■■■ 日韓古代交流史――「神功皇后」[甲]――(解法者)■■■


◆◆◆「神功皇后」(1) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 8日(水)13時37分52秒◆◆◆

 ここでは、「神功皇后」の実在と「三韓征伐」について考える。
 「神功皇后」は果たして実在していたかを考えてみる前に「神功皇后」の朝鮮関係記事が事実であるかどうかを考えて見たい。これが事実でないならば「神功皇后」は実在しなかったことになる。各項目の下に「◆」を入れ、「神功皇后」の事蹟が事実かどうかを検証した。最初に文献・金石文などを挙げ、後にこれに対する批判について考えたい。
1.第14代「仲哀天皇」9年(320年と考えられる)(神功皇后摂政前紀)〔『日本書
 記』卷第九〕(新羅征伐−「三韓征伐」)
  秋9月10日、諸国に令して船舶を集め、兵を練られた。
  冬10月3日、和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。このとき、海
 水が新羅の国の中まで上がってきて新羅の王は恐れおののき降伏した。新羅の王「波沙
 寝錦」(はさむきん−寝錦とは王の意味)は「微叱己知波珍干岐」(みしこちはとりかん
 き)〔第17代「奈勿尼師今」の子「未斯欣」(ミキシン)〕を人質に差し出した。高麗
 (高句麗)、百済の2国の王も降伏し、朝貢を絶やさないことを誓った。それで「内官
 家」(うちつみやけ−日本〔正確には「倭」あるいは「大和」とも記すべきであるが、こ
 のように記すことにする。以下も同じである〕の朝廷への貢納国)を定めた。これを
 三韓という(「三韓征伐」とはこれらのことを言う)。
  『古事記』仲哀天皇紀、『筑前国風土記』、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、
 『萬葉集』(813番 山上憶良)、『続日本紀』(天平勝宝4年〔753年〕6月壬
 辰(17日)条、にも「神功皇后」の「新羅征伐」に関するものが載せられている。こ
 こは「三韓征伐」があったかどうかについて極めて重要なところであるから、それにつ
 いて述べたい。合わせて『日本書紀』の前述の部分をもう少し詳しく記す。
  『古事記』仲哀天皇紀
  軍を整えて船を並べて渡った。(中略)その船を乗せた波は新羅の国に押し寄せてな
 かばにまで至った。ここに新羅王は恐れをなして言うには「これから以後は天皇の命令
 のままに御馬甘(みまかい−馬を飼育する部曲)として、毎年船を並べて船腹を乾かす
 ことなく、また??(さおかじ)を乾かすことなく、天地とともに永遠に
 御仕えしましょう」。そこで、新羅の国を御馬甘と定め、百済の国を渡の屯(わたりの
 みやけ−海の向こうにある直轄地)と定めた。神功皇后はその杖を新羅王の門に突き立
 てて、墨江の大神の荒御魂(あらみたま−御神霊)を国を守る神として祭って帰られ
 た。
  『日本書紀』
  和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。新羅に至ると船に従う浪は遠
 く新羅の国の中にまで満ち溢れた。新羅王は恐れおののいてなすべを知らなかった。船
 は海に満ち、軍旗は太陽の光に輝き、鼓笛の音は山川に鳴り響いた。新羅王は降伏し、
「これからは末永く服従して馬飼になりましょう。船?(ふねかじ)を乾かすことなく、
 馬梳(うまはたけ−馬の毛を洗う刷毛)と馬の鞭を奉りましょう。また求められなくと
 も男女の手になる物を奉げましょう」と重ねて誓った。(中略)神功皇后は新羅に入って
 宝の倉に封をし、地図や戸籍を収めた。皇后は持っていた矛を新羅王の門に突き立てて、
 後の世の印とした。その矛は今でも新羅王の門に立っている。


◆◆◆「神功皇后」(2) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月 9日(木)13時56分11秒◆◆◆

 『筑前国風土記』芋眉(正しくは「サンズイ」+「眉」−以下同じ)野条
  息長足比売命(おきながたらしひめのみこと−神功皇后)は、新羅を討とうとして軍
 を指揮したときにお腹の子の胎動があった。そのとき、2つの石を取って裳(腰巻)の
 腰のところにはさんで、新羅を討った。凱旋して芋眉野(うみの−福岡県糟屋郡宇美町
 宇美)に来たところで太子が生まれた。
 同資珂嶋条
  糟屋郡(かすやのこおり)資珂嶋(しかしま)。昔、息長足姫尊(おきながたらしひめ
 のみこと−神功皇后)が新羅に行かれたときに船が夜に来て、この島に泊まった。
 同大三輪神条
  息長足姫尊は、新羅を討とうとして軍勢を整えて出発したが、途中で軍兵が逃げてし
 まった。その理由を占いで尋ねたところ、祟る神があるという。その名を大三輪神(お
 おおみやがみ)という。そこで、この神の社を建てて祭り、ついに新羅を平定した。
 『肥前国風土記』高来条
  周賀郷(すかのさと)昔、息長足姫尊が新羅を討とうとして出たとき、船をこの郷の
 東北の海につないだ。
 『肥前国風土記』揖保郡条
  宇須伎津(うすきつ)。大帯日売命(おおたらしひめ−神功皇后)が、韓の国を平定し
 ようとして渡り出たときに、船が宇頭川(うつかわ)の泊に宿った。
 同
  萩原里。息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと−神功皇后)が、韓の国から還
 られたときに、船をこの村に泊められた。
 同讃容郡条
  中川里。息長帯日売命が韓の国に行かれたときに、船が淡路の岩屋に泊まった。
 『摂津国風土記』美奴売松原条
  昔、息長帯比売天皇(おきながたらしひめのすめらみこと−神功皇后)は、(美奴売
〔みぬめ〕神の教えに従って命じて船を作らせ、この船で新羅を征した。
 『常陸国風土記』行方郡条
  息長足日売の皇后(おきながたらしひめ−神功皇后)のとき、この地に「古都比古」
(こつひこ)という人がいた。三度韓の国に遣わされた。
 『新撰姓氏録』
  大矢田宿彌(おおやだのすくね)は、気長足姫皇尊(おきながたらしひめのみこと−
 神功皇后)に従い新羅を討った。
  和気朝臣。垂仁天皇の皇子、鐸石別命(のてしわけのみこと)の後裔である。神功皇
 后が新羅を征伐し凱旋して帰る。


◆◆◆「神功皇后」(3) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月14日(火)13時33分48秒◆◆◆

 『萬葉集』(812番 山上憶良)
  言問わぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かめやも
    十一月八日に、還使の大監に付く。謹通 尊門 記室
  筑前国怡土郡深江村子負の原に、海に臨める丘の上に二つの石あり。大なるは、長さ
 一尺二寸六分、囲み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは、長さ一尺一寸、重さ十
 六斤十両。並に皆楕円く、状は鶏子の如し。その美好しきこと、勝えて論ふべからず。
 所謂径尺の碧とは是なり。〈或は云う、この二つの石は肥前国彼杵郡平敷の石なり、占 に当たりて取ると〉深江の駅家を去ること二十里ばかり、路の頭の近くに在り。公私の
 往来に、馬より下りて跪拝せずということなし。古老相伝えて曰く、「往者、気長足日女
 命、新羅の国を征伐したまえし時に、この両つの石を用いて、御袖の中に挿著みて鎮懐
 と為したまう。〈実はこれ御裳の中なり〉所以に行人この石を敬ひ拝む」といふ。乃ち
 歌を作りて曰く、
 【訳文】
  ものを言わぬ木ではあっても、あなた(我が背子)のお気に入りの琴をわが身から放
 すことはいたしません。
    十一月八日に、筑紫に還る使いの大監に言付けます。謹んであなた(尊門)のも
    とにお届けいたします(記室)。
  筑前国怡土郡深江村子負の原(福岡県糸島郡二丈町深江−「鎮懐石八幡宮〔子負原八
 幡〕」)の海が望める岡の上に2つの石がある。大きいものは、高さ38センチ、周りは
 56センチ、重さ11キロ。小さいものは、高さ35センチ、周りは54センチ、重さ
 10キロ。共に(並に)楕円形で、鶏卵のようである。その美しさは言葉では言い表わ
 せない。いわゆる(所謂)「径尺の碧(けいしゃくの玉)」〔直径1尺の玉(美しい玉の
 たとえ)〕とはこのことをいうのであろう。〈一説によると、この2つの石は肥前国彼杵
 郡平敷の石で、占いによって取り寄せられたものともいう〉 深江の駅家を去ること2
 0里の道の辺(頭)にある。公私で往来する者で誰しも馬から降りて拝まない者はいな
 い。古老が云うには、「昔(いにしえ−往者)「気長足日女命」(おきながたらしひめの
 みこと−神功皇后)が新羅を征伐されたときに、この2つの石を御袖の中に挟んで(挿著
 み〔おしはさみ〕)、心を鎮められた(鎮懐〔しずめ〕)のである。〈本当は裳(腰巻)
 の中である〉 こういうことで(所以)、この道を行き来する人がこの石を拝むのであ
 る。そこで作った歌。
 (『萬葉集 A〔新編 日本古典文学全集 7〕』小島憲之・木下正俊・東野治之 小学
 館1995年4月15日 37頁、『新版 万葉集 1』伊藤 博 角川書店〔角川ソフィア
 文庫〕2009年11月25日 381頁、を参考にして訳文を作成した−以下同じ)。


◆◆◆「神功皇后」(4) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月14日(火)13時31分34秒◆◆◆

 『萬葉集』(813番 山上憶良)
   かけまくは あやに畏し 足日女 神の尊 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮め
 たまふと い取らして 齋ひたまひし ま玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひ
 て 万代に 言い継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に 御手づから
 置かしたまひて 神みながら 神さびいます 奇し御魂 今の現に 貴きろかむ
【訳文】
  口に出して申し上げる(かけまく)のも恐れ多い(あやに畏し)。「足日女」(たらしひ
 め−神功皇后)皇后(神の尊)が韓の国を平定されるときに、こころを鎮められるため
 にお手に取られて大切に祭られた(齋ひたまひし)玉のような2つの石を世の中の人に
 示されて末永く言い伝えようにと(海の底 沖つ)深江の海の辺(ほとり)の子負の原
 に、お置きになられて以来、神として祭られて(神みながら)鎮座している(神さびい
 ます)。この世にも珍しい(奇し)尊い石(御魂)は今もそのまま(今の現〔をつつ〕に
 敬まわれている。

『萬葉集』(814番 山上憶良)
  天地の 共に久しく 言い継げと この奇し御魂 敷かしけらしも
    右の事 伝え云うは、那珂郡伊知郷蓑島の人 建部牛麻呂なり。
【訳文】
  天地と共に末永く語り伝えよとこの世にも珍しい(奇し)尊い石(御魂)はここに据
 え置かれたのであろう。
  右のことを伝えて言う人は、那珂郡伊知郷蓑島の人「建部牛麻呂」である。


◆◆◆「神功皇后」(5) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月15日(水)19時45分21秒◆◆◆

 『続日本紀』孝謙天皇(天平勝宝4年〔753年〕6月壬辰(17日)条
  新羅の国が朝廷に供奉するのは、気長足媛皇太后(おきながたらしひめ−神功皇后)
 がかの国を平定したとき以来今に至るまでわが国を守る垣根の役割を果たしてくれた
 からである。

 ◆ 『三国史記』新羅本紀 第18代「實聖尼師今」元年(402年)
    3月、倭国と修好し、奈勿王(第17代王)の子、未斯欣(ミキシン)を人質
   とした。
   『三国史記』卷四十五 列伝第五 「朴堤上」条
    「實聖尼師今」元年(402年)に奈勿王(第17代王)の子、未斯欣を人質
   として「倭」に送った。
   したがって、「仲哀天皇」9年(神功皇后摂政前紀)の出来事は、402年の事実
  と合致する。これについて「池内宏」は、果たしてこういうことがあったか疑問で
  あり、信頼はおけないという(『日本上代史の一研究−日鮮の交渉と日本書紀』中央公
  論美術出版 1970年8月15日 43頁)。しかし、そういうことを言えば、古代の
  歴史書はすべて後世になって編纂されたもので<信頼がおけない>ことになり、年代
  の確定した「金石文」のみが信頼に足ることになってしまう。これでは「文献学」は
  成り立たない。こうした「歴史書」のなかから真実を見出していくのが「歴史学」の
  使命であろう。とうてい賛同し難い。こうした「三韓征伐」実在については後ほど詳
  しく述べる。
 ◆ 「神功皇后」の「新羅征伐」に関する伝承がかくも多く日本の史料に残されている
  ということは、民衆の間にそれだけ「神功皇后」の事蹟が広まっていたことを示して
  いる。つまり、実在の人物として描かれていたのである。

★ 「仲哀天皇」・「神功皇后」など天皇などに関する紀年の西暦への比定は『卑彌呼と日
 本書紀』石原藤夫 栄光出版社 2001年11月10日、に従う。


◆◆◆「神功皇后」(6) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月16日(木)12時24分21秒◆◆◆

  「神功皇后」の「三韓征伐」と関連して、次の史料がある。
  第17代「奈勿尼師今」9年(364年)
  『倭兵が大挙して攻めて来た。王はこのことを聞き、敵対できないと恐れ草人形数千
 を作り、着物を着せ兵器を持たせて吐含山(慶州の東)の下に並べ立たせ、勇士一千を
 斧見〔正しくは「山」+「見」−以下同じ〕(慶州の近郊の東原)に潜伏させておいた。
 倭人は多勢をたのんで直進してくるところを伏兵たちが飛び出して不意に撃つと、倭人
 は大いに敗れて逃げた。それを追撃してほとんど皆殺しにした』
  これは大変重要な記事で、「倭」がどこから「新羅」の王都「慶州」に迫ったかがわ
 かる。韓国側の資料で、ここが迎日湾(韓国の慶尚北道浦項市)から「慶州」の途中に
 ある(『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科 平凡社 2006年11月10日 31頁)
 ことがわかった。そこでは、232年、364年、393年の「倭」の侵入経路は「迎
 日湾」から「斧見」を経由して「慶州」に迫ったことが記されている。
  もう一度、第14代「仲哀天皇」9年(320年と考えられる)(神功皇后摂政前紀)
 〔『日本書記』卷第九〕(新羅征伐−「三韓征伐」)のところの記事を思い起こしていた
 だきたい。「冬10月3日、和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。この
 とき、海水が新羅の国の中まで上がってきて新羅の王は恐れおののき降伏した」という記
 事がなく、直接「新羅」に近い場所からそこを攻めたことを表わしている。つまり、
 「倭」の「新羅」へに侵攻ル−トは『三国史記』に合致するということなのである。


◆◆◆「神功皇后」(7) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月16日(木)12時16分51秒◆◆◆

2.「神功皇后」摂政5年(333年)
  春3月7日、新羅王が「汗礼斯伐」(うれしほつ)、「毛麻利叱智」(もまりしち)、
 「富羅母智」(ほらもち)らを遣わして朝貢した。彼らは先の人質「微叱許智伐旱」(先
 の「微叱己知波珍干岐」とは表記が異なるが、同じ人物を指す)を取り返す目的があり、
 「微叱許智伐旱」に『わが王は私が長らく帰らないので、妻子を官奴(役所に仕える
 奴隷)としてしまった。それが事実か調べさせていただきたい。』と嘘を言わせた。皇
 后はこれを信じ、「葛城襲津彦」(かつらぎのそつびこ)を付き添わせて新羅に帰らせ
 た。対馬の和珥津に泊まったが、「毛麻利叱智」は密かに舟を用意して「微叱許智伐旱」
 を逃れさせた。騙された「葛城襲津彦」は新羅の使い3人を焼き殺し、新羅に行き「蹈
 ?津」(たたらのつ−釜山の南の「多大津」)に陣を敷き草羅城を攻め落として帰国し
 た。
 ◆ 『三国史記』新羅本紀 第19代「訥詆麻立干」2年(418年)
   正月、奈勿王の子「ト好」は高句麗から奈麻(官位)の「朴堤上」と一緒に帰って
  きた。
   『三国史記』卷四十五 列伝第五 「朴堤上」条
   「朴堤上」(第5代「婆娑尼師今」の5代孫)は倭に人質になって行っていた「未斯
  欣」(「微叱許智伐旱」)を逃がした。倭王は「朴堤上」を火あぶりにした後で斬殺し
  た。
   『三国遺事』卷第一 紀異第一 「奈勿王・金堤上」条にも同じような話がある。
    ここでは「未斯欣」は「宝海」となっている。
   したがって、「神功皇后」摂政5年の出来事は、418年の事実と合致する。


◆◆◆「神功皇后」(8) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月17日(金)13時28分21秒◆◆◆

3.「神功皇后」摂政46年(366年)
  春3月1日、「斯摩宿禰」(しまのすくね)を卓淳国(現在の韓国慶尚北道大邸市)
 に遣わした。卓淳王「未錦旱岐」(まきむかんき)が「斯摩宿禰」に百済人の「久氏(
 (正しくは「氏」の下に「一」がつく−以下同じ)」(くてい)、「弥州流」(みつる
 る)、「莫古」(まくこ)がやって来て、「百済王が東に日本という貴い国がある。行
 きたいが道がわからない。もし、日本から使者がやって来たら教えて欲しい」と伝え
 た。そこで、「斯摩宿禰」は従者の「爾波移」(にはや)と「過去」(わこ−卓淳の
 人)を百済国に遣わし、王をねぎらった。王(「肖古王」〔第5代王[在位167年〜
 214年]〕とあるが、誤りで第12代「近肖古王」〔在位347年〜375年〕のこ
 と)が大変喜んで厚遇され、五色の綵絹(色染めの絹)と鉄延(正しくは「金」+
 「延」−以下同じ)(鉄材)などを「爾波移」に与えた。ここの貢物で重要な物は「鉄
 延」である。「鉄延」の出現時期は「百済」の漢城時代の4世紀中葉に遡ることから、
 後述のとおり「近肖古王」の在位中と考えられる
 (『倭と加耶の国際環境』東 湖 吉川弘文館 2006年8月10日 148頁)。
  なお「卓淳」というのは『釈日本紀』に、「任那国の別種なり」とあることから、
 「任那」と考えてよい。「卓淳」の比定については、49年条で述べる。
 ◆ 「神功皇后」摂政46年の出来事は、「近肖古王」の在位中(347年〜375年
  年)〔『三国史記』百済本紀による〕の時代と合致する。
4.「神功皇后」摂政47年(368年)
  夏4月、百済王「近肖古王」は「久氏」、「弥州流」、「莫古」を遣わして朝貢し
 した。ことき、新羅の使いも一緒に来た。皇后が貢物を見ると新羅の物が豪華であるの
 であるのに百済の物が貧弱であった。そこで、「久氏」に尋ねると彼は途中で貢物を新
 羅に奪われてしまったことを告白した。皇后は怒り「千熊長彦」(ちくまながひこ)を
 新羅に遣わし、そのことを責めた。


◆◆◆「神功皇后」(9) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月18日(土)12時50分51秒◆◆◆

5.「神功皇后」摂政49年(369年)〔新羅再征伐〕
  春3月、「荒田別」(あらたわけ)と「鹿我別」(かがわけ)を将軍とし、「久
?」(百済人)と共に卓淳国に行き、新羅を襲おうとした。「木羅斤資」(も
  くらこんし)、「沙沙奴跪」(ささなこ)に命じて共に卓淳国に集まり、新羅を討ち
  取った。そして、「比自本」〔正しくは火+本−以下「比自本」という〕(ひし
  ほ)・「南加羅」・「喙国」(とのくに)・「安羅」・「多羅」・「卓淳」・「加
  羅」の7カ国を平定した。さらに「耽羅」(たんら−済州島)を滅ぼして、これを百
  済に与えた。百済の「肖古王」(誤りで「近肖古王」が正しい)って来て、「木羅斤
  資」と共に百済に行き、日本に春と秋に朝貢することを誓った。「比利」、「辟中」
  (へちゅう)、「布彌支」(ほむき)、「半古」の4邑も自然に降伏した。
   「百済王」父子と「荒田別」・「木羅斤資」は「意流村」(おるすき)で一緒にな
  り、喜びあった。「千熊長彦」と「百済王」は「百済国」へ行き、「辟支山」と「古
  沙山」に登り、「百済王」は永遠に日本に朝貢することを誓った。
 ★ ここに出てくる地名の比定(現在地) この比定は「任那」などの範囲を知る上で
  <極めて重要なもの>であるから、記憶されたい。
  1.卓淳国     韓国慶尚北道大邸市(道庁所在地)
  2.比自本     韓国慶尚南道昌寧郡昌寧邑
             『三国史記』の「比自本郡」、「比斯伐郡」
  3.南加羅     韓国慶尚南道金海市
  4.喙国      韓国慶尚北道慶山市
  5.安羅      韓国慶尚南道咸安郡伽耶邑
  6.多羅      韓国慶尚南道陝川郡陝川邑
             『三国史記』の「大良州」、「大耶州」
  7.加羅      韓国慶尚北道高霊郡高霊邑
  8.比利      韓国全羅北道全州市
             『三国志』魏志韓伝馬韓条の「卑離國」、「広開土王碑」の
             「比利城」
  9.辟中      韓国全羅北道金堤市
             『三国志』魏志韓伝馬韓条の「辟卑離」、『三国史記』の
             「辟城」・「碧骨」、『日本書紀』の「避城」
  10.布彌支     韓国忠清南道公州市
             『三国史記』の「伐音支県」
  11.半古      韓国全羅北道羅州市
  12.意流村     韓国全羅北道茂朱郡
  13.辟支山     韓国全羅北道金堤市
             『三国志』魏志韓伝馬韓条の「辟卑離」、『三国史記』の「
             「辟城」・「碧骨」、『日本書紀』の「避城」
  14.古沙山     韓国全羅北道古阜郡
             『三国史記』の「古沙夫里」


◆◆◆Re:「神功皇后」(9)

 韓国の観光案内地図に印をつけてみました。
 山脈の周囲を取り巻いていますね。
 なるほど、と思います。
 ↓↓↓↓↓



◆◆◆「神功皇后」(10) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月19日(日)13時10分31秒◆◆◆
  ここの地名の比定で最も重要なものは「卓淳」である。「卓淳」は古名「達句伐」(た
 くつばつ)で「卓」に通じることから、「韓国慶尚北道大邸市」に比定されている(『任
 那興亡史』末松保和 吉川弘文館1949年2月28日 46頁、『日本書紀朝鮮関係記事
 考證』天山舎 2002年12月19日 96頁)。ところが、これに対し「昌原」(現在の韓
 国韓国慶尚南道昌原郡)から「咸安」(韓国慶尚南道咸安郡)の間と考える者がいる(『
 日本上代史の一研究』池内 宏 中央公論美術出版1970年8月15日52頁、『七支刀の
 謎を解く』吉田 晶 新日本出版社 2001年7月25日98頁、『大加耶連盟の興亡と「任
 那」』田中俊明 吉川弘文館 1992年8月20日 235頁)。
  これは「欽明天皇」5年11月条(544年)の【「新羅」と「安羅」の国境に大きな
 河があり、要害の地と聞く。「新羅」はここに5つの城を築いているが、我々はここに6
 つの城を築き、日本から3千の兵を派遣していただいて、各城に5百人ずつを配置し、 「百済」もここに兵を派遣し合わせて衣糧を供給する。そして「新羅」の「久礼山」(現
 在の韓国慶尚北道達城郡瑜珈面の琵瑟山)の5城は降伏するだろう。そして「喙淳」(
 (「卓淳」)の国もまた復興するだろう】という記事にある。「安羅」は「現在の韓国慶
 尚南道咸安郡伽耶邑」にあり、ここと「新羅」(韓国慶尚北道慶州市)にあるから、「卓
 淳」が「韓国慶尚北道大邸市」では方向が違うということである。しかし、「昌原」と
 「咸安」の間というのも曖昧である。そればかりか「卓淳」に相当する<古名>が存在し
 ない。また「久礼山」の具体的な地を特定できてない。さらに、「欽明天皇」21年(5
 527年)条に『夏6月3日、「近江毛野臣」(おおみのけなのおみ)が兵6万を率いて
 「任那」に行き「新羅」に破られた「南加羅」、「喙己呑」(とくことん)を回復し、
 「任那」に合わせようとした』との記事がある。これから「田中俊明」は「卓淳」はそれ
 に先立って「新羅」に攻撃をうける地にあったと考える。この見解に沿って考えてみると
 、「南加羅」は「金官国」で「現在の韓国慶尚南道金海市」にある。「喙己呑」につい
 ても「現在の韓国慶尚北道慶山市」ではなく、「田中俊明」は同じく「金海市」とする (前掲書 26頁)。すると、「新羅」は遠方の「卓淳」を攻略してから、その手前の 「南加羅」・「喙己呑」を滅ぼしたことになる。どういうル−トで「卓淳」に侵攻したか
 を考えると、これについて「田中俊明」は「金 泰植」の考えを引用しながら、「新羅」は
 北の「慶州」から直ちに南下し、「彦山」、「梁山」を通って「金海」に向い「金官国」
 に侵攻したあと西進して「卓淳」に侵攻したというル−ト(これを@という)と、「慶州
 」から一度「大邸」に向かい、すぐに南下して「清道」、「昌寧」「霊山」から「卓淳
 」に侵攻したというル−ト(これをAという)の両面作戦だったということを有り得る
 とする。しかし、@は「金官国」が滅ぼされてないのだから<無理>で両面作戦は<瓦解
 >している。「田中俊明」の考えは「新羅」と「大加耶」(「加羅」)との婚姻同盟の破
 綻(『日本書紀』継体天皇23年〔529年〕3月条)した後に「新羅」が「久礼山
 (「久礼牟羅城」)〔「昌原」−「卓淳」の近辺〕を攻略してから北上して「大加耶」
 (「加羅」−「高霊」)に迫ったという(前掲書 235頁)。しかし、「新羅」が「久
 礼山」を攻略したのは<529年>のことで先の記事は<544年>のことである。す
 ると今度は「新羅」が「久礼山」を攻略したのは<529年>のことでなくともよい(前
 掲書 145頁)という。「久礼山」の具体的な位置を特定できないのに今度は年代も
 移す。とんだ【ご都合主義】だ。ここでも「金官国」を攻略できないのに、そこを通過
 して<北上>して「大加耶」を攻略するというのもオカシイ。「大加耶」を攻略するな
 ら、こんな遠回りをしなくとも「新羅」の「慶州」から「大加耶」は「大邸」を経由して
 一直線だ。こういう考えにはとうてい同意できない。「田中俊明」の地名の比定は根拠が
 示されてないものが多く(前掲書 26頁)、信頼性が薄い。
  確かに、「欽明天皇」5年11月条(544年)の記事からは、「卓淳」の方向が違う
 。これは「安羅」の記載にある。私はこれは「安羅」ではなく「加羅」の誤記ではない
 かと見ている。
 ★ 久礼牟羅城
   「鮎貝」が「包山」(慶尚北道大邸市(「卓淳」)の西南部の「洛東江」の河口方面
  を防衛する要害の地であると指摘している(「末松保和」−『任那興亡史』吉川弘文館
  1949年2月28日 141頁、「三品」−『日本書紀朝鮮関係記事考證』天山舎 2002
  年12月19日 256頁)。場所は「大邸」と「昌寧」の中間付近「玄風」(現在の韓
  国大邸市達城郡玄風面)で「琶瑟山」となろう。


◆◆◆「神功皇后」(11) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月20日(月)13時02分13秒◆◆◆
  「田中俊明」と同じような指摘をする者に「上田正昭」がいる。これは、>「荒田別」
 らを将軍とし、「久?」(百済人)と共に卓淳国に行き、新羅を襲おうとした<という記
 事があることから、これについて『伽耶諸国との交渉のはじまりが、伽耶の国々のなか
 でももっとも奥にある「卓淳」に集結した倭の軍によってなされるというのも、地理上
 よりいってはなはだ不自然である』という(『日本の歴史第2巻 大王の世紀』上田正
 昭 1973年12月25日 187頁)。これも<軍事的知識>の欠如の何物でもない「卓
 淳」は前述のとおり現在の大邸市にある。ここは「慰禮城」〔漢城〕(現在の韓国京畿道
 廣州郡廣州州邑−ソウル市近郊)に都を置いていた「百済」と「慶州」に都を置いてい
 た「新羅」ととの交通の要所に位置し、「釜山」とも「慶州」ともつながっている。現在
 でも「ソウル」と「釜山」を結ぶ「京釜線」、「京釜高速道路」もすべて「大邸市」を経
 由している。韓国の大動脈なのである。「文禄・慶長の役」でも「豊臣」軍はこの地を経
 由して「漢城」(李氏朝鮮の王都)に攻め上っている。また、この地は「百済」と「新羅」
 との緩衝地帯にあった。当時「百済」は「新羅」とも敵対関係にあり、「倭」としてもこ
 の地を拠点にすれば「百済」からの支援も仰ぎやすい。上田は「釜山」辺りが拠点とし
 て適当だといいたいのであろうが、そこは日本からの上陸地点としては適当だろうが、
 いかんせん「慶州」からは遠い。しかも、占領軍としては領土を拡大したいのは当然の
 ことで敵を攻めやすい場所に進出することは当たり前のことである。「卓淳」の地こそ対
 「新羅」戦で最適の場所であった。「神功皇后」の慧眼には恐れ入るしかない。
  それと、「卓淳」の地に行って「新羅」を征伐しながら、後で「伽耶」諸国を平定する
 のはオカシイという(前掲書 188頁)。これだって、いったん「新羅」戦に適切な地
 に進出し、それを征伐してからてから、「伽耶」諸国を平定することも決して不自然では
 ない。私は「伽耶」諸国を平定したのは、このときではなく遥か前にこの地に「倭人」
 が進出し、平定していたと考える。このことは、>倭はどこにあったのか<で、詳しく
 説明してある。
  ここの記事は、日本が「卓淳」を拠点として「伽耶」諸国を平定したことに意味があ
 る。


◆◆◆「神功皇后」(12) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月20日(月)12時59分21秒◆◆◆
  「卓淳國」の比定についての「田中俊明」らの考えがオカシイのは、「卓淳國」が彼ら
 の言う「昌原」と「咸安」の間にあったとしよう。まず、「昌原」と「咸安」の間という
 のも極めて曖昧で、こんな広い地域を「卓淳國」が支配しているはずはない。当時の国
 の支配地域はせいぜい「邑」(町)くらいの大きさに限られていた。決定的なのは、46
 年条によれば、ここから「百済」に行き来していることである。当時の「百済」は王都
 が「慰禮城」(現在のソウル市近郊)にあって、南はせいぜい忠清北道あたりを支配して
 いたに過ぎない。王都まで450キロ、忠清北道だって350キロくらいはある。当時
 の陸上の道は今のように安全ではない。こうした反論を避けるため、「田中俊明」は海路
 で往来したとするが、海路を利用したという確証などない。例え海路だとしても、そう簡
 単に行き来できるはずもない。さらに、「卓淳國王」が貴国(倭)への道を知らないと
 言っていることである。「昌原」と「咸安」は玄界灘にほど近い場所にある。海を越えれ
 ばすぐ先は「倭」である。海沿いにあるから、「倭」の情報などは伝わっていたはずで、
 道を知らないわけはない。例え「倭」が畿内にあったとしても九州は「倭」の支配下に
 あり、海を渡って九州に行けば、たちどころに「倭」への案内が立つだろう。「卓淳國」
 が「昌原」と「咸安」の間という考えは成り立つはずもない。
  「卓淳國」は「神功皇后」が「新羅」を攻略したときの拠点である。「卓淳國」は洛東
 江中流域の「新羅」に近接した要害の地で、当時の「百済」は「馬韓」諸国(現在の韓
 国全羅北道・全羅南道を支配しておらず、朝鮮半島南部の支配区域は忠清北道に止まっ
 ており、ここから「新羅」の王都「慶州」へのル−ト上に位置しており、「倭」にとって
 も「新羅」を攻略するうえで「百済」の支援を仰ぐ絶好の位置にあったのである(『日本
 古代国家形成史考』小林敏男 校倉書房 2006年8月15日 307頁)。したがって、
 「神功皇后」がこの地を「新羅」への前進基地としたのは優れた戦略であったのである。
 「田中俊明」らの前述の比定は<軍事的知識の欠如>の成せる業でもある。
  なお、これらの記事については「任那日本府」でもう一度詳しく説明する。


◆◆◆「神功皇后」(13) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月21日(火)12時53分9秒◆◆◆

6.「神功皇后」摂政50年(370年)
  夏5月、「千熊長彦」と「久氏」(百済人)とが百済より帰った。「久氏」は皇后に万世
  に至るまで朝貢することを誓われた。
7.「神功皇后」摂政51年(371年)
  春3月、百済王はまた「久氏」を遣わして朝貢した。
8.「神功皇后」摂政52年(372年)〔七支刀の献上〕
  秋9月10日、百済王の使い「久氏」は「千熊長彦」と共にやって来て、七枝刀1口、
  七子鏡一面などを奉った。
  ◆ この件は、「石上神宮」にある「七支刀」と一致する。刀には泰和4年(369年)
    とあり、「神功皇后」摂政52年は372年に当たり、刀が百済で造られてから3
    年後に献上されたことを物語っている。なお「七支刀」については項を改めて解
    説する。
9.「神功皇后」摂政55年(375年)
  百済の「肖古王」(誤りで「近肖古王」が正しい)が薨去された。
  ◆ 百済の「近肖古王」が亡くなられたのは近肖古王30年〔375年〕であるから、
    〔『三国史記』百済本紀による〕この年は375年に当たる。


◆◆◆「神功皇后」(14) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月21日(火)12時46分55秒◆◆◆

10.「神功皇后」摂政62年(382年)
  新羅が朝貢しなかった。そこで、「襲津彦」(そつびこ)を遣わして新羅を討った。
  「百済記」によると、日本は「沙至比跪」(さちひく−「襲津彦」と同一人物か)
  を遣わせて討たせた。新羅は美女2人で「沙至比跪」を篭絡し、彼は新羅を討たず
  して加羅国を討った。そのため、加羅国王は民衆を連れて百済に逃げた。天皇はそ
  れを聞いて激怒され、「木羅斤資」を遣わして加羅国を復興した。ある説によると、
  「沙至比跪」は天皇の怒りを恐れて帰国せず、岩穴に入って死んだという。
11.「神功皇后」摂政64年(384年)
  百済の「貴須王」(第13代「近仇首王」〔在位375年〜384年〕)が薨去された。
  王子「枕流王」が王となった。
  ◆ 百済の「近仇首王」が亡くなられたのは近仇首王10年〔384年〕であるから、
    〔『三国史記』百済本紀による〕この年は384年に当たる。
12.「神功皇后」摂政65年(「応神天皇」3年)(385年)
  百済の「枕流王」(在位384年〜385年)が薨去された。
  王子「枕流王」が王となった。王子「阿花」(阿辛〔正しくは、くさかんむりがつく−
  以下同じ〕)が幼少だったので、叔父の「辰斯」(しんし)が位を奪って王となった.
  ◆ 百済の「近仇首王」が亡くなられたのは近仇首王10年〔384年〕であるから、
    〔『三国史記』百済本紀による〕この年は384年に当たる。また、叔父の「辰斯」
    が王位を簒奪したのも『三国史記』百済本紀の記述(第15代「辰斯王」条)と
    合致する。
  この年、百済の「辰斯王」(第15代)が即位した。貴国(日本)の天皇に対して礼
  を失することをした。そこで、「紀角宿禰」(きのつのすくね)、「羽田矢代宿禰」(はや
  のやしろのすくね)、「石川宿禰」(いしかわのすくね)、「木莵宿禰」(つくのすくね)
  を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。それで百済国は「辰斯王」を殺して陳
  謝した。「紀角宿禰」らは「阿辛王」(第16代)を立てて王として帰ってきた。
  ◆ 百済の「辰斯王」が即位したのは385年である(『三国史記』百済本紀の記述〔第
   15代「辰斯王」条〕)である。また、「阿辛王」(第16代)が即位したのは39
   2年である。ただ、『三国史記』百済本紀の「辰斯王」条によると、王は狗原で狩
   をしたが、帰って来なかった。狗原の行宮で亡くなったという記録がある。
   この辺の記事も『三国史記』百済本紀と合致する。


◆◆◆「神功皇后」(15) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月22日(水)19時49分38秒◆◆◆

 このように、「神功皇后紀」の朝鮮に関する記事が朝鮮側の史料と合致することは、史実であったと考えられよう。
 これに対して、次のような反論が提起されている。
1.第14代「仲哀天皇」9年(320年)(神功皇后摂政前紀)〔『日本書記』卷第九〕(新 羅征伐−「三韓征伐」)
  ここでは、これを否定する「津田左右吉」の見解を挙げなければなるまい(『日本古典
 の研究』(津田左右吉全集 第1巻)岩波書店 1963年10月17日 87頁)。
@ 神功皇后の「三韓征伐」の『日本書記』の記事には、後人の添加したところがすこぶ
 る多い。『古事記』も歴史的事実を語っていない。
〈1〉神功皇后の記事では、「新羅」のことを、金銀の国・宝の国などと称しているが、
  「新羅」の文化水準は4世紀代には日本とそれほどの違いはなく、それが発達するの
  は6世紀初期以降のことであるから、この記事の成立は4世紀代に作られたものでは
  ない。
〈2〉神功皇后の記事での「新羅王」の降伏の言葉に出てくる「阿利那礼河」(そりなれ
  かわ)の名が出てくるが、これは現在のソウルを流れる「漢江」であって、「新羅」が
  この地を支配するのは新羅24代王「真興王」(在位 540年〜576年)のこと
  である。したがって、神功皇后の「三韓征伐」の記事はそれ以後に創作されたもので
  ある。
〈3〉神功皇后の記事での「新羅」征伐について、「任那」を経由せずに直接、海から「新
  羅」に攻め入っている。これは「任那」が滅亡した562年以降に作られたものであ
  ることを物語っている。(ここのところがとても強調されている−神功皇后の「三韓征
  伐」の<虚偽性>はここにあると言ってよい)。
〈4〉神功皇后が「新羅」征伐の際に、「百済」、「高句麗」も「倭」に帰服したというが、
  「百済」が「近肖古王」のときから「倭」の保護を得ようとしたのは事実であるが、
  それよりも前に「倭」に帰服したということはない。その「近肖古王」のときの事実
  を神功皇后のこの記事のなかに挿入したのである。また、「高句麗」が「倭」に帰服
  したことはなく、潤色を加えたものである。
A 日本の対韓経略の初期に一時新羅を征服したのは事実であるが、神功皇后の「三韓征
 伐」伝説自体は、事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、
 恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、物語として構想されたものらしい。
B 5世紀末期以来、新羅が強大になり、日本の朝鮮半島支配が動揺してきたため、日本
 の朝鮮半島に対する支配権、特に新羅に対する優越性を歴史的に基礎づけることが必要
 とされたことから、作り出された物語である。つまり、継体・持統朝に創作されたもの
 である。


◆◆◆「神功皇后」(16) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月23日(木)13時15分50秒◆◆◆

 「直木孝次郎」は「津田左右吉」の見解を承継したうえで、次のことを付け加える。
(「神功皇后伝説の成立」〔『古代日本と朝鮮・中国』講談社[講談社学術文庫 845] 1988年9月10日 80頁〕)。
@ 神功皇后の記事での「新羅」征伐で、「新羅王」が一戦も交えず降伏していることは、
 「推古朝」31年(623年)の「(日本の)将軍たちが「任那」に至り、相談して「新
 羅」を討伐しようとした。「新羅王」は大軍がやって来ると聞き、恐れてすぐに降伏する
 ことを願い出た。」と類似している。神功皇后の記事での「新羅」征伐は、この推古天皇
 紀の話を真似して導入したものである。
A 「香椎宮」は、『日本書記』の「仲哀天皇」9年条(320年)(神功皇后摂政前紀)、
 春2月、天皇は筑紫の「橿日宮」(香椎宮)で崩御されたとの記事で見られる。この地は
 「新羅征伐」の発端となった重要なところである。しかし、これが再び現れるのは、『続
 日本紀』(天平9年〔737年〕4月乙己(1日)条に、「夏4月、使者を筑紫の「香椎
 宮」に幣帛(みてぐら−供物)を奉り、「新羅国」の無礼なことを報告した。」その後、
 天平勝宝3年〔752年〕8月巳亥(6日)条、同6年〔755年〕11月庚寅(16
 日)条、で、それまで420年弱、「香椎宮」が記録に現れない。このことは奈良時代に
 なって初めて政府の遣使・奉幣を受けたと解釈でき、これを神功皇后の「新羅」征伐の
 記事に挿入したと考えられる。


◆◆◆「神功皇后」(17) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月23日(木)13時14分42秒◆◆◆

 「池内 宏」は、次のように述べる(前掲書 31頁)。
@ 神功皇后の新羅征伐に関する地理上の記載がない。
A 神功皇后の新羅征伐に関する戦闘の記載がない。
B 神功皇后に降伏を願い出た新羅王「波沙寐錦」(「寐錦」は王の意味)は5代王の「婆
 娑尼師今」(在位 80年〜112年)で、伝説上の人物であり、これに関する伝承を
 神功皇后の「三韓征伐」に挿入したもので、後世の造作である(前掲書 45頁)。ま
 た「波沙寐錦」を一書を引いて「宇流助富利智干」とするが、これに該当する「新羅
 王」はいない(前掲書 49頁)。

 「水野 祐」は、次のように述べる(『日本古代の国家形成』講談社〔講談社現代新書 128〕1967年10月16日 164頁〕)。
 「神功皇后」の「三韓征伐」は「斉明天皇」7年(661年)1月6日の「新羅」出兵の挫折(天皇薨去により断念)を遠い過去に反映させ、そこでは「神功皇后」による「三韓征伐」の完成という形を採り、7世紀の現実における理想像を過去因としてここに描き出したのである。

 その他にも「山尾幸久」(「『日本書紀』のなかの朝鮮」〔『共同研究 日本と朝鮮の古代史』〕吉田 晶・鬼頭清明など 三省堂 1979年4月25日 121頁)など(「倭の五王の時代と登場人物」近江昌司〔『倭の五王の謎』近江昌司・飯島吉晴 学生社 1993年6月25日 11頁〕、「神功・応神伝説に秘められたもの−神功皇后は卑弥呼か−」松村一男 同58頁)があるが、前述の者たちと大同小異なので省略する。


◆◆◆「神功皇后」(18) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月24日(金)13時06分46秒◆◆◆

 これに反論する。まず、「津田左右吉」の見解について述べる。
@〈1〉
  神功皇后の「三韓征伐」の320年頃は、まだまだ「新羅」が日本と比べて文化が高
 かったことは、「新羅」から出土する文物からもうかがえる。当時、それ以前からも「新
 羅」は「倭」と戦闘を交えていたことは『三国史記』新羅本紀の記事からも明らかであ
 る。戦争といえば「武器」であるが、「武器」のなかの「鎧」を見てみると、朝鮮のもの
 は「桂甲」と言って、鉄製の鎧(甲)で、小さくて細長い鉄板を縦に並べ、革紐・組紐
 でつなぎ合わせたものである。騎馬用に使用されていたと考えられている。これは北方
 民族から伝わったもので、「高句麗」に最初に伝来したとされ、「三室塚」の壁画には「騎
 馬甲冑武装」の人物が描かれている(『韓国の考古学』金 廷鶴 河出書房新社 1972
 年8月30日 236頁)。これは朝鮮半島南部にも伝えられ、古墳から出土している。
 「新羅」からは、「九政洞」(慶州の郊外)から同じようなものが出土している。時代は
 4世紀前半ころといわれている(『韓国の古代遺跡 T新羅編(慶州)』森 浩一 中央
 公論社 1988年7月20日 52頁)。こうした「鎧」が日本に伝来し、さらに改良され
 て、それまで革紐・組紐でつなぎ合わせたものが「鋲」でつなぎ合わされている「鉄製
 三角板鋲留甲冑」が「黒姫山古墳」(大阪府)から出土しており、同じようなものが「上
 栢里古墳」(韓国の慶尚南道咸陽郡水東面上栢里)から出土している(「南部朝鮮出土の
 鉄製鋲留甲冑」穴沢和光(正確には、口+禾)・馬目順一〔『考古学からみた 古代日本
 と朝鮮』西谷 正 学生社1978年12月20日 132頁〕)。その他「冑」についても
 同じである(同110頁)。こうしたものは戦闘の連続のなかで互いに進化して発達した
 ものであることは説明するまでもない。以上、「鎧」・「冑」を例に取って説明したが、「
 武具」に限らず他の文物についても同じであろう。『三国志』魏志 東夷伝辰韓・弁韓
 条に「土地肥美。宜種五穀及稲。暁蠶桑作?布」とある。「辰韓」とは新羅のことをいう
 が、ここでは養蚕(蠶桑)を行い、絹(?)を生産していたことがうかがえる。日本と
 の密接な関係から日本にも輸入されたであろう。文化の水準はどちらが高かったかにつ
 いては即断しかねるが、「新羅」の文化水準は4世紀代には日本とそれほどの違いはない
 などと言うのはいかがかと思われる。
  「朴 天秀」はこれまで「加耶」産と考えられていた5世紀末の「鉄?」・「金銅製装身
 具」・「馬具」・「武具」・「武器」は<新羅産>であるとしている(『加耶と倭−韓半島と
 日本列島の考古学−前方後円墳』講談社〔講談社メチェ398〕朴 天秀2007年10月
 10日 134頁)。


◆◆◆「神功皇后」(19) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月24日(金)13時04分25秒◆◆◆

@〈2〉
  「阿利那礼河」は、慶州の北部を流れる「閼川」(北川)であって、「漢江」ではない。
@〈3〉
  確かに、当時「任那」は日本の支配下にあったが、日本から大軍を動員して「新羅」
 を攻めるのは、一度、朝鮮半島南部(金海付近)に上陸してそこから長い距離を北上し
 て内陸部を行軍して「任那」に至り(当時の「任那」の本拠地は「卓淳」〔韓国の慶尚北
 道大邸市−「新羅」の王都「慶州」から北西約70キロ、「金海」から北へ120キロ〕)、
 そこから、「慶州」に往くことになる。そんなことをするより、日本よりいったん「金海」
 (当時は「金官加耶」があった)に停泊し、そこから海づたいに「慶州」の北東の「迎
 日湾」(現在の慶尚北道浦項)に上陸し、南西20キロのところにある「慶州」に攻め入
 る方がより効率的である。
@〈4〉
  「百済」の帰服については、「百済」が神功皇后の「三韓征伐」の320年頃も含めて
 長年「高句麗」と戦争を繰り返していたことは『三国史記』の記事からもうかがえる。
 それを考えれば、この時代から「百済」が「倭」に保護を求めていたことは十分に考え
 られよう。一方「高句麗」であるが、これは「倭」に帰服したことはなく、潤色を加え
 たものであろうが、これだけのことを以って、「百済」が神功皇后の「三韓征伐」の記事
 が虚構に満ちていたとするのは早計であろう。
A・B
  〈1〉神功皇后の「三韓征伐」の記事は、前述の『三国史記』新羅本紀の記事にも合
    致する。これが前述のとおり、奈勿王(第17代王)の子、未斯欣(ミキシン)
    人質であるが、「朴時亨」は、1.この時期は「新羅」が「倭人」を撃退しており、
    人質を「倭」に出す必要がなかった、2.「倭」(実体は海賊)が人質を20年も
    生かしておくことが有り得ない、としたうえで、『三国史記』新羅本紀の記事は<
    誤伝>だという(『広開土王陵碑』そしえて 1985年8月1日98頁)。しかし、
    当時の「新羅」は「高句麗」にも攻められ「実聖」を人質として差し出し(39
    2年)、北部の日本海側の「靺鞨」にも侵略され(395年)、もちろん「倭」に
    も「王城」(慶州)を5日間も包囲されている(393年)。何としてでも「倭」
    を認めたくない<妄想>の為せる業である。
  〈2〉前述のとおり、神功皇后の「三韓征伐」の<伝承>は長い間、人々の中に伝え
    られて来たものであって、『日本書記』の編纂時期に編纂者が創作したと考えるの
    は無理がある。


◆◆◆「神功皇后」(20) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月26日(日)14時17分50秒◆◆◆

 次に、「直木孝次郎」の見解について述べる。
@ 同じ記事があるからといって、これが同一の事実であると決め付けるのは根拠がない。
A 「直木孝次郎」も述べているように(前掲書 81頁)、「香椎宮」のことは中央政府の
 人々の記憶には残されていたが、『日本書記』や『続日本紀』に記録されないことも十分
 に考えられる。
 「池内 宏」の見解について述べたいが、これはBを除けば「津田左右吉」のものと大差
 ないので、省略する。Bについては後述する。
 最後に、「水野 祐」の見解について述べたい。
  「神功皇后」が「斉明天皇」の化体であるならば、どうして「神功皇后」を天皇にし
 なかったのであろうか。また、「斉明天皇」は筑紫の朝倉宮で急死しているが、神功皇后
 伝説で亡くなったのは「仲哀天皇」で男帝であり、相違がある(『ヤマト王権の謎をと
 く』塚口義信 学生社 1993年9月25日 53頁)。

  何よりも前述のとおり、『記紀』のみならず、その他の史料にも「神功皇后」の「三韓
 征伐」に関する伝承が記されている。『日本書記』の編者が「神功皇后」の史実を<造作
 >したなどということが有り得るだろうか。当時、「神功皇后」の「三韓征伐」は疑いの
 ないものとして信じられて来たのである。特に注目すべきは、前述の『常陸国風土記』
 行方郡条の「息長足日売の皇后(おきながたらしひめ−神功皇后)のとき、この地に「古
 都比古」(こつひこ)という人がいた。三度韓の国に遣わされた」という伝承である。こ
 のような都から遠く離れた地にまで、「神功皇后」の「三韓征伐」の伝承が存在していた
 のである。現在「風土記」はほとんど失われているが、他の地域にも同じような伝承が
 あったと思える。したがって、これらの者の見解は採用できない。

  それでは「神功皇后」はどうして「三韓征伐」を行ったのであろうか。「神功皇后」が
 「三韓征伐」をして、初めて「朝鮮半島」に拠点を持ったとは考えてはいけない。>倭
 はどこにあったのか<で詳しく説明したが、「倭」(日本)はその遥か前から「朝鮮半
 島」の南部に拠点を有し、数多くの人たちが居住していたのである。ところが、それを
 「新羅」が排除しようとしたから「神功皇后」が「三韓征伐」をしてその権益を守った
 のである(『倭の五王の謎』安本美典 講談社〔講談社現代新書637〕1981年12月
 20日 213頁)。


◆◆◆「神功皇后」(21) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月29日(水)13時07分7秒◆◆◆

2.「神功皇后」摂政5年(333年)
  さすがにここは<創作>であるという者を見出せなかった。『三国史記』に2度にわた
 り、『三国遺事』にも同じような記事があり、合致する記事が存在するからであろう(
 『日本書記朝鮮関係記事考證』上巻 三品彰英 天山舎 2002年12月19日 77頁)。
3.「神功皇后」摂政46年(366年)
  この時代は、百済第12代「近肖古王」〔在位347年〜375年〕の時代で、『三国
  史記』にも、初めて「国史」を編纂したとの記事がある。したがって、朝鮮人研究者
  もこの時代からの記事は正確性があると認めざるを得ない(『任那と日本(日本の歴史
  別巻 1 小学館 1977年10月1日 167頁』)。そして、『日本書記』もこの「国
  史」を参考に記述されたと考えている(同頁)。したがって、この記事には反論がない。
  特に本条には「甲子年7月」とあり、それはここの記事が朝鮮側の史料を引いてのも
  のと考えられるからである。
   朝鮮人研究者が本条の記事を認めるのは、「神功皇后」が「卓淳国」に遣使したとい
  うだけで<平定>したなどという記録がないから認めているだけだと考えている。

   ここで、この時代の朝鮮の「百済」の王統を『三国史記』と『日本書記』で見てみ
  たい。
〈1〉『三国史記』

   13代       14代     15代      17代     18代
   近肖古王    近仇首王   枕流王     阿辛王     腆支王

             16代
             辰斯王


19代      20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

〈2〉『日本書記』

   13代     14代     15代      17代     18代
   肖古王    貴須王     枕流王     阿辛王    腆支王
  (近肖古王) (近仇首王)
16代
辰斯王


19代      20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

   ここでは、第20代「昆有王」と第21代「蓋鹵王」の系譜が明確ではない。
   なお、「蓋鹵王」も含めてそれ以降の王統については、『日本書記』と『三国史記』
  では大きく異なっている。それについては「任那日本府」の項を参照されたい。
 ※ 第7代「沙伴王」(第6代「仇首王」の子−在位期間不明)が即位したが(『三国史
  記』第7代「古爾王」)、そこには「幼いために政事を執ることができなかったので、
  (第5代)「肖古王」の母の弟である「古爾」が即位したとあり、「沙伴王」の事績に
  ついては全く記されておらず、その後のことも不明であって本当に即位していたかど
  うかについて疑問がある。したがって、王統については第7代「沙伴王」を省いて記
  すことにする。

★ 罫線が消えてしまっているので、補足する。
 1.『三国史記』
  @ 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている。
  A 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である。
  B 18代→21代も父子承継となっている。
 2.『日本書紀』
  @ 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている−『三国史記』と同じ。
  A 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である−『三国史記』と同じ。
  B 18代→20代も父子承継となっている−『三国史記』と同じ。
  C 21代は系譜が不明である。つまり、20代との関係は不明となっている。
▲ ここが大きく違っている。


◆◆◆「神功皇后」(22) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月30日(木)12時13分8秒◆◆◆

  ところで、46年条に、「日本」、「貴国」という表現があることが大きな問題となって
 いる。これが「46年条」を<虚偽>である根拠となっている。これについて考える。
 @ 「日本」
  「日本」という国号が使われたのは、まず『日本書記』に「日本」とあり、『日本書
  記』は720年に完成されたのであるから、奈良時代の始めには「日本」という国号
  が成立していたのは間違いない。ところで、同じ頃に編纂された『古事記』では「倭」
  (やまと)と表記されており、『日本書記』と『古事記』とでは異なるが、「日本」も
  同じく「やまと」と読まれていた。『日本書記』(巻一 神代 上〈第六〉)に「大日
  本豊秋津島」と書いて、「おおやまとあきつしま」と読ませている。なお、中国では「
  倭」と呼んでいた。このことは、後漢の「光武帝」の「倭奴国王印」(57年)でわか
  る。
   『唐暦』(「唐」の「代宗」〔在位762年〜779年〕)にも「日本国は倭国の別
  名なり」と記されている。これより古い資料としては、『史記正義』(「唐」の「張守節」
  が736年に撰した書)に「武后、倭国を改めて日本国と為す」との記事がある。2
  004年10月に中国で発見された、遣唐使の「井真成」の墓誌(734年に死亡)
  に「国号日本」とあるから、このことが裏づけられる。
   日本側の記録としては、704年(慶雲元年)に帰国した「粟田真人」の報告に「
  日本国の使い」と記されている(『続日本紀』文武天皇慶雲元年秋7月1日条)。
   日本で正式に「日本」という国号が使われたのは、『大宝令』(738年)のことで、
  そこには「明神御宇日本天皇」(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこ
  と)を詔書に使うとあることから、元号も「日本」としたとされる(『「日本」とは
  何か−国号の意味と歴史』神野志隆光 講談社〔講談社現代新書 1776〕21頁)。


◆◆◆「神功皇后」(23) 投稿者:解法者 投稿日:2010年 9月30日(木)12時11分50秒◆◆◆

   それでは、正式に「日本」という国号が使われる遥か前の46年条に、「日本」と記
  したのは、どうしてであろうか。それは「倭」と呼ばれていたことに対し、「日の出る
  ところに近い東の国であるという誇りがあり、「倭」がその東の神国であるとし、「日
  の出るところの本国」との意味として使用したものであり、朝鮮側もそれを受入れた
  ものと考えられよう(『中外経緯伝』伴 信友〔『伴信友全集(第3巻)』ぺりかん社1977
  年復刻−神野志隆光 前掲書 37頁〕)。つまり、この時代から「倭」を「日本」と
  呼ぶ素地があったのである(「『三国史記』『三国遺事』の史料的価値」井上秀雄〔「『ゼ
  ミナ−ル 日本古代史 下』光文社 1980年1月30日483頁〕)。したがって、『日
  本書記』の撰者が46年条に「日本」と記したことは決して不可解なことではない。
 A 「貴国」
  これについては「「百済三書」と『日本書記』」の項でも説明するが、ここでの説明を
 補足するために再掲したい。
  これについて、百済人が百済の記録に日本を貴国と書くはずがないとして「津田左右
 吉」はこれを『日本書記』の改竄としている。「池内宏」は百済の記録に「倭」とか「倭
 国」とかあったのを『日本書記』の編者が「貴国」と書き改めたとする(前掲書36
 頁)。
  「貴国」という用語は『百済記』だけでなく『日本書記』の本文にも使われている。「
 坂本太郎」は、『編者がまず『百済記』の「倭」を「貴国」と改め、ついで本文にも「貴
 国」と書くほど手のこんだ修正を加えるはずがない。また編者のしわざならば、「貴国」
 が神功・応神紀だけで消えてしまうのもおかしい。すべてこれらの修正は『百済記』以
 下の書物の編者のしわざであり、『日本書記』の編者はすなおにそれを取り上げたのに過
 ぎない』という(「継体紀の史料批判」〔『日本古代史の基礎的研究 上文献編』東京大
 学出版会 1964年5月30日 256頁〕)。そのとおりだと思う。
  これについては、「貴国」という表現は、『百済記』の編者が日本側にこの『百済記』
 を見せることを考慮して、そこに記載されていたと考える。そう考えれば、おかしくは
 ないし、「百済」側としても、謙って(へりくだって)も「日本」との和親関係をむすび
 たかったのである。このことは「神功皇后」紀の一連の記事に明らかであろう。


◆◆◆「神功皇后」(24) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 1日(金)13時20分55秒◆◆◆

  ところで、「百済」の「卓淳國」への遣使の目的は何だったのであろうか。これについ
 て、「倭国」との通交は第二義的で、「卓淳國」との親和関係の確立が第一義的だったと
 し、その理由として、「欽明天皇」2年(541年)条の百済の第25代「聖明王」の
 言葉で、『昔、「速古王」(第12代「近肖古王」−在位期間346年〜375年)と「
 貴須王」(第13代「近仇首王」−在位期間 375年〜384年)の時代に、「安羅」、
 「加羅」、「卓淳」と始めて使節を交換し親交を結んだ』という記事があることを挙げて
 ている(「吉田 晶」−前掲書 100頁)。そして、「百済」の建国は「近仇首王」のと
 に始まり(「百済史料としての七支刀銘文」木村誠〔『人文学報』306号東京都立大
 学人文学部 2001年〕)、百済の積極的な南下政策の証であるとする(「吉田 晶」−前掲
 書 101頁)。しかし、「卓淳國」は「神功皇后」が「新羅」を攻略したときの拠点で
 あり、「倭」が支配していたのであるから、「倭」の同意なくして親交できるはずもない。
 つまり、「倭」との親交なくして「卓淳國」との親交はないということである。「吉田 晶」
 の考えは採り得ない。「百済」の意図が「卓淳國」にあるのせよ、やはり「倭」との親交
 の確立が第一義的だったのである。『日本書紀』を素直に読めば、これが正しいことは容
 易に理解できよう。
  また、この条に、百済の使者として「久?」・「弥州流」・「莫古」の名が出てくる。彼
 らは実在の人物に間違いない。「久?」はこの後、何度も「神功皇后」紀に出てくる。「
 弥州流」も47年条に1回だけ出てくる。おそらく「久?」を補佐する人物だろう。「莫
 古」は『三国史記』百済13代王「近仇首王」(在位375年〜384年)の即位前紀
 に、百済の将軍として出てくる「莫古解」と同一人物とみてよい。こうしたことからも、
 46年条は事実を伝えるものと考えられる。


◆◆◆「神功皇后」(25) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 3日(日)13時55分17秒◆◆◆

4.「神功皇后」摂政47年(368年)
  ここの話は、『日本書記』垂仁天皇2年条に、同じく任那の王に天皇が贈物をしたが、
 途中でこれを新羅の人が奪うというものがある。また、『日本書記』応神天皇14年春2
 月条に、百済王が縫衣工女を天皇に奉ったが、途中で新羅人が邪魔をして加羅国に止ま
 っているとの記事とも類似している。ここのことから、『日本書紀』の編者が常に「新羅」
 を敵対的な国として叙述していることであり<造作>記事だとする(「吉田 晶」−前掲
 書107頁)。『日本書記』を比較・検討してみるに、ここの記事は、垂仁天皇2年条
 の話を蒸し返したものと考えるべきではなく、新羅との抗争関係のなかで繰り返し起き
 ていることを記したものと考えるべきであろう。垂仁天皇2年条は「新羅」に奪われた
 のは、「倭国」から「任那王」に贈られた「赤絹100匹」であり、それで、「任那」と
 「新羅」の抗争の始まりだとしており、応神天皇14年条は、「百済」の使者が自国の1
 20県の人夫を率いて日本に渡来しようとしたところ「新羅」の妨害に遭って「加羅」
 に留まったとあり、内が異なる。摂政47年も含めて別々の事件と見てよかろう。
  ここで、一言付け加えておきたいことがある。こういう者は常に記事が重複すると<
 造作・捏造>だという。ならば、『三国史記』新羅本紀はどうだろう。これとは比較にな
 らないくらい「倭」に侵略されている。これは『三国史記』の編者による<造作>であ
 ろうか? そんなことはなかろう。『三国史記』の記述から見ても「新羅」と「倭」とは
 不倶戴天の敵であった。それは何も『三国史記』に限らず、「広開土王碑」でも明らかで
 ある。史料の比較・検討を怠り、重複すれば何もかも<造作>などと言うことは厳に慎
 まなければならない。


◆◆◆「神功皇后」(26) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 4日(月)13時11分13秒◆◆◆

5.「神功皇后」摂政49年(369年)
  ここの史実性が大変問題となっている。<造作>だと指摘するものが大変多い。その
 代表的な者が「山尾幸久」である(『古代の日朝関係』塙書房〔塙選書 93〕1989年4
 月10日 113頁)。その他にも「田中俊明」(前掲書 192頁)、「吉田 晶」(前
 掲書 111頁)があるが、「山尾幸久」のものと大同小異であるから、彼の分析を考察してみる。記事は次のものに分けて考えられるとする。
@ 「荒田別」(あらたわけ)と「鹿我別」(かがわけ)を将軍にして、「久?」
 (くてい)〔百済人〕らと共に(朝鮮に)渡る。ある人が「兵士が少なかったので、新
 羅を討つことができない。「沙白」(さはく)、「蓋盧」(こうろ)〔いずれも「卓
 淳」の人だろう〕を天皇に仕えさせて兵士を増やすことを図りなさい」と言われた。そ
 こで、「木羅斤資」(もくらこんし)、「沙沙奴跪」(ささのこ)(この二人は姓が知
 れない。ただ、「木羅斤資」は百済の将軍である)に命じて、「沙白」、「蓋盧」と共
 に「卓淳」に集まって、新羅を討った。
A 「比自本」(ひしほ)・「南加羅」・「喙国」(とのくに)・「安羅」・「多羅」・「
 「卓淳」・「加羅」の7カ国を平定した。兵を西に動かして「古奚津」(こけのつ)に
 至った。南蛮の「忱弥多礼」(とむたれ)〔「済州島」−「耽羅」(たむら)[「継体
 天皇」2年12月条]〕を破った。その地を「百済」に与えた。「百済」の「肖古王」
 (「近肖古王」)と王子の「貴須」(「近仇首王」)も軍を率いてやって来た。「比
 利」、「辟中」(へちゅう)、「布弥支」(ほむき)、「半古」の4つの邑も自然に従
 ってきた。「百済」の王父子および「荒田別」、「木羅斤資」
 などと共に「意流村」(おるすき)で会い、互いに顔を見合わせて喜び合い、厚く敬っ
 て(「百済」の王父子が「百済」に帰国するのを)見送った。
B 「千熊長彦」と百済王は「百済国」に行って、山に登って西蛮(西の野蛮国−「百済」
 をへりくだった言い方)として、長年、春秋に朝貢しようと誓った。そして「千熊長彦
 彦」を都に連れていき、厚くもてなし、「久?」を付き添わせて日本に帰国させ
 た。

  @は「倭」が「百済」と協力して南部朝鮮に侵攻してきた「新羅」と戦って「7カ
 国」を平定した、Aは朝鮮西部に進攻してこの地域を「百済」の領土として賜与した、
  Bは「百済」が「倭」に朝貢という形で従属的同盟を盟約した、というものである
 (「吉田 晶」−前掲書 111頁)。


◆◆◆「神功皇后」(27) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 4日(月)13時04分53秒◆◆◆

  「山尾幸久」はこの3つが、46年条・52年条とつながりが悪いという(前掲書 1
 14頁)。52年条はあの有名な「七支刀」など奏上である。しかし、彼の頭の中からは、
 47年条、50年条、51年条が<スッポリ>と抜け落ちておる。これはこれらが創作
 だというのである(前掲書 115頁)。こんなの当たり前だろう。これが<創作>な
 らば、つながりが悪いのは当たり前だ。「神功皇后」のこれらの一連の記事はつながって
 いるのであって、途中が抜ければ<つながりの悪い>のは当然だ。彼の言いたいのは、
 この49年条も<創作>だと言うのである。こんなの全く論拠にはならない。
  47年条は、新羅が日本と百済との和親を妨害した。だから、49年条で新羅を征伐
 することになった。50年条はこの49年条のBを受けて、百済人「久?」が万世に至
 るまで朝貢することを誓ったとあり、「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)が「百済」で
 同じことをしたから、これも当然のことである。<見事>に記事はつながっている。


◆◆◆「神功皇后」(28) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 4日(月)13時03分48秒◆◆◆

  「山尾幸久」はさらに「49年条」が創作である理由として、次のものを挙げる。
 @ 「49年条には、二重性・重複がある。それは「荒田別」と「鹿我別」という日本
  の伝統的人物の出征譚を付け加えたこと。および「千熊長彦」立会いのもとでの百済
  王の二山での誓盟を創作したことによる。それらを取り去って49年条を改めて見て
  みると、そこには「百済」の将軍「木羅斤資」が主人公然で立ち現れる。百済の将軍
  神功皇后または倭王の命令で、ヤマトから渡海して朝鮮半島に出征し、また戻ってき
  ている(『日本書記』応神天皇25年条に『百済記』の引用として、彼が再度ヤマトか
  ら渡海している)。このような非歴史的・非合理的な話を了解することはできない。
 A 「千熊長彦」が唐突として現れる。47年条では、彼は新羅への問罪使として任命
  されたことになっている。47年条で『百済記』を引用し、彼を「職麻那那加比跪」(ち
  くまななかひこ)ではあるまいか、としている。ところが、49年条では彼のことを
  姓が知れない。ただ、百済の将軍であるとしている。この2つはつながらない。とい
  うことは「千熊長彦」を作文して、神功皇后紀に挿入したことを示している。
 B 49年条が『百済記』に基づく確かな史実を踏まえた叙述ならば、これを応神天皇紀
  に編成しても良かったはずである。しかし、それがなされてない。それは、「神功皇后」
  にまつわる伝承が存在しており、これを『日本書記』に挿入しなければならなかった
  のである、その伝承こそ〈1〉海神たる「住吉大神」が彼女に助勢して海外に国土を
  領有した、〈2〉彼女が「神の妻」であり、その胎中なる日の御子にその国土を与えた、
  というものである。つまり、この伝承を「神功皇后」紀をわざわざ創作し、無理やり
  挿入したのである。


◆◆◆「神功皇后」(29) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 6日(水)12時18分24秒◆◆◆

 これに反論する。
1.百済の将軍「木羅斤資」が天皇の命に従って行動するのは不可解であるが、『日本書記』
 応神天皇25年条に『百済記』を引用して、「木羅斤資」の子である「木満致」(もくま
 んち)は父が新羅を討ったときに、その国の女を娶って産んだ子である。父の功により
 任那の実権を握った。わが国(百済)に来て、日本との間を行き来した、とある。この
 ことは『百済記』の引用からして事実であろう。このことは何を意味するかといえば、
 「木羅斤資」は百済の将軍であったが、日本と百済との友好関係により共通の敵「新羅」
 を攻めたが、その際に日本の指揮下に入ったと考えても少しもおかしくない。こうした
 功績があったからこそ、日本はこれに報いてその子の「木満致」を重用したのである。
2.「千熊長彦」 確かに49年条に唐突に現れる。しかし、「荒田別」と「鹿我別」は日
 本の将軍、これに対して「千熊長彦」は「山尾幸久」も指摘するように「新羅への問罪
 使」である。つまり、政治家である。新羅との戦いが終れば、将軍は用済みである。「
 百済」との折衝を「千熊長彦」が行うのは当然であろう。良く考えてみれば、彼の登場
 は決して<唐突ではない>。
3.「神功皇后」の挿入 これは「神功皇后」紀全体の問題である。これについては最後に
 説明することにするが、「山尾幸久」の言わんとするところは、「49年条」が創作であ
 るというにあるから、これについて述べる。
  「神功皇后」摂政46年(366年)
   「斯摩宿禰」を卓淳国に遣わした。その前年に卓淳王「未錦旱岐」の元に、百済人
   がやって来て日本に行きたいが、道がわからないと言ったので、卓淳王が「斯摩宿
   禰」に日本から使者がやって来たら教えて欲しい」と伝えた。そこで、「斯摩宿禰」
   は従者の「爾波移」(にはや)と「過去」(わこ−卓淳の人)を百済国に遣わし、王
   は彼を厚くもてなした。
                   ↓
  「神功皇后」摂政47年(367年)
    百済王「近肖古王」は使者を遣わして朝貢した。このとき、新羅の使いも一緒に
   来た。皇后が貢物を見ると新羅の物が豪華であるのに百済の物が貧弱であった。そ
   こで、百済の使者に尋ねると彼は途中で貢物を新羅に奪われてしまったことを告白
   した。皇后は怒り「千熊長彦」を新羅に遣わし、そのことを責めた。
                   ↓


◆◆◆「神功皇后」(30) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 6日(水)12時17分1秒◆◆◆

  「神功皇后」摂政49年(369年)
    皇后は将軍を「卓淳国」に遣わし、さらに兵の不足を補うため「木羅斤資」を
   遣わし新羅を討った。それにより「比自本」など7カ国を平定した。
                   ↓
   兵を西に向けて、南蛮の「忱弥多礼」を攻略し、これを「百済」に与えた。
                   ↓
    「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)と王子の「貴須」(「近仇首王」)も軍を率い
   てやって来た。「比利」など4つの邑も自然に従ってきた。
                   ↓
    「百済」の王父子および「荒田別」、「木羅斤資」などと共に「意流村」で会い、
   互いに顔を見合わせて喜び合い、厚く敬って「百済」の王父子が「百済」に帰国す
   るのを)見送った。
                   ↓
    「千熊長彦」と百済王は「百済国」に行って、王が二山に登って、長年、日本に
   春秋に朝貢しようと誓った。そして「千熊長彦」を都に連れていき、厚くもてなし、
   人を付き添わせて日本に帰国させた。
                   ↓
  「神功皇后」摂政50年(370年)
    「百済」の使者が始めて日本にやって来て、永遠に朝貢することを誓った。
                   ↓
  「神功皇后」摂政51年(371年)
    「百済」の同じ使者が日本にやって来て、再び朝貢することを誓った。この使者
   につけて遣わした「千熊長彦」に対し、「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)と王子
   の「貴須」(「近仇首王」)は再び朝貢することを誓った。
                   ↓
  「神功皇后」摂政52年(372年)
    「百済」の同じ使者がまた日本にやって来て、「七枝刀」1口、「七子鏡」1面な
   ど種々の重宝を奉った。さらに、孫の「枕流王」に日本に永遠に朝貢をつづけなさ
   いと申し渡した。
                   ↓
  「神功皇后」摂政55年(375年)
    「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)が薨去された。
                   ↓
  「神功皇后」摂政56年(376年)
    「百済」の王子の「貴須」(「近仇首王」)が即位した。


◆◆◆「神功皇后」(31) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 6日(水)12時15分1秒◆◆◆

  このように、この7年間の一連の記事は、互いに切り離すことのできない一団の記事
 となっている(『任那興亡史』末松保昭 吉川弘文館 1949年2月28日 58頁)。
  これを見ても、「山尾幸久」のいう<つながりの悪い記事>が見事に連続している。
  ところで、49年条の要点の一つは、「新羅」の攻略にある。これはこの7年間の一連
 の記事から、「百済」の日本への遣使が「新羅」への出兵要請にあり、これを受けて日本
 が「百済」と聯合して「新羅」を攻めたというものが実相だったと考えられる(「末松保
 昭」−前掲書 同頁、「池内 宏」−前掲書 52頁)。
  49年条の要点のもう一つは、日本側から見て、「任那」の経営が軌道に乗っていたこ
 とを示したことである。それは、「新羅」を攻略するについて「卓淳」(現在の韓国慶尚
 北道大邸市−当時の百済と新羅の緩衝地帯)に集合したことである。集合できたという
 ことは、それ以前から「任那」が存在していたことを示している。それが記録に現れた
 のは、「垂仁天皇」2年条からであるが、その経営が記録上明確となったのは、このとき
 からである。
  このことは、「百済」が日本を頼ったことにも現れている。それは、前述のように「任
 那」の地が「新羅」と「百済」の間に位置し、これを自らの勢力に引き入れることは、
 そのまま自国の安定につながるからである。「任那」を支配していたのは日本であり、そ
 れとの親交を深める必要があったからである。
  「百済」は369年から371年にかけて「高句麗」との間に大戦争を繰り広げてお
 り、いずれも大勝し、371年には「高句麗」の「平壌城」を攻撃し、「高句麗」の「故
 國原王」(第18代)を戦死させている(『三国史記』百済本紀「近肖古王」26年条、
 同 高句麗百済本紀「故國原王」41年条)。「百済」がこのようなことができたのも日
 本との間に和親関係が成立したからに他ならない(「末松保昭」−前掲書 62頁)。
  「山尾幸久」はこの条の「木羅斤資」らが「卓淳」に集まって「新羅」を討ったとい
 う記事を干支3運繰り下げて429年と考える(前掲書126頁)。これに同調する者
 に「吉田 晶」(『倭王権の時代』新日本出版社〔新日本新書 490〕1998年9月30日
 44頁)と「田中俊明」(『大伽耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館 1992年8月20日
 92頁)がいる。「吉田 晶」はこの条で、「千熊長彦」が「百済」王と誓約し、「倭」
 「百済」連合軍が「新羅」・「高句麗」(「新羅」に駐屯していた)を打ち破ったとあ
 るは、「倭」が南朝鮮を保全し、その中心的存在であった「大伽耶」に対して影響力を
 保持するようになったことを示していると考える。そして、このことは『三国史記』百
 済本紀 第19代「昆有王」2年(428年)の「倭国」が従者50人を率いて使者が
 来たとの記事は「倭」が「百済」と「高句麗」を討つための軍議であったというもので
 で、これに合致するという。さらに、「倭」の五王の「讃」の430年の「宋」への遣
 使は、その勝利報告に目的があったとする(前掲書 同頁)。しかし、これが採り得な
 いことは前述のとおりである。


◆◆◆「神功皇后」(32) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 8日(金)12時25分23秒◆◆◆

  『広開土王碑文』に「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来海渡破百残□□□羅
 以為臣民」(第1面8行34字〜9行24字)とあるが、この「辛卯年」とは331年
 を指し、「倭」が「百済(百残)」・「新羅」を臣民にしていたことが記されている。この
 ことは、49年条の「新羅」攻略をいい、「百済」が「倭」の朝貢国になっていた事実を
 物語っている。つまり、49年条の史実は『広開土王碑文』からも裏付けられるのであ
 る。また、『広開土王碑文』は単に「倭」が「百済」を臣民にしたばかりか、先の「百済」
 の「高句麗」との戦闘に「倭」が参加していたことも示唆するものでなかろうか。少な
 くともそれを物質的な面で「倭」が支援していたのではなかろうか(この辺の事情は、
 後述する「広開土王碑」で説明する)。
  こうした「倭」との和親もあって、国が安定した「百済」は自信をつけて中国の王朝
 との間に「冊封関係」を結んで、国家としての権威を中国にも認めさせたのである。そ
 の一端は、次のものに現れている。
 @ 余句(「近肖古王」−第12代〔在位 346年〜375年〕) 372年 『晋書』
  鎮東将軍(3品)・領楽浪太守
 A 余暉(「近仇首王」−第13代〔在位 375年〜384年〕) 386年 『晋書』
  使持節都督(2品)・鎮東将軍(3品)
  これについても、拙稿「倭の五王」を参照されたい。


◆◆◆「神功皇后」(33) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月 8日(金)12時23分57秒◆◆◆

  『広開土王碑文』は、前述の「辛卯年条」(331年)ばかりではなく、拙稿「広開土
 王碑」(後に投稿)で示すとおり、数年にわたって「高句麗」を侵略し、「高句麗」にと
 って最大の強敵となっている。それは「碑文」に次のとおり記されている。簡単に記す。
 詳しくは後述する「広開土王碑」で説明する
 @ 「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)」
   「百済」が「永楽6年丙甲」条の誓を破り「倭」と同盟した。「新羅」の使いによる
  と、「倭」が「倭」(「任那」)と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」
  の国内にまで侵攻し、城を占領してしまった。という。何とか救援をお願いしたいと
  申し出た。
 A 「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)
   高句麗王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途中、男
  居城から新羅城までその中に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至ると、
  「倭軍」は高句麗軍を恐れて背走したが、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従
  抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。(「高句麗軍」は)さらに、新羅城および塩城
  を打ち破り「倭軍」を潰滅させた。昔から新羅王は高句麗に従ってはいたものの、朝
  貢することはなかったが、(これにより朝貢するようになった)。王(広開土王)は(新
  羅を臣下に加え、その証として−欠字部分を推測)新羅王(奈勿王)は「ト好」(「實
  聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するようになった」となる。
 B 「永楽14年(広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)
   不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。
  「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)王(広開土王)
  が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は
  王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無
  数に上った。
 C 「永楽17年(広開土王の在位17年丁未年〔408年〕)
   王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)と
  の戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れ
  なかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した

  「碑文」には、はっきりと「任那」の文字がある。つまり、このような「高句麗」と
 の激しい戦争を遂行できたのも「任那」があったからであり、その基盤となっていたの
 が、49年条にある「任那」である。「神功皇后」がその基盤を作ったのである。


◆◆◆「神功皇后」(34) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月12日(火)13時13分16秒◆◆◆

 なお、「池内 宏」は、「神功皇后」研究の先駆者である。彼の持論を挙げ、これについても検証したい。
 彼の49年条が造作であるとする論拠は、@ 49年にいったん「卓淳国」に集まっておきながら、この「卓淳国」も含めた7カ国を平定するのは不合理だとする(前掲書 53頁)、A 「千熊長彦」は新羅に対する「問罪使」として派遣されたもので、突然に盟約の当事者として記されているのは不自然である(前掲書 58頁)、B 当時の「百済」は「漢城」(ソウル市近郊)にあり、盟約の地として「辟支山」(韓国全羅北道金堤市)と「古沙山」(韓国全羅北道古阜郡)に赴いたというのは不自然である(前掲書 59頁)、にある。
 @については、「百済」の軍と合同して「新羅」を攻めるには、この両国の中間点(緩衝地帯)に集合してから事を起こすのが妥当であり、「新羅」を攻略した後に「卓淳国」を平定したとすることは不合理な説明ではない。Aについては「山尾幸久」への批判でしてきしてある。Bについては、この地はいずれも「山」で、当時から「百済」の領土であり、後の「百済」の王都(「熊津」)にも近く、「聖地」としての役割を担っていた可能性も捨てきれない。『三国史記』新羅本紀第30代「文武王」5年(665年)8月条に、王が「唐」の勅使「劉 仁願」・熊津都督「扶余隆」らと共に「熊津」の「就利山」(現在の韓国忠清南道公州市)で盟約を結んだという記事がある。おそらくこの辺りは「聖地」であったのであろう。したがって、彼らがここに立ち寄ることも決して不可思議なことではあるまい。


◆◆◆「神功皇后」(33) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月14日(木)12時57分37秒◆◆◆

6.「神功皇后」摂政50年(370年)
  これは、「百済」の使者が始めて日本にやって来て、永遠に朝貢することを誓った。皇
 后はそれに応えて「多沙城」を「百済」に与えたということであるが、ここでも「山尾
 幸久」は<創作>であるとする(前掲書 115頁)。
  ここで注目されるのは「多沙城」である。これについては、『三国史記』(巻34 雑
 志 第3 地理 1〔新羅〕)に、「河東郡」はもと「韓多沙郡」である(現在の韓国慶
 尚南道と全羅南道の境にある「蟾津江」の河口(「玄界灘」に流れ出る)付近をいう。こ
 の地は、また、「継体天皇」7年、8年、9年の各条にいう「帯沙」・「帯沙津」、23年
 条の「加羅」の「多沙津」として記されており、「百済」と「加羅」の係争地とされている。
  「継体天皇」23年春3月条に、「多沙津」を加羅王の反対を押し切って「百済」に与
 えたとある。このことから、これと「神功皇后」摂政50年の記事は重複し、50年条
 の記事は、「継体天皇」23年の引き写しだとして<創作>であるというのであろう(「
 三品彰英」−前掲書 179頁、「池内 宏」−前掲書 63頁)。しかし、そうではなく、
 同じような伝承が「神功皇后」摂政紀にもあり、重複をいとわず記載したというのが真
 相と思われる。この下敷きとなっているものは「百済」側の史料であることは疑いなか
 ろう。<創作>と決め付けるのは早計である。
7.「神功皇后」摂政51年(371年)
  「百済」の同じ使者が日本にやって来て、再び朝貢することを誓った。この使者につ
 けて遣わした「千熊長彦」に対し、「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)と王子の「貴須」
 (「近仇首王」)は再び朝貢することを誓った。という記事である。
  これも「山尾幸久」は<創作>であるとする(前掲書 115頁)。しかし、この時代
 に「百済」が日本に朝貢していたのは、前述の『広開土王碑文』からもうかがえ、<創
 作>ではない。


◆◆◆「神功皇后」(34/36?) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月14日(木)12時56分36秒◆◆◆

8.「神功皇后」摂政52年(372年)
  「百済」の同じ使者がまた日本にやって来て、「七枝刀」1口、「七子鏡」1面など種々
 の重宝を奉った。さらに、孫の「枕流王」に日本に永遠に朝貢をつづけなさいと申し渡
 した。という記事である。
  さすがに「山尾幸久」は<創作>であるとは言わないようである。それは、ここの記
 事が「石上神宮」(いそのかみじんぐう)に現存する「七枝刀」を示しているからである
 (『卑彌呼と日本書紀』石原藤夫 栄光出版社 2001年11月10日 284頁)。
  「七枝刀」が「神功皇后」に贈られたのは、「神功皇后」49年(369年)条にある
 とおり「倭」と「百済」との間に軍事同盟が成立し、これにより371年に「高句麗軍」
 の「百済」への侵攻に対し「百済」が勝利したことへのお礼であったと考えられる。こ
 の戦いに「倭」が参戦した可能性も考えられる(『倭王権の時代』吉田 晶 新日本出版
 社〔新日本新書 490〕1998年9月30日 36頁)。
  「七支刀」については、後に「七支刀」の項で詳述する。
9.「神功皇后」摂政55年(375年)
  「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)が薨去された。という記事である。これについて
 は『三国史記』近肖古王30年(375年)に、同様の記事がある。年も合い、55年
 条が史実を伝えていることを示している。
10.「神功皇后」摂政56年(376年)
  「百済」の王子の「貴須」(「近仇首王」)が即位した。これも『三国史記』近仇首王元
 年(376年)に、同じ記事がある。


◆◆◆「神功皇后」(35) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月17日(日)14時24分38秒◆◆◆

11.「神功皇后」摂政62年(382年)
  新羅が朝貢しなかった。そこで、「襲津彦」(そつびこ)を遣わして新羅を討った。
   ここには「百済記」の引用があり、それによると、日本から派遣された「沙至比跪」
 (さちひく−「襲津彦」と同一人物か)が新羅に籠絡されて新羅を討たず加羅国を討っ
 た。天皇はそれを聞いて激怒され、「木羅斤資」を遣わして加羅国を復興した。とある。
 このことは何を意味するかと言えば、「新羅」が「加羅」を圧迫し、日本も「加羅」を救
 援するために出兵したということである(「池内 宏」−前掲書71頁)。この辺の事情
 は「広開土王碑文」の「辛卯年」(331年)以来の「倭」の「新羅」への出兵と臣民化
 に現れている。「池内 宏」はこの「新羅」の不朝貢を編者の<造作>だとするが(前掲
 書 79頁)、前述のことから従えない。
  なお、「百済」についていえば、『日本書紀』応神天皇3年条に、百済の「辰斯王」が
 日本に対して失礼なことをしたので、「紀角宿禰」らを遣わしてこれを責めた。百済は「辰
 斯王」を殺して陳謝し、「紀角宿禰」らは、「阿花」(第16代「阿辛王」を立てて帰国し
 た、とある。『三国史記』百済本紀第15代「辰斯王」8年10月条(392年)に、王
 が狩に行って10日経っても帰って来ず、11月に行宮で亡くなられたという不可解な
 記事がある。そして、同16代「阿辛王」条に、「阿辛王」が即位したと記されてい
 る。『日本書紀』の記事の方が真相を伝えているように思える。つまり、日本は「百済」
 に対して王位も決定する権限をも有していたのである。このことは「広開土王碑文」の
「辛卯年」条の「倭」の「百済」の臣民化の内容から証明されよう。
  「池内 宏」がこの「失礼」は『日本書紀』の編者の<付加>だとするが(前掲書 7
 8頁)、これも従えない。
12.「神功皇后」摂政64年(384年)
  百済の「貴須王」(第13代「近仇首王」〔在位375年〜384年〕)が薨去された。
 王子「枕流王」が王となった。
  これも前述のとおり『三国史記』近仇首王10年(384年)、同枕流王元年(38
 4年)に、記事がある。
13.「神功皇后」摂政65年(385年)
  百済の「枕流王」(在位384年〜385年)が薨去された。
  王子「阿花」(阿辛)が幼少だったので、叔父の「辰斯」(しんし)が位を奪って王と
 なった。
  これも同じく『三国史記』枕流王2年(385年)、同辰斯王元年(385年)に、記
 事がある。ここで注目すべきは、『三国史記』辰斯王元年条の記事である。『日本
 書記』の記事と同じく、太子「阿辛」は年が幼かったので、叔父の「辰斯」が即位した
 とある。
 このように記事が完全に一致するのは、前にも述べたが、『日本書記』が朝鮮側の史料
 に基づいて記されているからである。


◆◆◆「神功皇后」(36) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月20日(水)16時06分53秒◆◆◆

 さて、いよいよ、「神功皇后」の実在性について論じなければならない。前述のとおり
「山尾幸久」は<創作>であるという。「石原藤夫」は、『『記紀』が書かれたころは、まだ、朝廷に敵対する勢力すらあちらこちらにあった時代であり、敵対ほどではなくとも、対抗意識をもつ氏族もたくさんいた時代である。そういう人たちが『記紀』に不満をもって、独自の史書である『古語拾遺』や『先代旧事本紀』などまで書いている。また、朝廷への異論が記されているために神社に秘匿されて、戦後になってやっと公開された門外不出の古文書もある。そのような秘史の類にも、ちゃんと〈神功皇后〉が書かれているのだ。もし架空の女帝だったら、これはあり得ないことであろう。軍事にかんしてどのていど指導的立場だったかはわからないが、モデルとなった強力な女帝がいたのは確かだと感じるし、また日本勢力の朝鮮進出は、複数の外国文献に書かれているので、完全な史実である。』と述べている(前掲書 43頁)。どちらが正しいのであろうか。
 ここで、「非実在説」の論拠を見てみよう。
1.古事記の物語に事実と認めるべきことがなくして、全体の調子が説話的であること、
 進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のこ
 とが全く物語に見えてゐないこと、事実としては最初の戦役の後、絶えず交戦があった
 らしいのに応神朝以降の物語に少しも現はれてゐないこと、などを考えると、これは事
 実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征伐
 の真の事情が忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい。(「日本古典の研
 究 上」津田左右吉〔『津田左右吉全集』第1巻 岩波書店 1963年10月17日 10
 8頁〕)。
2.神功伝説の大綱は、このように主として7世紀以降に成り、神功皇后は推古・斉明(
 皇極)・持統3女帝をモデルとして構想されたものとみて大過ないと考える。(「神功神
 后伝説の成立」直木孝次郎〔『歴史評論』104号 1959年〕)。
3.玄界灘の荒海を乗り切る海辺のところどころの集団では、古くから海神に対する信仰
 と祭儀が行われていたのであろう。その後、4世紀の中葉から7世紀の中頃まで、数知
 れぬ若者たちが朝鮮経営の軍事のために筑紫の海辺から海兵隊として海を渡って
 行った。
 やがて、彼らがその軍事の成功と無事の帰還を守るに足る神の加護をこの特定の三神(底
 筒男・中筒男・上筒男)に見出し、新羅の国を賜わったのは三神の加護の賜物であると
 いう信仰が生じたのではあるまいか。そして、その三神の霊感が「祭られる神」の霊感
 としてではなく、その「神を祭るシャ−マン」の霊感譚として語られるとき、偉大な母
 神と、その「小さな子」との神秘に包まれた「新羅征伐」の話が生まれるのであろう。
「記紀」の編者は、この「新羅征伐」のお伽噺めいた話が広く人々に言い伝えられていた
 のを知って、対鮮関係の起源譚として取り入れたのではあるまいか(『日本の歴史 1
 −神話から歴史へ−』井上光貞 中央公論社 1965年2月4日 351頁)。


◆◆◆「神功皇后」(37) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月22日(金)12時44分7秒◆◆◆

 実在性について疑問が投げかけられているのは、『日本書記』の撰者が「神功皇后」を「卑弥呼」と考えていたこともその要因の一つであろう。加えて、「神功皇后紀」の記事が<荒唐無稽>ということにあろう。
 しかし、やはり実在は動かし難いと思われる。その理由は次にある。
1.「石原藤夫」が指摘しているように、新羅を征伐したという伝承は、『古事記』、『日本
 書記』、『風土記』、『萬葉集』などの奈良時代の主要な史料が記している。また、平安時
 代以降の史料にしても『続日本記』、『古語拾遺』、『先代旧事本紀』、『新撰氏姓録』があ
 り、そのほか「民間伝承」(『八幡宇佐宮御宣託集』、『八幡愚童訓』など)にも事欠かな
 い。<創作説>の欠陥は、それの文献を提示できないことにある。
2.日本が朝鮮を攻めたのは、『三国史記』新羅本紀にも数多く記されている。「神功皇后」
 の子の「応神天皇」の時代には、日本が朝鮮において大規模な侵攻作戦を展開していた
 ことは「広開土王碑文」にも明確に記されている。中国の『宋書』などを見ても、「雄略
 天皇」の祖先たちが朝鮮の南部の国々を平定したという伝承が残されており、「神功皇后
 紀」の記事と齟齬が見られない。こうしたことは、「神功皇后」に関する伝承が後の時代
 になって作られたものではないことが理解できよう。>恐らくは新羅征伐の真の事情が
 忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい<などとは、よほど『日本書記』
 は天才であろう。こうした伝承の基礎となる事実を創作できるものではないことは、今
 の時代でも明らかであろう。「神功皇后」に関する伝承は長い間、人々の中に残されてい
 たと考えるのが自然である。
3.日本あるいは天皇の権威を高めたければ、何も「神功皇后」を登場させることはない。
 夫の「仲哀天皇」なり、子の「応神天皇」を登場させればよい。そうすれば「天皇」の
 権威は一層高まったであろう。


◆◆◆「神功皇后」(38) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月22日(金)12時43分5秒◆◆◆

4.「神功皇后」の出自にも注目したい。「神功皇后」の出自は必ずしも良いものとは言え
 ない。彼女は「開化天皇」(第9代)の5世孫とされており(『古事記』開化天皇紀)、母
 の葛城の「高額比売」(たかぬかひめ)は新羅王子の「天の日矛」(あめのひこほ)の5
 世孫とされている(『古事記』応神天皇紀)。同じく「仲哀天皇」の妻となっている「大
 仲津比売」(おおなかつひめ)は「景行天皇」(第12代)の孫となっている(『古事記』
 景行天皇紀・仲哀天皇紀)ことと比較すれば明らかである。彼女の出自で問題だったの
 は敵国「新羅」の王の血を引くことであった。わざわざ、こうした者を登場させる意味
 ない。つまり、もっと出自を偽造して然るべき系図を創作できたはずである。こうした
 出自も伝承されていたのではないかと思える。
  なお、彼女の先祖の「天の日矛」が政争に破れて「新羅」から渡って来た亡命者であ
 ったのではなかろうか。こうした積年の恨みが新羅に向けられていたのかもしれない。
5.「神功皇后」が創作の賜物というなら、「用明天皇」の后であった「穴穂部間人皇人」(
 あなほこべはしひとのひめ)が懐妊中に宮中を回って馬官のところに来られたときに、
 厩の戸に当たって少しも苦しまれずに急に皇子をお産みになられた。この皇子が「厩戸
 皇子」(聖徳太子)であるという記事がある(『日本書記』推古天皇元年4月10日条)。
  これなど「イエス・キリスト」の生誕説話に瓜二つではないか。これだって、「景教」
 (ネストリウス派のキリスト教−中国に伝来していた)を知った『日本書記』の撰者の
 <創作>であったと言い得る(『ヤマト王権の謎をとく』学生社 1993年9月25日5
 2頁)。伝承におかしな点があるからといって<創作>と決め付けるのはいかがなものか。


◆◆◆「神功皇后」(39) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月24日(日)14時10分7秒◆◆◆

6.「津田左右吉」・「池内 宏」などの疑問について反論する。
@ 「海外に国のあることを知らず、神の教えで初めて知った、というのはおかしい」
  これについては、そのとおりで、「崇神天皇」65年条にもあるように、「任那」の
 存在は知られていたと考えられる。ただ、これを以って「神功皇后紀」が<創作>で
 あると決め付けるのには賛同できない。「神功皇后紀」は遥かに後の時代に『日本書記』
 が編纂され、その時代に伝承として残っていたものを整理して記載したもので、細部が
 おかしいと言って、それが事実でないとは言い得ないと思える。
A 「進軍に関する地理が全く示されてない」
  これも@と同じことが言えるのではなかろうか。ただ、「仲哀天皇」9年(320年)
 (神功皇后摂政前紀)冬10月条には、出発地が「和珥津」とあり、これは対馬の「鰐
 浦」のことであるし、「阿利那礼河」とあるは「漢江」(「津田左右吉」はそう考えている。
 「岡本堅次」〔『神功皇后』吉川弘文館 1959年7月20日 35頁〕も同じ)のことで
 はなく、「閼川」(「北川」)〔韓国慶尚北道の慶州の北部を流れる川〕のことで、戦いはこ
 の一帯で繰り広げられたと考えられよう。
B 「征伐に当たって皇后の下で働いた将兵たちの名前がない」
  これも@と同じことが言えると考える。


◆◆◆「神功皇后」(40) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月24日(日)14時09分5秒◆◆◆

C 「戦った「新羅」の王は「波沙寐錦」(1説によれば「宇流助富利智干」)であるが、
 これは「波婆尼師今」(はさにしきん)〔「新羅」第5代王−在任 80年〜112年〕)
 のことであるが、時代が合致しない」
  「波沙寐錦」を「波婆尼師今」(「新羅」第5代王)と考えるのは「池内 宏」であるが
 (『日本上代史の一研究』中央公論美術出版 1970年8月15日 45頁)、私は『三国
 史記』巻45 列伝第5 昔于老の部に、「沾解尼師今」(第12代新羅王〔「新羅」第5
 代王−在任 247年〜261年〕)7年(253年)に、倭人が倭を誹謗した「昔于老」
 を焼き殺したという記事があり、前述の「神功皇后紀」と似通っていることから、「波沙
 寐錦」(「寐錦」は王の意味)は「沾解尼師今」と考えるのであるが、それにしても年代
 が合わない。前述のとおり「波婆尼師今」は「宇流助富利智干」とする説(おそらく、
 新羅の史料から拾ったものと考えられる)もあるから、別人だとも考えられる。
  仮に「池内 宏」のいう通りだとしても、それが『日本書記』に記されているのは、編
 者が何も想像したことではなく、新羅の古書にその記録があったものと考えられる(「池
 内 宏」−前掲書 46頁)。
  この説話を「神功皇后紀」に挿入したというのが、「池内 宏」の考えだと思えるが、
 何とも言い難い。つまり、「波沙寐錦」の素性が明らかにならない限り「池内 宏」の説
 が正当性を持たないと考える。
6.「神功皇后紀」に限らず朝鮮関係記事には多くの者が登場している。そして、彼らは多
 くの有力氏族の者たちである(『任那日本府と倭』井上秀雄 東出版1973年1月16日
 247頁)。このことは有力氏族にはそれぞれ「家伝」があって、『日本書紀』の編者は
 それを参考に『日本書紀』を編纂したと考えてよい。こうした数多くの「家伝」をそう
 簡単には<造作>できるものではない。
7.「神功皇后紀」に現実離れしている伝承があるからといって、それの総てが<創作>な
 とと言うのは、王朝の歴史というものに対する基本的理解を欠いている。いかなる時の
 権力によって編纂された「歴史書」も<潤色>がないものはない。問題はその潤色の中
 から、本筋を見出すことである。それができて、他の史料と比較して到底あり得ないも
 のであったときに、それが<創作>と考えるべきなのであって、その努力もせずに<創
 作>などというのは、歴史を語る資格などない。


◆◆◆「神功皇后」(41) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月26日(火)12時30分27秒◆◆◆

 『日本書記』の撰者が「神功皇后」を「卑弥呼」と考えていたことは「石原藤夫」の指摘するとおりであるが、少し詳しく考えてみたい。
 「神功皇后紀」、特に、あの「三韓征伐」つまり、「仲哀天皇」9年(320年)(神功皇后摂政前紀)冬9月条を見ても、「神功皇后」は<神がかり>しているように見受けられる。「神の教えを頂いて皇后は礼拝された」とあるのがそれを示唆している。「三韓征伐」の少し前の「熊襲退治」のところで、『古事記』は大后「息長帯日売命」(おきながたらしひめのみこと)〔「神功皇后」〕は、当時、「帰神(かむがかり)し給いき」とある。同じく『古事記』に「三韓征伐」の際に、「杖を新羅の国王の家の門に突き立てて、住吉三神の荒御魂を国をお守りになる守護神として鎮め祭って、海を渡ってお帰りになられた」とあるのもそれを意味していよう。「神功皇后」は「巫女」だったと考えられる。
 一方「卑弥呼」は『魏志』倭人伝で「鬼道に事(つか)え、能(よく)衆を惑わす」とあり、「巫女」と考えられる。
 このことが何を意味するかといえば、「女帝」に「巫女」性を期待していたのである。
 『萬葉集』巻1に「舒明天皇」の皇后(後の「皇極天皇」)を<中皇命>と言っているが、
この「中皇命」とは『続日本紀』の宣命に、「元正天皇」を「中つ天皇」という例があるこ
と、『大安寺資財帳』に「倭姫女王」(「天智天皇」の皇后)を「仲天皇」と記していることなどから、「中天皇」は<中継ぎの天皇>ではなく<神と天皇との間を仲介>の意味であるとされている(「喜田貞吉」−「岡本堅次」前掲書 124頁)。
 こうしたことを念頭において『日本書紀』の撰者が英雄的な女性「卑弥呼」を「神功皇后」に連想し、これに化体したのではなかろうか。これが『日本書記』の「神功皇后紀」を混乱に陥れた原因ではないかと考える。


◆◆◆「神功皇后」(42) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月26日(火)12時29分21秒◆◆◆

 それでは、どうして「神功皇后」紀の年代がこのようなことになったのであろうか。それは「那珂道世」の『上世年紀考』(『明治史論(2)』筑摩書房 1976年8月25日 106頁)を整理発展させた「三品彰英」の『増補上世年紀考』(養徳社 1948年)を整理された「安本美典」は『倭の五王の謎』(講談社〔講談社現代新書 637〕1981年12月20日 188頁)で、次のように述べている。これが一番的を突いていると思える。
1.『古事記』・『日本書紀』の編者は、「神功皇后」、「応神天皇」については、年代につい
 ての確かな伝承をほとんど持っていなかった。その意味では年代について何も記してい
 ない『古事記』本文がもとからの伝承の形に近い。
2.『日本書紀』の編者は『三国志』などの中国の史書、『百済記』・『百済新撰』・『百済本
 記』などの百済関係の史書を持っていた。
3.『日本書紀』の編者は、これらの史書を基にやや強引な形で年代を定めていった。その
 際、まず「神功皇后」の時代を邪馬台国の「卑弥呼」の時代に比定した。このことは「神
 功皇后」39年条、40年条、43年条に『魏志』を引用(文注)し、66年条に『起
 居注』を引用していることからも明らかである。
4.『日本書紀』の編者は、『三国志』魏志倭人伝を見た。そこに女王「卑弥呼」の名を見
 出した。そこで、「女王」、「巫女」、「対外活動」を行った女性を伝承されている女性の
 中から求めるとすれば、日本側の伝承と中国の史書の記述とに多少の食い違いがあるに
 しても「神功皇后」が最も相応しいと考えた。そして、「魏志倭人伝」などに記されてい
 る年代を定めるための資料として用いた。前述の「魏志」などからの引用がすべて年代
 記事であるのはそのためである。


◆◆◆「神功皇后」(43) 投稿者:解法者 投稿日:2010年10月28日(木)12時56分17秒◆◆◆

 今度は「百済三書」(『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』)などの百済関係の史書との
矛盾はどう考えたらよいのであろうか。これも「安本美典」の前述書を中心に考えてみたい。
1.朝鮮四国(「高句麗」、「百済」、「新羅」、「伽耶」)には、それぞれの国史が存
 在していたと考えられる。「百済」にもそれが存在し、ここから「百済三書」が編纂さ
 れたと思える。「神功皇后」紀は一方こうしたものに依拠して記されている。現存して
 いる『三国史記』も「百済」に関する記事はこうした「百済三書」の原資料を基にして
 いる。
2.「百済三書」には干支による年代が記されている。これを「神功皇后」紀に当ては
 めていったが、干支は60年に1度同じ干支が巡ってくるので、そのまま直接に年代
 を示すものではない。そうして「百済三書」などの百済系の史書を実際にその史実が
 あった年代より120年前にあったものとした。
3.しかし、それは「金石文」や文献などから、先に「神功皇后」紀を中国側の史料を
 基にして「卑弥呼」の時代に比定したことや「百済三書」などの史実と矛盾が生じて
 くる。
4.『日本書紀』の編者もそれをわかっていたのであろうか。わかっていたが、前述の
 とおり「神功皇后」を「卑弥呼」に比定したため<引っ込みがつかなく>なってしま
 い。後世の人にその判断を委ねたのではないかと考える。
5.「神功皇后」紀の史実はこの「干支2運めぐり」つまり120年後のものとすれば、
 ほぼ実際の史実に合致する。ということは【120年後に存在した人】と考えれば、
 よいということである。しかし、ここでもそう無理をして年代を合わせることこそが
 <こじつけ>であるという声が聞こえてくる。だが、「神功皇后」の前述の数多くの伝
 承からして、実在しなかったと言い切ることは<無理>がある。実在性を疑う人はな
 ぜこんなに多くの伝承が残されているかについて説明することができるだろうか。


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