柴岡山 光珍寺(岡山市磨屋町6-28)

本尊 阿弥陀如来

縁起


 柴岡山光珍寺といい、阿弥陀如来を本尊とする天台宗の寺院。もとは岡山寺と一体の寺であったが慶安五年(1652)に二寺に分れ寺領も光珍寺五十五石、岡山寺四十石に分割して給付になったことが「備陽記」に載っている。しかし初め内山下にあった伽藍を城郭修築のため移転させた順序については、岡山寺の場合と異なる点がある。

 (前略)天正之初宇喜多和泉守直家当城御取立に付岡山寺を古京の辺へ御引越せ被成、其後中山下へ御引せ直家の父興家の御位牌所に被成候、奥家の戒名を露月光珍居士と申に付其時より岡山寺を光珍寺と申由(中略)。慶長五年関ヶ原にて秀家敗軍の後秀秋公御入国の節、宇喜多家へは御嫌被成に付、光珍寺元は岡山寺にて御座候間昔の寺号を名乗申度由申候、面して秀秋代より光政公の御代迄は御折紙にも岡山寺と被成被下候、然とも人々光珍寺と申馴候故、于今光珍寺と申候、慶安五年に光珍寺岡山寺両寺号共に名乗申様に被仰付近年は柴岡山光珍寺と書申由、今の光珍寺物語を爰に書顕す也(備陽記)

このように光珍寺の記事でも慶安五年に両寺号を用いるようになったとしているから、岡山寺と光珍寺とニ寺に分れたのはこのときである。同寺は重層宝形造の本堂および宝形造の愛染堂・客殿・庫裡などがあったが、何故か元禄年間に愛染堂だけを邑久郡北島の上寺山余慶寺の寺中恵亮院に譲り渡した。そして本尊阿弥陀如来を客殿に移し、本堂に愛染明王を安置した。この愛染明王はもと美作国安国寺(今津山市に在る)の本尊で弘法大師の作と伝えられる坐像であったが、天正年中に宇喜多直家がこの寺に移したもの、備陽記にも安国寺の本尊愛染明王を当寺へ移した旨記してある。戦前専門家により調査が行われ、鎌倉時代の作としてすでに文化財指定の候補にものぼっていた。
 またこの寺に宇喜多直家の木像(坐像)があった、この木像ははじめ宇喜多家の菩提寺平福院(石関に在った)に安置していたものを、同寺が廃寺になってから光珍寺に移したと云われる。
 光珍寺も戦災で全焼、愛染明王も直家の木像も焼失した。戦後は敷地も都計のため狭小となり、現在の寺はその後の再建である。