MANU THERON INTERVIEW

マニュ・テロン・インタビュー

マルセイユ音楽シーンの重鎮であり、ロ・コール・デ・ラ・プラーナ(ルー・クワール・デ・ラ・プラーノ)Lo Cor de la Plana のリーダーでもあるマニュ・テロンへのインタビュー。

Q:ファーストアルバムやコンピレーション盤『VICTOR GULU』の曲「Feniant e Gromand」を聴いて凄いなと感じたので、是非お会いしたいと思ってやってきました。最近インターネットで紹介された映像、石壁の建物の窓からメンバーが顔を出して向かい合わせになってのパフォーマンスも見事でしたね。

MT:アルルでのフェスティバルだね。ここから100kmのところで、あれは2005年の夏だった。時々リクエストを受けて、場所がよかったりすると演奏をするんだけれど、教会で歌ったりと、いろいろなロケーションで歌うのは楽しいね。

Q:あなたの凄い声はオリジナルなものなのですか?

MT:確かに、マルセイユでは人々が大きな声で話す風習がある。お互いに怒鳴り合うようなね。それが、無意識に歌にも反映されているのかもしれない。男性合唱団を作った時、自分の歌いかたを皆に教えた。それは唯一の正しい歌いかたではないし、伝統的なものでもなくて、ただ、(マルセイユという)街、そして街の喧噪や活力から受ける印象が、歌声と歌いかたに反映されている。だから、これは僕のオリジナルな歌いかただね。

 伝統的な音楽を始めた時、僕がマイクを使わずに歌えるので、人々は驚いた。オペラでもないのにってね。普通はそういうのはオペラ歌手がすることだからね。皆、感心したんだ。観客のリアクションがよかったので、こういう歌いかたをもっと練習し始めた。たまには、状況を見て静かに歌うこともあるけどね。

Q:経歴について教えて下さい。

MT:アルジェリアで育ち、沢山旅をして、2年間イタリア、2年間ブルガリアにいた。マルセイユで生まれて、11歳から15歳までアルジェリアにいたのだけれど、そのあと戻って、1〜2年学校へ行き、イタリアへと発って2年過ごした。そのあとブルガリアだ。

Q:ブルガリアの歌から影響は受けましたか?

MT:もちろん。ブルガリアからもイタリアからも。マルセイユに戻って歌うことを始めたとき、こういった国々で聴いた歌で一番感銘を受けた部分に、マルセイユの伝統的な歌いかたをミックスして、オリジナルなものを作ろうと考えたんだ。そうして、オクシタニアの古い歌に新しい風を吹き込みたかった。

Q:アルジェリア音楽の影響は?

MT:もちろん。まず歌う時、アルジェリアのドラムのベンディールを使用している。それから、時々アルジェリア人のミュージシャンと一緒に演奏する。CDにも参加してもらっているよ。

 一番大きな影響は、アルジェリアの宗教民衆音楽だ。それは歌とパーカッションだけで演奏するもので、とても感銘を受けた。歌声とドラムをミックスするのは、非常にスピリチュアルな効果があって、興味を持った。でも僕たちは、それをただコピーするんじゃなくて、自分たちのスタイルに取り込んでいった。だから、僕たちの音楽の中でここがアルジェリアン・スタイル、とか明確にはいえない。

 沢山の影響を受けているけど、ゴールは非常にオクシタニア的なもの。僕らはオクシタニア語で歌って語り、今の生き様を反映した生のオクシタニアン音楽を作る事だ。

Q:今終わったリハーサルを観た限りだと、今日のステージにはいつくか楽器も入るようですが。

MT:そう、「バンダ」というんだ。もとは伝統的な楽団で、通常は闘牛の時に演奏する。南仏は闘牛が盛んだからね。大きな試合(?)の時に、人々を招いて演奏を指名する。

 違ったタイプの音楽だから、彼らを招いた。彼らは伝統音楽ではなくて、コンテンポラリージャズやインプロビゼーションをやる。コンテンポラリージャズと伝統音楽のミックスが好きなんだ。

Q:彼らとはよく一緒に演奏するのですか?

MT:一緒にステージをやるのは2回目だけど、年間を通じてよく会って演奏している。他のステージでも会ったりとか。彼らとは5〜6曲一緒に作ったのだけれど、いずれ一緒にレコーディングする予定だ。今制作中のではなく、その次のアルバムでだけれど。オクシタニアの19〜20世紀の政治的批判の歌をやるんだ。

Q:ファーストと同様に、次のアルバムも伝統曲を集めたものになるのですか?

MT:いや。「バンダ」と一緒に5〜6曲作った。残りは僕が作曲した。

Q:あなたの音楽はオリジナルオクシターナと似ていますね。

MT:僕は彼女たちの先生だったからね。知らなかった? 彼らは今でも僕の生徒だよ。

 マルセイユで歌の会を作っていて、週3日歌を教えている。だれでも参加できて、沢山の人が加わってくれた。彼女たちも熱心に通った。98年頃に来た、最初の生徒達だ。僕が全ての曲を教えたのだけれど、そこに変化を加え、電子的な演奏を入れたりと、彼女たちはとても上手に自分流にアレンジしたんだ。素晴らしいと思うよ。

Q:ミックマック MicMacとの関係について教えて下さい。

MT:昔は彼らと活動していたけれど、ここ3年は一緒にやっていない。それでも関係はいいよ。ミックマックはスタートアップのプロジェクトを展開するのに適したところなんだ。ガッチャンペガ時代にはお世話になったけど、自分のプロジェクト、ロ・コール・デ・ラ・プラーナが軌道に乗ってきたら、ヨーロッパ全土でのコンタクトが必要になったんだ。MicMacにはそういった幅の広いコネクションはないから、そこから離れた。今でも小さなプロジェクトで一緒にやることもあるけど、以前のような関わりはない。

Q:ガシャ・エンペゴ以前(99年以前)の音楽活動は?

MT:それ以前は、ブルガリアでバイリンガルの高校の教師を2年間していた。フランスの詩を中心に、フランス語を教えたりもした。音楽的な活動は特にしていなかったけど、多くの人々と共に働いたよ。その前に2年いたイタリアでもそうだ。その前は、マルセイユの美術大学。それからイギリスのブリストンにも。

 20代は結構めちゃくちゃだったね。18歳から28歳まではマルセイユにいなかったんだ。戻ってきた時、マッシリア・サウンド・システムのメンバーが、素晴らしいコルシカの女性歌手を紹介してくれた。それで、彼女と一緒に歌い始めた。そして、サミュエルと出会い、ガシャ・エンペゴが始まったんだ。彼は今、デュパンで活躍しているよ。

Q:オック語のことを少し教えて下さい。今もオック語で歌っているのですか?

MT:うん。ガシャ・エンペゴとラ・コール・デ・ラ・プラーナのほとんどの曲はオック語だし、僕が歌うのはいつもオック語だ。なぜかというと、一度この言語を学ぶと、この言語を愛するようになってしまうから、もうフランス語には戻れないんだ。特別な言語だ。僕にはとても音楽的な言葉に思える。

Q:オック語は後から学んだものなのですか、それともこの言語を聞いて育ったのですか?

MT:いや、聞いて育った訳じゃない。僕の親は、サヴォイという北フランスの出身で、地元の人間じゃないからね。でも、僕はここで育ち、老人がこの言葉で話すのを聞いていた。とても親しみを持たれている言葉だった。実は、独立した言語だとは知らなかったよ。

 18歳の時、タトゥがオクシタニア語について少し教えてくれた。それで学ぶ事にしたんだ。彼のおかげだね。イギリスには英語の勉強をしに行ったのではなくて、オクシタニア語を学んだ。

 マルセイユに戻った時には、オクシタニア語の文法や基礎を知っていたから、話し始めた。でも、この言語はもうほとんど話されていない。特殊な施設や教室でリバイバルさせようとしてるけど、あまり広がっていない。

Q:出会ったその頃、タトゥはもうミュージシャンだったのですか?

MT:もちろん、マッシリア・サウンド・システムのリーダーだった。彼の友達のガールフレンドが、僕の学校の友達で、それで会ったんだ。音楽を通じて知り合った訳じゃないね。タトゥは、オクシタニア語の歴史を教えてくれた。その頃、すごく歴史に興味があったから、これはとても刺激的だった。

 でも、その時は、その事について何をするでもないまま、マルセイユを離れて、イギリス、イタリア、ブルガリアへと行ってしまった。6年後に街に戻った時、自分の考えた歌いかたで活動を始めたんだ。オック語も話すようになった。

 いずれにせよ、これは、オック語の「伝承」の物語なんだ。重要なのは、言語が広まってゆくこと。タトゥは僕へ、僕は(オリジナルオクシターナの)女性たちへ、、、と伝承していったように。この言語の歴史、原理、文法、歌、そして、芸術。それらを伝え、広めて行きたいんだ。

 今のところ、うまくいってると思う。沢山の他のバンドも僕たちのスタイルで歌うようになった。オリジナルオクシターナの他にも、モンペリエに女性グループ、他にも多くのコーラス・グループが、パーカッションと手拍子と歌という僕らのスタイルで歌い始めた。

 このコンセプトは僕のオリジナルだけど、誰かが真似したって全然構わない。「伝承」が目的だから、共有が必要なんだ。他の音楽と違う所は、僕らの音楽はシェアできるということ。消え行く言語を継承するために、これは大切なことだ。

Q:現在オック語の教室はあるのですか?

MT:うん、バイリンガルの学校がある。政府の支援は無く、協会(association)なので資金に乏しく難しい状況だ。それでも生徒達はとても優秀。2〜3の言語で教育を受けるので、教養があるし、考え方もオープンになる。

 だから、こういった私立学校を信頼しているよ。彼らには自由に経営して欲しいし、それには政府のバックアップが必要だ。今、それを待っているところだ。

Q:あなたはオクシタニア語のために音楽以外の活動もしているのですか?

MT:いや。興味があったし、試みたけどね。政治的な歌に意義があると思う。日々の生活について歌うことは出来るけど、オクシタニア語で歌ったって、バカな歌もある。オック語だから何でもいいわけじゃない。

 だから、マルセイユの政治団体に働きかけよう(ロビー Lobbyしよう)としたよ。僕は有名じゃないけど、よく地元の政治団体に支援を頼まれる。大抵は、グリーン党など、左翼の団体だ。その度に僕は、「協力しましょう。オック語について議論をしていただけるなら」というんだ。で、結果、僕は協力しないことになる。彼らは必ずこれを拒否するからだ。

 理解できないけどね。フランスでは何も禁止されていないのに、実際は沢山の事がタブーなんだ。オクシタニア語も、この1つなのかもしれないね。”彼ら” にとっては。

 マルセイユ・グリーン党の党首が、僕の所に次の選挙活動に協力していただけませんか、とやってきたことがある。僕は、「あなたの党の活動には特に賛成していませんが、?これは本当の事だ?、よろしいでしょう」といった。「ただし、オクシタニア語、そして、その他多くの少数民族の言語を、大切な文化表現として認めることについての議論を始めてくださるなら。それならば協力します」と。

 オクシタニアだけじゃない。アラブ・コミュニティーを始め、社会に声を持たない多くの人々も含めてだ。

 でも、それは拒否された。選挙キャンペーンの主要トピックじゃない、というんだ。なんでだろうね、、、。まあ、僕だけなのかな、僕がこだわりすぎているのかもしれない。

 しかし、現代フランスの「病い」の大部分は、政府が自らの土地の中にある多くの異文化を認識していないことに由来している。先住少数民族のことすら認めないのだから、異国文化のコミュニティーについてはもちろん認めない。

 この問題認識について、スペインやイタリア、イギリスのような他の集権国家と比べても、フランスは遅れている。ほとんどの政治家はパリ生まれ、パリで教育を受けた少数のエリート達だ。彼らの排他的で小さな世界では、ちょっとの訛りさえ大変な恥とみなされる。そんなだから、他言語で話すなんて言語道断ってわけさ。こんな高慢な人々が国を50年も支配している。

 このような人々に影響をあたえるのは難しい。歌によってメッセージを広めるほうが効果的なんだ。

 素晴らしい作家や詩人もいる。でも、彼らは国内においてまったく無名だ。英語、アラビア語、オランダ語、ドイツ語、日本語などに翻訳されていても、フランス語には翻訳されていなかったりする。

 初めてオクシタニア語についての言語学的研究が発表されたのは、60年代、日本においてだった。フランスにおいては、90年代。30年後だよ。オクシタニアについて日本ではフランスの30年も前に研究されていたんだ。

 別に禁止されていたわけじゃない。考慮されてこなかっただけだ。誰も違う言語だと認識してこなかった。今世紀始めになって、エズラ・バウンド(?)などアメリカの著名な詩人たちが12?14世紀の古いオクシタニアの詩に感銘し注目しはじめた。これを受けて、フランス国内でもゆっくりと認識が広がったのかもしれない。とっておきの秘密みたいにね。皆知っていたのに、誰も語ろうとしなかった。

Q:ファーストアルバムでは打ち込み音が効果的だったと思うのですが、最後に、サンプリングや打ち込みを使う可能性について教えて下さい。

MT:いや、それはないね。この打ち込み音はトゥールーズのバンド、ファビュルス・トルバドールのアンジュビエが作っている。新しい試みとして、1枚のCDに参加してもらった。けれども、次回は僕たちだけだと思うよ。

 ポリフォニーとエレクトロニカを混ぜるのは難しくて、いい解決方法を模索中だ。ポリフォニーだけで充分な時もあるし、シンプルなリズムとも良く合う。これが僕らのスタイル。これ以上の要素を加えると、音楽的に難しくなってくる。でも機会があれば、何かやるかもしれない。

(2006年10月、フランス・マルセイユにて。当日のコンサートの様子や写真などは、後日追記/アップする予定。)

Special Thanks to Raye/r-flux (通訳&翻訳)
(2007.06.13 & 07.01)