■□■□■ A級戦犯を分祀せよ(オロモルフ)■□■□■


◆◆◆ 0 まえがき ◆◆◆

 総理の参拝など靖国神社のあり方が話題になり議論がなされておりますが、その議論の中に、
「A級戦犯の分祀」
 ――という問題があります。
 これについては、中曽根元総理が熱心だという話を聞きますが、北京政府を重視するかなり多くの日本人が主張しているようです。
 私がこの問題をかつて耳にしたとき、まず頭に浮かんだ疑問は、

「A級戦犯とはいったい何なのか?」
「分祀とはいったい何なのか?」

 ――という事でした。
 こういう問題の素人である私の語彙の中には無い言葉だったからです。

 そこで、自分なりに少し調べてみました。

 このうち「A級戦犯」につきましては、前に調べて本にもしました(*)のでここでは略します。
 以下では、「分祀」について、記すことにいたします。

 なお本稿では、プロパガンダ的に使用されている言葉を『『 』』で囲って『『A級戦犯を分祀せよ』』と記します。

*『靖国神社に参拝しよう』栄光出版社


◆◆◆ 1 「分祀」とは日本の伝統文化なのか? ◆◆◆

「分祀」という言葉は、靖国神社問題が喧しくなる前は、ほとんど聞いたことはありませんでした。
 そこで、いったいどういう意味なのか、いつごろから使われていたのか――について、国語辞書と神道事典で調べてみました。
 ついでに、関連した用語である「分霊」と「合祀」についても調べてみました。

 下記の辞書・事典類は、たまたま私の家にあった大型本で、網羅的に調査したものではありませんが、有名辞典がかなり揃っておりますので、日本の過去の国語辞典の雰囲気は伝えているものと思います。
(『広辞苑』の初版程度またはそれ以上のボリュームの辞書にかぎります)


◆◆◆ 2 国語辞典にみる「分祀」の意味 ◆◆◆

A【大増訂ことばの泉(全二巻)(明治四十一年)大倉書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 項目無し。
◎「合祀」
 項目無し。
(この辞典は有名な落合直文の編纂です。初版は明治三十一年)

B【辭林四十四年版(明治四十四年)三省堂】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 項目無し。
◎「合祀」
 項目無し。
(日鮮同祖論で有名な金澤庄三郎の編纂で初版は明治四十年)

C【日本大辭典 改修言泉(全五巻)(大正十年〜昭和四年)大倉書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 神社の祭神を勧請して、他所に社を設くること、又その祭神。
◎「合祀」
 項目無し。
(落合直文編纂の前掲辞書の改版)

D【辭苑(昭和十年)博文館】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 ある神社の祭神の靈を分けて、他の神社に祀ること。勧請。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一社に合はせまつること。
(戦後の広辞苑の元になった辞書。表向きは新村出だが実際は溝江八男太の編纂であることが序文に記されている)

E【大辭典第一版(全二十六巻)(昭和十〜十一年)平凡社】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 ある神社の祭神の靈を分ち祀ること。古来これを勧請といふ。
(明治九年の政府の通達に使われた用例を引用)
◎「合祀」
 一の祭神を他の神社に合せ祀ること。

F【大言海(全五巻)(昭和七〜十二年)冨山房】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 項目無し。
◎「合祀」
 項目無し。

G【修訂大日本國語辭典(全五巻)(昭和十四〜十六年)冨山房】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 一の神社の祭神を勧請して他の神社の祭神とすること。又、その神。
(Eの大辭典と同じ用例を引用)
◎「合祀」
 項目無し。

H【広辞苑第一版(昭和三十年)岩波書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 或神社の祭神の霊を分けて他の神社に祀ること。また、その神社。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一社に合わせ祀ること。一柱の祭神を他の神社に合わせ祀ること。
(新村の謝辞から溝江八男太の名が消えているが、各項目の説明文は『辭苑』とほとんど同一が多い。「分霊」や「合祀」でもそれが分かる)

I【新訂大言海(昭和三十一年)冨山房】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 項目無し。
◎「合祀」
 項目無し。

J【新言海第一版(昭和三十四年)日本書院】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 項目無し。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一社に合わせて祀ること。相殿。

K【広辞苑第二版(昭和四十四年)岩波書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 或る神社の祭神の霊を分けて他の神社に祀ること。また、その神。
◎「合祀」
 (1)二柱以上の神を一社に合わせ祀ること。
 (2)ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。

L【日本国語大辞典第一版(全二十巻)(昭和四十七〜五十一年)小学館】←現在の日本で最大の国語辞典の初版。
◎「分祀」(昭和五十年九月発行の第十七巻)
 分けて祀ること。本社と同一祭神を、新しく別に神社を設けて祀ること。
(明治十三年の大分県の文書を用例として引用。きわめて例外的な文例である)
(昭和五十年になって、オロモルフの家の辞書では初めて「分祀」の項目が現れた。昭和五十年は三木総理の参拝が問題視された年である)
◎「分霊」
 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。また、その祭神。勧請。
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせてまつること。
(用例として古文から近代小説にいたる四つの文章を引用している)

M【広辞苑第三版(昭和五十八年)岩波書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一社に合わせまつること。

N【角川国語大辞典初版(蔵書版)(昭和五十八年)角川書店】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 神社の祭神の霊を分けて他の神社に祭ること。またその神の霊。
◎「合祀」
 (1)いくつかの神、または霊を一つの神社に合わせ祭ること。
 (2)ある神社の祭神を他の神社に合わせ祭ること。寄宮。
(広辞苑第二版とほとんど同じ文章である)

O【国語大辞典言泉第一版(昭和六十一年)小学館】
◎「分祀」
 分けて祀ること。本社と同一祭神を、新しく別に神社を設けて祀ること。
◎「分霊」
 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。またその祭神。勧請。
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせまつること。

P【大辞林第一版(昭和六十三年)三省堂】
◎「分祀」
 本社と同じ祭神を他所の新しい神社にまつること。また、その新しい神社。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を分けて、他の神社にまつること。また、そのみたま。
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊を一神社に合わせまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせまつること。合祭。

Q【日本語大辞典第一版(平成元年)講談社】
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分霊」
 神社の祭神を分けて、別のところへ祭ること。また、その祭神。勧請。
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊を一社にあわせ祭ること。合祭。

R【広辞苑第四版(平成三年)岩波書店】
◎「分祀」
 分けて祀ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一社に合せまつること。「殉難者を――する」
(広辞苑では平成に入って初めて「分祀」が項目として立てられた)

S【大辞林第二版(平成七年)三省堂】
◎「分祀」
 本社と同じ祭神を他所の新しい神社にまつること。またその新しい神社。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を分けて、他の神社にまつること。また、そのみたま。
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀ること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。合祭。

T【大辞泉第一版(平成七年)小学館】
◎「分祀」
 本社と同じ祭神を、別に神社を設けてまつること。また、その神社。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を他に分かち祭ること。また、その霊。
◎「合祀」
 二柱以上の神を一つの神社にまつること。また、ある神社にまつってあった神を、他の神社に移して一緒にまつること。合祭。

U【広辞苑第五版(平成十年)岩波書店】
◎「分祀」
 分けて祀ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
◎「分霊」
 ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。
◎「合祀」
 二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせまつること。「殉難者を――する」

V【日本国語大辞典第二版(全十四巻)(平成十二〜十四年)小学館】←現在の日本で最大の国語辞典。
◎「分祀」(平成十三年五月発行の第十一巻)
 分けて祀ること。本社と同一祭神を、新しく別に神社を設けて祀ること。
(初版と同じ明治十三年の大分県の文書と司馬遼太郎の文章を用例として引用)
◎「分霊」
 一つの神社の祭神の霊を分けて他の神社の祭神とすること。また、その祭神。勧請。
(二つの文章を用例として引用)
◎「合祀」
 二柱以上の神や霊をいっしょにして一つの神社にまつること。また、一神社の祭神を他の神社に合わせてまつること。
(用例として古文から近代小説にいたる四つの文章を引用している)
(この第二版の三つの項目の記述は第一版とまったく同じで、違うのは用例のみ)


◆◆◆ 3 神道事典にみる「分祀」の意味 ◆◆◆

a【神道大辭典(全三巻)(昭和十二年)平凡社/複製臨川書店】←現在でもなお最大の神道事典。
◎「分祀」
 項目無し。
◎「分靈」
 或る神社の祭神の靈を分ち祀ること。古来これを勧請といひ、維新前までは多くこの方法により神社の創立を見、而してその神社を勧請社或は分靈社または分社ともいった。然るに現時の制では、就中官國幣社の祭神の分靈は容易に許可せられないやうである。
◎「合祀」
 一神社の祭神を他の神社に合せ祀ること。古くは寄宮と稱した。現行規定では、由緒不明若しくは維持困難にして、社殿頽廢し獨立し難き場合等に主として許される。
 その方法は一様でない。内、最も普通に行はれてゐるのは左の三方法である。
(一)一社若しくは數社の獨立した神社の祭神を他の神社に合祀する場合。
 これは所謂本殿合祀で、祭神の柱數はその總計に從ふ。尤もその中に同一祭神が存すれば、これを合靈して一柱と數へる。
(二)境内合祀。
 これは一神社の境内地へ他の神社を移轉せしむるので、この場合本祀の神社の座數には變更なく、移轉せしめられた神社は本祀神社の境内神社となる。
(三)飛地境内合祀。
 これは境内合祀と同一の方法で、ただその場所が飛地境内であるだけの相違である。この場合には本祀神社の境外神社と呼ばれる。
 合祀は江戸時代にも往々行はれた。それは小祠又は淫祠に類するものを一所に集めて寄宮と稱したので、寛文年中、岡山藩で淺口郡八箇村千五百四十一の小祠を、また六箇村六百三十七の小祠を一所に奉齋して寄宮と稱した。水戸領でも寄宮を行はれたことが『桃源遺事』其他の書にある。明治以後にも往々行はれたが、明治三十八九年頃より殊に盛んで、同三十九年末には全國を通じて、府縣社以下の神社は十九萬餘社を算し、昭和十二年六月末日現在では十一萬四百三十九社に減じてゐる。

b【神道辭典(昭和四十三年)堀書店】
◎「分祀」
 分社を見よ――とある。
◎「分社」
 本社に対し、別に神社を創設し、その分霊を鎮祭したものの称。分祀ともいい、新宮・今宮といわれる場合もある。遠隔の地で本社に参拝することが容易でない場合、もしくは新開拓地の移住民が、本国の産土神を奉祀する場合などに分社が見られる。分社に対して、本社のことを根本社という。伏見の稲荷大社、紀州の熊野神社、北野の天満宮、筑前の宗像大社、信濃の諏訪大社、日光の東照宮などは何れも根本社の代表的な社であるといえる。
◎「分靈」
 特定神社の祭神の霊を分って勧請し祀ること。このように本社から分霊を勧請することは、神道上の特質の一であって、各地に見られる同一神名社の分布するゆえんである。勧請社・分社・分霊社ともいう。また神社の分霊だけでなく、強力な神の霊を分って人間に付与する信仰も、同じ基盤にたつものであろう。
◎「合祀」
 一神社の祭神を他の神社に合せ祀ること。国家管理の時代、由緒不明又は維持困難、社殿の頽廃し独立し難い場合等には之を許可した。次の三例がある。
(一)本殿合祀。
 一社若しくは数社の独立した神社の祭神を他の神社に合祀する。祭神の柱数はその総計に従い、その中に同一祭神があれば合霊して一柱と数える。
(二)境内合祀。
 一神社の境内地に他の神社を移転せしめる。移転せしめられた神社は本祀神社の境内神社となる。
(三)飛地境内合祀。
 境内合祀と同一方法。その場所が飛地境内地内だけの相違で、本祀神社の境外神社とよばれる。
 合祀は神社整備という形で、江戸時代に水戸・岡山・会津等に於て寄宮と称して行なわれた。小祠又は淫祠に属するものの整備方法である。維新直前津和野藩に行なわれたのも、「桃源遺事」其の他の書にある水戸の寄宮をその手本にしたもの。明治以後も度々行なわれ、三十八・三十九年頃最も盛ん。国家管理を離れて宗教法人となった今日、神社の数は戦前のそれと大差はないが、独立の神社であったもので、境内神社となったものが可成り多い。

c【神道事典(平成六年)弘文堂(國學院大學の神道事典)】
◎「分祀」
 項目無し。
 同じ読みの用語として分祠がある。
◎「分祠」
 本社の祭神の分霊を他所に勧請し、新たに祠を建てそれを鎮祭したもの。分社、新宮、今宮とも称される。分祠や分社などには、ある祭神を祀る本社から遠く離れた地域の信者に、容易に参拝できるようにその本社の分霊を勧請した場合や、明治期に新開拓地への移住民が本国の産土神の分霊を勧請鎮祭した場合などがある。
◎「分霊」
 本祀の神を他所で鎮祭するに際し、その勧請する神の御霊を分かちたのをいう。分祠、分社、新宮、今宮で祀られる神霊は、その本社の祭神の分霊である。たとえば石清水八幡宮は宇佐神宮の、赤坂の山王日枝神社は日吉大社のそれぞれ祭神の分霊が勧請された。分霊もまた本祀の神と同じ働きをすると考えられている。
◎「合祀」
 項目無し。
(他の多くの項目の中で使用されている)

d【神道史大辞典(平成十六年)吉川弘文館】
◎「分祀」
 特定の神社に祀られている祭神を、異なる場所において恒久的に祀ること。本社の祭神の分霊(わけみたまとも)を祀ることになり、分宮・新宮・今宮・遙宮(とおのみや)などを冠した社名は、本社の祭神の分霊が祀られたものである。特定社の祭神に限らず、神籬(ひもろぎ)に勧請しての祭祀形態は古くからあるが、分祀はあくまで特定社の分霊であるので、本社には分霊の本体である祭神は変わらず祀られている。本社と祀られる場所との関係は、神戸や御厨である場合や、封建領主の信仰神、稲荷・愛宕などの特定信仰など、歴史上さまざまな形態がある。近代以降の神社行政では、官国幣社の分霊は許可制であった。
【「分祀」の説明の以下を便宜上[乙]とします】
 一方、本社の祭神のうちの一部を本社から別の場所に移して祀ることも、分祀と称する例がある。神社合祀された祭神を、元の氏神として祀る場合がそうであり、これは復祀とも称される。この場合先の分霊とは異なり、分祀した祭神は本社に残らないので、本社では祭神として祀られないことになる。近年の靖国神社祭神の問題で報道される分祀とは、後者の形態である。
◎「分霊」
 本社の祭神を、別の組織が本社とは異なる場所において祀ることを分祀と称し、その異なる場所に迎えた祭神を恒久的に祀る場合それを分霊(わけみたまとも)と称する。また分祀のこと自体も分霊という場合もある。分霊を祀る理由は、祭神の神託、巡幸の跡地、特別に勧請された守護神などとしてまつることが考えられる。ただし、異なる組織の地域に勧請された守護神で、後世に神託や巡幸跡地などの伝承が発生した場合もある。神託の事例として、東大寺守護の手向山八幡宮が知られる。巡幸地の例として、伊勢神宮別宮の遙宮である滝原宮や、元伊勢の各社がある。氏神や都市の勧請守護神の例としては、藤原一門氏神の春日大社・石清水八幡宮など全国に数多い。特定の信仰として、神明社・愛宕社・稲荷社・八幡社・天満社などがあげられる。
◎「合祀」
 二社以上の神社を合併する場合や、新たに祭神を追加すること。神社の合祀の方法には、本殿合祀と称しほかの神社の祭神を一社の本殿に合祀・合霊する場合と、境内合祀もしくは飛地境内合祀と称し、一神社の境内地もしくは飛地境内へほかの神社を移転する場合がある。本殿合祀の場合、同一祭神は合霊し祭神の柱数は減じるが、その他の場合には祭神の柱数は増加する。合祀は、明治以降昭和二十年(一九四五)までの神社行政の中では、当該神社が由緒不明もしくは維持困難にして社殿頽廃し独立困難などの場合に許可された。こうした戦前の合祀などについての規定は、明治四十一年(一九〇八)二月社甲第一号「神社合併取扱方ノ件」の通牒に拠っていた。これらは神社整備の一環であり、近世にも水戸藩・岡山藩などで小祠淫祀などを一所に集めて寄宮(よせみや)と称する整理が実施された。
(平成十六年になって、初めて神道事典に「分祀」という独立項目が出来た。しかし後述するように、その内容には大きな問題がある。この事典には他に「神社合祀」という項目があるが、内容は類似している)


◆◆◆ 4 「分祀」の説明の一覧 ◆◆◆

 簡略化した記法で、第2、3章の辞書事典類にある「分祀」の説明を、年代順の一覧にしてみます。

 戦後の国語辞典の「分祀」の解説の最大公約数的な表現を工夫し、
『ある神社の祭神を、その神社に祀ったままで、他の神社にも同時に祀ること』=[甲]
 ――とします。
 どの辞書もほぼ同じ説明であり、ほとんどこの文章に含まれるでしょう。

 また、文献dにおける「分祀」の説明の後半を[乙]とします。簡単に書けば、
『ある神社の祭神の一部を、その神社に祀ることをやめて、他の神社に祀ること』=[乙]
 ――でしょう。

 行頭の大文字は大型の国語辞書、小文字は神道事典です。

**********

A(M41)→項目無し。
B(M44)→項目無し。
C(S03)→項目無し。
D(S10)→項目無し。
【分霊はこのころから出ている。「勧請」もある】
E(S11)→項目無し。
F(S12)→項目無し。
a(S12)→項目無し。
【「勧請」は戦前の神道事典にも出ている】
G(S16)→項目無し。
【この間終戦】
H(S30)→項目無し。
I(S31)→項目無し。
J(S34)→項目無し。
b(S43)→分社を見よとある。
K(S44)→項目無し。
【この間、昭和四十年代に反日工作が盛んになり、昭和五十年に三木総理が私的参拝だと述べて話題になった。そして同年に初めて「分祀」という項目が辞書に出現した】
L(S50)→[甲]←はじめて「分祀」が出現。
M(S58)→項目無し。
【昭和60年をもって、中曽根総理が参拝を中断し、以後ほとんどの総理が参拝せず】
N(S68)→項目無し。
O(S61)→[甲]
P(S63)→[甲]
Q(H01)→項目無し。
R(H03)→[甲]
c(H06)→項目無し。
S(H07)→[甲]
T(H07)→[甲]
U(H10)→[甲]
V(H13)→[甲]
【平成13年から小泉総理が参拝再開し、北京政府の内政干渉が激しくなる。そして平成十六年に至って初めて神道事典に「分祀」という項目が出現し、そこに靖国神社と結びつける説明が付加された】
d(H16)→[甲+乙]

(なお百科事典は精査していませんが家にある戦前から戦後にかけての五種類には見つかりませんでした)

**********

 ただちに、いくつかの事に気づきます。
 もちろん我が家にある辞書・事典のみについてですが・・・。

【一】
 反日工作が盛んになり、靖国問題が騒がしくなる昭和四十年代までは、「分祀」なる言葉は、(戦前戦後を通して)どの国語辞書にも出ていない。
 つまり日本人はほとんど使わない言葉であった。
 オロモルフが聞きなれない言葉だと思っていたのは当然であった。

【二】
 驚くべきことに、戦前から平成六年にかけての《有名な大型神道事典三種》にも、「分祀」という独立した項目は無い。
 神道事典に項目が立てられるのは、やっと平成十六年(!)になってから、すなわち小泉総理の靖国神社参拝への内政干渉が苛烈になってきてからである。
 つまり、「分霊」や「勧請」とは違って、「分祀」とは伝統的な神道には馴染みの薄い言葉であることがわかる。
 なお、問題の吉川弘文館の神道事典dは、同社の有名な『國史大辭典(全17冊)』の中の神道関係の項目を抜粋し、それに新しい項目を付加したとされている。
 そこでこの元の国史事典をチェックしたが、「分祀」の項目は見つからなかった。
 したがって、平成十六年の出版を目指して(たぶん政治的な意味があって)加えられた項目であると考えられる。

【三】
 三木総理が北京政府に気を使って私的参拝などと言い出すようになった昭和五十年すぎから、一部の国語辞書が「分祀」を載せるようになり、中曽根総理の参拝中断以後に多くの辞書が載せるようになった。
 しかし、その説明はあくまでも[甲]であって、靖国神社で言われている『『A級戦犯を分祀せよ』』の「分祀」ではない。

【四】
 小泉総理が参拝を再開して北京政府の内政干渉や反日家の工作がさらに騒がしくなった平成十六年になってはじめて、神道事典dに[甲+乙]があらわれた。
 しかし今のところ発見できたのはこの事典dのみである。

【五】
 以上を総括して、「分祀」なる用語は日本語として一般的なものではなく、[甲]の意味を持った「分霊」や「勧請」がまだしも一般的であった。
 すなわち、最近の辞書・事典類における「分祀」なる項目の立てられ方は、きわめて政治的である。
 にもかかわらず、その説明内容は「分霊」や「勧請」と同じく[甲]である。

【六】
 平成十六年に出現した文献dにある[乙]の説明には相当な無理があり、納得できない。
 おそらくは、小泉総理の靖国神社参拝への内政干渉とからんで新設した――前述のような――「きわめて政治的な」項目であろう。

 次章で、文献dの[乙]の条に反論いたします。


◆◆◆ 5 吉川弘文館の神道史事典dの[乙]の吟味と批判 ◆◆◆

 まず、[乙]の部分を再掲します。

**********

 一方、本社の祭神のうちの一部を本社から別の場所に移して祀ることも、分祀と称する例がある。神社合祀された祭神を、元の氏神として祀る場合がそうであり、これは復祀とも称される。この場合先の分霊とは異なり、分祀した祭神は本社に残らないので、本社では祭神として祀られないことになる。近年の靖国神社祭神の問題で報道される分祀とは、後者の形態である。

**********

 これは私には納得のいかない記述です。
 きわめて政治的な発言のように思われます。
 プロパガンダの匂いを感じます。
(この出版社の反日性については今は語りません。話が混乱しますので・・・)

*****

 上の文章の中に「復祀」という言葉が出てくるので、私の近所のK神社(昔の村の中心となる神社)について、それを例示してみます。

 その神社は、創立年代は不明ですが、安土桃山時代からの社殿再建の記録が残っております。田舎の神社ですが、かなり古い資料がある神社です。
 昔からの社号は、「八幡大菩薩」でしたが、明治元年に「八幡神社」と改めました。
 やがて明治政府の方針に従いまして、明治十一年に同じ村内の「明神社」や「天神社」を「合祀」し、その後明治四十二年までの間に、合計十九柱の祭神を「合祀」し、名をK神社と改めました。

 現在、ご祭神は、
「誉田別命(=應神天皇/元々の祭神)、(以下は合祀)大日靈女命(天照大神)、菅原道真、底筒男命、中筒男命、上筒男命、倉稲御魂命、彦五瀬命、鎌倉權五郎景正、素戔嗚尊、大山咋大神、子の大神、駒形大神、伊弉冉尊、速玉之男神」
 ・・・というように、じつに多様です。

 終戦まではこうでしたが、戦後になって、元々「底筒男命、中筒男命、上筒男命」という住吉三神を祀っていた同じ村内のS神社を囲む人たちが、ぜひ「復祀」してほしいという希望を述べたため、昭和二十二年になって、K神社に「合祀」されていた住吉三神をS神社に「復祀」しました。
 ここで面白いのは、「復祀」したのちも、明治に「合祀」されていたK神社にはそのまま住吉三神が祀られていることです。
 つまり、「復祀」したといっても、その御分霊はK神社に「合祀」されたままなのです。

 詳しいことは分からないのですが、明治に「合祀」されてしまった後も、地元の人たちはS神社にそのまま三神がおられると考えて崇敬していたのではないかと思います。
 だから、それを正式なものとしたかったのでしょう。
 このような事例は、もっと前にも、いろいろとあったようです。

 K神社とS神社には、「合祀」しようが「復祀」しようが住吉三神が祀られていると考えられるので、「復祀」は意味が無いようにも思えますが、大きく違ったのは、年に一度の周辺の人たちが集まって楽しむ「お祭り」です。
 住吉三神については、昭和二十二年以後はS神社の周辺の人たちがS神社に集まってお祭りを楽しむようになったのです。
 そして祭礼日は、K神社の祭礼と重ならないように決められております。

*****

 この事例からも言えますが、最新の神道事典dの「分祀」の記述の中の後半の[乙]にあります「分祀した祭神は本社に残らないので、本社では祭神として祀られないことになる」というフレーズには、かなりの無理があると思います。
 残らないものもあるでしょうが、残るものも確かにあるわけですから!

 おそらく、『『A級戦犯を分祀せよ』』というプロパガンダ用語の中の「分祀」を無理矢理神道用語として解釈できるようにと、(政治的に)考えた結果なのでしょう。

 なお「復祀」の結果「合祀」から外れた例として、京都府久世郡久御山町の「珠城神社」神社が上げられるそうです。江戸時代には「雙栗神社」に「合祀」されていましたが、昭和四十二年に「復祀」しており、その結果としてその御祭神は、「雙栗神社」では祭られなくなったそうです。
 ただし雙栗神社の世襲の社家は明治初めには絶家となり祭りも衰微したので、これは例外にすべき――とのご意見がありました。

*****

 さらに、[乙]の最後に、「近年の靖国神社祭神の問題で報道される分祀とは、後者の形態である」とありますが、これはもっと変です。
 いま仮に、「復祀」としての「分祀」の結果、元の神社には祭神が残らないとしましても、この[乙]を靖国神社に当てはめることはできません。
 それは以下のような簡単な論理です。

 明治期の政府の方針によって「合祀」された祭神の「復祀」は、つぎの過程でなされております。

*****

《一》
 その地域内の各地で崇敬されていた小さな神社の祭神が、明治政府の方針によって一つの大きな神社に合祀された。
(このとき、小さな神社が消滅したのではなく、そのまま崇敬されていた事例も多いでしょう。我が家の近くにも、そういう雰囲気の屋敷内社がたくさんあります)

《二》
 終戦その他の理由によって、制限が厳しくなくなった機会に、小さな神社の周辺住民たちが、やはりその祭神だけは元の神社を中心にして祀りたい――と希望し、希望が入れられた場合には「復祀」された。
(このとき、かつて「合祀」された大きな神社の祭神が抜けてしまうのではなく、そのまま御分霊として残る事例も多々あったのではないでしょうか)

*****

 百歩譲ってこのような「復祀」を「分祀」の一種とし、かつ「復祀」のあと大きな神社にご祭神が残らなかったとしても、それは、『『A級戦犯を分祀せよ』』というプロパガンダ用語にある「分祀」とはまったく違います。

 この違いは、上の《一》《二》にA級戦犯問題を当てはめてみれば一目瞭然です。

*****

〈仮定一〉
 かつてA級戦犯と呼ばれた人たちが、殉難ののち、「A神社」に祀られており、それを多くの人たちが崇敬していた。同時にB級戦犯と呼ばれた殉難者が「B神社」に祀られており、それを多くの人たちが崇敬していた。「C神社」も同様であった。
 しかしそれでは神社が多すぎるので、政府の強硬な方針によって、「合祀」しないでほしいという崇敬者の願いが無視されて、すべてが靖国神社に「合祀」されてしまった。

〈仮定二〉
 しかし、「A神社」の崇敬者たちは、それでは寂しいというので、内閣が代わった機会に、元の神社でお祭りができるようにしてほしい――と強く願い、それが聞き入れられて、「復祀」がなされた。
 そののち、「A神社」「B神社」「C神社」の崇敬者たちはそれぞれの神社にのみ参拝し、靖国神社には参拝しなくなった。

*****

 この〈仮定一〉と〈仮定二〉であれば、『『A級戦犯を分祀せよ』』という用語にある「分祀」は《一》《二》の「復祀」であると言えるかもしれません。
 しかし実情はまったく違います。
 靖国神社に祀ってほしいという国民の大多数と国会の決議の思想に基づいて「合祀」したのです。
 そして誰も、元の神社に戻してくれ――などとは言っていないのです。
(靖国神社合祀の特殊性については、解説書などでご覧ください)

 このように、事典dにあります後半の[乙]は、それ自体に無理があるし、それを靖国神社に当てはめるのはもっと無理があります。

 もう一つこの事典dで不思議なのは、「分祀」と関係の深い「分霊」や「勧請」や「合祀」の説明には、[乙]関連がまったく無い事です。
 ですから、「分祀」の項目にある[乙]には、なにか特別な政治的意図を感じざるを得ないのです。

◎以上の纏め
 もともと「分祀」とは国語辞書にも神道事典にも無い言葉でしたが、昭和五十年以後、次のような意味で散見されるようになりました。

[甲]=『ある神社の祭神を、その神社に祀られたままで、他の神社にも祀ること』

 これ以外の意味は、一般の国語辞書類にはありません。
 つまり、伝統的な日本語にはないのです。
 ですからA級戦犯にからむ[乙]の意味の「分祀」とは、「天皇制」「南京虐殺」「強制連行」などと同様に、近隣国の反日工作の中から誕生したプロパガンダ用語のように思えてなりません。

補足――
(反日家による「分祀」主張を、使用例は少ないが戦前からの用語である「復祀」と結びつけた論考は、文献d[乙]が最初ではありません。
 小堀桂一郎先生他御編纂の『靖国論集』(昭和六十一年)でも神道の専門家が述べています。しかしそこにある学問的な結論は、「靖国神社とは結びつかない」というものです)


◆◆◆ 6 『『A級戦犯を分祀せよ』』の正しい意味 ◆◆◆

◎わかりやすく書き直せば。

 以上のことから、
『『A級戦犯を分祀せよ』』
 ――を伝統的かつ分かりやすい日本語で書き直しますと、
『昔A級戦犯と呼ばれた英霊を、靖国神社だけではなく、もっと他の神社にも盛大に祀ってほしい』
 ――と言っている事になります。

 皮肉を言いますが、これは、とても有り難いお言葉です。
『『A級戦犯を分祀せよ』』とは、愛国の日本人としても主張したいような有意義な内容の言葉なのです!

*****

◎重要なことは。

 日本の神社のご祭神は、物質ではありません。精神的な存在です。
 言い換えれば、そのご祭神を祈る人たちの心です。
 別の表現をすれば、長い歴史が育んだ「日本民族の魂」です。
 そういった精神的なものを、一部分切り分けてどこかに移す――などという事ができるのでしょうか。
 何をどうしようが、崇敬者がそこにいるかぎり、ご祭神はそこにおられるのではないでしょうか。
 万一仮に靖国神社が全焼してしまっても、ご祭神はそこにちゃんとおられるのではないでしょうか。

 ですから、靖国神社側で「乙」のような「分祀」は行わない――としているのは、
「英霊に申し訳ないことは出来ない」
 という意味でもありますが、同時に、
「神道理論からいっても日本の伝統文化からいってもそんな事は不可能である」
 という意味でもあります。
 このことは、靖国神社が中曽根元総理への反論として広報紙上で正式に明言(平成十六年四月)しておられます。
 神社本庁でも同じ見解を公表しています。
 また國學院大學の神道の専門家の大原康男先生も、産経新聞のコラム「正論」において、「神道にはプロパガンダで使われているような分祀という概念は無い」という意味の記述をしておられます。

 もし仮に暴君が現れて元A級戦犯の靈璽簿を破り捨てたとしても、靖国神社を拝む人がいるかぎり、「乙」にはならないと思います。
 人々は靈璽簿に書かれた文字を拝んでいるわけではなく、「神」を拝んでいるのですから・・・。

(『『A級戦犯を分祀せよ』』と叫ぶ方にお聞きしたいのは、「いったいどういう祭祀をすれば神様がいなくなってしまうような分祀ができるのですか?」ということです)


◆◆◆ 7 いくつか気づくこと ◆◆◆

 以上の資料を見直しますと、気づくことがいろいろとあります。
 順不同で記してみます。

[一]「分祀」と「分霊」と「勧請」
 第2、3章を見ればわかりますように、「分祀」は昭和五十年の国語辞書からやっと出始めるのですが、「分霊」の方は、戦前の昭和十年から出ており、しかも大部分の辞書・事典に出ております。
 神道事典にも「分祀」が出ていなかった事は記しましたが、もっとも古くからあったのは「勧請」です。これは戦前の神道事典にも出ています。
 そして「分霊」も「勧請」もその意味は、視点の多少の違いがあるだけで「分祀」の[甲]の意味とほとんど同じです。[乙]の意味はまったくありません。
 これらから、「分霊」や「勧請」は[甲]を意味する比較的一般的な用語だったが、「分祀」はほとんど使われていなかった用語である事が分かります。
 これは、現在の日本で最大の日本国語大辞典(小学館)にある「分祀」の用例が、きわめて特殊なものである事からも分かります。
 要するに「普通の用例が見つからなかった」という事です。

[二]「分祀」は「合祀」の反対語ではない。
 第2、3章を見ていただけばお分かりのように、神道用語としての「分祀」は「合祀」の反対語ではありません。
 むしろ「類語」と言えるほどの言葉です。
 物質を対象として通常使われる「分ける」と「合わせる」が反対語であるため、神道における「分祀」と「合祀」も反対語のように錯覚してしまうのでしょうが、それはまったく違います。
 なぜ違うかと言いますと、「分祀」や「合祀」の対象である神社の御祭神(御霊)は、物質のようには動かせない『精神的な存在』だからです。
「分祀」と「合祀」は、同じ事象を別の角度から見た「類語」であるとすら言えると思います。

 あくまでも想像ですが、『『A級戦犯を分祀せよ』』というプロパガンダ的言葉は、神道に疎い人が『A級戦犯の合祀』という言葉にヒントを得て「合」を「分」に入れ替えて創作した一種の造語ではなかったでしょうか?

(そもそも我々生身の人間が、国家のために命を捧げて神となられた尊い英霊を、まるで物体のようにコッチをやめてアッチに移すなど、できるのでしょうか?)

[三]辭苑と広辞苑各版における「分霊」と「合祀」の説明の変遷。
 岩波の広辞苑は反日的だとして谷沢永一や渡部昇一らが強く批判しておりますが、その広辞苑にすら、「分祀」が出て来るのは平成になってからで、かつその意味は[甲]のみであって[乙]はありません。

 という事なのですが、この有名辞典における「分霊」と「合祀」の変遷を見てみます。

◎まず「分霊」の変遷です。
C【辭苑(昭和十年)博文館】
「ある神社の祭神の靈を分けて、他の神社に祀ること。勧請。」
G【広辞苑第一版(昭和三十年)岩波書店】
「或神社の祭神の霊を分けて他の神社に祀ること。また、その神社。」
J【広辞苑第二版(昭和四十四年)岩波書店】
「或る神社の祭神の霊を分けて他の神社に祀ること。また、その神。」
L【広辞苑第三版(昭和五十八年)岩波書店】
「ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。」
P【広辞苑第四版(平成三年)岩波書店】
「ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。」
S【広辞苑第五版(平成十年)岩波書店】
「ある神社の祭神の霊を分けて他の神社にまつること。また、その神霊。」

◎つぎに「合祀」の変遷です。
C【辭苑(昭和十年)博文館】
「二柱以上の神を一社に合はせまつること。」
G【広辞苑第一版(昭和三十年)岩波書店】
「二柱以上の神を一社に合わせ祀ること。一柱の祭神を他の神社に合わせ祀ること。」
J【広辞苑第二版(昭和四十四年)岩波書店】
「(1)二柱以上の神を一社に合わせ祀ること。(2)ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。」
L【広辞苑第三版(昭和五十八年)岩波書店】
「二柱以上の神を一社に合わせまつること。」
P【広辞苑第四版(平成三年)岩波書店】
「二柱以上の神を一社に合せまつること。「殉難者を――する」」
S【広辞苑第五版(平成十年)岩波書店】
「二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせまつること。「殉難者を――する」」

(本当は第一版と第二版の間に修正版が出ていると思いますが、持っていないので略します)

 この一覧を見ますと、戦後の『広辞苑』が、戦前の『辭苑』とそっくりであることが分かります。
「分霊」では、「或る」と「ある」の違いや「祀る」と「まつる」の違いや句読点の違いだけです。
「合祀」についても、似たようなものです。
 しかし、戦前の『辭苑』の制作者の名が、戦後の『広辞苑』では消されているのです。
 なぜ功労者の名を消したのでしょうか?
(なお「合祀」の説明において、第四版以後に使用例として「殉難者を――する」が付加されておりますが、これは明らかに靖国神社における昭和殉難者の「合祀」を意識しているためと思います)

[四]同名神社の存在
 神社には、同名のお社が無数にあります。これは仏寺にはない特色です。
 八幡神社、稲荷神社など、地図に載る大きなのものだけで何万もあります。
 熊野神社なども大変な数です。
 これは、「勧請」「分霊」という神道特有の文化によるものです。
 そして、「勧請」によって「分霊」を頂いた結果として、元の神社の祭神が無くなるなどということは絶対にありません。
 京都に八幡宮を創建したら大分県の八幡宮が無くなり、鎌倉に八幡宮を創建したら京都の八幡宮が無くなった――としたら大変なことです。
 東京に熊野神社をつくったら、本家の熊野の熊野神社のご祭神が無くなってしまった――としたら大変なことです。
 結婚式などを行う明治記念館には明治天皇の御分霊が祀られておりますが、当然ながら明治神宮はそのままです。
 問題の「分祀」の意味は、辞書によると「分霊」とほとんど同じなのですから、プロパガンダ用語としての『『A級戦犯を分祀せよ』』にはつよい違和感を持ちます。

[五]とくべつな例をひきます。
 宮中三殿の最高峰である賢所のご祭神は天照大神であり、ご神体は「三種の神器」の筆頭の「神鏡」ですが、これは伊勢神宮の「神鏡」の別御霊(わけみたま)すなわち御分霊で、一種の「分祀」の結果です。
(現在皇居に奉斎されている「神鏡」は崇神天皇の時代の御分霊です→『卑彌呼と日本書紀』栄光出版社参照)
 もちろん、伊勢神宮は厳然として鎮座しております。
 これはあまりにも明かですが、[甲]の意味での「分祀」です。

[六]プロパガンダ用語の使用に注意
 反日家たちが[乙]の意味で使用している「分祀」とは、反日工作という政治的意図をもったプロパガンダ用語ではないかと推察いたします。
 したがいまして、総理の靖国神社参拝に賛成の人も反対の人も、なるべく使用しない方が望ましいと思います。

 もし靖国神社を崇敬する愛国者が、
「A級戦犯分祀に断固反対」
 ――と叫んだとしても、その叫び自体が、
「その人が無意識のうちに洗脳されてしまっている」
 ことを示している・・・かもしれないのです。

[乙]の意味で「分祀」を使っているわけですから・・・。


ps:
 北京政府は、『人民が反対しているから首相の参拝はやめよ』とは言っておりますが、『A級戦犯を分祀すれば参拝してよろしい』とは言っていないように思います。
 すくなくとも表面的にはそうは言っておらず、日本側から言質をとるような巧みな言い方をしており、裏で日本の政治家がウロウロしているだけのような気がします。
 この問題を扱った本のどれにも、それらしい裏話はあったようだ――といった程度の事しか書かれておりません。

 そもそも『『A級戦犯を分祀せよ』』とは、反日的日本人が最初に言い出した言葉ではなかったでしょうか?

 もっとも、これは当然のことでしょう。
 もし仮に日本側が、「それらしいこと」をして「分祀いたしました」といえば、北京としては、「日本を虐める武器」を一つ失うことになりますから、そういう事は表向きは言わないだろうと思います。

 また、北京政府の要人たちは、日本の媚中政治家や媚中マスコミよりはずっと勉強家ですから、形式的に分祀しても実態としては分祀困難な事を知っていると思います。
(彼らは東京裁判の違法性についてもよく勉強していると思います。といいますのは、この数十年、言い方が微妙に変わってきているようなのです。反日施設をつくって国民を洗脳して「国民の心情だ」と言うようになったのは、理屈では日本の正論派にかなわない事が分かったからだと思います)

 ですから、今後北京の側から「分祀要求」が「正式に」出てきたとしたら、それは外交戦略の一環であって、必ずや裏に何か含みを持っているだろうと思います。

*********

(「雙栗神社」の「復祀」などについてご教示いただいたHISASHIさんに感謝いたします)

[完]


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