが普通です。
 ですから発音をきちんと書けば、《田庭国》は、「たにはの国」から庭(には)→場(ば)の変形がなされて「たばの国」(田畑のある場所!)と呼ばれるようになり、さらにそれが「たんばの国」になって《丹波国》と書かれるようになったと推理できます。

 したがいまして、現在の《丹後地方》は、弥生時代には「たばの国」と呼ばれていた可能性が高く、それをローマ字で書きますと、
『TABANO国』
 ――となります。

 ところで『三国史記』の《多婆那国》は、音で読んで「タバナ国」、ローマ字にしますと、
『TABANA国』
 ――です。
 つまり、ほとんど同じ発音なのです!

 ですから、古代の新羅の人たちが、日本人の現丹後地方の呼び方をそのまま音写して、《多婆那国》と記した可能性はきわめて高いと思われます。

(これに反発する韓国人は多いでしょうが、高天原は韓国に有ったとか、奈良文化は朝鮮人が創ったとかいう牽強付会話よりは、ずっとラショナルだと思います)

◆◆◆ 古代の朝鮮の文献 ◆◆◆

 日本の場合には、『古事記』『日本書紀』『風土記』のようなきわめて古くかつ豊穣な文献が残されていますが、朝鮮半島では『三国史記』といっても12世紀半ばの作です。
 また、日本の場合は『万葉集』で代表されるような、飛鳥時代やさらにその前の日本語(話し言葉)を推理できる(漢文/シナ語ではなく万葉仮名の)文献が残されていますが、朝鮮には残されていません。
 『三国史記』も漢文です。
 したがって古代の朝鮮語がどのようなものであったかは、日本にくらべて遙かに曖昧であり、古代の日本と朝鮮を言語面で比較するのは困難です。
 そういうわけで、渡部昇一先生のように、別の観点から百済の要人たちは日本語を話していたのではないか――と推理するほかはありません。

(しかし、『万葉集』を古代朝鮮語で読む――などというトンデモ本が出るので困ります。この種の本は、韓国の反日的な学者ですら批判しておりますのに、まじめな保守派の人が騙されたりいたします。解法者さんのおられる掲示板はすぐに訂正されますからいいのですが、注意する人がいなくてそのままの掲示板が多いようです)

◆◆◆ 最後に一言 ◆◆◆

 いつも不思議に思うのですが、アチラの国からはメチャクチャな話が無数に聞こえてくるのに、日本では、保守派ですら、こういう話をしようとしません。
 なぜでしょうか?
 すくなくとも、日本神話の高天原は韓国の高霊市にあった――などという話よりは蓋然性が高いと思います。

▼ご紹介
『卑彌呼と日本書紀(第3刷)』栄光出版社(3800円)
『卑弥呼一問一答(第2刷)』栄光出版社(1300円)
『女性天皇の歴史(第2刷)』栄光出版社(1300円)

 この中の『女性天皇の歴史』には、桓武天皇問題(朝鮮からの帰化人問題)や〈三足烏〉問題などの論考もあります。

(完)


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