黄門山 瑞雲寺(岡山市番町2丁目6-22)

本尊 宝塔・釈迦・多宝・本化四菩薩・文殊・普賢・不動・愛染・四天王

縁起
 この寺は誕生寺派の日蓮宗寺院で慶長年中(1338〜1341)この地方の豪族能勢太郎左衛門頼仲の創立にかかり、願満山成就寺と号したが、慶長七年(1602)岡山城主小早川秀秋を同寺に葬ったので、法名瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士にちなみ現在のように改めたという、吉備温故には「寺領三百石初メ本行寺ト称セシガ宝暦年中ヨリ改称」と見える。

 寺は元の三番町にあり、本堂は江戸時代中期の建築で五間五面(柱間)、入母屋造本瓦葺きとし、内陣正面に獅子の丸彫り彩色像を入れた須屋弥壇を据えて本尊をまつる。内陣の南側奥には清正公をまつり、また北側奥には小早川秀秋の墓塔(五輪塔)があり、その前には京都東山の高台寺々中隋雲院に安置したものと酷似している。
 秀秋については本市史「政治編」にも書いたように死亡した年輪さえもよくわからない。二十一、二十三、二十六といい、また三十一歳説もある。野史の秀秋伝の末尾には、(慶長五年)十一月備前美作二州五十万石に封ぜられる。秀秋大封を受けてより奢侈日甚し、大阪邸に在りて心疾を得て喜怒節なく、宿臣多く四方に迯る。慶長七年九月秀秋告げずして国に就き、病を以て十月薨ず、歳二十六、法名秀巌日詮、瑞雲院と号す、嗣なく国除かる。
 また備前軍記は慶長七年十月十八日俄かに薨じたと記し、死因について数説をあげ、つぎに、されども世上へは是等の事をふかくかくして、痘瘡にて身まかりしと披露あれば今も其横死の実説を伝へ知るものなし、千時年廿三歳、嗣子なき故家断絶す、御野郡出石郷伊勢宮の辺に葬る。其墓の前に本行寺といふ日蓮宗の寺を建てて是を守る。法名を隋雲院秀巌日詮といふ。
このように記し本行院を菩提寺として建てたことを明らかにしている。ただ注意されるのは暦応年間に能勢太郎左衛門頼仲が創立したという日蓮宗願満山成就寺との関係である。これを明らかにする古文書が発見されず、そのうえ番町あたりは近世に入っても度々火災に遭うているので、寺もまたその厄をまぬかれなかったと思われるが、これについても詳しく伝えるものがない。ただここに興味をひくのは同寺の庫裡である。
 庫裡は何面した入母屋造本瓦葺きの建物で、火災に対処した土蔵造りになっている。よほどふるい建物で、俗に大黒柱とよばれる中心柱はケヤキの面取り方柱、柱幅が九寸、切面の幅二寸七分五厘、面の内寸という思いきった大面取り、しかもチョウナで仕上げてある。これを建築史的に判断すると鎌倉時代においてよい建物で、寺でも庫裡がもっとも古いと伝えている。もっとも他から移築の場合もあるし、大黒柱だけ古材を使用することもあるから、この建物だけ暦応年間草創当初の遺構と考えるのは早計であるかも知れない。番町あたりは戦災をまぬがれた地域だけに瑞雲寺としても本堂や庫裡のほかに、書院・茶室・白位堂(白位大明王・宝珠大明王を祀る)山門などが旧のままに残っている。